2022年8月28日日曜日

コロナ・パンデミックの中で資本論第二巻「資本の流通過程」を読む  渋谷要

 【解説】2022年2月20日に、このブログ『赤いエコロジスト』にアップした「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」の中から、後半の【注解ノート】「資本主義と『資本の回転』についてのノートーーパンデミックによる経済循環の破壊についての分析の前提となるもの」を、分割アップします。

 この論考は、資本論第二巻のお勉強です。

 第二巻を、いろいろとまとめながら、コロナ・パンデミックにおける「資本の流通過程」の破壊を分析しています。★このアップに限ってタイトルを新たに、付けました★「コロナ・パンデミックの中で資本論第二巻「資本の流通過程」を読む」です。


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コロナ・パンデミックの中で資本論第二巻「資本の流通過程」を読む

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原題・「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」【注解ノート】

 資本主義と「資本の回転」についてのノート――パンデミックによる経済循環の破壊についての分析の前提となるもの 

                         渋谷要

【リード】 以上、本論「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」の「注解」として以下のノートを提示する。

 ここでの課題は、本論の冒頭部分に戻ると思う。コロナ・パンデミックによる「コロナ恐慌」ともいわれる非常事態を、<経済学的に>何を原基的な考え方・<分析視角>としつつ、考えてゆくのか、そのラディカルな視角の原点がふまえられなければならない。その原基こそ、マルクス『資本論』であると考えるものである。

 ここでは、そのコロナ禍経済危機に対する分析視角をなすものを『資本論第二巻資本の流通過程』に求めるものである。資本論第二巻は三篇構成で論述されている。「第一編 資本の諸変態とその循環」、「第二編 資本の回転」、「第三篇 社会的総資本の再生産と流通」。本論では「第二巻第二編・第三篇」を中心にノートをとった。

また、文末には【小括】として、コロナ・パンデミックとのかかわりに関する問題意識を示した。

 まずは、それらの【序説】として、資本主義の基礎をなす「搾取」の<機制>を確認し、そののち、第二巻のノートを論述することとする。なぜなら、この「搾取」論を論の前提とし、骨格として、第二巻「資本の流通過程」が論じられているからである。まず、第二巻にはいる前に、第一巻・第三巻における「資本主義的搾取」の概要を確認することからはじめよう。

【第一節】資本主義的搾取の基礎について

以下は『資本論第一巻・第三巻』における「搾取論」のポイントだ。

資本家的商品生産社会である資本主義社会では商品(W)は、「労働生産過程」において「不変資本(生産手段)c+可変資本(労働力)v+剰余価値m(このv+mは生きた労働vが生産した価値)」として「商品価値」を構成する。

この場合、剰余価値の産出は、自然に過剰なものが生み出されるのではなくマルクスの『経済学批判要綱』(グルントリッセ)に基づけば、「資本の労働に対する処分権」として組織されるものにほかならない。ここに「労働力の商品化」とは、「賃金奴隷制」だとマルクスが喝破した根拠がある。だが、この商品の価値構成は、「生産価格」=費用価格k(c+v)+利潤(市場競争の結果としての平均利潤p)に転形する。これにより、労働力vは剰余価値部分(利潤部分)を生産しない単なる費用価格の一部と観念され、剰余価値の搾取は隠ぺいされる。

 この剰余価値の産出についてだが、労働力をマルクスが「可変資本」としていることにポイントがある。労働力が剰余価値mの生産というように、価値を増殖させるからだ。これに対し、生産手段を「不変資本」というのは、価値を増殖するのではなくて不変のままで生産物に価値を移転するからだ。

 この場合、「労働・生産過程」が「価値形成・増殖過程」となるわけだが、資本の労働に対する処分権の発動をつうじて、労働者の「必要労働」(賃金分の価値に対妥当する時間労働)に対する「剰余労働」(剰余価値の産出として消費される労働)の率を高めることを、つまり搾取率・剰余価値率を高めることを土台に、最終的には利潤率を上昇させることをもって成立する搾取の機制が、ブルジョアジー・キャピタリストによって展開している。

また、その場合、「必要労働時間」「剰余労働時間」というのは、時間が区切られてあるわけではなく、生産過程では、労働力は「新たな価値を形成する」(新たな商品生産をなす)が、「剰余価値は、労働力の買い入れに支払われた価値とこの新たなる価値との差額に他ならない。とくに剰余価値として生産されるわけではない」(宇野弘蔵、岩波全書『経済原論』六六頁)ということだ。

 また、この場合、利潤率の機制がはたらく、剰余価値mは資本家の立場から見れば総資本(投下資本総額c+v)の増加分である。だから、総資本に対する増加分の値が利潤率として定立する。つまり利潤率は「剰余価値m/総資本(c+v)」である。これにより、増加分の利潤率での計算は、剰余価値(m)が労働力(v)によって増加(剰余労働)分として産出されていることを隠ぺいし、総資本(c+v)にプラスして与えられたということになるのである。

そして、ここから資本家と労働者の搾取にもとづく階級対立は「資本―利子、土地ー地代、労働―労賃・企業者利得」=商品所有者間の平等な分配システム(三位一体的定式)へと擬制化する。労働者の賃金は「労働報酬としての労賃」とされ、労働力商品の所有者が、労働市場で資本家にこれを売ったものの対価(だから費用価格の一部と観念される)として通常考えられるようになる。自由な商品交換の主体として労働者と資本家は自由平等な市民社会を構成することになる。マルクスはこれを「自由幻想」と呼んでいる。

こうした、「商品価値」「生産価格」「搾取」「利潤率」「自由幻想」などが、どのように、資本主義社会で展開しているのか、その機制・メカニズムの解明に挑戦したのが、『資本論第二巻 資本の流通過程』だ。


【第二節】「資本論第二巻第一編 資本の諸変態とその循環」

●資本が展開する三つの循環

 この第二巻第一編は、本論の目的上は、序論に当たる部分でもあり、簡単にまとめることにする。

マルクスは「第一編第一章 貨幣資本の循環」では次のようにのべている。

「資本の循環過程は三つの段階を通って進み、これらの段階は、第一巻の叙述によれば、次のような順序をなしている。

 第一段階。資本家は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G-Wを通過する。

 第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素よりも大きい価値をもつ商品である。

 第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W-Gを通過する。

 そこで、貨幣資本の循環を表す定式は次のようになる。G-W…P…W´ーG´。ここで点線は流通過程が中断されれていることを示し、W´とG´は、剰余価値によって増大したWとGを表わしている」(マルクス・エンゲルス全集24「資本論Ⅱ」原書頁31)。

これが資本主義における「資本の回転」の基本的なストーリーとなるものだ。

●資本の諸変態の展開と階級関係の設定

マルクスは「第一編第一節 第一段階GーW」でいう。

「GーWは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わしている。…このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第一に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。それは一方では生産手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因と人的要因であって、それらの特殊な性質は、もちろん、生産される物品の種類に相応していなければならない。労働力をAとし、生産手段をPmとすれば、買われる商品総額W=A+Pm」である。……つまり、GーWは、その内容から見れば、GーW(Pm+A)として表わされる(32)。

 このG―Aは、剰余価値を生産する本質的条件をなしているとマルクスは言う。

「GーAは、貨幣資本から生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜならば、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に、剰余価値を生産する価値に、転化するための本質的な条件だからである」(35)。「貨幣は、Gが貨幣資本に転化するとか経済の一般的性格が変革されるとかいうことがなくても、すでに古くからいわゆる用役の買い手として現われているのである」(36)。

