2014年7月10日木曜日

「抵抗権」に関するノート



「抵抗権」に関するノート 渋谷要


はじめに


僕自身は、参加できていないのですが、630日、首相官邸前の「集団的自衛権の閣議決定=解釈改憲」に反対するデモの中で、社会民主党の福島瑞穂さんが発言し、「もし万一、閣議決定がなされた場合は、安倍内閣を打倒するために闘う事です。選挙は二年後ですが、政府支持率を20%、10%に落としていけば、安倍政権は倒れます」と発言していました(iwjのライブで見ました)。これは、憲法(国家と国民の社会契約)を不正な手段で改変・改悪し、「不正の布告」をなし、社会契約を破壊し、人民の「生命と財産」を危殆におとしいれた政府権力者は、人民の権利・義務において打倒することができるという、ロック、ルソーなどの抵抗権の考え方を、合法主義的に表明したものと、僕自身は解釈した次第です。



まさに、独裁者=安倍は打倒あるのみです。



ここにアップするのは、橋本公亘の抵抗権論です。橋本氏は1990年まで、中央大学法学部の教授をしていたので、習った方も、多分おられるはずです。以下の論旨で誤りなどがあれば、指摘していただければ幸いです。

僕の記憶が、まちがいでなければ、彼は「民社党」のブレーンとして1980年代の初めに「九条解釈変遷論」を提唱し、「九条=絶対平和主義」という戦後憲法学界の多数説を批判したことで有名です。後に、中大出身で初の日本学士会員となった人です。日本学士会など日帝国家の一つですね。

その橋本が、1958年に「護憲派」として(この初版の「はしがき」に明記されているように)初版を発行したのが、以下の本です。そして、この引用した版は、1966年に出した「新版」からの引用です。この時期、橋本は、政府の第一次臨時行政調査会の臨時委員で「行政運営の透明性」を主張したといわれています。そこから次第に、右傾化していったのではないでしょうか。ここらへんの詳しい経緯を知っておられる方があれば、お教え願えれば幸いです。

そこでポイントは、まさに、その立ち位置において、革命派ではない法学者(法学者で革命派の人はいますが)が、憲法学の一般理論の一部として論じているということにあります。



橋本公亘(はしもと・きみのぶ 1919~1998)『憲法原論』(新版、有斐閣、1966年)第2章第12節「抵抗権」から。



「(1)序説 抵抗権とは国家権力の不法な行使に対して、実力をもって抵抗する自然法上の権利である。日本国憲法は、抵抗権について、何らの規定を定めていない。けれども、日本国憲法は、自然法思想による基本的人権をその本質的構成部分としているので、抵抗権は超国家的基本的人権として、憲法に内在するものと考えられる。

 

 支配者が違法に権力を行使するときは、人民は服従義務を免がれるばかりか、これに対して抵抗する権利を有するという思想は、ヨーロッパでは、かなり古くから存在していた。ドイツのみについて考えても、ゲルマン民族法の時代から認められ、その後19世紀中葉に至るまで、活き続けてきた。また、イギリスでは、1215年のマグナ・カルタにおいて、貴族たちの抵抗権を認めているし、その他の諸国においても、抵抗権を認めるものが多かった。くだってアメリカ独立宣言や諸州憲法は、自然法ならびに自然権、国家契約、国民主権および革命権の理論を表明している。」



第1章 好戦ファシスト政権の改憲クーデター



安倍は「閣議決定」を根拠として憲法九条そのものを死文化する法整備をおこなおうとしています。けれども、憲法改正手続きを経ていない以上、上位法としての憲法九条は存在しています。安倍のやっていることは、この憲法秩序に対する憲法破壊行為であることは歴然とした事実です。その手法(閣議決定)・内容(集団的自衛権の行使)からして憲法が定めている民主主義秩序の破壊です。「セルフ・クーデター」(権力者が不法な手段で憲法の一部を変えること)とも言われ出しましたが、ファシストによる「改憲クーデター」以外ではありません。憲法の原理を根本的に否定する政治権力として安倍政権は登場している。これをどう見るかは、別の機会にレポートするとして、ここでは、そういう権力者の暴走に対する「抵抗権」について、考えてゆきたいと思います。




