2022年4月3日日曜日

資本主義の根底的否定としてのマルクスにおける「赤と緑」――「脱成長」の思想と二一世紀

 資本主義の根底的否定としてのマルクスにおける「赤と緑」

              ――「脱成長」の思想と二一世紀

最終更新 2022・04・09 13:30              渋谷要

【リード 】これまで、エコロジズムで書いてきた拙著論文のリスト紹介

第一節 ラトーシュ『脱成長』の問題意識

第二節 【原理論=搾取を規定とする問題】資本主義における「労働・土地・貨幣」の意味とその脱商品化の回路

第三節 【段階論=収奪を規定とする問題】「帝国的生活様式」と環境保護の逆説、ないしは資本蓄積のための希少性と「コモン」の多様性について――斎藤幸平氏の「脱成長コミュニズム」の問題意識から学ぶ

第四節 緑のコミュニズム――環境破壊の根本は、資本の<価値増殖>にある  

 

【リード】この文章を書く位置づけとして、これまで、本論論者(渋谷)が拙著(単著)にて刊行してきたこれまでの、環境問題に関する以下の論考を紹介する(刊行した版元・出版社は、すべて社会評論社――東京都文京区本郷――)。

 ●「『環境的主権』の確立を――エコロジカル・ソシアリズムの論理」(『国家とマルチチュード』2006年)。

 ●「スターリン主義の生産力概念と人間生態系の思想」(『ロシア・マルクス主義と自由』2007年――※注・これはソ連スターリン主義の生産力主義を批判したもの)。 

 ●「エントロピー概念とグローバル工業化社会――環境問題と階級意識」、「人間的共同体といてのコミュニズム」(『アウトノミーのマルクス主義へ』2008年)。

 ●「フクシマ三・一一事態と『赤と緑の大合流』 2011 年震災以降の生き方を教えるいいだももと廣松渉の反原発論考」、「人間生態系の破壊としての原発事故——『成長の限界』の限界」、「福島原発のアルケオロジー」、「グローバリゼーションと緑の地域主義――ラトゥーシュ<脱成長>論の価値論的解明」、「ロシア農耕共同体と世界資本主義(――※注・これは「ロシア農耕共同体」を解体したのは資本主義近代化ではなく、ボリシェビキの「食糧徴発令(1918年)」に始まる農業政策だったというもの )」(『世界資本主義と共同体』二〇一四年)。

●「近代生産力主義と京都学派・鈴木成高の近代批判」、「自由・意味・自然の喪失」とエコロジスト的問題意識――石塚省二『ポストモダン状況論――現代社会の基礎理論』との対話」、「ボリシェビキ革命の省察」、「エコロジスト・ルージュ(赤と緑)」「〔付論〕いいだもも著『赤と緑』をめぐって――2014年6月22日「いいだもも没後三周年」シンポジウムでの渋谷要の発言」(『エコロジスト・ルージュ宣言』2015年)。

●「環境破壊<近代>の超克に向けて」(『廣松哲学ノート』2016年)。

●「エコロジカルなマルクスのラジカリズムについて――資本主義批判と『赤と緑』の思想について」、(『資本主義批判の政治経済学――グローバリズムと帝国主義に関するノート』2019年)。

 以上の15本である。今日とりわけ、深刻になっている「気候変動」危機、そして、ロシアのウクライナ侵略において、ロシア軍がウクライナの「チェルノブイリ原発(事故現在進行形)」「サポリージャ原発」等の核施設を軍隊の武器で攻撃する(2022年2月~3月現在)などと言う途方もない戦争犯罪がおこなわれることで、その実体における危険性(巨大事故と放射性廃棄物の処理などの問題)はもとより、ますます、危険なものとなっている原子力発電。こうした、環境破壊の現実を如何に批判するのか――理論的にも実践的にも――ということが問われている。

 それは、まさに、近代エネルギー観念のパラダイム・チェンジを視野に入れ、資本主義の資本蓄積運動が続く限り、環境危機は止められないという立場を基本とするものである。

 本論では、上記の拙著論考にあるように、「脱成長」のラトゥーシュの論理との対話を深めるとともに、斎藤幸平氏の「脱成長コミュニズム」の問題提起に学び、資本主義批判において、内在的に環境保護(緑)が発信される論理構成を考察してゆくものである。

 だから、それは、資本主義批判の原理的構成との関係においてなされる必要がある。この点、本論においては、宇野経済学の基礎的な知見に学ぶという方法をとることにした。

まずは、ラトゥーシュの問題意識から、本論論者が影響を受けた論脈から始めよう。

【第一節】ラトゥーシュ「脱成長」の問題意識

■「脱成長(デクロワサンス )」ということばは「概念ではない。また、経済成長の対義語でもない。脱成長は何よりも論争的な政治スローガンである。その目的は、我々に省察を促して限度の感覚を再発見させることにある。特に留意すべきは、脱成長は景気後退やマイナス成長を意図していないという点だ。したがって、この語は文字通りの意味でうけとってはならない」(セルジュ・ラトーシュ『脱成長』、中野佳裕訳、白水社・文庫クセジュ、2020年、原書2019年、8~9頁。本節では、この文献だけを引用するので、頁だけを引用文章の最後に記すことにする)。

■その言葉の理解において「重要なのは、生態系の再生産に見合う物質的生活水準に戻ることである」(14頁)。その場合、重要なことは「良心的な経済成長反対者の大多数は、経済成長社会で……崇拝されている指標――国内総生産(GDP)――を放棄することを提案している」(14~15頁)。だがそれよりも、「厳密なエコロジストにとっては、GDPを減らすことよりも、生態系に対する我々の生活様式の負荷を示すエコロジカル・フットプリントを減らすことの方が重要だ。言い換えると、リサイクル不可能な廃棄と自然資源の搾取を減らさなければならない。この考えに従えば、理論的かつ統計学的には、商品化された非物質的財(対人的サービスその他)が発展することで、再生不可能な資源の搾取や生物圏に対する負荷を増やすことなく、GDPはさらに成長することができるだろう。……そこで自然界の有機体と自然界に存在しない経済体制――衰退と死を逃れ、そして地球生態系に埋め込まれていることから生じる諸々の帰結つまり熱力学第二法則(エントロピー法則)をも逃れると言い張っている経済体制――との違いを強調しなければならない」(16~17頁)。