 また、このG-A交換では、貨幣所有者(資本家)と労働力所有者(労働者)の原初的な階級関係が設定されている。

「GーAという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、互いにただ買い手と売り手として関係し、互いに貨幣所有者と商品所有者として相対するのであり、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係ににあるだけなのであるが、ーーーそれにもかかわらず、買い手の方は、はじめから同時に生産手段の所持者として立ち現われ、その生産手段は、労働力がその所持者によって生産的に支出されるための対象的諸条件をなしているのである。言い換えれば、この生産手段は、労働力の所持者に対して他人の所有物として現われるのである。…この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として働くために買い手の支配下にはいらなければならないのであり、彼の資本に合体されなければならないのである。だから、資本家と賃金労働者との階級関係は、両者がGーA(労働者から見ればAーG)という行為で相対して現われる瞬間に、すでに存在しているのであり、すでに前提されているのである」(36~37)。

 こうして「G―W……P……W´ーG´・GーW……P……W´―G´・G―」という資本の循環において、「G―G」は貨幣資本の循環、「P―P」は生産資本の循環、「W´―W´」は商品資本の循環だ。この循環には、これから述べるように、生産過程とともに、生産物が商品として流通する流通資本の過程が展開されている。ブルジョアジーは剰余価値を生産するために生産している。換言すれば資本の増殖につながらないものは、生産する意味がない、それが資本主義的生産の意味だ。

●資本論第二巻と宇野弘蔵の問題意識

 宇野弘蔵(一八九七~一九七七年)は『資本論入門』(講談社学術文庫)で、次のように述べている。

 そこでマルクスは、「(資本論第二巻の)第五章、第六章で、この資本の流通にともなう特殊な問題、流通に要する期間と費用とを考察する。この点は第一巻ではほとんど問題にならなかった。したがってまた第一巻だけで資本を理解したと思っている人にはしばしば見逃されやすい重要な問題をなすのである。……資本家と資本家のあいだの関係が問題になる場合には――第三巻ではその点が考察されるのであるが――これが重要な問題になり、資本主義社会を支配する原理として実際上は商品の価格を理解するうえからいっても、欠くことのできないものとなるなるのである」(一七五頁)。

これには「流通資本」の位置づけの問題がある。

「流通過程にある資本――生産資本にたいして流通資本というのであるが、そしてそれはのちに述べる流動資本とは異なるのであるが――それも資本としてあることを明確にし、いかなる産業においても全資本が生産過程にあって価値、したがって剰余価値を生産しつつあるものとはいえないことを明らかにしている。……生産期間と流通期間とは一様に資本が投ぜられる機関として、のちに述べる資本の回転期間に埋没されてしまうことになり、流通機関が長くなったり、短くなったりすることが、資本の価値増殖にどんな影響を及ぼすかは不明確にならざるをえない」(一七六頁)。

 ここから「流通費用」の中で、「価値」を追加するものと・しないものを分節する。

「マルクスは流通期間にたいしてとくに流通費用を考察している。そしてこの費用を(一)純粋の流通費用として、(1)売買期間、(2)簿記、(3)貨幣――もっともこの貨幣の費用は個々の資本にとっての費用ではなく、資本全体にとっての費用をなすのであるが――をあげている。そしてこの純粋の流通費用が、(二)保管の費用、(三)運輸費用とそれぞれことなった性質を有していることを明らかにする」(一七六~一七七頁)。

「第一の純粋の流通費用が商品の使用価値に変化を加えない点で何らの価値をも追加しないのにたいして、第二の保管の費用は、商品の使用価値にたいして消極的ではあるが、これを保存するという点から社会的に必要とせられるかぎりでは――したがってたんに思惑からの保有はそうはならないが――価値を追加するものとし、第三の運輸も使用価値を実現するために必要なるかぎりで、価値の追加をなすものとする――ふつう、商品の売買にともなう運搬は商業自身の内にもおこなわれ、それと混同せられるが理論的には区別せられなければならない――のである」(一七七頁)ということになる。

 以上この「保管費」と「運輸費」を、マルクスの「資本論第二巻」で、以下確認しておこう。

●「第六章流通費第二節 保管費」について

まず、上の文章での「保管の費用」だ。

「この流通費は、生産過程から生じるものであって、ただこの生産過程が流通のなかでのみ続行され、したがってその生産的な性格が流通形態によって覆い隠されているだけである。…個別資本家にとっては価値形成的に作用することができ、彼の商品の販売価格への付加分をなすことができるのである。……価値をつけ加える労働はすべて剰余価値をもつけ加えることができる。そして資本主義的基礎の上ではつねに剰余価値をつけ加えるであろう。……だから、商品に使用価値をつけ加えることなしに商品の価格を高くする諸費用、したがって社会にとっては生産の空費に属する諸費用が、個別資本家にとっては致富の源泉になることができるのである」(一三八~一三九頁)。

「生産物在庫の社会的形態がどうであろうと、その保管には費用が必要である。……そこで問題になるのは、このような費用はどの程度まで商品の価値んはいるのかということである。……商品在庫なしには商品流通はあり得ない。…商品在庫は、与えられたある期間にわたって需要の大きさにたいして十分であるためには、ある程度の大きなをもっていなければならない。……商品の停滞は商品の販売の必然的な条件とみなされるのである。さらにまた、その大きさは、中位の売れ行きよりm、また中位の需要の大きさよりも、大きくなければならない。そうでなければ、この大きさを越える需要を生み出すことはできないであろう。……在庫形成の費用は、(1)生産物量の量的減少(たとえば穀粉在庫の場合)、(2)品質の損傷、(3)在庫の維持に必要な対象化されている労働と生きている労働都から成っている」(一四六~一五〇頁)というのが、基本的な理解ということになる。

●「第六章第三節 運輸費」にいつて

ここは、運輸労働による「価値付加」という文脈が、重要である。

「生産物の量はその運輸によってふえはしない。また、運輸によってひき起こされるかもしれない生産物の自然的性質の変化も、ある種の例外を除けば、もくろまれた有効効果ではなく、やむをえない害悪である。しかし、物の使用価値はただその消費によってのみ実現されるものであって、その消費のためには物の場所の変換、したがって運輸業の追加生産過程が必要になることもありうる。だから、運輸業に投ぜられる生産資本は、一部は運輸手段からの価値移転によって、一部は運輸労働による価値付加によって、運送される生産物に価値をつけ加えるのである。このような運輸労働による価値付加は、すべての資本主義的生産でそうであるように、労賃の補填と剰余価値とに分かれるのである」(一五一頁)。

こうした、剰余価値の自己増殖を含む資本の運動が、では、どのような構成・機制によって、また、価値観(資本主義の通用的真理)によって展開しているのか、その経済過程を見ていこう。

【第三節】資本の現実の運動構造を分析する――「第二編 資本の回転」 

●「周期的な」循環期間としての回転数

 資本主義における利潤の創造・価値増殖では、とりわけ、「資本の回転」数ということが重要だ。たとえば、コロナ・パンデミックなどでの、時短営業にはじまり、感染拡大・クラスター発生などでの職場休業や工場労働の短縮などの影響などは、こうした「資本の回転」にマイナスの結果をもたらしている。