橋本公亘『憲法原論』(新版、有斐閣)第2章第12節「抵抗権」から。前節のつづきです。



「フランス人権宣言も、抵抗権を宣言し、その後の若干の憲法は、これを認めた。イギリス、アメリカ、フランスの諸国では、抵抗権は、人民の法意識の中で、活き続けてきたと思われるが、ドイツでは、1848年の革命の失敗を期として、抵抗権の思想は消滅し、その後1世紀にわたって、法制史や法思想上の上で、語られるにとどまった。けれども、第2次大戦後、西ドイツ諸邦の憲法の中に、抵抗権および抵抗義務の明文をもつものが現われ、自然法の再生とともに、抵抗権思想の再生が、論ぜられることとなった。この問題は、政治家、法学者、神学者等の間で論議され、ついに憲法裁判所も、抵抗権の存在を認めるに至ったことは、注目に値する。……(以下、この項略)」。



「(2)抵抗権を認める理由  

国家権力の行使が、憲法の個々の条項に違反する場合においては、憲法所定の違憲審査等により救済されるべきものであり、また国民の参政権による政治的コントロールを通じて、是正せられるべきである。このことは、憲法の予想するところで、抵抗権の存在を認める余地はない。

 これに対して、憲法の原理を根本的に否定するような政治権力が出現し、国家権力を簒奪し、人権およびこれを認める民主的憲法自体が重大な侵害を受け、その存在が否定されようとするに至ったとき、国民に抵抗権が成立すると考える。これを認める理由は、次の通りである。

  1. 人間の尊厳を中心価値とする民主主義秩序の否定に対する抵抗は、超国家的、前国家的人権と認められる。それは、実定法を超えて存在する自然法上の権利である。人間の尊厳を否定する権力者の行為に対してまで、服従する義務を負うとすることはできない。法の本質に対し、実力説的見解をとる者は、法が人類の社会生活の規範として、正義の理念を包含することを見失っているといわねばならない。権力者は、国家権力を行使するにあたって、それが、少なくとも正義の理念に反しないものであることを要求される。このような自然法は、人間の理性に直接の根拠をおくものである
  2. 国法上固有の意味の抵抗権は、実定憲法の規定の有無にかかわらず(かりに抵抗権を否定する規定があったとしても)認められるものである。したがって、日本国憲法の条項について、多くの論議をすることは、抵抗権に関するかぎり、さほど本質的なことではないのであるが、ここに注意されることは、日本国憲法自体が、かかる自然法を中核として成立していることである。このことは、前文第1段、第11、12条、および第97条等によって知ることができる。いいかえると、日本国憲法は、抵抗権の明文をもっていないが、その基本性格上、かかる固有の意味の抵抗権を内在せしめているということである」。



※憲法97条「【基本的人権の本質】この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」

自民党の改憲草案は、この97条をまるごと削除するとしています。



2章「憲法の存在自体が否認される」事態とはなにか



橋本、前掲から。

「(c)憲法に権利保障の制度があるからといって、これをもって足れりとすることはできない。ワイマール憲法崩壊の過程をみると、いかなる法制度をとっても、現実には、権力者の圧制が生ずる可能性があることを否定できない。例外状態が発生しうることは、経験の教えるところである。かかる例外状態を法学の彼岸にとどめておくべきではないであろう。ナチスによる圧制は、われわれに抵抗の必要なことを教えたのであった。権威に対し、実力に対し盲従(ママ)することの危険を忘れてはならない」(この項、以下略)。