※熱力学第二法則(エントロピー法則)……熱を仕事に変えるには、高熱源から低温部への熱の移動が必要だ。そしてどんなに理想的な熱機関でも、熱のすべてを仕事に変えることはできず、必ず無駄になる熱(廃熱)が出るというものである。この考え方には、廃熱だけでなく「廃物」を同位させるというのが、エコロジカルな考え方の前提にある。

■そこでは、パラダイムがまず問題になる必要がある。

「有機的成長は自然現象であり、異論の唱えようのないものだ。生命体の誕生・発達・成熟・衰退・死および再生産という生物学的サイクルは、植物相・動物相からなる環境と、物質代謝を行わなければならない人間という生物種が生存するための条件でもある。あらゆる人間社会が生物学的成長に対するまっとうな信仰を実践していたのに対して、近代西洋文明のみが抽象的な経済成長を宗教化した。経済機構、すなわち社会の生存のための機構は、もはや自然と共生することなく、……自然を搾取するパラダイムに埋め込まれており、その……崇拝の対象である資本を増大させなければならないので、際限なく拡大する必要がある」(30頁)。まさに「経済成長社会」だ。

「消費社会」といわれるものは、「経済成長社会の当然の帰結だ。それは三つの無際限の上に成立している。第一の無際限は、際限のない生産、すなわち再生可能な資源と再生不可能な資源の際限のない搾取である。第二の無際限は、ニーズの際限のない生産――すなわち薄っぺらな生産物の際限にない生産――である。第三の無際限は、ゴミの際限ない生産、すなわち廃棄物と(大気・土壌・水質)汚染の際限のない生産である」(32頁)。

■こうして、つくられる物質的な豊かさは、貧富格差を加速させてゆくとともに、社会的荒廃を醸成させてきた。

「『フォーチュン』誌によると、最も報酬の高い企業経営者100名の年収は、1970年には」平均的な勤労者の年収の39倍だったが、1999年には1000倍となった。29年間で2884%の増加である。米国の最富裕層1%は、最貧困層40%と同じだけの収入を得ている。……様々な不公正の発展は、資本主義システムに限らず、あらゆる経済成長社会の性質につきものだ。なぜなら経済競争はすべてを犠牲にして生産性の向上を追求するからだ」(53~54頁)。

そこで、こうした、経済成長社会からのパラダイム・チェンジをいかになすべきか。ラトーシュは、いろいろな諸説にあたって分析しているが、本論では、「経済成長という観念を持たない社会」として、次のような提起を行っていることに特に注目したいと考える。

「経済想念からの脱出が含意するのは具体的な断絶である。市場社会が依って立つ経済主体の貧欲の解放(常により大きな利潤の追求)に歯止めをかける様々なルールを制定することが重要だ。例えばそれは、生態学的・社会的保護主義の導入、労働法の見直し、企業規模の制限などである。人類学者カール・ポランニーがいみじくも『擬制的』と形容した、労働・土地・貨幣の『脱商品化』が必要である。なぜなら三つのうちのいずれも販売のために生産されてはいないからだ。これら三つの技師絵的商品をグローバル化した市場から退かせることは、経済の社会への埋め込みの出発点となると同時に、『資本主義の精神』に抵抗する闘いの第一歩となる」(110~111頁)。

■そのポイントは、「再ローカリゼーション」であり、「何よりもそれは『脱グローバリゼーション』を意味する」とラトーシュは言う。

 この「再ローカリゼーション」とは「様々な経済的協働を刺激する文化の再生を、ときには推進することがある。余暇、保健衛生、環境、住居、対人サービスは、生活の受け皿である小規模地域レベルで管理運営されなければならない。この日常生活の管理運営は、社会に異議申し立てをしたり連帯的活動を行ったりする一部の排除された人々の間に、生活世界の自治の回復を試みる豊かで価値ある市民的イニシアチブをもたらしている。……自主管理型の協同組合企業、農業コミュニティ、AMAP(小農民を支える生産者・消費者アソシエーション)、GAS(連帯的な購買のためのグループ)、LETS(地域交換取引制度)、SELE(地域交換システム)、……居住区公団、自主管理保育所、仕事おこしを支援するアソシエーション、職人たちの組合(ギルド)、小農民の農業、……フェアトレード運動、消費者アソシエーション、……自立就労支援型企業などがある」(118頁)。これらの実践は、「地域を再び囲い込み、区切る」再ローカリゼーションは、グローバリゼーションの正反対」(117頁)であり、それは「脱成長の視座では、ローカル経済が成熟する土壌を再活性化する必要がある」(119頁)ことが、ポイントになっていると論じている。

それは、「地域通貨の使用」を重要な軸としている。「地域通貨の使用――『融通する通貨』、すなわち時価の経過とともに/定期的に「リチャージ」される前に価値を失う通貨、ないし非兌換通貨(レストラン券、ホリデーバウチャーなど)――は、貨幣の再領有化の第一歩だ。お金は良き使用人であるけれども、いつでも悪い主人となりうるので、地域通貨の取り組みは再ローカリゼーション戦略の重要な要素を構成する。ローカル経済の自律性は、地元の職人業、地場産業、サービス業の様々なプロジェクトの実現を可能にする。……お金が人々の役に立ち、人々がお金の奴隷にならないように、真の地域通貨政策の発明を構想しなければならない」(133頁)。

まさにラトーシュは、こうした地域の自律性が十分に保たれてこそ、「エコロジカルで民主主義的な社会主義は、等身大の生活地域の中でのみ実現可能だ」と提起する。さらに、「グローバルにローカルを保護する」というスローガンが重要だと言い、「世界貿易機関」(WTO)を世界ローカリゼーション機構(WLO)に置き換えることから始める必要がある」(134~135頁)と述べている。

以上、こうしてラトーシュが提起した「脱成長」は、資本主義の基本構造との関係では、「労働・土地・貨幣」の「脱商品化」ということが、最も重要であると考えるものである。この点、次節では、そのポイントを考えてゆくことにしよう。