マルクスは論じている。

「資本の循環が個々別々な過程としてではなく周期的な過程として規定されるとき、それは資本の回転と呼ばれる。この回転の期間は、資本の生産期間と流通期間の合計によって与えられている。この総期間は資本の回転期間をなしている。したがって、それは、総資本価値の一循環周期と次の循環周期とのあいだの間隔を表わしている。それは、資本の生活過程における周期性を、または、そう言いたければ、同じ資本価値の増殖過程または生産過程の更新、反復の時間を表わしている。……一労働日が労働力の機能の自然的な度量単位になっているように、一年は過程を進行しつつある資本の回転の自然的な度量単位になっている。この度量単位の自然的基礎は、資本主義的生産の母国である温帯のもっとも重要な土地果実が一年ごとの生産物だということにある。

 回転期間の度量単位をUとし、ある一定の資本の回転期間をùとし、その回転数をnとすれば、n=ù/Uである。たとえば回転期間ùが三か月ならば、n=3/12=4である。この資本は、一年に四つの回転をおこなう。……ùが18か月ならば、n=18/12=3/2であり、言い換えれば、この資本は、一年にその回転期間の三分の二だけを終える。……資本家にとっては、彼の資本の回転期間は、自分の資本を価値増殖して元の姿で回収するためにそれを前貸ししておかなければならない期間である」(156~157)と。

●「不変資本」の意味

そこで、「資本の回転」のなかで、価値を生む(可変資本)のではなく、価値をただ生産物に転化していくだけの不変資本が考察される。

「不変資本の一部分は、不変資本が生産過程にはいるときの一定の使用形態を、その不変資本の協力によって形成された生産物に対して、元のまま保持している。すなわち、それは、長短の期間にわたって、絶えず繰り返される労働過程で、絶えず繰り返し同じ機能を行うのである。たとえば、作業用の建物や機械など、要するにわれわれが労働手段という名前のもとに総括するものは、すべてそういうものである。不変資本のこの部分は、それ自身の使用価値とともにそれ自身の交換価値を失うのに比例して、生産物に価値を引き渡す」(158)。

●「不変ー固定資本」としての労働手段・機械などと「不変ー流動資本」としての生産物の原料など素材的成分

さらに、不変資本は「固定資本」と「流動資本」に分節される。

 「資本価値のうちこのように労働手段に固定されている部分も、やはり流通するのであって、このことは他のどの部分とも変わらない。……しかし、ここで考察される資本部分の流通は独特なものである。第一に、この部分はその使用価値で流通するのではなく、ただその価値だけが流通するのであり、しかも、それがこの資本部分から商品として流通する生産物に移って行くのにつれてだんだん少しづつ流通するのである。労働手段が機能する全期間にわたってその価値の一部分は常に固定されており、それの助力によって生産される商品にたいして独立に固定されている。この特性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。これに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材的成分は、この固定資本にたいして、流動資本を形成するのである」(159)。

マルクスは、固定資本と流動資本の分節が生産資本の回転の特徴をなすと論じる。そして、「労働手段の価値」は、その一部は、生産過程に縛りつけられたままであり、一部は、貨幣となってこの形態から離れると論じている。コロナ禍では、生産・流通の縮小が、連鎖的にさまざまな業種をっまきこみ、いろいろな生産システムの稼働が縮小した結果、「貨幣となってこの形態からはなれる」価値が減少したことになる。 

「固定資本の独特な流通からは独特な回転が生ずる。固定資本がその現物形態の消耗によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。生産物はその流通によって商品から貨幣に転化する。したがってまた、労働手段の価値のうち生産物によって流通させられる部分も貨幣に転化し、しかもその価値は、この労働手段が生産過程での価値の担い手でなくなって行くのと同じ割合で、流通過程から貨幣になってしたたり落ちてくる。だから労働手段の価値は今では二重の存在をもつことになる。その一部分は、生産過程に属するその使用形態または現物形態に縛りつけられたままであり、もう一つの部分は貨幣となってこの形態から離れる……この点に、生産資本のこの要素の回転の特徴が表れている」(163~164)ということになる。

●「固定資本」の「価値」の特徴

 そうしたあり様を、マルクスは簡単な事例で説明している。

 「かりに10000ポンドという価値のある機会の機能期間が10年だとすれば、この機械のために最初に前貸しされた価値の回転期間は10年である。この期間が過ぎるまではこの機械は更新される必要はなく、その現物形態で作用を続ける。その間にこの機械の価値は、引き続きこの機械で生産される商品の価値部分として少しづつ流通し、こうしてだんだん貨幣に転換して行き、最後に10年間の終わりにはその価値が全部貨幣に展開してさらに貨幣から機会に再転化し、こうしてその転回をすませたことになる。この再生産期間が始まるまでは、機械の価値は、だんだんに、さしあたりは準備金の形で(減価償却基金――引用者)、蓄積されていくのである」(164)と。

●「可変ー流動資本」としての「労働力」と「不変ー流動資本」としての固定資本を形成しない原料など成分的「生産手段」

 このような生産資本の様態を前提として、生産資本の中での、可変資本と不変資本の要素の分節がのべられる。

「生産資本のうちの他の要素は、一部分は、補助材料や原料の形で存在する不変資本要素から成っており、一部分は、労働力に投ぜられた可変資本から成っている」(164)。

剰余価値の実際の生産過程での創造の場面があきらかとなる。 

「労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物に加える。言い換えれば、自分の価値を現実に再生産する。……生産資本のうち労働力に投ぜられる可変的な成分について言えば、労働力は一定の時間を限って買われる。資本家が労働力を買って生産過程に合体させてしまえば、それは彼の資本の一成分をなしており、しかもその可変的な成分をなしている。それは毎日ある時間働いて、そのあいだにただその日価値の全部を生産物につけ加えるだけでなく、さらにそれを越える剰余価値をもつけ加える」(165)。

 「生産資本のうち労働力に前貸しされた部分は、その全体が生産物に移り(ここでは引き続き剰余価値は無視する)、流通部面に属する2つの変態を生産物といっしょに通り、そして不断の更新によって常に生産過程にがったいされている。…すなわち価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本成分との間にどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力とこの不変資本部分とに共通なものである」(165)。

 ここで流通資本ではない「流動資本」の概念が導き出される。 

「生産資本のこれらの部分――生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と――は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本にたいして流動資本として相対するのである」(165)。

 そしてマルクスは、「資本の回転」においては「形態」が重要であること、たとえば、資本家が買うものは、「労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのもの」だということを、以下のように、強調する。この労働力の労働生産過程での、「資本の労働に対する処分権」として、剰余価値の増殖がおこなわれる。そして生産の短縮・縮小は、資本家が剰余価値の創造を保守しながら、労働者の賃金を抑止し、労働者を解雇するなどの失業の多発化ウィ生み出してゆく過程をつくる。そのような労働者に対する抑圧を、資本家が容易にできる仕組みが「非正規雇用」という形態だ。

 資本家が労働者に支払う貨幣は「実際にはただ労働者の必要生活手段の一般的な等価形態でしかない。そのかぎりでは、可変資本は素材的には生活手段からなっている。しかし、ここでは、回転の考察では、問題は形態である。資本家が買うものは、労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのものである。…流動資本――労働力及び生産手段の形での――の価値が前貸しされているのは、ただ、固定資本の大きさによって与えられている生産の規模に応じて、生産物が完成される期間だけのことである」(166)。