「(3)抵抗権の成立する要件……(中略)……抵抗権の成立する要件にいついては、次のように厳格に解することが必要である。

  1. 憲法の各条項の単なる違反をもって足れりとせず、民主主義基本秩序に対する重大な侵害が行われ、憲法の存在自体が否認されようとする場合であることを要する。抵抗権の行使は、その特異な性格上、右に述べた極端な場合に限定するのでなければ、かえって法秩序の不断の混乱を来すことになるであろう。すなわち、抵抗権は例外状態において、発生すると見るべきである」。

以上は、人によってその判断の基準は異なるでしょう。だから次のようなことが、考えられる必要があります。



(b)その不法が客観的に明白であることを要する。すなわち(イ)第一に、その不法であるか否かを決定するにあたって、一私人の立場からのみ、判断されてはならない。もちろん現実の決定は、各人の良心がなすところであるが、この場合、不法の存在の有無は、客観的に考えられなければならない。(ロ)第二に、その不法は、明白でなければならない。単に不法の疑いがあるというのでは、足りないのである」。

「(C)憲法、法律によって定められた一切の法的匡正手段が、もはや、有効に目的を達する見込みがなく、正当な法秩序の再建のための最後の手段として、抵抗のみが残されていることが必要である」。


こうして「抵抗権」の行使の条件として、「憲法の存在自体が否認されようとする場合」と「客観的に認められる」自体で、「法的匡正」が「有効性をもたない」場合ということが、規定されているのです。まさに安倍たちがやった「閣議決定」こそ、その見本のようなものでしょう。そこで安倍は政府首班が法であると宣言したのです。独裁者の思想です。

今この時点から、安倍たちは、「閣議決定」にもとづく法整備を行い、自衛隊法の改定などおよそ30といわれている法制改定を行う作業に入っています。これに対する、民衆の抵抗の闘いがとわれています。



その抵抗権の行使の方法については、いろいろなことが考えられるでしょう。僕の意見では、なにより自民党は党の「改憲草案」で結集している軍事大国的な改憲勢力であるという事、これと如何に闘うかということがポイントだと思っています。合法的運動領域での政府打倒のデモなどの高揚や、「閣議決定での解釈改憲」と、それにしか根拠をもたない自衛隊法などの法整備・法改正がどれだけ、民主主義を蹂躙したものか、その不正の暴露によって、内閣支持率を降下させてゆくための闘いが必要です。



●憲法九条は、如何にその存在自体を否定されようとしているのか



そもそも、安倍が否認しようとしている九条(戦争放棄、国際紛争解決手段としての武力行使の永久放棄、軍備及び交戦権の否認)はファシズム国家(枢軸国)であった大日本帝国の武装解除の法規として、日本国の基本法に明記されたものです。その成立の初めにおいては、個別的自衛権としての「国家正当防衛権のごときを認むることが有害であると思う」という吉田茂首相の1946年6月の衆議院本会議での言明にあるように、「侵略戦争」はもちろんのこと「自衛戦争」も否定するという絶対平和主義として規定されていました。

しかし、アメリカ帝国主義は日本を、中国革命・朝鮮革命に対する「反共防波堤」とすべく、朝鮮戦争情勢を背景に、1950年1月、「個別的自衛権」の「復活」と、それに対応した「国家組織」の確立を示唆したのです(マッカーサー声明)。

ここから9条の空洞化・死文化の過程がはじまります。52年日米安保条約が発効しました。例えば警察予備隊から保安隊への改組が議論されていた52年3月参議院予算委員会では吉田首相は「自衛のための戦力は合憲」とし、54年の自衛隊発足時での衆議院予算委員会では「戦力なき軍隊」を主張し、「個別的自衛権」ということを建前に、軍事的国家組織を創設・拡充してゆきます。

サンフランシスコ条約により米軍政下にとどめられた沖縄では、米軍による土地の強制収容が展開されました。これに対して沖縄民衆は島ぐるみ闘争などを展開します。

この段階の安保体制は、実質的には「基地貸与条約」として出発しました。日本「本土」でも米軍基地との闘いがはじまります。この時期の自民党の安保政策は、日帝における自衛隊の戦力化をつうじ、米ソ冷戦の下での日米共同反革命同盟の形成を推し進めてゆくことを基本としたのです。