第二節【原理論=搾取を規定とする問題】資本主義における「労働・土地・貨幣」の意味とその脱商品化の回路

 この節では、宇野経済学の「価値法則」「市場」等の定義に学びつつ、ラトーシュの「労働・土地・貨幣」の「脱商品化」という提起を、ラトーシュ『<脱成長>は世界を変えられるか』(作品社、訳:中野佳裕、二〇一三年、原著:二〇一〇年、以下『脱成長は世界』とする)から考えてゆきたい。なお、この「第二節」は、拙著『世界資本主義と共同体』(社会評論社、2014年)の第三章「グローバリゼーションと緑の地域主義」の第三節~第九節までを改稿・転用したものです。

●「脱成長」と「価値法則の廃絶」の相補性

 この市場経済と脱成長の関係をセルジュ・ラトゥーシュ(経済哲学者)は次のように論じている。

「生産手段の私的所有や資本主義を真っ向から消滅させなくても、資本主義の精神、わけても(利潤増大への執着として現れる)経済成長への執着の破棄に成功すれば、脱成長社会は徐々に資本主義的なものではなくなるだろう。……具体的には、(利潤、すなわち『常により多くの利潤』の追求を行う)経済主体の節度のない貧欲に規制と節度をかけるルールを制定することが重要である。求めれるルールとは、例えば生態系や社会を保護する政策、労働法、企業規模の制約などである。経済想念からの脱出は、畢竟、非常に具体的な断絶を意味する。その最初の一歩は、労働・土地・貨幣の三つの擬制的商品の『脱商品化』である。カール・ポランニーが、社会生活の支柱となるこれら三つの強制的な商品化の中に、自己調整的市場の確立の契機を観たのは良く知られている。これら三つの擬似的商品をグローバル化した市場経済から離脱させることは、社会関係の中に経済を再び包含させる・埋め込むための出発点となる。したがって、資本主義の精神に対する闘争を展開すると同時に、[市場以外の論理を内蔵する]混合経済を促進すべきだ。混合経済とは、贈与の精神と社会正義の探求によって市場の貧欲を中和する機能をもつ企業のことである」(セルジュ・ラトゥーシュ『脱成長は世界』、六九頁)。

 この論点は、実に重要だ。これらポランニーの『大転換』(原著初出一九四四年、翻訳刊行二〇〇九年、東洋経済新報社)からの<援用>によって、かなり、解かれるものがあるということを、本論としては、立場性とするものである。

その立場性において、この論理図式とマルクス経済学の「価値法則の廃絶」という課題を、重ね合わせることは有意義だと考えるものである。 

まさにここでは、労働力の商品化の廃絶、土地の商品化の廃絶が、貨幣(流通手段)の商品化の廃絶が、資本主義的なパラダイムからの脱出だとされているのだ。

それは次のことを意味している。まさにこれらの商品化が、資本の本源的蓄積(生産者と生産手段の所有の分離)をつうじた労働力の商品化を基礎として、生産過程が商品の流通過程に包摂される形での「商品による商品の生産」をもって、経済外的強制から自立した経済的諸関係をつくりだすことからまさに、資本主義の特殊性としてつくりだされたということだ。その場合、商品交換はあらゆる商品の価値を表現する商品としての一般的価値形態として、この一般的等価形態にもっとも適する使用価値を持った生産物(商品)として貨幣が成立するのである。この場合、商品所有者間の商品交換を規制するものが価値法則(この理解は単純投下労働価値説にもとづくものではないもの)であり、それは、全社会の生産物需要に応じた総労働力と生産手段の比例的配分(経済原則)が商品形態によって、価格の運動によっておこなわれることに対し、それを、商品の生産に<社会的に必要な労働時間>(注:この労働時間の社会的必要という量は商品交換の事後にその結果として、社会的・平均的な労働時間を規定されるものとして考えられるのであり、単なる等労働量交換と考えられているものではない)によって規制するところに形成される。これが資本主義社会の経済法則である価値法則の基礎を規定した考え方である。

例えば次のようなことだ。「社会的需要に対する供給は、個々の資本家によって常に従来の価格を基準にして行われ、需要供給の関係によってあらわれる価格の変動を通じて、事後的に社会的規制をうけることになる。それはまた一方ではそれぞれの商品の生産に要する労働時間を一定の社会的基準に一様化すると同時に、他方では全社会の労働力をそれぞれの商品の社会的需要に応じて配分することになるのであるが、個々の資本にとっては、いわば外部から強制せられる法則として作用するのである。もちろんそれは自然法則と異なって、個々の資本の下に労働する人間の行為自身によって形成せられる法則である」(宇野弘蔵『経済原論』、初版一九六四年、岩波全書、六二~六三頁)という位置づけを与えられているものにほかならない。

その場合、価値交換の基礎をなすものとしての、商品化される労働力の特殊性は、「労働力は、もともと生産物ではなく、何ら特定の使用価値を有するものではないが、資本のもとに商品化されるのは、何でもつくれるという、それこそ実質的に一般的なる使用価値を有することによるのであり、それによって新たなる使用価値を生産すると共に新たなる価値(交換価値のこと――引用者)をも形成することになるからである。資本はこれによって価値の運動体として、しかも社会的に需要されるあらゆる生産物を生産し、再生産するだけでなく、その再生産を益々拡大することにもなるのである」(宇野弘蔵『経済学方法論』、東京大学出版会、初版一九六二年、一五六頁)というところが重要だ。

まさに、本来生産物ではないところの労働力の商品化が、資本の価値増殖運動(=資本主義経済)を際限なく展開する根幹をなすのであり、労働力商品化の廃止と、それを契機とした生産物(商品)交換の基準としての価値法則の廃絶は、「贈与の精神と社会正義の探求」というまさに、相互扶助の社会をつくりだす前提をなすのである。そして同時に、まさに労働力の商品化の廃止(労働力の脱商品化=生産者と生産手段の所有の分離の廃止・再結合としての生産者の生産手段の共同占有をつうじた共同経営としての労働者の生産自治を基本とする )を「ハード」としつつ、それをつうじて「脱成長」という社会内容がその「ソフト」として実現されてゆくということだ。

●「価値法則」の廃絶――その意義について

この場合、マルクス経済学上の概念問題が、存在することは、おさえておく必要がある。概念の理解の違いによって、全く同じ用語で、全く違う理解がなされてしまうという問題があるからだ。

