2019年4月21日日曜日

「階級解体」と全体主義——ハンナ・アーレント『全体主義の起原』を読む    渋谷要




階級解体」と全体主義――ハンナ・アーレント『全体主義の起原』を読む

                          渋谷要

                        



(リード)今日の日本の政治状況の大枠、大きな流れを、本論論者(渋谷)は、新自由主義による労働者階級の「政治的」階級としての「階級解体」→労働者階級のアトム化→個人主義の混沌→国民動員体制の形成・強化/右翼改憲→全体主義化という流れに、少なくともなってゆくような可能性があると考えている。もちろんそれは、阻止しなくてはならないのだが。その全体主義化のポイントは、労働者階級の政治的な「階級解体」であり、それは、これから述べるように、「国民国家―市民社会」秩序の解体的な再編=全体主義化という秩序構成の変化の要因として展開されるものと考えている。

(※例えば、「労働者階級の政治的階級形成」という場合、労働組合組織率それ自体は、労働者階級の政治的階級形成とは、区別して把握されねばならないが、その政治的階級形成の「社会的」前提となるものだ。この前提となるデータだが、例えば、二〇一八年一二月一九日の朝日新聞電子版によれば、厚生労働省が、一八年六月末のデータとして労働組合組織率を一七・〇%と発表している。これらの調査、説明の信憑性などは、ここでは問題としない。この「一七・〇%」という数字は、「過去最低」であるという。ただパートの労働組合員数は増加しており、前年に対し八万九千人増の一二九万六千人。非正規雇用が拡大していることの表れだ。厚労省の過去の「労働組合基礎調査」では、一九五〇年には、五〇数%、一九六〇年は三〇数%である。また、一九八〇年代までの総評・社会党ブロックがベースにあった時代の組織内容と、一九九〇年以降の労働戦線の右派統一によってできた「連合」(八九年結成)労働運動とでは、政治的な実質に大きな違いがあるだろう)。



 この全体主義化の分析を詳細に行っているのが、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』(原本は1951年より刊行開始。本邦刊行は、1974年、みすず書房、また、訳出書では「ハナ・アーレント」であるが、本ノートでは「ハンナ・アーレント」とした)である。本論では、まず、そのとっかかりとして、マルクス主義の歴史的立場性を継承するものとして、トロツキーのファシズム論をとりあげ、それを足場として、アーレントと対話をしてゆくという段取りである。

ただし本論は、あくまでも、二一世紀の≪階級解体=全体主義化≫を問題意識としており、一九三〇年代のファシズムをめぐる問題(とりわけコミンテルン「ディミトロフ・テーゼ」の内容、ソ連派スターリン主義の「ソ連一国社会主義」の国家主義外交路線と人民戦線政策の問題、非スターリン主義・反スターリン主義左翼内部の論争など)には、それとして踏み込まないこととし、別稿を期すことにする。



序・「階級解体」と社会のアトム化はどのように起こるのか――トロツキーのファシズム論のポイントとの関係で



トロツキーは、一九三二年、「次は何か?」というファシズム批判の論文を発表した。その「序文」には、ファシズムの特徴や、社会民主主義との関係が端的に描かれている。

「戦争(第一次世界戦争のことーー引用者)が勃発した。社会民主主義は、未来の繁栄の名のもとに、戦争に参加した。繁栄のかわりにきたものは、しかし、凋落であった。現在では、かれらの仕事は、資本主義の否定的面から、革命の必然性を説いたり、改革によって、労働者を資本主義と同調させたりすることではない。社会民主主義の新しい政策は、改良をさえも放棄することによって、ブルジョア社会を救うことであった。

しかし、これはまだ、凋落の最後の段階ではない。死に瀕している資本主義の現在の恐慌は、社会民主主義に、長期の経済的、政治的戦いの戦果をさえも見棄てさせ、ドイツの労働者を、かれらの父の、祖父の、曽祖父の世代の生活程度まで逆戻りさせている。自ら闘いとった成果や、その期待の残骸の真っ只中で、あわれに解体して行く解体してゆく改良主義ほど、悲劇的で、同時に嫌悪を催させる歴史的光景はないであろう」。社会民主主義の指導者たちは「適応能力の最後の限界まで追い詰められているのだ。土井湯の労働者階級にとっては、その下まで意識的に、長期にわたって、落ちていってしまうことができない水準というものが存在する。しかし、自らの存在をかけて戦っているブルジョア支配体制は、その水準を認めることも欲しない。ブリューニングの緊急令(一九三〇~三一年にかけて、四回はつれいされたワイマール憲法第四八条に基づく大統領緊急令。公務員給与カット、失業保険給付制限や、集会の自由の制限などが内容となっている。一九三〇年九月の共産党とナチスの議会獲得の加速に対して、これに対抗すべく、社会民主党はブリューニングに対する寛容政策をとり、この緊急令に反対しなくなった)は、地歩を探る手始めにすぎない。ブリューニングの支配体制は、プロレタリアートの一部の無気力で中途半端な信頼によって、その存在を保っている社会民主主義官僚制の卑屈で、裏切り的な援助のおかげで、もちこたえているのだ。官僚的法令による体制は、不安定であり、その上、不確実かつ生存しがたいものである。資本家側は、他の、より決定的な政策を必要としている。そのためには、元来労働者の方へ向かう傾向をもっている社会民主主義による援助は、不十分なものであるばかりでなく、すでに資本家たちを悩まし始めてさえいる。いい加減な政策をとっている時期は過ぎたのだ。新しい出口を発見するためには、ブルジョアジーは、労働者階級の圧力から完全に脱しきり、それを排除し、破壊し、壊滅させてしまわなくてはならない。

そこに、ファシズムの歴史的使命が始まる。ファシズムは、プロレタリアートのすぐ上にあってプロレタリア階級の中に転落してしまうことを恐れている階級を目覚めさせ、公式国家の衣の下に隠れながら、金融資本の力によってかれらを組織し、戦闘的にする(Mobモッブの形成だ――引用者)。そして、これらの階層を、もっとも反動的なものからもっとも穏健なものまでを含めて、プロレタリア階級全体の破壊(「階級解体」→アトム化――引用者)へと向かわせるのである。

ファシズムは、ただ単なる弾圧や、暴力、警察テロなどの制度ではない。それは、ブルジョア社会の中にあるすべてのプロレタリア的民主主義の要素を根絶することによって成立する、特殊な国家的制度なのである。ファシズムの任務は、ただプロレタリア前衛を打破することにあるのではなく、すべての階級を、強制された細分化状態(アトム化――引用者)の中に維持して行くことでもあるのだ。そのためには、もっとも革命的な労働者層の、肉体的破壊だけでは不十分なのである。すべての独立した、自由な組織を破壊し、プロレタリアートのあらゆる支点を無に帰せしめ、その上、社会民主主義と労働組合の、四分の三世紀にわたる仕事の成果(労働基本権をはじめとするブルジョア民主主義的諸権利など――引用者)を粉砕してしまわなくてはならない。なぜなら、究極的には、共産党の支点もまた、社会民主党および労働組合のなし遂げた仕事にあるのだ。

社会民主主義は、ファシズムの勝利のためのすべての条件を準備してやった。しかも、それと同時に、自らの政治的破滅の条件までもそろえてしまった。ブリューニングの緊急令の制度や、ファシズムの野蛮な暴力の脅威などの責任を社会民主主義に求めることは、全く正当である。しかし、社会民主主義を、ファシズムと同一視することは、全く馬鹿げたことである」。



 これらのことを一言で言うと、「階級解体」=政治的階級としての労働者階級の階級解体→アトムへの分散→≪労働者階級≫ではなく≪賃金奴隷諸個人≫(としての即自的な経済的階級に固定化)される→全体主義国家(ナチス国家)という政治的共同体への動員・吸収・統合ということだ。



以下、アーレントの『全体主義の起原』を読んでいくことにしよう。



第一節 第一巻「反ユダヤ主義」を読む



●反ユダヤ主義とモッブの形成――近代国民国家は排外主義を必要とした

 

まずアーレントの文献に入る前に、反ユダヤ人政策についてナツィが政権についてからのアウトラインを確認することからはじめよう。

その場合、まず断り書きであるが、本論は、シオニズムを免罪するものではない。戦後シオニズムは、パレスチナを抑圧する侵略帝国主義の問題として捉えられるべきである。

一九三三年、ナツィが政権につき、国家秘密警察(ゲシュタポ)が結成された。一九三三年一月ヒトラー内閣成立。三月全権委任法が制定され、立法権は政府に吸収された。四月、職業官吏再建法が成立し「非アーリア人種(ユダヤ人)」の公務からの追放が示される(この規定は、「非アーリア人」の定義を巡り混乱を呼んだ)。三五年、ニュルンベルク法が制定される。この法は二つの法律の総称であり、その一つ「帝国市民法」は、「ドイツ人または同種の血をもつ国籍所有者」以外の、選挙権、公務就任などを禁止した。もう一つの「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」では、ユダヤ人と「ドイツ人または同種の血をもつ国籍所有者」の婚姻、婚姻外性交渉を禁止するものだった。

こうした反ユダヤ主義政策は、一九三八年一一月、大きく展開する。一一月九日夜~一〇日未明にかけて、ナチ党指導者ゲッペルスを主犯とし、ナチスSA(突撃隊)を主力に展開された「水晶の夜」(クリスタルナハト)事件である。ユダヤ人の居住地やシナゴーグ(礼拝施設)、ユダヤ系の商店・企業が、襲撃された。この事件以降、ホロコースト(大量虐殺・迫害)がはじまった。