●「固定資本」の諸成分・補填・修理・蓄積の問題

 マルクスは、流動資本の解説ののち、他方での「固定資本」の中でのいろいろな要素について論じていく。

 「同じ資本投下でも、固定資本の個々の諸要素は、それぞれ違った寿命をもっており、したがってまた違った回転期間をもっている。たとえば鉄道の場合には、軌条、枕木、駅の建物、橋、トンネル、機関車、車両は、それぞれ違った機能期間と再生産期間をもっており、したがって、それらのために前貸しされた資本もそれぞれ違った回転期間をもっている。建物、プラットホーム、貯水槽、陸橋、トンネル、切り通し、築堤など、簡単に言えばイギリスの鉄道でworks  of  art (工作物)と呼ばれるものは、すべて長い年月にわたって更新を必要としない。消耗品のもっとも主要なものは鉄道と車両(rolling  stock)である」(169)。

固定資本の「手入れ」の問題は、固定資本の維持のため、特に注意を要するものだ。

「固定資本はその手入れのために積極的な労働投下をも必要とする。機械はときどき掃除しなければならない。ここにいうのは、それなしでは機械が使用不能になるような追加労働であり、生活家庭と不可分な有害な自然的影響の単なる防止であり、つまり、最も文字通りの意味で作業可能状態に維持することである。固定資本の平均寿命は、言うまでもなく、その固定資本がその期間中正常に機能しうるための諸条件が満たされるものとして計算されるのであって、ちょうど、人間が平均して30年生きるという場合には、人間が入浴することも想定されているようなものである。また、ここに言うのは、機械に含まれている労働の補填でもなく、機械の使用のために必要になる追加労働である。それは、機械が行う労働ではなく、機械に加えられる労働であって、この労働では機械は生産能因ではなく原料である。この労働に投ぜられる資本は、生産物の源泉になる本来の労働過程にはいるのではないが、流動資本に属する。この労働は生産が行われるあいだ絶えず支出されなければならず、したがってその価値も絶えず生産物の価値によって補填されなければならない」(174)。

この固定資本の維持のための労働と財源だが。

「この労働に投ぜられる資本は、流動資本のうちの、一般的な雑費の支弁にあてられて年間の平均計算によって価値生産物に割り当てられるべき部分に、属する」(174)。

「本来の工業ではこの掃除労働は労働者たちによって休息時間中に無償でおこなわれるのであって、それだからこそまたしばしば生産過程そのもので行われ、そこではこの労働がたいていの災害の根源になるのである。この労働は生産物の価格では計算に入らない。そのかぎりでは、消費者はこの労働を無償で受け取るのである。他方、資本家はこうして自分の機械の維持費をただですますことになる。労働者が自分自身で支払うのであって、このことは資本の自己維持の神秘の一つをなしているのであるが、このような自己維持の神秘は、事実からすれば、機械に対する労働者の法律的要求権を形成して労働者をブルジョア的な法的見地からさえも機械の共同所有者にするのである。とはいえ、たとえば機関車の場合のように、機械を掃除するためにはそれを生産過程から引き離すことが必要であり、したがって掃除が知らぬまにすんでしまうことができないようないろいろな生産部門では、この維持労働は経営費のなかに数えられ、したがって流動資本の要素として数えられる。機関車は、せいぜい三日も仕事をすれば、車庫に入れられて掃除されなければならない」(174)。

それは現在器具の「補填」と「生産規模の拡大」との兼ね合いの問題でもある。 

「実際には補填のために必要な資本のごくわずかな部分が準備金になっているだけである。最も重要な部分は生産規模そのものの拡大にあるのであって、この拡大は、一部は現実の拡張であり、一部は固定資本生産部門の正常な範囲に属するものである。たとえば、機械製造工場は、その顧客の工場が年々拡張されるということ、またいつでもそれらの工場の一部分が全体的かまたは部分的な再生産を必要とすることに備えているのである」。

同じ生産器具でも、消耗した部分を修理するかどうかは、あるいは、どのように修理するかは、資本家・生産管理者の判断によって違う。 

「消耗が、また修理費が、社会的平均によって規定されるとすれば、そこには必然的に非常な不均等が生ずるのであって、同じ生産部門の中で同じ大きさをもちその他の点でも同じ事情のもとにある諸投資のあいだでさえもそうなるのである。実際には、機械などは、ある資本家にとっては返金寿命以上に長もちするが、他の資本家のもとではそれほど長くはもたない。一方の修理費は平均よりも高く、他方のそれは平均よりも低い、等々」(178)。

マルクスは、つぎのように、これらの問題を整理している。 

「われわれが見たように、固定資本の消耗補填分として還流するかなり大きな部分が、毎年、またはもっと短い期間にさえ、固定資本の現物形態に再転化させられるのであるが、それでもなお各個の資本家にとっては、固定資本のうち数年後にはじめて一度にその再生産期に達してそときすっかり取り替えられなければならない部分のために、償却基金が必要である。固定資本のかなり大きな構成部分は、その性質上、一部分ずつの再生産を排除する。そのほかにも、減価した現品に新品が比較的短い間隔でつけ加えられるという仕方で再生産がい部分ずつ行われる場合には、このような補填が行われうる前に、生産部門の独自な性質に応じてあらかじめ大なり小なりの規模の貨幣蓄積が必要である。そのためにはどんな任意の貨幣額でも足りるのではなく、ある一定の大きさの貨幣額が必要なのである」(181~182)。

ここに「蓄蔵貨幣」と「信用制度」の課題があらわれる。 

「この償却基金によって、流通貨幣の一部は、前に固定資本を購入したときに自分の蓄蔵貨幣を流通手段の転化させて手放したその同じ資本家の手のなかで、再び――長短の期間――蓄蔵貨幣を形成する。それは、社会に存在する蓄蔵貨幣の絶えず変動する部分であって、この蓄蔵貨幣は交互に流通手段として機能してはまた再び蓄蔵貨幣として流通貨幣量から分離されるのである。大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行する信用制度の発展につれて、この貨幣は蓄蔵貨幣としてではなく資本として機能するのであるが、しかしその所有者の手のなかでではなく、その利用をまかされた別の資本家たちの手のなかで機能するのである」(182)。

●前貸資本の総回転――「恐慌はいつでも大きな投資の出発点をなしている」

ここで、恐慌の問題がでてくる。それは、「恐慌→革命」という物語ではなく、宇野弘蔵が『経済学方法論』などで論じたように、<新たな資本蓄積の形を創造する>という話だ。

「資本主義的生産様式の発展につれて充用される固定資本の価値量と寿命とが増大するのと同じ度合いで、産業の生命も各個の投資における産業資本の生命も、多年にわたるものに、たとえば平均して一〇年というようなものに、なるのである。一方で固定資本の発達がこの生命を延長するとすれば、他方では、同様に資本主義的生産様式の発展につれて絶えず進展する生産手段の不断の変革によって、この生命が短縮されるのである。したがってまた、資本主義的生産様式の発展につれて、生産手段の変化も、それが肉体的に生命を終わるよりもずっと前から無形の消耗のために絶えず補填される必要も、増大する。大工業の最も決定的な諸部門については、その生命環境は今日では平均して一〇年の周期を持つものと推定してよい。とはいえ、ここでは特定の年数が問題なのではない。ただ次のことだけは明らかである。このようないくもの転回を含んでいて多年にわたる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、このような循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的基礎が生ずるのであって、この循環のなかで事業は不振、中位の状況、過度の繁忙、恐慌という継起する諸時期を通るのである。……とはいえ、恐慌はいつでも大きな投資の出発点をなしている。したがってまた――社会全体としてみれば――多かれ少なかれ次の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をなすのである」(185~186)。