例えばスターリンは「価値法則は商品生産の法則」であり、「資本主義の基本的経済法則は……最大限の利潤を要求している」として「最大限利潤の法則」を規定している(『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』飯田貫一訳、国民文庫)。そして、価値法則は超歴史的なものだから、社会主義にも利用できるとした。だが、これは決定的にまちがいである。これまで見てきたとおり、価値法則は、歴史貫通的な単なる商品経済に関わって規定された「単純商品」交換としての単なる等価交換のことではない(くわしくは本書第五章参照)。

またその場合、「単純投下労働価値説」=単純商品交換説が如何に間違いかは、次のように指摘できるものだ。宇野弘蔵の『経済学方法論』では、「いわゆる単純商品経済社会の想定は……いわば機械的に商品経済を非商品経済から分離し、抽象したものにすぎない。したがってまたかかる単純商品経済社会によって商品経済の経済法則を論証しようとする、従来の労働価値説は、むしろ労働価値説自身を論証不十分なるものにせずにはおかないのである」(宇野弘蔵『経済学方法論』、東京大学出版会、初版一九六二年、一二頁)として、「単純商品」交換=価値法則説を批判している。

同時に、資本主義の法則に限らない「商品交換の法則」説ということから、スターリンのこの法則の「利用論」が説かれた。このことに対する批判としては、以下のことが指摘できる。

「かつてスターリンは『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(…一九五三年)において経済学で明らかにされる経済法則を、社会主義の建設のために、自然科学で得られる自然法則と同様に利用することができると主張していた。宇野弘蔵はこれに直ちに反論し、スターリンはあらゆる社会生活に共通の経済原則と商品経済に特有な経済法則とを混同しており、社会主義はむしろ商品経済ととともに、無政府的な経済法則の支配を廃棄して、経済原則を意識的、計画的に充足する方向を目指すべきであると論じていた(「経済法則と社会主義」『思想』一九五三年一〇月)。いまや、社会主義的計画経済は、商品経済の諸形態をあまりすみやかには廃棄しえず、現実にはむしろかなりの期間にわたってこれをその一環に組み入れていかなければならないことが、ほぼ明らかになってきている。分権的自主管理経済システムでは、なおさらそうである。

しかしそれは価値法則のような商品経済の法則を自然法則のように利用してゆくことを意味すべきではなく、宇野が指摘していたように、基本的にはむしろその作用を廃棄し、意識的な計画におきかえてゆく過程の一環をなすものでなければならない。具体的には、民主的な意思決定の過程を保証する工夫が重要となるが、分権的計画経済をめざすにせよ、基礎的な資材や資源の生産や配分の計画、公共的施設やサービスの拡大、あるいは賃金や諸物価の意識的調整や改定、供給される財やサービスの種類や質への注文システムの拡充、消費者側からの生産・供給戦略への参画、それらに必要な情報の公開などをつうじ、市場機構の作用を制限し管理する方策があわせて重要となるであろう」(伊藤誠『現代の社会主義』、講談社学術文庫、一九九二年、一一六~一一七頁)ということである。こうした、価値法則の概念を如何に規定するかという問題は、本論の前提事項として存在しているのだ。そして、かかる価値法則の概念をあきらかにすることをつうじ、また、価値法則の廃絶の意義もあきらかになってくると考えるものである。

 ●社会的労働実態に対する「市場」の外在性

 さらに注意すべきなのは、この場合<市場>は、労働力の商品化か脱商品化かには関係なく、そうした生産様態の外部に流通手段として機能しているということである。単純に「市場経済の廃止か存続か」という論議ではない点に注意をしてほしい。<脱成長>の具体的なルール(ソフト)はそういう経済システムの改革(ハード)と相補的に展開するということである。

この場合、マルクス経済学との関係での<市場>の措定について、確認しておきたい。宇野派の経済学者・伊藤誠は次のように述べている。

 「(マルクスは)もともと『商品交換は共同体の果てるところで、共同体が他の共同体またはその成員と接触する点で始まる』(『資本論』、国民文庫版(一)、一六一ページ)とみていた。宇野弘蔵はこうした観点を重視し、商品経済の諸形態はさまざまな生産関係を有する諸社会の間に展開され、社会的生産にとって外来性を有することを強調しつつ、商品経済を構成する価値形態の展開を、さしあたり労働実態にふれることなく、純粋の流通形態論として構成する方法をとった。こうした価値論の新たな展開構成からみるならば、生産手段が公有化されている地域社会のあいだや生産協同体的企業のあいだや、さらには消費手段の分配に、価格形態がかなりの範囲にわたり利用される可能性も理論的に整合的な事象として理解できることになる」(伊藤誠『現代の社会主義』、講談社学術文庫、一九九二年、八六頁)。

 まさに<労働実態>に対し外在的な<市場>の目的意識的な組織化ということの一つに、<強力な地域コミュニティのなかに市場を埋め込む>ということもふくまれる。そういう論理が示されていると言えるだろう。

かかる脱成長のパラダイムの定立を通じて、市場を強力な地域コミュニティの中に埋め込んでゆき、資本主義的暴走としての大量消費・大量生産・大量廃棄を防止し、社会の経済活動をコントロールするものとなると措定できるものとなる、ということを、これらの論理は意味しているのだ。

 ●労働と貨幣の「脱商品化」構想

 とくに労働力の脱商品化では次のことが提起されている。「労働時間の抜本的な削減は、経済成長パラダイムに依拠する労働社会から抜け出すための必要条件である。しかしそれはまた、(フランスの場合)自然資源搾取を現行水準の三分の二ほど削減する展望を掲げると同時に万人に満足の行く雇用を保証するための、社会構造転換の補完的要素でもある」(『脱成長は世界』二一二頁)。