さらに、一九四二年一月二〇日、ベルリンにある高級住宅地・ヴァンゼーで、ナツィ高官が集合し、それまで、各々の官僚組織がばらばらに行っていたユダヤ人抑圧政策を統一する意思統一をおこなった。これは「最終的解決」といわれ、ユダヤ人の抹殺を、インフラ整備事業などを利用した強制労働と計画的な殺害で推進しようとするものであり、強制・絶滅収容所での死亡が増加・加速することとなっていった。

一九四五年ナツィ敗戦。一一月(~一九四六年一〇月)ニュルンベルク裁判でナツィ断罪。一九六〇年、アルゼンチンに潜伏していた、強制収容所政策の指導的司令官アイヒマンを、イスラエル(一九四八年「建国」)諜報組織が逮捕。イスラエルでいわゆる「アイヒマン裁判」(六一年)がおこなわれ、翌年死刑となる。

本論著者(渋谷)の、論理立てから言うならば、これから本ノートの論脈において明らかにするように、このような反ユダヤ主義(としての排外主義)自身が、きびしく批判されるべきであることは前提であるが、「全体主義」概念との関係で言えば、こうした差別排外主義=反ユダヤ主義を媒介とし、戦略的な課題としつつ、<国民―民族共同体としての全体主義>が形成・登場したという国家共同体論に即した論脈が、全体主義概念を考えるうえで、重要なことだと、考えるものである。



アーレントの立論に入って行こう。

このような反ユダヤ主義の特徴をもった、ナツィの全体主義の形成・成長は、まず、近代国民国家の形成時点におけるある種の矛盾から開始したとすべきだというのが、アーレントの立論の出発点だ。ここではまず、「反ユダヤ主義」という形での≪異分子に対する排外主義≫が問題となる。(引用のページ数は、例えば「第一巻の一二三ページ」なら、「一・一二三頁」とする)

このここでいわれる「国民国家」と「帝国主義」の位置関係だが、アーレントによれば次のようになる。以下の位置関係を頭に入れながら、以下のアーレントの国民国家分析に入ってゆこう。

「全体主義の支配形式・運動形式を作り上げるときに含まれていた反ユダヤ主義の要素については、次のように言わねばならない。すなわち、国民国家の解体過程においてはじめて、それ故、帝国主義が政治的事象の前景にあらわれてきた時代になってはじめて、この要素は全面的に展開したのである」(一・一四頁)と

これは「国家共同体―内―排外主義」としての「反ユダヤ主義」から、国民国家の膨張による帝国主義による「人種思想」の形成という脈絡で言われていることだと考える。排外主義(異分子排除)としての反ユダヤ主義の機制についてだが、『全体主義の起原』第一巻「反ユダヤ主義」の論脈となるものだ。そして「帝国主義的人種思想」が第二巻での論脈となる。

 まずその前提となる近代国民国家の形成がユダヤ人に対して意味したものがある、これが重要だ。端的に言って、国民国家の形成、それは、それまで異分子・非同権者だったユダヤ人に、国民としての「法律上の同権」を与える過程でもあった。だが、ここに、決定的な矛盾が含まれていたとアーレントは言う。

「なぜなら国民国家という政治体が、他のすべての政治体と異なるところはまさに、その国家成員たるの資格としてはその国に生まれていることが、その住民全体についてはその同質性が、決定的に重要視されているということにあったからである。同質的な住民の内部ではユダヤ人は疑いもなく異分子であり、それ故、同権を認めてやろうとすればただちに同化させ、できることなら消滅させてしまわねばならない」(一・一六頁)ということだ。

ユダヤ人が同権をもち、ドイツならドイツで、市民社会の一個人として、社会に溶け込み、社会的な地位を築いてゆくという過程は、同時に、ユダヤ人ではない国民の中に、ユダヤ人が国・社会を乗っ取るのではないかという「ユダヤの世界征服」の疑惑が世論として成長して行く過程でもあった。

そこでアーレントは、ドレフェス事件をとりあげる。

「一八九四年、フランスのユダヤ人参謀将校アルフレッド・ドレフェスは、軍事法廷でドイツ帝国のためのスパイ行為を告発され、悪魔島(イール・オ・デイアブル)への終身刑を言い渡された。判決は全員一致で下され、審理は非公開でおこなわれた」(一・一七三頁)。この事態はまさに、あきらかに、ユダヤ人に対する敵意・予断と偏見の裁判過程をうかがい知ることができるだろう。これに対するエミール・ゾラなどによる救援運動が展開されている。

 だが、その後、真犯人がわかり一八九九年釈放、一九〇六年無罪を破毀院は認めたが、それは軍事法廷で再審させる権限しかなく、無罪放免にはならならかった(一八九九年再審のとき、情状酌量で一〇年、大統領により特赦という形をとって釈放となっている)。

 まさに一八八二年の金融恐慌により、ユダヤ系金融資本のロスチャイルドがフランス人民の貯蓄を投資に誘導していたため、投資銀行が破産し、貯蓄をなくした人民が、銀行業界を手にしていたユダヤ資本とユダヤ人に対する反ユダヤ主義が拡大していたのだ。このことは、その象徴として一八八九年、パナマ運河疑獄事件へと展開して行く。パナマ運河の開発工事をするために、パナマ運河開鑿会社は社債を発行し、フランス人民はそれを買った。だが、八九年の数年前に会社は破産していたにもかかわらず、「何かの奇跡によって、仕事が再開できるようという希望」(一・一八二頁)から、社債発行を議会から承認させるため「新聞界の大半と議員の半数以上と高級官僚のすべてを買収しなければならなかった」(一・一八二頁)。八八年に社債は発行されるが、八九年、裁判所が破産を宣告し、このことが発覚したのである。

 

アーレントは、次のようにパナマ疑獄事件を総括している。

「パナマ疑獄事件は、二つのことをあきらかにした。第一に、第三共和政の内部で議員と国家官僚が商人となっていること。そして第二に、私的事業――この場合はパナマ運河会社――と国家機構とのあいだの斡旋がほとんど独占的といえるほどまでにユダヤ人の手でおこなわれていたこと」の二つであると。

「西欧および中欧全域におけると同様フランスにおいても、ユダヤ人は百五十年以上ものあいだ国家経済ときわめて密接な関係を持っていた。十八世紀の直接な貸付業務および軍需品調達は国債発行業務となったが、この仕事は実際上、公衆はユダヤ系銀行が保証した場合にのみ国債を買うという事実によってなりたっていたのである。ブルボン王朝復辟以来市民王政の時代を経て帝政まで、ロスチャイルド(フランスではロチルド)家が国家経済のこの部門をほとんど独占していた」(一・一八四頁)。

「こうして結局、フランス・ユダヤ人のなかの新来分子は、一種の前衛を形成していることがあきらかになった。きわめて多種多様な社会グループの商売上の利益と統治機構とのあいだの斡旋役は、大部分ユダヤ人の手に帰した。第三共和政時代まではユダヤ人は堅固な、それ自体として強力な、その国家に対する有用性はもはや論議の対象とはなり得ないような集団をなしていたに反して、今や彼らはアトム化され、徒党に分割され、お互い同士極度に敵対しし合い、しかもいたるところで同じ機能を果たしていた。すなわち仲介によって社会に力をかし、国家を食って私腹を肥やすという機能である」(一・一九一頁)。

後述するように、この一八世紀終わりから、数年後、一九〇三年「シオンの賢者たちの議定書」というユダヤ人が世界征服をもくろんでいるという偽書が、ユダヤ人の指導者による「議決書」なる筋立てで、欧州を席捲することになる。

こうした、欧州の国民国家―市民社会の危機の中であらわれたのが、一九世紀のモッブという社会現象だった。

 「モッブはありとあらゆる階級脱落者からなる。モッブのなかには社会のあらゆる階級が含まれている。モッブはカリカチュア(戯画)化された民衆であり、それゆえにまたあのように民衆と混同されるのである。民衆があらゆる革命において国民に対する主導権を得ようとしてたたかうとすれば、モッブはあらゆる暴動の際に自分たちを指導し得る強力な人間のあとについて行くのである。モッブは選ぶことができない、喝采するか投石するかしかできないのだ。だからモッブの指導者たちは、近代の独裁者たちがそれによってすばらしい成果を挙げたあの人民投票による共和制を当時すでに求めた」。

 「モッブは自分を締出した社会と、自分が代表されていない議会を憎んだ。第三共和政の社会と政治家は、短期間に相次いで起こるスキャンダルや詐欺事件のうちにフランスのモッブを作り出してしまったのである。大量現象としての失業というものがまだなかった時代において、モッブは主として零落した中間階級から成っていた」(一・二〇四頁)。

 モッブは「暴徒」などと規定されるが、アーレントは、これを単に暴徒ではなく、「階級脱落者」と規定している。

 その内実は、何か。「モッブを蹶起せしめるのは『偉大な思想』だったのである」。「モッブが憎むもののすべてがユダヤ人のうちに体現されていることはあきらかだった。まず社会だが、ユダヤ人は社会のなかに許容されていた。次に国家だが、数百年来ユダヤ人は直接国家によって社会から守られ、それ故簡単に国家権力と同一視され得た。モッブはいかにも選り好みをするほうではなく、事実ユダヤ人のみを追究したわけではなかった。……けれどもやはり一九世紀後葉において、彼らが最も好んで槍玉に挙げたのがユダヤ人だったことは否定できない。……社会からも国会からも同じように締出され、公的な政治的社会的インスティテューションの外でしか行動し得なかった階級脱落者(デクラッセ)のモッブは、こうした影響力を極端に過大評価するのみか、政治生活の真の実態をそのような影響力のなかに嗅ぎつけようとする自然な傾向をもっていた」(一・二〇五~二〇六頁)

まさにその「真の実態」が、「シオンの賢者の議定書」なるものに書かれているような、「世界征服」の神話ということになる。以上が『全体主義の起原』第一巻「反ユダヤ主義」で、述べられていることの、本論の問題意識との関係での概略ということになる。