 「コロナ恐慌」が、新たなビジネス・モデルを作り出すといわれているのも、こういう事情に拠っていることだろう。

 たとえば、都内の大手ホテルでは、格安の長期滞在型のホテル生活プランが、人気を呼んでいる。これまでコロナ禍で「キャンセル」続出だった、高価で短期な一泊何万円もするような部屋を、たとえば料金を半額にして設定し、一か月やそれ以上の長期宿泊ができるプランへと変更した。その結果、予約がでてきたというものだ。オンライン・テレワーク生活の定着ができている人々のオフィス生活。混雑な密集空間を避ける。家庭内感染をふせぐため家族と離れて生活する、それは例えば、子供が受験のため、子供に感染させないように、会社勤めの親御さんがホテル住まいをする等々である。また、クルーズ船生活代わりのホテル生活として、数か月部屋を借りるなどだ。お金がまわっていく。

 また、売り上げが伸び、単価はこれまでよりも、低額なものの、確実に売り上げがみこまれてきたことから、従業員の給与も安定して支払うことができるというのが経営者の声としてあるという。

 もちろん、こうしたことはお金がある人たちにしかできないことだが。それが資本主義の現実であり、コロナが格差社会をあぶりだしているといわれる一端だろう。

●「労働期間」の問題――恐慌など生産過程の攪乱による中断など

 マルクスは、労働時間を定義するとともに、生産の中断、一連の生産行為の中断などでの、労働期間の問題を言っている。

「われわれが労働日というときには、労働者が自分の労働力を毎日支出しなければならない労働時間……を意味する。これに対して労働期間と言う場合には、一定の事業部門で一つの完成生産物を供給するために必要な相関連する労働日の数を意味する。……それゆえ、社会的生産過程の中断や攪乱、たとえば恐慌によるそれが分離性の労働生産物に与える影響と、その生産にかなり長い関連した一期間を必要とする労働生産物に与える影響とは、非常に違うのである。一方の場合には、一定量の糸や石炭などの毎日の生産に、明日は糸や石炭などの新しい生産が続かなくなる。ところが、船や建物や鉄道などではそうではない。労働が中断されるだけではなく、一つの関連した生産行為が中断されるのである。仕事が続行されなければ、すでにその生産に消費された生産手段や労働はむだに支出されたことになる。仕事は再開されるとしても、中断期間中は絶えず質の悪化が進行しているのである」(233)。

●地域開発を想定した資本主義時代の「開発」の様相

 さらに以下のような資本主義時代と、その前の時代での、労働時間の回転の相違をとりあげている。

 「資本主義的生産の未発達な段階では、長い労働期間を必要とするためにかなり長期間にわたって大きな資本投下を必要とする諸企業は、ことにそれが大規模にしか実行できない場合には、決して資本主義的には経営されない。たとえば共同体や国家の費用による……道路や運河などの場合である。あるいはまた、その生産に比較的長い労働期間の必要な生産物は、ごくわずかな部分だけが資本家自身の資力によってつくられる。たとえば、家屋の建築の場合には、家屋を建てさせる個人は建築業者に前貸金一部ずつ支払って行く。だから、この人は実際には家屋の生産過程が進行するにつれて少しづつ家屋の代金を支払って行くわけである。ところが、発展した資本主義時代には、一方では大量の資本が個々人の手のなかに集積されており、他方では個別資本家と並んで結合資本家(株式会社)が現れていて同時に信用制度も発達しているのであるが、このような時代には、資本家的建築業者は個々の私人の注文でもはや例外的にしか建築をしない。彼は立ち並ぶ家屋や市区を市場めあてに建設することを商売にする。それは、ちょうど個々の資本家が請負業者として鉄道を建設することを商売にするようなものである」(236)。

●協業・機械などでの「労働期間」の短縮

 マルクスは協業や分業や機械の質が資本の回転を短縮してゆく。これは固定資本の増大と結びついてるし、このことが個々の資本家企業での資本の集積の規模を決定づけると展開する。

「協業や分業や機械の充用は、同時にまた、関連した生産行為の労働期間を短縮する。たとえば機械は家や橋などの建設期間を短縮する。造船の改良は、速度を増すことによって、海運に投下された資本の回転期間を短縮する。……労働期間を短縮し、したがってまた流動資本が前貸しされていなければならない期間を短縮する諸改良は、たいていは固定資本の投下の増大と結びついている……それゆえ、たいていは、この短縮された期間に前貸しされる資本の増大と結びつけられており、したがって、前貸期間が短くなるにつれて資本の前貸しされるされる量がおおきくなるのであるが、――しうだとすれば、ここでは次のことに注意しておかなければならない。すなわち、社会的資本の現在量を別とすれば、問題は、生産手段や生活手段はそれらにたいする処分力がどの程度に分散しているか、または個々の資本家の手のなかにまとめらているか、つまり資本の集積がすでにどれほどの規模に達しているか、に帰着するということである。信用が一人の手のなかでの資本の集積を媒介し、促進し、増進するかぎり、それは労働時間に短縮を助け、したがってまた回転期間の短縮を助けるのである」(238)。

だが「特定の自然条件によって定められている生産部門では、前述のような手段による短縮が行われることはできない」(238)。

 ここで、資本の回転(量)に対する、固定資本と流動資本との機能の違いが指摘されている。 

「機械は、その損耗の補填分貨幣形態で還流するのが遅かろうと速かろうと、引き続き生産過程で働いている。流動資本はそうではない。労働期間の長さに比例して資本が資本がより長い期間固定されていなければならないだけではなく、また、絶えず新たな資本が労賃や原料や補助材料として前貸しされなければならない。それゆえ、還流がおそくなることは固定資本と流動資本とに別々の作用をするのである。還流がおそかろうと速かろうと、固定資本は働き続ける。これに反して、流動資本は、まだ売れていない生産物または未完成でまだ売ることができない生産物の形態に固着しているならば、そしてそれを現物で更新するための追加資本もないならば、還流の遅延によって機能できなくなるのである」(239)。

●「生産期間」の問題――とりわけ長い生産期間について

 マルクスは「ぶどう液」を例にとり、ある生産物の生産における個々の自然過程での時間が必要な「労働過程」の停止と「生産期間」の継続との間の関係を解き明かしている。

「資本が生産過程にあるすべての期間が必ず労働期間であるとはかぎらない。ここで問題にするのは、労働力そのものの自然的制限によってひき起こされる労働過程の中断ではない。……労働過程の長さにかかわりのない、生産物とその生産との性質そのものによってひき起こされる中断であって、その間労働対象は長短の期間にわたる自然過程のもとに置かれていて、物理的、化学的、生理的諸変化を経なければならないのであり、そのあいだ労働過程はその全体または一部分が停止されているのである」(241)。

「たとえば、絞られたぶどう液は、一定の完成度に達するためには、まずしばらく醗酵状態を経てからまたしばらく放置されなければならない。製陶業のように生産物が乾燥の過程を経なければならない産業部門や、漂白業のように生産物がその化学的性状を変えるためにある種の状態にさらしておかなければならない産業部門も多い」(241)。