この労働の脱商品化(労働時間削減――資源保護――労働の共有化)は、「脱成長」の一つの基軸をなすものである。

本論(渋谷)の主張としては以下である。労働の脱商品化は、職場生産点を基礎に、全国的な生産管理コミューンを生産者が生産自治の機関として作り、それによって、賃金などを決定してゆくルールをつくる必要がある。その場合、「労働時間の削減」には、生産レベルを一定の年度水準、例えば――これはあくまで例えばの数値でしかないが――、一九九〇年とか、一九八五年とかに設定する必要があり、また、社会的価値観として<脱成長>の価値観が社会的に共有されている必要がある。また「何を如何に、どれだけ生産するのか」ということの社会的合意づくりが必要となってくる。それは官僚主義を結果する以外ではない二〇世紀のソ連邦のような「中央計画経済」ではなく、あくまでも市場調整・市場コントロールとしておこなわれる。ここから労働力と生産手段の新たな配分・調整が形成されていかねばならない。まさに全国的な市場(労働市場を含む)を管理・統制する「生産管理コミューン」が必要となってくるだろう(詳しくは拙著『国家とマルチチュード』社会評論社、第三部第二章参照)。ワークシェアリングを前提とするシステムでは、職場生産点における労働者の団結と生産自治が必要だ。それにより、労働=分業が共有化される。こうした新たな相互扶助の系統的な政策をつうじて自分たちの給料だけでなく、地域社会で必要な公共的サービスに拠出する資金も生産することになる。まさに無際限な資本の価値増殖(経済成長主義)を脱し、新たな相互扶助の社会ルールを形成してゆくことが可能となると、考える。

 ●貨幣の「脱商品化」とは何か

 「貨幣の脱商品化」では、ラトゥーシュは「貨幣の再領有化(ここでは位置づけの変更のこと――引用者)」を提起する。「貨幣を地域社会の手中に徐々に奪還していき、銀行に独占されないようにしなければならない。貨幣は地域社会に役立てられるものであり、地域社会が貨幣に隷属化することがあってはならない。住民の購買力を維持するために、貨幣のフロー(流れ――引用者)は可能な限り地域に留まるべきである。また、経済領域に関する意思決定もまた、可能な限り地域レベルで行われるべきである」(『脱成長は世界』二一二頁)。

 そこで、「地域通貨」などの「オルタナティブな通貨」が措定されるが、それは「グローバル化した生産力至上主義に対抗して生活圏の再ローカリゼーション――生活圏の再領有化――と世界の再生を実行するための強力な手段ともなる」。例えば、自治体労働による地域通貨での賃金支払いは、地域のサービスを購入する購買力を創出するなどである。「ローカルな経済成長は、際限なき資本蓄積を目的とせずに経済成長優先社会の軌道からすでに脱出した社会の中で、地域社会の基本的ニーズの充足を目指すので、民衆にとって有益である」(『脱成長は世界』二一三頁)ということである。

まさに、多国籍的な市場ではなく市場(いちば)がその中では現れる。

「アフリカでは、人と人が出会う場所としての市場(いちば)の事例が今日でも多く確認される。市場(いちば)は人間を排除する空間としてではなく、むしろ社会的交換のための空間として常に機能していた。西洋資本主義の浸透にもかかわらず、市場(いちば)は変わらず社会的交換の場でありつづけている。……(同じように「経済成長パラダイムと断絶した社会」は――引用者)生産物や(労働を含めた)サービスの交換はもはや物と物との交換、すなわち貨幣的計算の対象物の交換ではなくなり、(良くも悪しくも)人間同士の間でなされる交換を要求するであろう」(『脱成長は世界』九二頁)ということだ。

 ●世界資本主義の対抗軸としての共同体――コモンズ(緑の地域主義)

  かかる観点は、<土地の再領有化>(土地の脱商品化・再措定)ということを同時に意味する。それは以下のような実践に、その端緒を見出していると言えるだろう。ここでも労働の共有化が行なわれている。

「西欧の人々にとって『コモンズ(共有地)』と言う言葉は、古風な響きがある。中世の村人は個人的に牧場を所有せず、代わりに誰にも属さない共有の牧草地で家畜を育てる権利を持っていたからだ。しかし現代でも多くの人々にとって『コモンズ』は日常的な現実である。世界の漁場の九〇%は沿岸の小さな共有の漁場で行われており、世界が食べる魚の半分の量を生産している。フィリピン、インドネシアのジャワ島、ラオスでは、村人自身が灌漑施設を整備・運営し、地域が定めた規則に従って水利権を配分している。……南カリフォルニアでは、地域の帯水層から汲み上げる水を管理するため、家庭から農家まで流域の水使用者が自主的な組織を作っている。

 フランスやスイスにも、自分たちのコミュニティを共有の財産と考える人々がいる。有毒物質の廃棄物処理場や、原子力発電所の建設予定地の近くに住む人々が、『コミュニティの土壌と空気が有害な放射性物質に汚染されない権利』を自分たちは持っていると主張している。自分たちの故郷をゴミ捨て場に最適と決めた『客観的な経済合理性』や『公共の利益』といった考えを、かれらは批判しているのだ。アマゾン先住民の老人が語った格言は、宗教的な語り口であるが、彼らにも共感できる。

『我々クレナック族が、存在を維持し、神と自然に話しかけ、生活を営めるのは、神が我々を創造したこの場所だけである。だがもはや我々が生きてきた地球を見ることはできない。ここはまるで人々が動き回るチェスボードのようだ』。(ニコラス・ヒルドヤード、ラリー・ローマン、サラ・セクストン、サイモン・フェアリー『コモンズを取り戻す』一九九五年イギリス政治学会における年次報告)。((デレク・ウォール『緑の政治ガイドブック 』、訳:白井和宏、二〇一二年、ちくま新書、一三六~一三八頁)

 以上のような<コモンズ>についてラトゥーシュは述べている。

「現在はどういう時代かといえば、それは脱成長的で連帯的な様々なイニシアチブが成熟する機会であると言えるだろう。例えば、AMAPSEL(地域通貨システム)、コミュニティ・ガーデン、市民による[社会的弱者の]住居の自主的な補修・改善があり、またPADES(自主生産と社会発展のプログラム)によると、貧困層を支援する協同の自主生産活動(庭、料理など)がある。アイルランド(コークの近くのキンセイル)で誕生し、その後英国で成熟したトランジション・タウン運動は、脱成長パラダイムにもとづく都市社会に最も近いモデルを草の根から構築する運動である。……トランジション・タウンは第一に、化石燃料の終焉を見据えてエネルギー自給の達成を、そしてより一般的にはレジリエンス(耐久力、回復力――引用者)の達成を目指している。……農村部では、アレクサンダー・チャヤノフが分析した、自給自足の家族経営農家による小規模の耕作の事例がある。都市部の事例としては、職工人にアトリエがある。この理由から、ニコラス・ジョージェスク=レーゲンは、小さな農村共同体を人類の未来のために奨励している。わたしが提案する脱成長の政治的意図は、農村部の「脱成長」だけでなく都市の「脱成長」も重視する」(『脱成長は世界』二一一~二一二頁)。