 

第二節 第二巻「帝国主義」を読む



●国民国家の対外膨張としての帝国主義とそれによる人種思想の形成

 

 近代資本主義は、国民国家―市民社会―階級社会の三つの要素から形成されてきたが、この連関がをどう見るかが重要だ。アーレントは、この第二巻「帝国主義」で概略的には、次のような、ことを言っている。

 「国民国家」は、例えばドイツ人、フランス人などという民族が国家をつくったものだが、人権の享有により、例えばドイツ国民国家の国内にいるユダヤ人に法律的な同権を承認するシステムを形成した。そのため、国民国家を構成するドイツ人の中には、こうしたユダヤ人を国家共同体内の異分子として排除する、あるいは、ともに国民をなすなら、同化させるという動きが出てくる。つまり、国民国家は、国民国家のヘゲモニー民族以外を異分子として排外するシステムである。

 「市民社会」は、人権を基本に諸個人が個人として平等に生きる社会だ。だが、それは、階級社会との関連で、次のように展開する。階級社会は、「資本の本源的蓄積」によって、土地の囲いこみなどにより農民が、土地という生産関係から疎外されて、都市の労働者階級を形成するなかで、資本主義の基底がつくられる。そうして資本主義の階級社会が形成される。この階級社会は、基本的に、労働者階級と資本家階級の階級対立としてあるが、この階級は、同じ民族を引き裂くことを意味する。国民国家のなかで、ドイツ人だけでなく、ユダヤ人、あるいはもっと違う民族の人たちが「労働者階級」をなし、階級闘争では団結して、資本家階級と闘っている。これは、民族の分裂を意味している。

 こうした、資本主義の形成は、さらに生産力が増殖すると、「過剰資本」を生み出す。この「過剰資本」の処理のために、資本の対外進出が必然化する。この対外進出は、「帝国主義」としての国民国家の「膨張」であり、それまでの古典的な意味での国民国家の破壊である。だが一方で海外では同じ民族は、資本家も労働者も、そして官僚も、例えばドイツ人なら、おなじ「ドイツ人」である。その意味で帝国主義は、階級に引き裂かれた民族を再統合すると当時の人たちは考えた。

 アーレントは述べている。

 「それにしても奇妙なのは、帝国主義政策に対する真に民衆的な反対が全然なかったことである。……当時の民衆も政治家も、階級闘争が国民の統一体自体を分解させてしまい、全政治機構も全社会機構もともに極度の危険に曝されていることを知っていた。だから膨張は分裂した国民に再び共通の関心を与え、いま一度統一をもたらすものとさえ思えたのである」(二・五〇頁)ということだ。

 そして、さらに、この資本主義の展開は、次のようにも展開した。資本主義の展開は、大量の失業者、大量の移民を生み出した。それは、国民国家に総括され、階級社会の中で生活していた市民(市民社会の個人)を、階級秩序から脱落させる。そうした、いろいろな階級からの「階級脱落者」を生み出した。それは、市民社会のなかで利益集団をつくって存在する市民が、アトム化することであり、階級社会の秩序からも、アトム化することを意味する。そうしたアトム化した個人の集団は、国民国家と階級社会の何らかの利益によって形成されている政党から排除されているゆえに、議会外勢力となり、街頭の暴徒に成長し、自分たちに利益を与えるような、正当性を言ってくれる強い指導者の党をもとめてゆく。それがモッブといわれる人々、階級脱落者の運動である。また、帝国主義は、資本家とモッブの同盟、海外植民活動での同盟をも、エネルギーとして、成長していった。

 さらに、その帝国主義は、対外的なナショナリズムを「人種思想」「種族的ナショナリズム」として生み出してゆく。つまり、ポイントは、階級に引き裂かれた国民(ドイツ人ならドイツ人の資本家と労働者)が、他の植民地の民族に対して、「過剰資本」の運用を契機とした資本の支配ーー「資本の本源的蓄積」を含有するーーを組織することによって、他の植民地の民族に対しては、ひとつの支配民族として再統合するということだ。階級対立の他民族支配への転化ということである。だからそのシステムに対応するイデオロギーとして人種思想、種族的ナショナリズムが成立するということである。そしてそれは、モッブの思想となった。

 当時のカウツキー流のマルクス主義との関係でいうなら次のようである。

 「ドイツでは、結局は第一次世界大戦に導くことになった『艦隊増強政策の推進者は、帝国議会の右翼ではなく自由主義者たち』だった。ドイツ社会民主党は、艦隊増強のための帝国国債発行を公然と支持するかと思うと一切の外交問題を完全に無視したりで、腰がさだまらなかった。この点での社会民主党の政策の無定見と無責任は、帝国主義の利益が当然に労働者階級にも及ぼした魅力のせいばかりではなかった。もっと本質的な要因は、帝国主義がマルクス主義の経済理論では歯の立たない最初の現象だったことにある。なぜならマルクス主義にとってはモッブと資本との新しい同盟はいかにも不自然であり、階級闘争の教義に反するものだったため、帝国主義的実験の直接の政治的危険、つまり人類を支配人種と奴隷人種、有色民族と白色民族に分け、階級に分裂した民族をモッブの世界観を基礎に統一しようという企てには、彼らは全然気付きさえしなかったからである」(二・四九頁)。

 これがアーレント『全体主義の起原』第二巻「帝国主義」の第一章「ブルジョアジーの政治的解放」で言われている内容である。この場合、とくに「資本の本源的蓄積」を、国民国家の階級社会的形成にかぎらず、国民国家の対外膨張としての帝国主義の形成として、本源的蓄積のいわば永続的な展開を分析している。ここでは、後述するようにローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』が、アーレントの分析の武器になっている。



●「資本の本源的蓄積」と「過剰資本」の問題



 「六十年代末のイギリスにはじまり、七〇年代の全ヨーロッパを規定することになった深刻な経済危機は、いろいろな面でヨーロッパ資本主義と近代政治との歴史における決定的転換点である。この危機において初めて明らかになったことは、経済自体の『鉄の法則』などには縛られず純然たる収奪によって蓄積過程をまず最初に可能にしたかの『資本の本源的蓄積』(カール・マルクス)は、蓄積のモーターを永久に回転させ続けるには不十分だということだった。この『原罪』をもう一度繰り返さなければ、すなわち純粋な経済法則を政治的行為によって破らなければ、明らかに資本主義経済の崩壊は避けられなかったのである。このような崩壊は住民の全階層が工業化された生産過程に組み込まれた後にのみ起こり得るのだから、それはブルジョアジーの破滅ばかりか、国民全体の破滅を意味する。帝国主義はこの危機に対する緊急諸対策から生まれたのである。それらの対策のすべてが目的としていたのは、いま一度、そして可能な限り長期にわたって「本源的蓄積の諸方法によって資本主義的な富が」創造され得るような道を見出すことだった」(二・四四頁)。

このような帝国主義による「諸大陸への資本投下」は、大資本だけでなく、「小さな貯蓄資産」がまきこまれ、国内産業の総体がひきこまれた。それは「ますます多くの人が自分の資産のますます多くの部分を賭に注ぎ込んでは失くしていった」(二・四五頁)。アーレントはこの例証として、先述したパナマ疑獄などを挙げている。

ここで、その帝国主義の分析として、アーレントは、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』をあげ、「帝国主義に関する書物のうちでは」これほど「卓越した歴史感覚に導かれたものはおそらく例がない」と評価する。「彼女の文章を引用して、彼女の見解のいくつかが持つ広い射程を――今日においてもまだ認められていないが――示したい。それらは、とりわけ彼女の意図にさえ反してだが、政治とは全く無関係に自分自身の法則に従う資本主義発展などというものは存在し得ないし、また存在したこともないことを、証明している」として、ローザを次のように引用する。

「……『歴史的過程としての資本蓄積は、その一切の関連において、非資本主義的な社会層および社会形態を頼みとしている』。『帝国主義は、まだ占領されていない非資本主義的世界の残部をめぐる争奪戦における、資本蓄積過程の政治的表現である。帝国主義は資本の生存を延長させる一歴史的方法であると同時に、最も手取り早くその生存に限界を設定する最も確実な手段である』。そして、アーレントは「レーニンに従えば、過剰生産とそこから生ずる新しい市場の必要性の結果」(二・四五頁)ということだと説明するなど、何人かの経済分析との簡単な照らし合わせをおこなっている。

 そこでこの「過剰」ということが問題となる。

ブルジョアジー「彼らの富は産業革命以来、ますます生産者の社会と化してきた近代社会にとって決定的意味をもっていた。過剰資本の所有者はこの階級の中では、社会的機能を果たすことなしに金儲けに抜け目なく立ち廻った最初のグループだった」。これが富裕層ブルジョアジーを意味していることは明らかだろう。

アーレントは、資本主義は過剰資本にたいして、もう一つの「過剰」をうみだしたという。それが「恐慌ごとに生産者の列から引きはなされ、永久的失業状態に」されてきた「過剰労働力」にほかならない。「このふたつを初めて結びつけて故国を離れさせたのは、帝国主義だった。国家権力手段の輸出と、国民の労働力と国民の富が投下されている領土の併合という膨張政策は、資本と労働力の絶えず増大する損失を防ぎ、国民経済の中では不要となった諸力を国民経済のものとしてなおかつ維持し得る唯一の手段だと思われた」(二・四七頁)。

そこで、モッブと資本との同盟、「過剰資本と過剰労働力との新しい同盟」(二・四八頁)は、南アフリカで「ダイアモンド鉱床と金鉱が発見」されるなどしたことを皮切りに、本格的な展開を見せてゆく。