 労働期間をこえる生産期間という問題が、どのような労働者の状態を結果しているか、マルクスは次のように言う。 

「労働期間を越える生産期間が、穀物の成熟やオークの成長などのように永久的に与えられている自然法則によって規定されているのでないかぎり、回転期間が生産期間の人為的短縮によって多かれ少なかれ短縮されうることも多い。たとえば、屋外漂白に代わる化学的漂白の採用によって、あるいは感想過程でのいっそう有効な乾燥装置によって」(242)。

 「ここでわかるのは、生産期間とそおの一部分でしかない労働期間との不一致が農業と農村の副業との結合の自然的基礎をなしているということ、他方、この副業がまた、最初はまず商人としてはいりこんでくる資本家にとっての手がかりになるということである。その後、資本主義的生産が工業と農業の分離を完成するようになると、ますます農業労働者はただ偶然的でしかない副業にたよることとなり、こうして農業労働者の状態はますます悪くなってくる」(244)。

長い生産期間(また、回転期間)は、その生産分野を、「不利な生産部門」にする。 

「長い生産期間(それは相対的に小さな範囲の労働期間しか含んでいない)、したがって長い回転期間は、造林を不利な私経営部門にし、したがってまた不利な資本主義的経営部門にする。……これに比べれば、耕作や産業が逆に森林の維持や生産のためにやってきたいっさいのことは、全く消えてなくなるような大きさのものである。……つまり、一〇年から四〇年以上に一回の回転なのである」(247)。

●「生産期間」と「労働期間」の差

 マルクスは、いろいろな生産期間のあり様を次のようにまとめている。

「生産期間と労働期間との差は、われわれが見てきたように、非常にさまざまでありうる。流動資本は、本来の労働過程にはいる前に、生産期間にはいっていることがありうる(靴型製造)。または、本来の労働過程をすませてからも生産期間にあることがある(ぶどう酒、穀物の種子)。または、生産期間のところどころに労働期間がはさまることがある(耕作、造林)。流通可能な生産物の大きな一部分は現実の生産過程に合体されたままになっていて、それよりもずっと小さい部分が年々の流通にはいっていく場合もある(造林、畜産)。流動資本が潜勢的な生産資本の形態で投下されなければならない期間の長短、したがってまたこの資本が一度に投下されなければならない量の大小は、生産過程の種類から生ずることもあり(農業)、市場の遠近など、要するに流通部面に属する諸事情にかかっていることもある」(249)。

 「以前に考察した回転期間は、生産過程に前貸しされた固定資本の維持によって与えられている。この回転期間は多かれ少なかれ何年かにわたるものだから、それはまた固定資本の年々の回転のいくつかを、または一年のうちに繰り返される回転のいくつかを含んでいるのである」(249)。

●「流通期間――販売期間」

 資本の回転期間は資本の生産期間と流通期間の合計に等しい。ここに流通期間の合理化、技術的刷新という問題が現れる。 

「資本の回転期間は資本の生産期間と流通期間との合計に等しい。それゆえ流通期間の長さの相違は回転期間を相違させ、したがってまた回転周期の長さを相違させるということは自明である。……流通期間の一部分――そしてそして相対的に最も決定的な一部分――は、販売期間、すなわち資本が商品資本の状態にある期間から成っている。この期間の相対的なな長さにしたがって、流通期間が、したがってまた回転期間一般が、長くなったり短くなったりする。保管費などのために資本の追加投下が必要になることもある。はじめからあきらかなことであるが、できあがった商品を売るために必要な時間は、同じ事業部門のなかでも個々の資本家にとっては非常に違っていることもありうる」(251)。

ことに市場と生産地の移動期間の問題がある。

 「販売期間を相違させ、したがってまた回転期間一般を相違させることにつねに作用する一原因は、商品が売られる市場がその商品の生産地から遠く離れているということである。……運輸交通機関の改良は、商品の移動期間を絶対的には短縮するが、この移動から生ずるところの、いろいろな商品資本の、または同じ商品資本のなかでも別々の市場に行くいろいろな部分の、流通期間の相対的な差を解消しはしない」(252)。

●「生産地と販売地」の変動

生産地と販売地の集積やその変化は、地方の在り方を変える。

「一方では、ある生産地がより多く生産するようになり、より大きな生産中心地となるにつれて、まず第一に運輸機関の機能する頻度、たとえば鉄道の列車数が増加して、その増加は既存の販売市場への方向に、つまり大きな生産中心地や人口集中地や輸出港などに向かって行われる。しかし、他方では、これとは反対に、このように交通が特別に容易であることや、それによって資本の回転が(流通期間によって制約される限り)進められることは、一面では生産中心地の集積を促進し、他面ではその市場地の集積を促進する。このように与えられた地点での人口と資本量との集積が促進されるにつれて、少数の手のなかでのこの資本量の集積が進行する。同時に、交通機関の変化につれて生産地や市場地の相対的な位置が変化することによって、再び変転や移動が生ずる。かつてはその位置が国道や運河に沿っていることによって特別に有 利な位置を占めていた生産地が、今では、相対的に大きな間隔をおいて運転されるだけのただ一本の支線に沿っているのに、他方、主要交通路からまったく離れておた別の地点が今では何本もの鉄道の交差点にあたっている。あとのほうの地方は盛んになり、前の方の地方は衰える」(253)。

運輸交通機関の発達は、世界市場のための前提だ。 

「一方では、資本主義的生産の進歩につれて運輸交通機関の発達が与えられた量の商品の流通期間を短縮するとすれば、この同じ進歩と、運輸交通機関の発達とともに与えられた可能性とは、――逆に、ますます遠い市場のために、一言で言えば、世界市場のために、仕事をする必要をひき起こすのである。……それと同時に、社会的富のうちの、直接的生産手段として役立つのではなく運輸交通機関に投ぜられる部分、また運輸交通機関の経営に必要な固定資本と流動資本との投ぜられる部分も、増大する」(254)。

「生産地から販売地への商品の旅行の相対的な長さだけでも、流通期間の第一の部分である販売期間の相違をひき起こすだけではなく、第二の部分、すなわち貨幣が生産資本の諸要素に再転化する購買期間の相違をもひき起こす」(254)。

●購買期間

購買期間とは、貨幣が再び生産資本の諸要素に転化する期間である。一言で言うと仕入れの期間だ。ここで資本の回転は、生産資本の循環の初めに戻る。

「流通期間の第二の時期である。それは購買期間、すなわち資本が貨幣形態から生産資本の諸要素に再転化する期間である。この期間には資本は長短の時間貨幣資本の状態にとどまっていなければならない。……商品の買い入れに関しては、購買期間があるために、また原料の主要仕入地から多少とも遠く離れているために、かなり長い期間のための原料を買い入れて生産用在庫すなわち潜在的または潜勢的な生産資本の形態で準備しておくことが必要になる。……比較的大量の原料が市場に放出される周期――長短の――も、いろいろな事業部門で同様に作用する。たとえば、ロンドンでは三か月ごとに羊毛の大競売が行なわれて、それが羊毛市場を支配する。他方、綿花市場の方は、収穫期から収穫期までだいたい連続的に、といっても必ずしも一様にではないが、更新される。このような周期は、これらの原料の主要な買い入れ時期を決定し、ことにまた、これらの生産要素のための長短の前貸を伴う思惑的な買い入れにも影響する」(257)。

コロナ・パンデミックに例をとるならば、こうした、購買期間においても、コロナ禍における、従業員・技術者などでのクラスターなどでの生産の停滞など、世界的な経済・物流の混乱が起きている。それは、海外での中間財の本国への物流の遅延など、さまざまな分野が影響し合い、まさに「コロナ恐慌」と呼ばれる現実を作り出しているのだ。