以上が、グローバリズムとこれに対する<緑>の地域主義の問題の枠組みとなるものである。

 まさに、こうして、「労働の脱商品化」を<生産者の生産自治>を基本に、「貨幣の脱商品化」を<貨幣の地域経済化>を基本に、「土地の脱商品化」を<土地の使用目的的規制>を基本に、行うことを通じ労働・貨幣・土地の商品化の機制を止揚してゆく回路が形成される。そして、資本主義の価値法則にもとづく資本の価値増殖による人間生活の疎外、地球環境破壊からの最後的解放をかちとることが可能となる。贈与・社会的正義・相互扶助の社会が可能になってゆく。そのことを通じて、人々を際限のない資本の価値増殖に組織していた価値法則は完全に廃絶されるだろう。

【第三節】【段階論=収奪を規定とする問題】「帝国的生活様式」と環境保護の逆説、ないしは資本蓄積のための希少性と「コモン」の多様性について――斎藤幸平氏の「脱成長コミュニズム」の問題意識から学ぶ

 斎藤幸平『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年、以下「斎藤本」とする)は、およそ、三つの内容から成っている。

①資本主義を改良するだけでは環境破壊はなくならない。逆に、その合理性と生産性の向上が環境破壊を悪化させてしまう。それは、グローバル・サウスを収奪するとともに、生産力主義で排出された汚染をグローバル・サウスへと輸出するような、先進資本主義の「帝国的生活様式」を一層成長させてゆくと指摘する。例えば「ジェボンズのパラドックス」だ。1865年、ウイリアム・スタンレー・ジェボンズは『石炭問題』という著作を刊行する。それは次のような内容を指摘するものだった。

「当時イギリスでは、技術革新によって石炭をより効率的に利用できるようになっていた。だが、それで石炭の使用量が減ることはなかった。むしろ低廉化によって、それまで以上に、さまざまな部門で石炭が使われるようになり、消費量が増加していったのである。つまり、効率化すれば環境負荷が減るという一般的な想定とは異なり、技術進歩が環境負荷を増やしてしまうことを、ジェボンズは、早くから指摘したのだった」(76頁)という問題である。

②こうした近代世界の生産力主義に対して、カール・マルクスは、最初、階級闘争というものを「生産力至上主義」的に考え、社会主義は資本主義の発展の基礎・土台の上に、その富の再分配などの平等主義を組織することで建設されてゆく(150頁以降参照)、と考えた(典型的には『共産党宣言』)たが、「資本論第一巻」に取り組むあたりから、「エコ社会主義」へと変化する。その典型的な考えが「人間と自然との物質代謝論」だ。

「資本主義においては、極めて特殊な形で、この物質代謝が編成されるようになっていく。資本は自らの価値を増やすことを最優先にするからだ。そして、この価値増殖という目的にとって最適な形で、資本は『人間と自然の物質代謝』を変容していく。その際、資本は、人間も自然も徹底的に利用する。人々を容赦なく長時間働かせ、自然の力や資源を世界中で収奪しつくすのだ。……『資本論』は、物質代謝の『攪乱』や『亀裂』という形で、資本主義が持続可能な生産のための条件を掘り崩すことに警鐘を鳴らしている」(159~160頁)。「このように『資本論』の議論には、近代化による生産力の発展を無批判に称賛するような主張はどこにも見当たらない」(160頁)。だが「エコ社会主義」のころは、「経済成長」は、価値としていたという。

だが、さらに、マルクスは1870年代に入り、「脱成長コミュニズム」に展開していったという。その典型的な論考が、『ゴータ綱領批判』、『ザス‐リッチへの手紙』や『共産党宣言・ロシア語第二版序文』であるという。これは、単に共同体研究というだけでなく、斎藤氏が論考しているように、「資本の本源的蓄積」との関係で重要となる論点でもある。その重要な起点を斎藤幸平は、「ザスーリッチへの手紙」(ロシアのミール共同体研究など)と、ドイツの「マルク協同体」などの「共同体研究」だとしている。この点、既出拙著にもすでに、この斎藤氏の分析に同意する論考があるが、その論脈は、この節の後半で、あつかうこととし、ここでは、『ゴータ綱領批判』に関するものを見ていこう。

「ゴータ綱領批判」は、「西欧社会の変革について論じたものだ。その一節に出てくる『協同的富』という言葉に注目してみよう。……

 共産主義社会のより高度な段階で、すなわち、個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神労働と肉体労働のん対立がなくなったのち、労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求となったのち、個人の全面的な発展にともなって、またその生産力も増大し、共同的富のあらゆる泉が一層豊かに湧きでるようになったのち――そのとき初めてブルジョア的権利の狭い限界を完全に踏みこえることができ、社会はその旗の上にこう書くことができる――各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!

 マルクスによれば、コミュニズムにおいては、貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、将来社会においては『協同的富』(Der genossenschaftliche Reichthum )を共同で管理する生産に代わるというのである。これは、本書の表現を使えば、まさに<コモン>の思想にほかならない」(200~201頁)。

この<コモン>を中心とする主題が、私(渋谷)の読書感想といていうと、第三の論点ということになるだろう。 

③資本蓄積と、これに対する<コモンズ>という論理だての問題だ。

コモンズとは、何か、ということから始めよう。

「コモンズとは、万人にとっての『使用価値』である。万人にとって有用で、必要だからこそ、共同体はコモンズの独占的所有を禁止し、協同的な富として管理してきた。商品化もされず、したがって、価格をつけることもできなかった。……ところが、何らかの方法で、人工的に希少性を作り出すことができれば、市場はなんにでも価格をつけることができるようになる。そう、『囲い込み』でコモンズを解体して土地の希少性を作り出したように、そうすれば、その所有者は、レント(使用料)を徴収できるようになるのだ。