「大都会のモッブが、暗黒大陸へとやって来た。そしてこの時から十九世紀の異常な資本蓄積が生み落としたモッブが、生みの親のあらゆる冒険的探検旅行について廻ることになる。それは利潤の多い投資の可能性だけを求めての探検だった。過剰資本の所有者は、世界の各地各方面から押し寄せた過剰労働力を利用できる唯一の人間だった」(二・四八頁)。

こうして、「永続的膨張」という帝国主義の冒険の無限性に「万人に共通な国民的利益の中にネイションの救い」を見ることになった。「このことが、ヨーロッパのナショナリズムがなぜあれほど簡単に帝国主義に染まっていったかの理由である」(二・五一頁)とアーレントは述べている。

もう少し、立ち入った分析をするなら、こうだ。

「国民国家は、異民族の統合に適さないだけに、異民族を抑圧してしまおうとする誘惑がそれだけ強かった。ナショナリズムと帝国主義は理論上は深淵によって隔てられているが、実際にはこの深淵は人種的もしくは種族的ナショナリズムによって幾度も橋をかけられている」(二・五一頁)。アーレントは、帝国主義者は自分たちは政党を超越し、「国民全体を代表している」と表明していたという。そして「このことは特に中欧および東欧の大陸帝国主義について言える」とし、その理由として「海外帝国主義の国々、なかんずくイギリスでは、富すぎた者と貧しすぎる者との同盟が成立したのは海外領土に限られていた。しかし、ドイツのように地球分割に大して与かれなかった国や、ましてオーストリアのように全く領土を得られなかった国では、資本とモッブの同盟は本国自体の中で成立し、国内政治に直接影響を与えるようになった」と展開する。



 このイギリスとドイツの違いは、「資本の過剰→資本の輸出」のタイプが違うという問題と対応していると本論論者(渋谷)は考える。それは、宇野弘蔵によって指摘された「帝国主義論の方法について」という問題である。

「『独占』にしても僕は、それを単なる『独占』としてでなく、『組織的独占』とか、『独占体』ということばで表わしたわけです。もちろん、僕もイギリスにおける独占企業の出現を否定するものではありません。しかしそれはドイツのように大銀行との聯関をもった『独占体』と一様に扱うことはできないと考え、むしろ後者(ドイツ――引用者)にこそ金融資本の典型が、しかもその積極的な面が認められるものと思ったのです。イギリスの場合は、これに対して『資本の輸出』にその金融資本化の根拠が求められる。したがって、同じ金融資本にしても、ドイツの場合のように直接産業企業と大銀行との金融資本的一体化による『独占』は認められないといってよいのです」(「帝国主義論の方法について」、『「資本論」と社会主義』、岩波書店、初版一九五八年、二〇五頁)。

「証券投資乃至株式会社制度の普及にともなう『資本の過剰』」の解決としての「資本の輸出」と、「証券による直接投資」をなす、「金利生活者的な『資本の輸出』」の区別が必要であり、先ず「後者が、先ず『世界の分割』を主として行い、前者がこれに対して『再分割』を要求するという点に、今世紀(二〇世紀ーー引用者・渋谷)初頭の帝国主義の対立が見られることになったのではないか」(前掲、二二〇頁)ということとして、それはある。

つまり、モッブと資本の同盟がイギリスの場合、海外領土でのみ展開されたということは、海外投資を主とした過剰資本の処理の様そうに対応している。またドイツの場合、その同盟が、国内の政治に影響を与えた、だから、国内の産業構造に影響を与えたのは、「資本の過剰」の国内での処理として、ある国内産業構造と大銀行との一体化による資本蓄積の様そうを、まさに作り出した場所で、モッブと資本の同盟が成立したということをそれは意味している。つまり、それは、過剰資本の様相の違いに規定されておこったと、考えることができるだろう。

 アーレントは、モッブは全階級からうみだされた「階級脱落者」であり、「工業労働者」とも、「下層の貧民」とも違う。だから、「モッブにおいては階級差が止揚されているかのように見え」「失われた民族――ナツィ用語で言えば『民族共同体』――であるかのように思われた。本当はモッブは民族の虚像、カリカチュアなのである」。ナツィの全体主義支配は、このモッブを支柱とした専制政治として成立しつつ、政権獲得後は、「最初の指導層を生んだモッブ分子をも権力掌握後には抹殺してしまった」と展開している。

アーレントは、帝国主義の成立の契機と特質をつぎのようにモッブという社会現象から特徴づける。「原因、すなわち安全な利潤の多い投資のためにモッブを必要とした過剰資本が、それまで良き伝統に覆い隠されながらもつねに市民社会の基本構造の中に存在していた一つの力を解き放つ梃子となったのである。あらゆる原則とあらゆる偽善を払い去った暴力政治は、あらゆる原則から自由になった大衆、国家の救済活動と救済能力を凌ぐほどの数に達した大衆を計算に入れることができるようになったとき、はじめて実現可能となる。……このモッブが帝国主義的政治家によるほかは組織され得ず、人種教義以外によっては鼓舞され得ないということは、彼らの生れが市民社会であることを明瞭に示している」というわけである。

まさにそのことは、国民国家の異分子排外主義⇔市民社会のブルジョア・アトミズム(個人主義・競争主義)→国民国家膨張→帝国主義⇔種族的ナショナリズム(人種思想)という一連関をしめすものに他ならない。

 

●種族的ナショナリズムとしての「血」の思想



アーレントは、この人種思想の形成は、「膨張帝国主義」の出発点としての「アフリカ争奪戦」(一八八四年、ベルリン会議に至るヨーロッパ諸国の争奪戦)が決定的な規定力となったとのべている。それは「アフリカに根を下ろしていた人種思想は、ヨーロッパ人が理解することはおろか自分たちと同じ人間と認める用意さえできていなかった種族の人間とぶつかったとき、その危機を克服すべく生み出した非常手段だった」(二・一〇五頁)というものだ。そうした脈絡をヨーロッパの人種思想はもっている。



 そのような人種思想の土壌の中で、「種族的ナショナリズム」を問題にするとき、アーレントの立論では、「汎民族運動」と「大陸帝国主義(ドイツやロシアなどの)」との関係が重要だ。

 汎民族運動とは何か。アーレントは、それは帝国主義時代よりも古い歴史を持つが、それが、明確に政治運動化したのは、帝国主義時代になってからだという。

「汎民族運動は帝国主義より早く成立し、より複雑な歴史を持っている。一八七〇年頃には曖昧な形而上学的親スラブ理論からすでに一つの政治運動が生まれているし、一九世紀半ばのオーストリアには反ハプスブルグ的汎ドイツ主義がはびこっていた。しかしこれらの活動が政治的害毒を流し始めたのは八十年代の半ば、西欧の帝国主義的膨張が地球再分割(マルクス経済学的には、最初の分割――引用者)に大成功を収め、東欧および中欧はそこから締め出しを喰らわされたときである。こうした状況にあって特に中欧諸民族は、自分たちにも『他の大民族と同じく拡張する権利があり、もし海外でその可能性が阻まれるならヨーロッパの中でそれを実行するほかはない』と考えた。汎ドイツ主義と汎スラブ主義は、『大陸国家』に住む『大陸諸民族』は弱小民族のいる『中間地帯諸国』を分け合うべきだという点で意見を同じくしていた。ここに初めて地政学的考えが生まれたのである」(二・一六二頁)。

 汎民族運動から生み出されていった、大陸帝国主義は、イギリスなどの海外帝国主義に対する対抗として形成されたが、その根拠は、植民地従属国に対する支配の欲求から起こったとアーレントは説明している。

「ある著名な親スラブ的評論家が、『吾は海の支配者たらん』という言葉に表現される『イギリス的理念』と『吾は陸の支配者たらん』という『ロシア的理念』を対置させたのである。しかしこれらの理念が政治的意味を獲得したのは帝国主義時代になってからで、すべての海洋民族のきわめて実質的な権力拡大を目前に見ながら地球再分割に加わり損ねた諸民族が、『一般にも、特にわれわれドイツ人にとっても……海に対する陸の限りない優位……海洋勢力に対する大陸勢力の遥かに大きい意味、海の力を凌ぐ陸の力』を理論的にも発見したときのことである。

 イギリスに対する一種の競争上の嫉妬から出たこのような空論より重要なのは、海外帝国主義の場合に本国と植民地の間の海が保証してくれたような距離が大陸帝国主義にはなく、そのため帝国主義の方法と支配観念の諸結果がはね返り効果を俟つまでもなく直接ヨーロッパ自体の中で感じられるようになったことである」(二・一六二~一六四頁)。

 汎ドイツ主義は、優越民族としてのドイツ民族の他民族に対する支配の正当性の主張だ。アーレントは次のように、それを述べている。

「汎ドイツ主義者は、直ちに提案を行い、『われわれのもとに暮らしている血統の異なるヨーロッパ人、すなわちポーランド人、チェコ人、ユダヤ人、イタリア人等々を奴隷の地位に就しめること』――これは海外帝国主義が他大陸の原住民に振当てた地位だが――あるいはそれが不可能なら奴隷民族をヨーロッパに輸入すること――いずれの場合も『支配民族たるドイツ人』を自国において被抑圧民族の上に立たせることが狙いだった――を主張したばかりではなかった。人種概念自体が彼らにあっては強化され一般化された意味を与えられたのである。……人種イデオロギーを直接政治に転化し、『ドイツ人の将来は血にかかっている』ことを疑問の余地のないこととして主張する役割をはじめて担ったのは、大陸帝国主義だった」(二・一六四頁)。