また、この過程は、内閣法制局の「必要最小限の戦力は合憲」とする「自衛力論」が説かれ始め、自衛隊発足時には国会での「海外派兵禁止決議」をふまえて、自衛隊合憲論がアピールされるというように、「個別的自衛権」を正当性とした日帝戦力の復活というところにポイントがありました。



そして安保は米ソ冷戦の下、1970年代後半「ガイドライン安保」へと転回し、それまでの基地貸与協定的性格から双務的同盟関係へと転回してゆくことになります。ここから、とくに、90年代初頭のPKO法成立以降、実質的に、内閣法制局が禁じているとしている「集団的自衛権」の論議が出てくることになるのです。



例えば96年「日米安保共同宣言」(安保再定義)は、その中で「地球規模の協力」を宣言しました。これをふまえた99年「周辺事態法」は、日米安保の防衛対象(周辺事態の対象とされる地域)が、例えば極東や東アジアに限定されておらず曖昧で、全世界に拡大する可能性が指摘されました。またこの時、米軍支援との関係で自衛隊などが活動するため「非戦闘地域」という概念も、規定されます。まさに米軍の後方支援などで「集団的自衛権」への抵触が問題視されました。そして21世紀に入りアフガン・イラク戦争での米軍との連携などで、その動きは強化されてゆきます。その間、日本が米軍に毎年財政支出している思いやり予算も膨れ上がっていきました。今後、「集団的自衛権」で、この思いやり予算の範囲も拡充してゆくことになるでしょう。こうして、「集団的自衛権」への踏込は、準備されてきたのです。



ちなみに、ソ連国家の崩壊によって米ソ冷戦が終結した1990年代、アメリカは本国にあったいくつかの軍事単位を国内財政削減のため日本に移しており、日本の思いやり予算で米軍を維持してゆくという方向を強めました。

米帝にとって日本における「集団的自衛権」の法制的確立は、端的にいって、米軍とともに自衛隊などが前線をはじめとする戦闘地帯での任務に従事することになります。安倍などは「紛争・戦闘行為が起こっているところからは撤退する」などと言っていますが、戦術的な一つ一つの軍事戦闘はいつ発生するかわからず、詭弁にほかならないわけです。結局は戦闘状態をも、前提する方向でこれからの法整備は行われる以外ありません。そして米軍の全世界的展開における諸任務の肩代わりや日本の財政的支援の拡大であったりというように、アメリカのコスト削減に役立つのであり、日米軍事一体化の状況は、自衛隊の米軍への本格的組み込みという側面を濃厚なものにしています。



★では、なぜ、安倍の「閣議決定での解釈改憲」が突出しているのか。

これまでの自民党の政策は、九条空洞化・死文化を、日米共同声明などの形で、条約にもとづく外交的取り決めとして展開し、それを「周辺事態法」などの個別法の範囲で処理してきました。つまり憲法という基本法に直接抵触することを避けてきたのです。



そうしてきたのは「集団的自衛権」を禁じた「政府統一見解」と、これを規定している九条の法的拘束力があったからです。権力者たちがこれから自由になるためには憲法改正手続きを進めていく必要があります。これが立憲主義の基本です。



これに対し、今回の安倍が手法とした「閣議決定での解釈改憲=集団的自衛権の行使容認」、それは端的には九条が規定する「国際紛争解決手段としての武力行使の禁止」を否定することは、直接、九条の規定を停止・無効にするという、立憲主義を無視・破壊したファシスト的手法な手法です。それを用いたことにおいて、これまでの自民党のやり方――も批判すべきですが――とは、一線を画しているということなのです。



抵抗権の要件である「憲法の存在自体が否認されようとする場合」という事態を、安倍の「閣議決定での解釈改憲」という行為は、実質的にというだけでなく、形式的に満たしています。あるいはこういってよければ、現行犯的に満たしています。