【第四節】資本の再生産の機制――資本論第二巻第三篇「社会的総資本の再生産と流通」

●「社会的総資本の再生産」についての考え方と再生産表式の位置づけ

ここで、資本主義的再生産の問題に入ろう。ここでは、資本の諸変態の分析と剰余価値の産出の機制とセットで、「資本主義的再生産」の仕組みを確認することが必要だ。「第18章緒論 第一節 研究の対象」というところで、マルクスは次のようにのべている。

そこではこの研究の位置づけが問題となっている。

「社会的資本の運動は、それの独立化された諸断片の諸運動の総体すなわち個別的諸資本の諸回転の総体からなっている。個々の商品の変態が商品世界の諸変態の列――商品流通――の一環であるように、個別資本の変態、その回転は、社会的資本の循環のなかの一環なのである。この総過程は、生産的消費(直接的生産過程)とそれを媒介する形態変化(素材的に見れば交換)とを含むとともに、個人的消費とそれを媒介する形態変化又は交換とを含んでいる」(352)。

どういうことか。

「それは、一方では、労働力への可変資本の転換を、したがって資本主義的生産過程への労働力の合体を含んでいる。ここでは、労働者は自分の商品である労働力の売り手として現われ、資本家はその買い手として現われる。しかし、他方、商品の販売のうちには労働者階級による商品の購買、つまりこの階級の個人的消費が含まれている。ここでは、労働者階級は買い手として現われ、資本家は労働者への商品の売り手として現われる。商品資本の流通は剰余価値の流通を含んでおり、したがってまた、資本家が自分の個人的消費すなわち剰余価値の消費を媒介するところの売買をも含んでいる」(352)。

かかる「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで社会的総資本の運動を形成するのである。……社会的総資本の循環は、個別資本の循環にははいらない商品流通、すなわち資本を形成しない商品の流通をも含んでいるのである。そこで、……社会的総資本の構成部分としての個別的諸資本の流通過程(その総体において再生産過程の形成をなすもの)が、したがってこの社会的総資本の流通過程が、考察されなければならないのである」(353~354)。

●社会的生産の組織的構成――「第二一〇章 単純再生産 第二節 社会的生産の二つの部門

「社会的総生産物は、したがってまた総生産も、次のような二つの大きな部門に分かれる。

Ⅰ生産手段。生産的消費にはいるよりほかはないかまたは少なくともはいることのできる形態をもっている諸商品。

Ⅱ 消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費にはいる形態をもっている諸商品。

これらの部門のそれぞれのなかで、それに属するいろいろな生産部門の全体が単一の大きな生産部門をなしている。すなわち、一方は生産手段の生産部門を、他方は消費手段の生産部門をなしている。この両生産部門のそれぞれで充用される総資本は、社会的資本の一つの特殊な大部門をなしている。

それぞれの部門で資本は次の成分に分かれる。

(1)可変資本。これは、価値から見れば、この生産部門で充用される社会的労働力の価値に等しく、したがってそれに支払われる労賃の総額に等しい。素材から見れば、それは、活動している労働力そのものから成っている。すなわち、この資本価値によって動かされる生きている労働から成っている。

(2)不変資本。すなわち、この部門での生産に充用される一切の生産手段の価値。この生産手段は、さらにまた、固定資本、うあなわち機械や工具や建物や役畜などと、流動不変資本、すなわち原料や補助材料や半製品などのような生産材料とに分かれる。

 この資本の助けによって両部門のそれぞれで生産される年間総生産物の価値は、生産中に消費され価値から見ればただ生産物に移されただけの不変資本Cを表わす価値部分と、年間総労働によってつけ加えられた価値部分とに分かれる。この後の方の価値部分はさらにまた前貸可変資本Vの補填分と、それを越えて剰余価値mを形成する超過分とに分かれる。つまり、各個の商品の価値と同じに、各部門の年間総生産物の価値もc+v+mに分かれるのである」(394~395)。

ここまでが、社会的総生産の概念的前提になることだ。ここから、単純再生産(の時の表式)、拡大再生産(の時の表式)という話になって行くのである。

●「二部門」の意味内容

 この「生産手段生産部門」と「消費手段生産部門」の二部門ということの、意味だが。「このばあい個々の具体的な産業部門が必ずどちらかに属すると考えてはならない」。たとえば「紡績業についてはそうはいえない。生産物である綿糸は織布業の原料として生産手段であるとともに、直接に生活資料となりうる。……また例えば製粉製パン過程が農業から独立の資本のもとにおかれているとすれば、原料となる小麦の多くは生産手段である」(日高晋『経済原論』、一九八三年、有斐閣選書、一二八~一二九頁)ということは、踏まえなければならない。

●単純再生産の機制

 その社会的総資本の運動の構造だが、まずは「単純再生産」の構図から見ていこう。これにつづくのは「拡大再生産」だが、基本は、単純再生産の拡張だ。

単純再生産は「Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc」という表紙がポイントだ。生産手段生産部門の労働者階級と資本家階級は、第二部門に生産手段を売り、そのことによって、第二部門でつくられた生活資料を購入するということだ。

 ここでは、前掲・日高晋『経済原論』を援用することにする。この表式の解法では、宇野経済学のテキストのなかで、本書は出色にわかりやすいというのが、本論著者・渋谷の個人的な認識だからだ。

「総商品をその用いられる方から第一部門生産物と第二部門生産物にわけるなら、そのおののは価値のうえからそのその部門のcとvとmとをそれぞれあらわしている部分から成り立つ。

こうして総商品W´は、次のような内容を持つ。

Ⅰ=Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm

Ⅱ=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm

このうち1cは生産手段であり、生産手段で補填される部分だから、第一部門の資本家同士の交換をとおして処理できる。またⅡvとⅡmはものは生活資料であって生活資料として用いられるはずのものだから、Ⅱの労働者と資本家および資本家同士の交換をとおして処理される。つまりⅠcとⅡv、Ⅱmは、その部門内で処理することができるのである。

 ところが、ⅠvとⅠmとは、ものは生産手段でありながら、生活手段で補填されなくてはならず、またⅡcは、ものは生活資料でありながら生産手段で補填されなくてはならない。そこでこの両者の価値が等しくⅠvとⅠmがⅡcにたいして交換されるとしたら、単純再生産がおこなわれるだろう。そのためには、次の等式の成立が必要だ。

Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc

この等式の両辺にⅠcを加えるなら

Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm=Ⅰc+Ⅱc

となり、第一部門の生産物である総生産手段は両部門の生産手段を補填することが示される。また先の式(Ⅰv+Ⅰm=Ⅱcの式――引用者・渋谷)の両辺にⅡvとⅡmとを加えるなら

Ⅰv+Ⅰm+Ⅱv+Ⅱm=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm

となり、両部門の資本家階級と労働者階級の生活を支える生活資料は、第二部門で補填されることが示される」(129~130頁)。

●単純再生産の例解

日高前掲で、論述されている例解もやることにしよう。

「かりに9,000億円のうち第一部門の生産物を6000億円、第二部門のそれを3000億円とする。そして両部門の資本をそれぞれ5000億円と2500億円、不変資本と可変資本の割合である資本の構成を両部門とも4対1、剰余価値率を100%とすると、