その汎ドイツ主義の特徴は、「拡大された種族意識」にある。

「『国家』と国民意識に対立するものとして、歴史、言語、居住地とは関わりなく同一民族の血をひくすべての人間を包括すべき『拡大された種族意識』を持ち出したのである。ここにはすでに、後にナツィによって立法化されるⅤolksfremde(「他国権力のもとにあるドイツ血統の人間」――アーレント自身の注による)とStaatsfremde(「ドイツに住む非ドイツ人」――アーレント自身の注による)との区別も現れている。要するに大陸帝国主義は、おそらく海外帝国主義への反動として成立したことによるのだろうが、海外帝国主義の場合のように植民地での経験を経ることなしに最初から人種主義の方向をとり、十九世紀が伝えた人種世界観を遥かに熱狂的にまた意識的にわがものとしたのである」(二・一六四頁)。

 その「拡大された種族意識」の根拠は「血」にもとめられた。

「種族的ナショナリズムは中欧および東欧のすべての国と民族の国民的感情を決定的に規定し形成するものとなった。……ただ『拡大された種族意識』に基づいたナショナリズムのみが、人間を世界において例外的に相互に区別するだけの国民性を、精神の内部の問題になしえたのである」(二・一六九頁)。

例えば、フランス人の中には「フランス型のショービニズム(排外的な愛国主義)」をもっている人がいるが、それは「栄光」「偉大さ」の誇示であっても、「他国に生まれ育ちスランス語もフランス文化も知らぬフランス系の人間でもその『血』の神秘的な特質の故に生まれながらのフランス人だ、とまでは主張しなかった」(二・一六九頁)ということである。だが、大陸帝国主義は、そう主張する。

なぜか。ショーヴィニズムと、種族的ナショナリズムの違いが決定的なポイントとなる。

アーレントは次のように言う。ショーヴィニズムは、「あらゆる分野において国民が実際に成し遂げた業績を問題にしている。これに対し、種族的ナショナリズムは、「人間精神を普遍的な民族的知性の『具現』と見做そうとしている点にある」(二・一六九頁)。だがそれは「精神」とは何ものか? 抽象的で、具現する物象がさだかではないものだ。だから「この欠点を補うために、精神と肉体のいわば逢引の場となるべき『血』が担ぎ出されたのである」。これはショーヴィニズムがもっている現実的根拠とは違い、「現実には存在しない架空の観念を拠りどころとし、それを過去の事実によって立証する試みさえ全くせず、その代わりにそれを未来において実現しようと呼びかけるのである」。それにはわけがある。

過去の歴史は「大抵は自分たちに相応しくない現在であり過去」だからだ。「伝統、政治的諸制度、文化など、自民族の目に見える存在に属する一切のものを基本的にこの『血』という虚構の基準に照らして測り断罪するという点こそ、種族的ナショナリズムを他と識別し得る特徴である」(二・一七〇頁)。

この場合、政治的なディスクールとしては、どういうことが言えるか?

「 自分の民族が『敵の世界に取り囲まれて』『一人で全部を敵とする』状態におかれているという主張である。この立場からすれば、自分と他の一切との相違以外にはおよそ相違というものは存在しなくなる。種族的ナショナリズムはつねに、自分の民族は唯一独自の民族であり、その存在は他民族の同権的存在と相容れないと主張する。この種族的意識は、人間の本質の破壊に利用――ある意味では悪用――されるに到る遙か以前に、あらゆる政治を規制する理念としての統一的人類の可能性を理論的にも心情的にも否定してしまっていた」(二・一七〇頁)ということだ。

まさに「血」という虚構を根拠とした選民思想=帝国主義的種族主義といえるだろう。



●ナショナリズムと「人権」の幻想性の露呈



そして、こうした強権的・宗派的ナショナリズムの他方で、国民国家の帝国主義的膨張を要因として生み出された戦争と、これに対する革命から、大量の「無国籍者」が生み出され、国民国家の秩序では、そのすべてを包摂しきれないところから、人間が人間であることを根拠に無条件に保有するとされてきた普遍的価値としての「人権」が破壊される、あるいは、その「普遍的」という幻想性をはぎ取られるという問題が、欧州において、生成していった。



そこでアーレントは「人権」思想の相対化を試みている。

「歴史的に見れば明らかに、宣言されるまでに幾千年を要した人権は決して奪うべからざるものでも譲渡することのできぬものでもなかった」。「人権を実現できるのは……国民主権だけだと考えられた。フランス革命が人類を諸国民の家族として把握していた限りでは、人権の基礎となる人間の概念は個人ではなく民族を指していたのである」(二・二七三頁)。

アーレントは、人権は歴史的に見れば個人ではなく、民族という「共同体」に実際的には対象化された概念だという。

「こうして人権を国民国家において実現される人民主権と結合させたことの真の意味が初めて明らかになったのは、ヨーロッパのただ中にいながらあたかもアフリカ大陸の荒野に悲運にも放逐されたかのように、人間としても民族としても基本的権利を全く保証されない人々や民族集団が続々と現れるようになったときである。……人権について語るとき、この権利はあらゆる政府から自立した権利であり、あらゆる人間に具わる権利としてすべての政府によって尊重されるべきだと考えてきた。ところが、政府の保護を失い市民権を享受し得ず、従って生まれながらに持つ筈の最低限の権利に頼るしかなくなった人々が現れた瞬間に、彼らにこの権利を保証し得る者は全く存在せず、いかなる国家的もしくは国際的権威もそれを護る用意がないことが突如として明らかになった」。これは「主権の侵害を警戒する」国民国家の側だけでなく、「被保護者」の側も、「国家のものではない保護を認めようとせず、単なる人権(「言語上、宗教上、および人種上の」権利)の保護に対してきわめて深い不信を抱いていた」(二・二七三頁)。



つまり、国民国家の立場からすれば、普遍的人権の擁護が、大量の移民を認めることを通じて、国家主権が侵害されるような事態、例えば国民国家が多民族国家化を深める(国民国家として排外すべき異分子を認める)と同時に「昔から定住していた外国人に脱同化の傾向が生まれる」(二・二五八頁)等々の社会的不安要因が形成されることになる。同時に、被保護者の側も、抽象的な人権保証よりも、具体的な国家の保護を望んだ。その例としてアーレントは、次のような事態を挙げている。



「彼らは国際連盟への提訴という方法はとらず、ハンガリア人やドイツ人の場合のように民族上の『故国』の保護を求めるか、あるいはユダヤ人の場合のように自民族の国際的連帯とそこから生まれた非公式の連携組織に頼るかのいずれかの道をつねに選んだ」。この状況は、「状況が悪化するほど」急進化し、「第二次世界大戦勃発の直前にはイタリア領チロルに住むドイツ少数民族の七五%がドイツへ『送還』されることを要求している。ユーゴスラビアのドイツ少数民族からも同じ要求が起こっているが、彼らは、「十四世紀以来、スロヴァニア民族の中で暮らしてきた」人々だった。等々、「自発的な国外追放」の運動が起こっていった。

問題のポイントは「これらどのグループも、自分が生まれと民族的帰属によってその支配に服す国家が保証してくれない限り基本的人権などを信用してはいなかった、ということなのである」(二・二七四頁)。

まさに「無権利状態とは、……この状態に陥った者はいかなる種類の共同体にも属さないという事実からのみ生まれている」(二・二七九頁)ということであり、「人権の喪失が起こるのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである」(二・二八〇頁)ということになったわけである。

まさにこうして、普遍的人権としての人権思想も、その普遍性を表明していた幻想性をはぎ取られていった。まさに、かかる個人主義的人権思想の破産と、種族的ナショナリズム=民族共同体の『血』の思想の展開という中で、いよいよ全体主義が台頭してゆくことになる。





第三節 第三巻「全体主義」を読む



● 政治的階級秩序の崩壊と「大衆」の登場



この第三巻では、ナツィと並列して、スターリン体制時代のソ連共産党が全体主義の一つのタイプ――ナツィと同等の――として論述されている。本論論者も、基本的にその方法に賛成だが、ここでは本論の目的上、ナツィに絞ってノートをとることにし、スターリン主義については、別稿の論文として、共産主義運動の中での全体主義の問題として、個別にとりあげる機会にゆだねたいと考える。



「全体的支配は大衆運動がなければ、そしてそのテロルに威嚇された大衆の支持がなければ、不可能である」(三・二頁)。

「全体主義のプロパガンダ――これは全体的支配の成立以前から使われ、全体的支配期の或る時点まで続くのだが――は確かに嘘だらけには違いないが、決して秘密めかしてはいないからである。全体主義の指導者は、自分の過去の犯罪を比類のない率直さで自慢し将来の犯罪を比類のない正確さで『予告』することで、出世のスタートを切るのが普通である。彼らは、『暴力行為を讃嘆するような口調で語ること、それは下劣ではあるが利口なやり方だ』というモッブの本性に対する昔の認識が今なお妥当だと信じ、これを幾度も実地に試してみた。ナツィが権力掌握前から公然とポテンパの殺人を誇ったことにしろ、……現代の大衆がこの点ではあらゆる時代のモッブと同じ反応を示すことを、このデマゴーグたちはよく知っていたのである」(三・三~四頁)。

(※ ポテンパの殺人……一九三二年、オーバーシュレージェンの村ポテンパで、五人のナツィ党員が、ピートルツフという共産党員を虐殺した事件)



「しかし全体主義の指導者は単なるデマゴーグではないし、彼らの成功がわれわれの不安をかき立てる理由は、彼らがモッブの本能に訴えるという点にあるのではない。現代の大衆をモッブから区別しているのは彼らの没我性と自分の幸福への無関心であって、これは現代の全体主義的な大衆組織においてきわめて顕著に示されている」(三・四頁)。

そしてアーレントは、犯罪の被害者が、外部の敵対者などに対して加えられた犯罪に動揺を感じないだけでなく、それと同様に、被害者が自分たちの仲間であっても「同じ冷淡さをしめすこと」、いやそれ以上に、「自分自身が犠牲者となった場合でも運動の信奉者は確信を揺るがさない」で、むしろ、自分自身に対し、それが権力者による、でっちあげであったとしても自分が犯した犯罪の「証拠資料を集めようとした」。そういう作風が全体主義運動の特徴としてあるということを、述べている。