安倍はその踏込を、<独裁者が憲法の解釈を、憲法改正手続きではなく、閣議決定で変更する>という独裁者的手法で「可能」にしたのであり、ニューヨーク・タイムズの社説も「個人の考えで憲法を勝手に変えた」ということを批判しています。

 実際の政治権力者のわがままで、民主主義的・平和主義的な秩序が破壊されることは、起こるし、起こってきたのです。そういうところから、民衆の人権の担保・防衛としての「抵抗権」ということを考えていく必要があると思います。



「圧制に対する抵抗は、他の人権の帰結である」(フランス1793年憲法・人権宣言(国民公会で採択)、第33条)



第3章 抵抗権と革命の位置づけの違いについて



橋本公亘『憲法原論』(新版、有斐閣)第2章第12節「抵抗権」から。


「(4)抵抗権と革命  抵抗権の行使は、民主主義憲法のもとでは、単に保守的な意味で、すなわち法秩序の維持または再建のための緊急権としてのみ用いられうる。これを改革の手段として用いることは許されない。この点で革命とは区別される。革命は、法秩序の基礎を変革する行為であって、積極的に自己の政治的主張の実現を図るものである。それは、正当性の問題とは、区別すべきである。抵抗と革命とは、時には、一致して現われることもあるし、時には、相反する場合もある。すなわち、人間の尊厳を否定するような国家秩序の下にあっては(たとえばナチスの圧制下、または帝国主義的な植民地の法秩序の下にあっては)、抵抗権は、革命権として主張することができるのであり、両者は、方向において、一致するわけである。しかし、民主主義法秩序の下では、抵抗権は、これを擁護するためにのみ行使することができるのであって、それは、革命権として主張することはできない。

 


抵抗権は、アメリカ独立、フランス革命等においては、革命権としての役割位を果たした。それは、当時の政治が、人民に対する圧制であったがためであり、人間の権利自由の自覚が、革命権となって、現れたのである。しかし、現代のわが国においては、事情を異にする。われわれは、すでに民主主義基本秩序を樹立している。したがって、抵抗権は、この民主主義基本秩序を維持しようとするものでなければならない。それは、革命権として現われず、むしろ独裁制の出現に対する抵抗権として現われる。いいかえると、固有の意味の抵抗権は、人間の尊厳を重んじようとする自然法上の権利として、その本質を同じくするものであるが、時代と場所を異にするにしたがって、国法の基礎秩序の異なるにしたがって、抵抗する方向の差異を生じて、一は、革命権として現われ、他は、むしろ反革命権として現われるのである」。


抵抗権とは、革命というイデオロギッシュな主張を伴う行為ではなく、民主主義基本秩序を維持するための一般的権利だということが言われているわけです。それは革命と方向として一致することもあれば、相違することもある、そうした、一般的な「自然法上の権利」としてあるということが、ポイントです。





第4章  「抵抗権は、自然法上の権利であり義務であるとともに、それは倫理上の義務たるの性格を備えている」――平和的生存権への侵害を許さない



安倍・好戦ファシスト政権は、集団的自衛権行使、原発再稼動――フクシマ事故被害隠蔽などといった、人権の重要な構成要素である、人々の平和的生存権「平和の内に生存する権利」(例えば、日本国憲法前文に明記されているもの)を著しく侵害しています。60年代初頭、憲法学者・星野安三郎(19212010)が提唱し、その後、人権の重要な構成部分となって行ったのが「平和的生存権」です。最近では、2008年に日本弁護士連合会が「平和的生存権および日本国憲法9条の今日的意義を確認する宣言」を出し、「平和的生存権は、すべての基本的人権保障の基礎となる人権」と定めています。政府権力による、この平和的生存権の侵害に対しては人民には抵抗権を発動して、政権の打倒のために闘う、自然法上の権利が存在していると、ぼくは、思います。大衆的街頭デモを拡大してゆこう! 内閣支持率を低下させてゆこう!