 土地でも水でも、本源的蓄積の前と後を比べてみればわかるように、『使用価値』(有用性)は変わらない。コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての『価値』を増やすのである。

 その結果、人々は、生活に必要な財を利用する機会を失い、困窮していく、貨幣で計測される『価値』は増えるが、人々はむしろ貧しくなる。いや、『価値』を増やすために、生活の質を意図的に犠牲にするのである。というのも、破壊や浪費といった行為さえも、それが希少性を生む限り、資本ン主義にとってはチャンスになるからだ。……潤沢なものを、ますます希少性にすることで、そこには、資本主義の価値増殖の機会が生まれるのである」(250~251頁)。

「気候変動が、ビジネスチャンスになるのもそのためだ。気候変動は水、耕作地、住居などの希少性を生み出す。希少性が増えれば、その分だけ、需要が供給を上回り、それが資本にとっては大きな利潤を上げる機会を提供することになる」(251頁)。

こうした希少性を系統的に生み出すようになるためには、「資本の本源的蓄積」を通らなければならない。

「『本源的蓄積』とは、一般に、主に一六世紀と一八世紀にイングランドで行われた『囲い込み(エンクロージャー)』のことを指す。共同管理がなされていた農地などから農民を強制的に締め出したのだ。

 なぜ、資本は『囲い込み』を行ったのか。利潤のためだ。利潤率の高い羊の放牧地に転用したり、あるいは、ノーフォーク農法のような、より集約度の高い大土地所有の農業経営に切り替えたりするために、囲い込みは実施されたのである(具体的には、輪栽式で、休閑を廃止し、商業的な大量の農業生産を作り出すシステム――引用者・渋谷)。暴力的な囲い込みによって、住まいと生産手段を喪失した農民は都市に仕事を求めて流れ込んだ。そうした人々が賃労働者になったとされる。……このような歴史的記述を踏まえて、マルクスの『本源的蓄積』論は、資本主義成立の血塗られた『前史』を描くものとして、しばしば理解されてきた。だが、そのような理解では、マルクスの資本主義批判としての『本源的蓄積』論の意義をつかむことは到底できない。

 本当は、この囲い込みの過程を『潤沢さ』と『希少性』という観点からとらえ返したのが、マルクスの『本源的蓄積」論なのである。マルクスによれば、『本源的蓄積』とは、資本が<コモン>の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである」(236~327頁)。

そこでコモンズの解体という事を再確認していこう。

「第四章のゲルマン民族や、ロシアの農耕共同体の議論でもふれたが(この論点は、渋谷の本書では、次章で、ロシア農耕共同体に関して、とりあげることとなる――引用者・渋谷)、前資本主義社会においては、共同体は共有地をみんなで管理しながら、労働し、生活していた。そして、戦争や市場社会の発展によって、共同体が解体されてしまった後にも、入会地や開放耕地といった共同利用の土地は残り続けた。

 土地は根源的な生産手段であり、それは個人が自由に売買できる私的な所有物ではなく、社会全体で管理するものだったのだ。だから入会地のような共有地は、イギリスでは『コモンズ』と呼ばれてきた。そして、人々は、共有地で、果実、薪、魚、野鳥、きのこなど生活に必要なものを適宜採集していたのである。森林のどんぐりで、家畜を育てたりもしていたという。

 だが、そのような共有地の存在は、資本主義とは相容れない。みんなが生活に必要なものを自前で調達していたら、市場の商品はさっぱり売れないからである。……だから、囲い込みによって、このコモンズは徹底的に解体され、排他的な私的所有に転換されなければならなかった。……人々は生活していた土地から締め出され、生活手段を奪われた。……それまでの採集活動は、不法侵入・窃盗という犯罪行為になったのである。……土地を追われた人々は生きるための手段を失い、自分の労働力を売ることで、貨幣を獲得し、市場で生活手段を購買しなければならなくなった。そうなれば、商品経済は一気に発展を遂げることになる」(238~239頁)。

土地の問題だけではなく、エネルギーに直接かかわる問題を見ていこう。

「土地のだけではない。資本主義の離陸には、河川というコモンズから人々を引きはがすことも重要であった。河川は……持続可能で、しかも無償のエネルギー源だった」(239~~240頁)。

「イギリスの産業革命は、石炭という化石燃料と切り離すことができず、そのことが現在の気候変動にもつながっていることを背景に考えてみると、水力の無償性は、非常に興味深い」(240頁)。「マルクス主義の歴史家アンドレアス・マルムの『化石資本』(2016年)」は、「なぜ、人類が水力を捨てたのかを資本主義との関連で説明してくれる。

一般に、技術発展の歴史は、『マルサス主義』的な説明に基づいてなされることが多い。つまり、次のような形だ。経済規模の発展に伴って資源の供給不足が起こる。不足によって価格は高騰するが、それがインセンティブとなって、新たに廉価な代替物が発見・発明される。これがマルサス流の説明の仕方である。ところが、先にも述べたように、水力は自然に潤沢に存在しており、完璧に持続可能で廉価な動力源だった。共同で管理可能な<コモン>だったのである。では、なぜ、無償で潤沢に存在していた水力から、有償で、希少な石炭への移行が起こったのか。マルサス流の説明は個々ではうまく機能しない」(240~241頁)。

「マルムによれば、……『資本』を考慮に入れる必要がある。当時の企業が化石燃料を再世するようになったのは、単なるエネルギー源としてではなく。『化石資本』としてなのだ。

 石炭や石油は河川の水と異なり輸送可能で、なにより、排他的独占が可能なエネルギー源であった。この『自然的』属性が、資本にとっては有利な『社会的』意義をもつようになったといのである。水車から蒸気機関へと移行すれば、工場を河川沿いから都市部に移すことができる」。「石炭が主力になって生産力は上昇したが、街の大気は汚染され、労働者たちは死ぬまで働かされるようになった。そして、これ以降、化石燃料の排出する二酸化炭素は増加の一途をたどっていったのだ」(241~242頁)。

資本がコモンズを駆逐した、ということだ。

「ここで重要なポイントは、本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。もちろん、好き勝手に使っていいわけではない。一定の社会的規則のもとで利用しなければならなかったし、違反者には罰則規定もあった。だが、決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有財だったのだ。……共有財産であるからこそ、人々は適度に手入れを行っており、また、利潤獲得が生産の目的ではないため、過度な自然への介入もなく、自然との共存を実現していた」(242~243頁)ということだ。