Ⅰ 6000=4000c+1000v+1000m

Ⅱ 3000=2000c+500v+500m

となる。この生産物で本年も前年と同じ規模の生産をするとすれば、第一部門の資本家は必要とする4000億円の生産手段を部門内の相互の交換で得ることができる。また第二部門の資本家は労働者のための生活資料と自分たちの使う生活資料とを、部門内の資本家相互か労働者をも交えた相互の交換で得ることができる。そこで第一部門の資本家がもつ1000v+1000mに当たる2000億円の生産手段と第二部門の資本家がもつ2000cに当たる生活資料とが交換されるとしよう、すると第一部門の資本家はその労働者の賃金の内容をなす生活資料と自分たちの生活に必要な生活資料を得ることができると同時に、第二部門の資本家は次の生産に必要な生産手段を得ることができる」。

 この場合のポイントは、第一部門の資本家は、第二部門の資本家と、資本を「交換」すると言う意味だ。それは、第一部門の資本家は、第二部門の資本家に生産手段を売った貨幣で第二部門から生活資料を得る=第一部門の資本家と労働者が第二部門から生活資料を購入する、第二部門はその売り上げで、第一部門から生産手段を購入するということだ。同時・等価の交換が成立している。

●拡大・拡張再生産の機制

次は拡大・拡張再生産の機制を見ていこう。

「拡張(拡大)再生産」のポイントは、「Ⅰv+Ⅰm>Ⅱc」である。だが、日高『原論』では、もう一つ、この『原論』にしか見られない――浅学な私の思い込みかもしれないが――表式が書かれている。「Ⅰv+Ⅰm(k)+1m(v)=Ⅱc+Ⅱm(c)」である。

この「Ⅱm(c)」というのがポイントだ。

 このことが、拡大再生産の理解を、きわめて容易なものにしていると、本論論者・渋谷は考えている。

 ここでは、考え方としては、第一部門の生産によってつくられた資本家の剰余価値を全部私的な消費にまわすのではなく、その部分を蓄積し、新たな生産に投入していくことを条件にする。それを根拠として生産手段の生産の増加を根拠とし、第二部門の資本家も生産手段をより多く第一部門より購入すべく、第二部門の資本家の剰余価値を新たな設備投資へと転換する。それにより新たな生産の規模が拡大する、ということだ。

「拡張再生産を拡張再生産たらしめるものは、剰余価値が再びしほんとして投下されることだ。……mは資本家の生活に費やされる部分と追加投資される部分とに分かれる。そして追加投資される部分は、追加的な生産手段を買う部分と追加的な労働力を買う部分とに分かれる。そして買うことができるためには、追加的な生産手段と賃金の内容となる生活資料の追加分が生産されていることが必要だ。こうして拡張再生産表式の第一歩であるW´は次のようになる。

Ⅰ=Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm(k)+Ⅰm(c)+Ⅰm(v)

Ⅱ=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm(k)+Ⅱm(c)+Ⅱm(v)

両部門ともその生産物のうち剰余価値をあらわす部分は三つに分かれる。第一は資本家の生活を可能にする価値部分m(k)であり、のこりは投資されるべき価値部分なのだが、それが追加的生産手段の購入にあてられる部分m(c)と追加的労働力の購入にあてられる部分m(v)とから成り立つ。このようにmがm(k)+m(c)+m(v)とに分けられるところから、Wの運動がはじまるのである」(133~134)。

「第一部門の生産物のうちcとm(c)とは、素材は生産手段であって、しかも生産手段として用いられるべき部分なのだから、第一部門の資本家同士の交換によって処理される。同様に第二部門の生産物のうちvとm(k)とm(v)とは素材も生産資料であり、しかも生活資料に用いられる部分だから、第二部門の資本家同士さらには資本家と労働者との交換によって処理される。だから残るところは、第一部門のvとm(k)とm(v)、および第二部門のcとm(c)である。前者は素材は生産手段でありながら生活資料に換えなくてはならないし、後者は素材は生活資料でありながら生産手段に換えられなくてはならない。そこで両者がもし等価値で交換されるなら、拡張再生産が可能となるのである。すると拡張再生産の条件は、

Ⅰv+Ⅰm(k)+Ⅰm(v)=Ⅱc+Ⅱm(c)

となる。このことは、

Ⅰv+Ⅰm>Ⅱc

であることを示す。単純再生産とくらべて拡張再生産では、第一部門が相対的に大きいことが必要なのだ。こうして新しい生産は両部門ともそれぞれ、cにm(c)を加えたものが新しいcとなり、vにm(v)をくわえたものが新しいvとなって出発する」(134~135)ということだ。

―――――

●【本論全体の結語として】「再生産」とパンデミック――文明史的意味が問われている

 こうした「資本主義的再生産」の構造(秩序)といったものが、恐慌やパンデミックなどでは破壊する。だが、それは、「資本主義の資本蓄積運動」そのものが生み出している、まさに、自殺的現象なのである。

 現代の「生産力主義」の問題を踏まえて言うならば、こうした、生産手段生産部門の構造的拡大が、温暖化を生むと同時に、生活資料生産部門の拡張を生み、生活資料の大量生産・大量消費社会を結果している。まさに成長のための蓄積が価値とされ、その悪無限的増加が、社会の原則とされ、生産力の発展を第一とする考え・価値観が社会的なヘゲモニーを展開することになっている。こうした資本主義の生産力主義がグローバル化し、環境破壊を進行させ、それによって、森林伐採をはじめとする多くの自然破壊を展開するなか、ウイルスが生きていくうえで必要な宿主が生息する自然が失われると同時に、その開発された場所に人間が入り介入する、接近することによって、ウイルスが人間にとりつくことが、これまで、典型的には例えば「エボラ出血熱」などによっておこってきた。まさに資本主義自体を、どうにかする必要があるのは、この資本蓄積・生産力主義を本来的に構造化させているあり方からも、わかるだろう。コロナ・パンデミックは、まさに、かかる資本主義の生み出したものなのだ。その結果、以上のような「資本の回転」が、破壊されてしまっている。「自殺する世界資本主義」といっていいものなのである。もちろん、それによってもっとも打撃を受けているのは、本論冒頭でも指摘したように非正規雇用労働者をはじめとする労働者階級である。

 この感染症は世界資本主義という舞台のうえでその世界資本主義の人流回路とフレンドに発生し、拡大しているというのが、本論論者の認識である。

 岡田晴恵氏の『知っておきたい感染症【新版】――新型コロナと21世紀パンデミック』(ちくま新書、二〇二〇年)には、次のように書かれている。

「21世紀は、医療体制が充実し、衛生環境が行き届いている先進諸国であっても、ウイルスの危険と無縁ではいられない。むしろ、人口の過密化、高速大量輸送を背景とし、不特定多数の人々が集まっては霧散する都市の特徴が、感染症に対するリスクを飛躍的に高めている。さらに、その感染の原因の病原体は、思いも寄らない遠隔地から航空機で運ばれ、または高速道路でやってきた、新たな感染症である可能性が高い。地球の一地点で発生した感染症は、密集した人々の中で感染伝播を繰り返し変異して、さらに広域に拡散、同時多発的な大流行を引き起こす可能性がある。これが、21世紀パンデミックである」(三〇一頁)。

まさに、ドンピシャの分析だ。岡田氏が、書いたことと、まったく同じことが、現実にこの地球でまるごと、起こっている・展開している。そして、資本主義批判の主体的問題としては、こうした「資本の回転」の内容を、変革してゆく必要があるということになるだろう。◆