橋本公亘『憲法原論』(新版、有斐閣)第2章第12節「抵抗権」から。



「(5)抵抗権の行使の方法  抵抗権の行使には、いかなる方法を用いるか。これについては、あらかじめ定めることができないことは、いうまでもない。不法権力を排除し、正当な法秩序を維持または再建する目的を達成するに必要な限度で、あらゆる可能な実力を行使することができる。

(6)抵抗の権利と義務  さて、右に述べたような意味で、抵抗権の行使が正当とされう場合であっても、もし抵抗が結果において失敗に帰するときは、支配者は、抵抗した者を叛逆罪に問うことであろう。抵抗が成功した場合においてのみ、それは、法上の権利の行使たる処遇を受けうるのである。このことは、一見、実力のみがすべてを決するように見える。だが、ここに重大な差異があることを見逃してはならない。実力説をとる者には、支配者の行為が合法であり、抵抗権を行使した者が不法を犯したことになる。抵抗権を肯定する者にとっては、たとえ、それが失敗しても、その行為は正当であり、支配者が抵抗者を処罰したことは不法であり、これによって、より一層抵抗の必要を加えるのである。

抵抗権は、自然法上の権利であり義務であるとともに、それは倫理上の義務たるの性格を備えている。抵抗権の行使は、犠牲を伴うかも知れない。しかし、アドルフ・メルクル(法学者の――引用者)が、正当にも指摘する通り、国家のために戦うことのみが英雄ではなく、国家に対して戦うことのうちに、真の英雄が見出されるかも知れないのである。」(終わり)



最後は、何か、『憲法原論』という名のテキストにしては、すごい話になっていますが、人民が、抵抗権を行使する正当性が、これによって、一層鮮明になっているといえるでしょう。


「集団的自衛権行使容認」の解釈改憲・閣議決定=安倍・好戦ファシスト政権の改憲クーデターをゆるさない、戦争する国になることをみとめない、平和的生存権を守り抜く、民衆の活動を広げてゆきましょう。(了)



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参考文献:「問題〔13〕 抵抗権  樋口陽一」(有斐閣ブックス『新版 憲法演習1  総論・人権Ⅰ(改訂版)』清宮四郎・佐藤功、他、編 1987年)。

上記、問題〔13〕の問題とは、「「圧制に対する抵抗は、他の諸人権の結果である。」(フランス1793年人権宣言33条)日本国憲法下で、このような考え方は認められるか」

2014年7月6日日曜日

6・22「いいだもも没後3周年」シンポジウムでの渋谷要のスピーチ



6月22日「いいだもも没後三周年」シンポジウムでの渋谷要の発言


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6・22シンポジウム

「世界の危機と主体の再生を考える――いいだもも没後3周年によせて」


日時 2014622日(日)1330分~17時(会場13時)

場所 日本教育会館9階 喜山倶楽部「光琳」

   東京都千代田区一ツ橋282 

プログラム

第Ⅰ部 いいだももとその時代

内藤 三津子(元Nアトリエ) :「世代」の時代とその後

高橋 正久(元日通労研)   :水戸での出会いから

松田 健二(社会評論社)   :『季刊クライシス』刊行のころ

渋谷 要(社会思想史研究)  :いいだ著『赤と緑』をめぐって

猪野 修治(湘南科学史懇談会):藤沢での出会いと研究会


第二部 講演「歴史の岐路に立って――世界の危機と主体の再生」


伊藤誠(東大名誉教授)

「現代資本主義の多重危機を考える――いいだももの志をどう受け継ぐか」

本山美彦(京大名誉教授)

「本来性と主体性――いいだ先生から投げかけられた課題」


参加費 1000


協賛 お茶の水書房:橋本盛作、社会評論社:松田健二、批評社:佐藤英之、藤原書店:藤原良雄、緑風出版:高須次郎、論創社:森下紀夫、元白順社:江村信治(五十音順)