「狂信の徒となったメンバーたちは、……自己を運動にあまりにも一体化させ運動の法則に余りにも完全に適合させたため、あたかも経験をするという能力が全く失われてしまったかのようであって、……死の不安さえ覚えることがなくなってしまうのである」(三・五~六頁)と展開する。

こうした集団心理を形成した大衆とは、どのような存在か、ということだ。



「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である。この点だけからしても運動はすべての政党と異なっている」(三・六頁)。

「ヨーロッパの大衆は、すでにアトム化していた社会の解体によって成立した。この社会においては、個人間の競争とそこから生ずる孤立感の問題を一定の限度内に抑えていたものは、各個人は生まれと同時に一つの階級に属し、成功や失敗とは関わりなくその階級を故郷として終生そこに留まるという仕組みだけだった。……国民国家の階級社会に記憶を通じて強く結びつけられていた間は、彼らはファナティシズム(狂信、熱狂――引用者)やショーヴィニズムの色の特別に濃いナショナリズムに迷い込んだ。まさにナショナリズムこそ、あらゆる階級対立を超えて国民を統一する接着剤だったからである」(三・二二~二三頁)。

「大衆」は、この階級社会の秩序が、帝国主義的膨張と体制的危機の中で「解体」することによって、形成された、アトム化した諸個人である。

全体主義の大衆指導者は「古いモッブ層」の出身者であったが、かれらが「大衆」と結びつくことができたのも、「現代の大衆がそれ以前の大衆社会と本質的に異なる点、すなわち、共同の世界が完全に瓦解して相互にばらばらになった個人から成る大衆だという点である」。アーレントは現代の大衆社会に特有な個人化とアトム化が全体主義的な支配の成立にとって必要不可欠な条件だったとのべている(三・二四頁)。



そして、大衆は「全体主義のプロパガンダ」によって、全体主義運動に組織されるようになった。この場合、ポイントは、後述するように「シオンの賢者の議定書」、「フリーメイスンの世界陰謀物語」などが材料になったが、「これらの説は、どんな装いをまとって登場したにせよ、すべて同じ狙いを持っていた。すなわち、公式に知られた歴史は欺瞞であって、その背後には真の支配勢力が潜んでおり、全世界の目を欺くためにこの目に見える歴史」を利用しているにすぎないと立証することであった。「全体主義運動の魅力は単にスターリンやヒットラーの嘘を吐く名人芸にあったのではなく、彼らが大衆を組織し操作して自分たちの嘘を現実へと変え得たという事実にあった」(三・五一~五二頁)。



プロパガンダの魅力である。こうした全体主義の神話は、これから見るように、大衆に「本当の世界を示し」、理想の世界が全体主義運動の内部にあると確信させ、そうした絶対の世界観でもって、個人と組織を運動として一体化させ、他者をテロルで排斥するそういう運動として展開して行くのである。



●全体主義のプロパガンダ



「社会のモッブとエリット分子に対して全体主義運動が揮う魅力はプロパガンダとはほとんど無関係であって、それはなかんずく、既成のものすべてを革命とテロルの嵐の中に投げ込むように約束するかに見える。あの激しいエネルギーに満ちた行動力が与える魅力である。それに反して大衆はプロパガンダによってしか獲得できない」(三・六三頁)。

「プロパガンダがいかにむきになって物質的利害に訴えようと、相手が大衆的人間であっては何の効果もない。大衆の基本的特徴は、彼らはもはや何らの社会的組織にも政治体にも属さず、他の形に変換できない個別的な利害の真の混沌を示している、という点にあるからである。この変換不能な個別的利害をいかに大量に寄せ集めようと、階級的利害や国民的利害といった総体的利害は決して生まれず、むしろ利害が大衆の中で相互に相殺し合う。それ故に大衆的人間には、不通の政党の党員の忠誠心とは明白に異質な、自分の生命を犠牲に捧げることさえ厭わないあのファナティックな献身が可能なのである。ナツィは『勝利か破滅か』というスローガン――これは第一次世界大戦の戦争プロパガンダが慎重に使うことを避けたスローガンだった――によって一民族全体を戦争に引きずり込むことが可能だということを立証した。しかもそれは全般的貧困と失業の時代ではなく、国民的野心の挫折した時代ですらなかった」(三・七四頁)。

この場合、全体主義運動のプロパガンダにとって、イデオロギーが肝となるのだが、それは、どういう種類のイデオロギーか。

運動にとって重要なのは「あらゆるイデオロギーが自らの主張にまとわせているあの独自の衣、すなわち、一切を知り尽くした誤ることのない予言という形式のみである」(三・七五頁)。

この「無謬性」は、「大衆指導者の基本的属性」としての「無謬性」であるが、それは「知性の標識」というよりは「絶対に信頼し得る歴史」とか、「自然の力との同盟の標徴」と看做されるものだと、アーレントは言う(三・七五頁)。

それはなぜ、必要だったのか。

「この力はいかなる場合にも最後には必ず自己を貫徹する筈であるから、敗北や破局によって否定される惧れはない。そこで大衆指導者は自分の予言が正しかったことを絶え間なく証明することにのみ心を砕き、この唯一の関心事の前では、純粋な有用性の考慮などすべて色あせてしまう。それ故に、ナツィにとっては、全党員に総統の無謬性を信じるべく義務づけることが……重要だったのである」(三・七五~七六頁)。

そこで、大衆指導者が「彼は歴史もしくは自然の予言可能な力の注釈者に過ぎないということのポーズがもたらしためざましい成功は」、非全体主義世界には容易に理解できない「政治的発言の一つの型を生み出した」(三・七六頁)。

それが例えば、「一九三九年一月三十日にヒットラーが『大ドイツの最初の帝国議会』で行ったあの告知である。……『国際的ユダヤ人財閥が……諸民族を再び世界戦争に突き落とすことに成功したりすれば……その結果は……ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となる』であろう」(三・七六頁)という戦争の宣言だった。

「大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロール可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見える見えるものならなんにでも動かされる。……大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである」(三・八〇頁)。

そこで、反ユダヤ主義の、この大衆にとっての特別な意味を、解明することが必要だと、アーレントは展開して行く。

ナツィは、反ユダヤ主義を、単に、ユダヤ人に対してとる態度以上の問題にした。つまり、党員になる人たちに「非ユダヤ系血統証明」を取る義務を負わせた。それにより、反ユダヤ主義は「党員一人一人にとっての内的問題、彼個人の存在に関わる問題となった。血統に汚点のないことが立証できない者は決して党員になれず、党員はナツィの階級制度の中で昇進すればするほど血統の純度を昔に遡って証明しなければならなかった」(三・八六~八七頁)。

まりこれは、個人のナツィへの<規格化・区画化>であり、反ユダヤ主義といったものが、党員一人一人の主体形成論的テーマとなることを意味する。

「ナツィ・プロパガンダの真の新しさは、反ユダヤ主義を自己規定の原理としたこと、そしてそれによって反ユダヤ主義を絶えず変動する意見の奔流から切り離してしまったことである。大衆デマゴギーはこのための一つの準備にすぎ」なかった。「アトム化され、定義しえない存在となり、実体を失った個人からなる大衆にとっては、これは自己確認の一手段が与えられたことを意味した。……新しい自己確認の与えてくれる見せかけの安定性を得た者は、ナツィ組織に加入するのにきわめて有利な資格を得ることにもなったのである」(三・八七~八八頁)。

同時にヒトラーたちは「大衆」が、例えば「シオンの賢者の議定書」を、どのように考えているかを、発見したと、アーレントは分析する。ここが重要なところだ。

それまでは、「議定書の眼目は何といってもユダヤ人迫害であって、それ以上の政治的野心に利用されたわけではなかった。ナツィは、大衆はユダヤ人の世界支配を恐れるよりむしろこの世界支配者といわれる連中の手腕に関心を持っているということを最初に発見した第一人者だったと言える。彼らは、議定書の異常な人気の所以はユダヤ人憎悪ではなく、むしろユダヤ人への讃嘆と、彼らから学びたいという願いだということに気がついたのである」(三・九〇頁)。

アーレントは事例を挙げ、たとえば、ヒトラーは「ドイツ民族を益することはすべて正しい」という言葉を言ったが、それは「ユダヤ人を益することはずべて道徳的かつ神聖である」という句の言い換えだと述べている(三・九〇頁)。

だが、そういうレトリックにとどまらない、ひとつのオルグ・イデオロギーを表明するものにほかならなかった。

「ナツィ・プロパガンダは、『ユダヤ人』を世界支配者に仕立て上げることによって、『最初にユダヤ人の正体を見抜いて戦った民族がユダヤ人の世界支配の地位を引き継ぐだろう』ことを保証しようと狙った。現代のユダヤ世界支配のフィクションは、将来のドイツ世界支配の幻想を支える基盤となったのである。ヒムラーが『われわれに支配の秘訣を教えたのはユダヤ人である』、それも『総統が暗誦するまでに学んだ』議定書のおかげであると断言したのは、この意味だった。反ユダヤ主義がナツィ・フィクションの中心に動かし難く据えられた理由はこれ以外ない」(三・九二頁)。

そこから、ナツィは「民族共同体」の神話をつくりだしてゆく。

「ナツィは『シオンの賢者』を範として世界征服を目的とする一民族全体の組織を考え、それをプロパガンダ的に民族共同体なる概念にまとめあげた」(三・九三頁)。

アーレントはその「民族共同体」は、ドイツ人の「絶対的平等」と、他のすべての民族に対する「自然的=肉体的な優越性」に基づくと同時に、「ユダヤ民族に対する絶対的敵意に基づいて築かれるべきものとされた」と論じている(三・九三頁)。