(※ では、どのような、運営や規則がなされていたのか、具体的に見ることにしよう。本論論者(渋谷)としては、拙著拙論の「ロシア農耕共同体と世界資本主義」(『世界資本主義と共同体』社会評論社、2014年刊行、183~238頁)があるので、それを次章で転用することにする――★★★この「赤いエコロジスト」の、この文章においては、この「次章」として示している部分は、扱わないものとします。「赤いエコロジスト」では、2022・04・09に、新しく、文章は刊行時そのままのものを、アップしています★★★ )。

以上が、本論論者(渋谷)の観点では、「収奪を規定とする」資本主義の問題ということになるだろう。

【第四節】緑のコミュニズムへ――環境破壊の根本は、資本の<価値増殖>にある

●原発と気候変動――EU・欧州委員会の原発の「グリーンリスト」化に反対する

2022年2月2日、EUの行政機関・欧州委員会は、原子力発電を脱炭素社会(2050年に温室効果ガスを実質ゼロにするという、カーボンニュートラルの目標を掲げている)の実現に役立つエネルギー源だということを正式に決定した。これは、環境に良い効果をもたらすエネルギーだと認定された場合、この「グリーンリスト(EUタクソノミー(分類))」に登録されるものだ。それに原発と天然ガスが、追加されることになる。

これによって、原発は「良い事業」となり、企業の債権の発行など、資金調達する際に、投資家を引き付けやすくなる。また、EU参加各国の政府は、環境保護のためにする事業計画として公的資金を原発建設などに使いやすくすることができるものとなる。原発の建設・運営にとって、資金調達ができやすくなる。

 欧州委員会のこの表明では、風力、太陽光などの再生可能エネルギーをあくまで主力とし、エネルギー使い方、選択の仕方は各国の判断にゆだねられる。EU内では、脱原発を決定しているドイツ、オーストリア、デンマーク、スペイン、ルクセンブルグなどが、原発をグリーンリストに入れることに反対しており、国内発電の70%を原発が占めるフランスや、国内電源の30%を原発が占めるスウェーデンなどが、賛成していた。

 この「グリーンリスト」入りの要件だが、原発については、高レベル放射性廃棄物処分場の具体的な計画の策定が要件となる。また、新増設は45年までで、運転延長は40年までに各国規制当局の認定が必要条件となる。

天然ガスは、石炭発電からの転換に限った条件となり、二酸化炭素の排出量の上限を決めることが条件となる。

 だが、そういう要件・条件を設けたところで、もうこうなってくれば、「脱炭素のグリーンリスト」はそれ自体が、「環境破壊容認のリスト」になるだろう。問題なのは、エネルギー使用の規模それ自体の問題なのだ。その中心になる対象は資本の「価値増殖」そのものだ。資本の「価値増殖」を縮小する事業計画が、経済社会全体を横溢し、その結果として、エネルギー量の規模を縮小してゆく、「脱成長」の経済社会を実現するということがなければならない。

 そもそも、原発は福島原発事故(現在継続中)に見られるように、現在も放射性物質の排出量の目安となっているセシウム137の「半減期」が30年であり、まだ、11年しかたっていないという基本認識に加え、事故で溶融した核燃料・原子炉構造物である「デブリ(放射性物質)」の処理が全くできない問題や、事故原発の冷却や、地下水との接触などで生み出される「汚染水」問題が、生じている。政府は「汚染水の海洋放出」を決定しているが、住民・魚業者は強力に反対を表明している。「これ以上、海を汚すな」という声は、全国であがっている。例えば、「汚染水」を「処理水」にしたところで「トリチウム(半減期12・3年。リスクが低減するまでには100年以上かかるといわれている)」等の放射性物質は除去することが不可能だ。最も政府・東電は、「希釈して放出するから安全だ」といっているが、数字で重要なのは、放出する全量がいくらかだ。もっとも、放射性物質の危険性評価に、量的なしきい値などないというのが、例えば反被ばく運動、「ゼロベクレル派」などの考え方だ。例えば、魚介類の間で放出された放射性物質は食物連鎖を通じて生物濃縮をくりかえす。まさに、こうした様々な問題の根本的な解決の糸口さえ、不明なままだ。こうした放射能事故の現実をかえりみず、エネルギー・リスクではなく、ただただ、エネルギー・コストの計算を優先したのが、この、EU・欧州委員会の決定だ。この決定に断固、反対する。

●社会的価値構成の構成転換を――<労働の共有化>=<コモン>を回復しよう

 まさしく、資本の本源的蓄積と、<永続的>資本蓄積によって破壊されたコモンを、再び復権する闘いが問われているだろう。それはこれまで、本論でも見てきたように、資本主義の体制の中においても、いろいろな、<労働の共有化>として、生産・消費協同組合や、農地の自主耕作運動など、いろいろな社会運動が価値を共有しつつ、漸進的に進められてゆく必要がある。まさに<社会的価値構成>の転換が求められている。

 だからそれは、赤=資本主義的生産様式の労働者自主管理(労働の共有化)の生産への転換、緑=環境汚染・環境破壊・大量生産・大量消費・大量廃棄を生み出している市場様式・資本投資・商品購買内容の変革、生産物・商品の使用価値の内容において環境負荷が低減してゆくものへの転換、などといったことが、課題となる。まさに、赤(ハード)と緑(ソフト)の結合による、オルタナティブな社会様式が、求められている。

 誤解の無いように言っておくが、そしてそれは、アメリカ帝国主義をはじめとした世界資本主義はもとより、スターリン主義をはじめとした官僚制国家資本主義・全体主義の体制では、なしえない転換であることは、すでにスターリン体制下での「自然改造計画」なるもので、例えば個別例では、モスクワ・スモッグ問題(1940年代)・カスピ海やバイカル湖の汚染問題等々、そして、チェルノブイリ原発事故(現在継続中)など、20世紀の歴史が示している。そして現在、PM2・5などをアジア広域にまき散らし、スモッグなどを増産するような生産を強化する中国共産党・中南海指導部のスターリン主義・全体主義がはっきりと、しめしていることだ。◆