主催 変革のアソシエ


終了後、同会館で懇親会(会費4000円)


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第Ⅰ部スピーチ

 1980年代のいいだももとして、渋谷が話したスピーチをアップします。


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「いいだもも著『赤と緑』をめぐって」渋谷要


自己紹介から始めさせていただきます。58歳です。季刊クライシスの1984年から始まった第三期編集委員会から90年終刊までの、編集委員でした。

いいださんとは、このクライシスで協働するだけの関係だったのですが、今日お話しするのは1980年代にいいださんが主張されていた、「赤と緑」というテーマについての話です。

なぜ、わたしが、話すことになっているのかということですが、わたしはこの4月に『世界資本主義と共同体――原子力事故と緑の地域主義』という本を社会評論社から上梓しました。その中の一章で、この「赤と緑」というテーマでかいた。そういうことで、私にご依頼がきたのではないかと思っています。


緑風出版から発行された、いいださんの『赤と緑』は、チェルノブイリ事故の16日前、86年4・10が発行日です。この本はパラダイムとして、そうした原発の過酷な事故をはっきりと見越した上で書かれていると思います。


いいださんの問題意識を端的に言うとこういう事です。

『赤と緑』の200頁あたりに書いてあることですが、大量生産・大量消費・大量廃棄の大衆消費社会は、廃物廃熱というエントロピーを、急速に増大させてゆきます。このエントロピーを軽減させてゆく以外、地球は環境負荷でパンクします。この資本主義に対する制約は、そのオルタナティブとしての社会主義・共産主義の在り方をもあらかじめ制約している。しかし、ソ連や中国の共産党指導部はそうしたことは考えず、生産力主義的な暴走を展開している、そうしたスターリニスト官僚の暴走に対して、エコロジカルな社会主義を創造していかなければならない。これが、「赤と緑」の中心問題であったと、私は、考えています。


そこからいいださんは、どのように、環境破壊と向き合うのかという事を論じます。1970年代初頭、マサチューセッツ工科大学の研究者たちが、「ローマクラブ」というところの依頼によって、地球の環境汚染をどうしたら削減してゆけるかというケーススタディをやりました。それが『成長の限界』という一冊の本にまとめられました。その内容は、人口・資本が爆発的に増大することで、汚染も爆発的に増大します、これを減少させるために、人口と資本をいかにコントロールするかということでした。

僕もその内容には、大きな影響を受けたものです。

しかし、いいださんは、その限界を「<資本制文明モデル>を動かすべからざる前提としている」と批判しました。同時に「原子力帝国」はクリーンエネルギーではなく、環境破壊を悪化させるとのべます。


このふたつをつなげて考えることが必要です。


『成長の限界』の116頁には、次のように書いてあります。

「核エネルギーの生態学的影響はまだ明らかにはなっていない」。

つまり、これらのケーススタディには、核エネルギーによる環境汚染ということは、入力されていないわけですね。このように核エネルギーの影響を無視した問題は、それから同じ研究チームが20年後に行なった、つまり、チェルノブイリ事故以降のケーススタディ、『限界を超えて』という本にまとめられたものでも、おなじであって。そこでも核エネルギーによる環境汚染という概念はありません。

いいださんの指摘した「資本制文明モデルの枠内のもの」という指摘は正しかったといえます。

最後になりますが、核文明をともなった近代生産力主義は、二つの原発事故を現在進行形として展開しながら暴走しています。チェルノブイリは、石棺がボロボロになっており新たに石棺をつくらなければならない。福島の事故原発は現在も大量の放射性物質を放出しつづけています。

このような近代生産力主義の社会からのパラダイムチェンジが必要です。そのパラダイムチェンジの中心に、いいださんが、提起した『赤と緑』の合流ということを、位置させていかなければいけない、そう私は考えています。これでぼくの話をおわります。ありがとうございました。