そして、権力掌握後、この「民族共同体」は、ナツィのエリット部隊に「他の民族の『アーリア人』をも迎え入れようとする動きが強まった」ことなどにより、「民族共同体はアーリア人種社会のプロパガンダ的準備に過ぎず、このアーリア人種社会は最後にはドイツ民族も含めてすべての民族の息の根を止めるものとなる筈だった」(三・九四頁)。

だが、ここでは、あくまで「民族共同体」が土台にあるポイントである。それは次のようなことを、意味した。その意味は「血族共同体」がどれだけ拡張された概念になってもかわらない構成体の特質を示しだすものに他ならない。

「大衆の耳に、そして大衆以前のモッブの耳に聞こえたことといえば、(共産主義プロパガンダの――引用者)階級なき社会における一切の社会的差異と富の差異の平均化は、どう見てもみんなが熟練労働者の身分になるところまで行くのが関の山だということだけだった。それに引きかえ民族共同体のほうは、世界陰謀と世界征服を言外に匂わせることによって、すべてのドイツ人は最後には工場所有者の身分になれるとの期待を抱かせたのである。大衆とモッブにとっては、民族共同体は国民社会主義の社会政策のシンボルだった。それも完全に、ヒットラーが定式化した次の言葉のような意味においてである。――『将来の社会政策がどのようなものになるか……それを諸君に言おう。……ドイツ民族は世界の支配層になるべき使命を担っている。……だがそれならば、従えられるべき異種族もまた存在することになる。それらの連中をわれわれは現代の奴隷種族と正しく呼ぼう……。』ナツィ運動にとって大きな意味を持っていたのは、運動の外部の客観的条件によって実現が左右される階級なき社会とは異なり、民族共同体は主要な敵とされたユダヤ人に対する戦いによって結ばれた『宣誓による血族共同体』であるから、それは直ちに運動の中で実現され得る。すなわち一方ではすべての社会的差異の均等化によって、他方では、全員に要求されるユダヤ人憎悪によって実現可能である、という点だった。これによって民族共同体は運動そのものの虚構の世界の名称となったのである」(三・九四~九五頁)。

全体主義プロパガンダが「目的を達成するのは、それが人々を説得したときではなく、組織したときである」(三・九五頁)といわけである。

だからそれは、ナツィ党の「運動」自身が、「民族共同体」を現在の<場所>において実現している「永遠の今」ということにほかならなかったのである。

これが、「階級解体」→アトム化→全体主義への人々の吸収という、全体主義ファシズムのアーレントにおける論脈をなすものである。



●全体主義組織――如何に組織されたか



「全体主義運動が権力奪取前に支持者をどのように組織するかを見るとき、本質的に新しい独創的な組織方法として注目をひくのは、党員とシンパサイザーとの間の区別である。この発明に比べれば通常、典型的に全体主義的なものと看做している他の現象――例えばすべての幹部の上からの命令、また一人の人間による任命権の最終的な独占、いわゆる指導者原理――は二義的な意味しか持たない。指導者原理はそれ自体としてはまだ全体主義的なものではない」(三・一〇〇頁)。

ヒットラーは「すでに『わが闘争』の中で、プロパガンダによって獲得した大衆をシンパサイザーと党員とに分けるべきだと提案している。……できる限り多くの同伴者をシンパサイザー・グループにかき集め、他方、党員そのもののほうは可能な限り制限するという結論に彼を導いている。多数のシンパサイザーに囲まれた少数の党員というこの考え方は、本来の前面組織に非常にすでに非常に近づいている。重要な点は、ナツィはこの組織の中の人的資源を軽蔑していたにもかかわらず最初からシンパサイザーを運動の一部として計算に入れ、それ故に、これらの前面組織――この名称は党員とシンパサイザーとの間の本来の関係をきわめて正確に示している――が運動全体にとっては本来の党員層に劣らず重要であることを直ちに理解したという点である。

全体主義運動は前面組織を党員のための防壁として使う。つまり、イデオロギー的虚構と『革命的』道徳に対する党員のファナティックな信仰を、まだ全体主義化されていない外界から来る衝撃から守るための防壁である。同時に前面組織は党員にとって、正常な世界へのよく監視されたかけ橋でもある。この橋がなければ、全体主義運動の勝利前にあっては党員は自分たちの確信と他のすべての人々の見解との対立、イデオロギー的虚構と正常世界の現実との対立を余りに鋭く意識させられることになるからである。権力を求めて運動が戦っている間に前面組織が果たす役割は、単に党員を外界から切り離しておくだけでなく、同時に彼らに対し前面組織が正常世界を代表しているように思わせ、外界の模造品を提供することである。党員を現実世界の侵入から守るには、単なる教義の徹底化やファナティズムよりもこの模造品のほうが効果がある」(三・一〇二~一〇三頁)。

アーレントは、この「模造品」について、それは、シンパサイザーが党員とは違って、党の見解を「より混乱した形」で抱いている位相をあげている。それは、「党員の信仰を強化する」とのべている。

私見(渋谷)によれば、シンパサイザーの「混乱」(見解の理解についての、不十分な理解や誤解など)は、党員のシンパに対するオルグ対象としての位置づけを強化する。それは、「混乱」を解決しようとするから、「信仰を強化する」ことになるのである。

そのシンパの有り様は「運動の外にある世界全体を代表するものと映る」。それは敵対者と自分たちが烙印を押した者たちを除いては、「自分たちの味方であるという錯覚を抱くようになる」と、アーレントは展開している(三・一〇三頁)。

「前面組織は、党員に対して外部世界の本来の性格を欺くのと全く同じように効果的に、外部世界に対しては運動の本来の姿を隠蔽する役割を果す。シンパサイザーの日常生活はまだなお非全体主義的な世界の中で『正常』なルールに従って営まれているから、最初に外部者の目に触れるのは当然のことながらシンパサイザーである。彼らは大抵はまだ狂信者の印章を与えることはないし、いずれにせよ自分たちの意見はその他の諸意見の一つだと主張することができる」。だが、全体主義の前段には、「あらゆる論議が全体主義的な要素に毒されるまでになる」一連の経緯をたどってゆくことになるとアーレントは展開する」(三・一〇四頁)。

アーレントは、こうした「党員」と「シンパサイザー」を別々に組織することは「偶然に生まれたものらしく」、全体主義の「闘争の条件から自然に成立したようである」とかいているが、それは、アーレントが論述しているように全体主義の概念に、ボルシェビキを入れた場合は、認識不足だという以外ないだろう。

 一九〇四年、レーニンは、メンシェビキとの論争の書である『一歩前進・二歩後退』(「レーニン全集」第七巻所収)を発表したそこで、<組織の秘密性>、だけでなく、<意思統一の階層性>提起したものとして、次のような階層構造が、革命党には要求されると書いている。現に、ボルシェビキ党は、次のように、組織されていった。

レーニンはつぎのように中央集権を示した(これは「一同志にあたえる手紙」というレーニンの既出の政治文書からの、レーニンによる引用として書かれているものである)。

「(一)革命家の組織、(二)できるだけ広範で多種多様な労働者の諸組織(私は労働者階級だけに話を限っているが、他の階級のある分子もまた一定の条件のもとでここにはいることはいうまでもないことを前提している)。この二つの部類が党を構成する。さらに(三)党に同調する労働者の諸組織、(四)党に同調はしていないが、事実上党の統制と指導に従っている労働者の諸組織、(五)ある程度まで――すくなくとも階級闘争の大きな現われの場合には――同じように党の指導に従う、労働者階級の未組織の分子」。

こうした階層構造をレーニンは提起している。アーレントは次のように、かかる階層構造を説明する。

「党員がシンパサイザーによって外部から隔離されると同時に外部と繋がれているのと同じように、運動の精鋭組織は一般党員によって非全体主義的な周囲から守られると同時にそれと繋がれている。党員から見たシンパサイザーがそうであるのと全く同様に、精鋭組織のメンバーから見た一般党員は不徹底である。つまり運動に真にトータルに結びついていない。一般党員は職業生活や社交生活を依然として非全体主義世界の中で営んでいる」。一般党員は、党を防衛する覚悟ができているにしても、「党の本来の戦闘的グループの目には無害な市民性の権化と映るのである」(三・一〇五頁)ということになる。

こういうのを宗派というのだが、この宗派には「指導者」が存在する。

「運動の中心には、運動を動かすモーターとして<指導者>(デア・フューラー)が坐っている」(三・一一六頁)。それは、指導者の側近にとりかこまれており、指導者は彼らの存在によって精鋭組織とも距離をとっている。その位階制は指導者と教義の「奥儀」(肝要な事項、奥意)に精通した側近を頂点とした者たちを最上層として、例えば精鋭組織――一般党員――シンパサイザー――外界という三角錐を形成した階層構造が全体主義組織の特質に他ならない。

この場合、秘密結社では、結社以外のものはすべて敵となり、「ナツィによるこの原則の適用では、家系図の検査を受けない者はすべて劣等人種に属す、ということになる」(三・一二二頁)。

また、この場合、アーレントは全体主義組織の特質を次のように総括する。

「秘密結社にあってはこの要素は秘密保持という客観的な組織上の必要から生じているのに対し、全体主義運動はこの組織上の必要を逆にイデオロギーから展開させていることである」(三・一二三頁)ということである。





●テロル支配――全体主義は社会を如何に組織したか



こうして全体主義運動に奪権された国家としての全体主義国家の特徴は、社会を画一化し・運動のイデオロギーに合うように規格化するための強制・テロル支配を組織することであるとアーレントは言う。

「全体的支配は無限の多数性と多様性を持ったすべての人間が集まって一人の人間をなすかのように彼らを組織することを目指すのだが、すべての人間を常に同一の反応の塊に変え、その結果これらの反応の塊りの一つ一つが他と交換可能なものとなるまでに持って行かないかぎり、この全体的支配というものは成立し得ない。ここで問題なのは、現に存在しないもの、つまりその唯一の<自由>といえば「自己の種を維持する」ことにしかないような種類の人間といったものを作り出すことなのだ。全体的支配は精鋭組織に対するイデオロギー教育と同時に収容所における絶対的テロルによってこの結果に到達しようとする。その場合残虐行為の実行に遠慮会釈もなく充てられるのは精鋭組織であるが、この残虐行為は謂わばイデオロギー教育の実践的な延長、また彼らが自分の力を実証する試金石であり、一方また収容所そのもののなかで演じられる前代未聞の劇はイデオロギーの正しいことの<理論的>立証に役立つものとされるのである」(三・二三一頁)。

つまり、<イデオロギーー即―テロル>ということだ。全体的支配のための均一的な諸個人の規格化は、まさにイデオロギー教育と組織的実践としてのテロルの相互媒介的、統一的連接的な一体化としての意思統一の連なりそのものである。

そうした中で、おこなわれたユダヤ人に対する、強制収容所・絶滅収容所といったものは、単にユダヤ人を隔離するとか・抹殺するとかということ以上の意味と目的をもっていた。

「ナツィは彼ら一流の几帳面さをもって強制収容所計画を<夜と霧>Nacht und Nebelという項目のもとに記録することにしていた。あたかもその人間がかつて存在しなかったかのように人間を扱うこと、文字どおり人間を消えさせること、こういうやりかたの徹底性は往々にしてちょっと見ただけではわからないこともある」。ユダヤ人に対しては「その民族の<淘汰>が日程に上って」いた(三・二三八頁)。

「自然もしくは歴史の過程の従順な実行者としてのテロルは、人間と人間のあいだの空間――それが自由の存する空間にほかならないが――を完全に無にしてしまうことによって、人間たちを一つにするということをなしとげたのである。全体主義の支配の本質をなすものはそれ故、特定の自由を削り取り除去することでも自由への愛を人間の心から根絶やしにすることでもなく、あるがままの人間たちを無理矢理にテロルの鉄の箍のなかに押しこみ、そのようにして行動の空間――そしてこの空間のみが自由の実態なのだが――を消滅させてしまうことにあるのだ」(三・二八一頁)。

「全体主義の支配が専制の近代的形態以外の何ものでもなかったとすれば、この支配は専制と同様に、人間の政治的領域を破壊し、つまりは行動を妨げ無力を生み出すことだけで満足しただろう。(だが、――引用者)全体主義の支配は、この支配に服する人々の私的社会的生活をテロルの鉄の箍にはめた瞬間に真に全体的になる」(三・二九六頁)。

「そして、全体主義的支配は、いつもこの成果を当然ながら誇ってやまない。それによって全体主義的支配は、一方では政治的・公的領域の消滅後にも残っている人間間の一切の関係を破壊し、他方ではこのようにして孤立化され互いに切離された人々が政治活動(尤もそれは真の意味での政治的行動ではないが)に動員され得るような状況を否応なしに作り出す。専制の無力のなかでは、人間は恐怖と不信の支配する世界の内部でそれでもまだ動くことができる。この砂漠のなかでの運動の自由こそ全体主義の支配によって廃絶されるものなのである。全体主義的支配は人々からその行動力を奪うだけではなく、むしろその反対に、まるで彼らが実はただ一人の人間であるかのように、彼らすべてを全体主義政権が企てるすべての行動、その犯すすべての犯罪の共犯者に仕立て、それにともなう一切の結果を容赦なく押しつけるのだ」(三・二九六~二九七頁)。

まさにテロルが全体主義の社会的エネルギーとなり、社会を作り変える。

本論の最後に、現代の新自由主義経済体制は、労働者階級の階級解体=個人化・アトム化を促進している。そうした社会的反革命は、全体主義運動という政治的反革命運動に、アトム化・個人化した諸個人を国家秩序のために動くロボットへと規格化し、動員し吸収する社会的条件を作り出す。ヘイトスピーチや右翼暴力と、公安政治警察による労働者人民に対する弾圧、こうした国家権力によるテロルは、やがて、市民社会を、その市民主義的アトミズムを踏み台として、一つの規格化された国家主義秩序へと作り変えようとするベクトルを内包している。

以上を「階級解体と全体主義」のタイトルを持つ、本論の結語としたい。


































2018年6月16日土曜日

マルクス生誕200年――エコロジカルなマルクスのラジカリズムについて    渋谷要


新聞「テオリア」(69号、2018・6・10 5面~4面に掲載。「研究所テオリア」の新聞) 


マルクス生誕200年――エコロジカルなマルクスのラジカリズムについて

渋谷要(社会思想史研究)

●はじめに

私は「テオリア」の購読者であるが、それ以外の関りをもっているわけではない。だが私は、白川真澄さんが「とりあえず、反資本主義の重要性という点で左翼の再生をめざす。しかし、再生されるべき左翼は、グリーン(「緑」)によって自己脱皮した左翼でなければ魅力も意味もない」と、『左翼は再生できるか』(研究所テオリア、2016年)というご自身の刊行物で述べておられる方向性に賛成しており、その点からも、「マルクス生誕200年」というこの原稿依頼をお引き受けした次第である。

ここでは、その「緑」(エコロジズム)の線で、生誕200年と応接してゆくこととする。

 

●搾取の解明を基礎とした資本主義批判

カール・マルクスは1818年にドイツ・プロイセン王国に生まれ、1883年イギリスのロンドンで他界した。この期間は、まさにヨーロッパ階級闘争が、1848年における、フランスとドイツなどでの革命、1871年パリ・コミューン、1881年ナロードニキによるロシア皇帝(アレクサンドル二世)打倒の闘いを頂点に、高揚を極めた。この時代にあって、第一インターナショナルなどの労働者大衆の革命運動の組織化と並行し、勃興する資本主義に対する根底からの批判を探求したのがマルクスであった。

資本主義以前の社会は、経済外的強制としての収奪によって支配階級が人民を抑圧する社会だったことに対し、マルクスは、資本主義社会の支配階級=ブルジョアジーが、労働者階級が生産した剰余価値を単に収奪ではなく、搾取という形で取得する特殊な様式を解明した。それが、例えば「資本論」第三巻の「三位一体的定式」として明らかにされているものである。

資本主義社会では商品(w)は、「労働生産過程」において「不変資本(生産手段)c+可変資本(労働力)v+剰余価値m(このv+mは生きた労働vが生産した価値)」として「商品価値」を構成する。

この場合、剰余価値の産出は、自然に過剰なものが生み出されるのではなくマルクスの『経済学批判要綱』(グルントリッセ)に基づけば、「資本の労働に対する処分権」として組織されるものにほかならない。ここに「労働力の商品化」とは、「賃金奴隷制」だとマルクスが喝破した根拠がある。

だが、この商品の価値構成は、「生産価格」=費用価格k(c+v)+利潤(市場競争の結果としての平均利潤p)に転形する。これにより、労働力vは剰余価値(利潤部分)を生産しない単なる費用価格の一部と観念され、剰余価値の搾取は隠蔽される。

そして、ここから資本家と労働者の搾取に基づく階級対立は「資本―利子、土地―地代、労働―労賃+企業者利得」=商品所有者間の平等な分配システム(三位一体的定式)へと擬制化する。労働者の労賃は「労働報酬としての労賃」とされ、労働力商品の所有者が、労働市場で資本家にこれを売ったものの対価(だから費用価格の一部と観念される)として通常考えられるようになる。自由な商品交換の相互の主体として労働者と資本家は自由平等な市民社会を構成することになる。これをマルクスは「自由幻想」と呼んだ。  

 今日においても、「自由・平等」な社会という幻想性の下、富裕層・ブルジョアジーの労働者階級に対する搾取、収奪は、新自由主義の下で激化しており、非正規雇用などの貧富格差を前提とした資本の専制が広がっている。批判の武器としての<マルクス>を復活させる必要があるだろう。



●マルクスによる廃棄物問題の分析

同時にマルクスの資本主義批判は、彼の自然と、その一部たる人間に対する根源的な認識としての自然主義=人間主義にうらうちされたものであった。マルクスは、「経済学・哲学草稿」では、「自然は人間の非有機的身体である」とのべているが、それは換言すれば、人間は自然生態系のなかで、自ら、一つの生態系を創造しつつ存在しているということである。このことを、マルクスは次のようにも展開している。

 例えば、「資本論」(第三巻第五章第四節「生産の排泄物の節約」)に例を取るなら、そこでは、外部不経済といわれる産業廃棄物、公害問題と、その解決策に関する問題があつかわれている。

 「資本主義的生産様式の発達につれて生産と消費との排泄物の利用範囲が拡張される。われわれが生産の排泄物というのは、工業や農業で出る廃物のことであり、消費の排泄物というのは、一部は人間の自然的物質代謝から出てくる排泄物のことであり、一部は消費対象が消費されたあとに残っているその形態のことである。生産の排泄物は……再び原料として鉄の生産にはいってゆく鉄屑などである。消費の排泄物は……農業にとって最も重要である」。そしてマルクスは次のように批評する。

 だが、「その使用に関しては、資本主義経済では莫大な浪費が行われる。たとえば、ロンドンでは、4、500、000人の糞尿を処理するのに資本主義経済は、巨額の費用をかけてテムズ河を汚すためにそれを使うよりもましなことはできないのである」と。

 そこからマルクスは、排泄物の「再利用」を次のように展開する。

「再利用の条件は、だいたい次のようなものである」として、大規模な作業で使用できるように、排泄物が大量であること、また、「そのままの形では従来は利用できなかった材料を機械の改良によって新たな生産に役立つような姿に変えること」また、「化学の進歩によって」廃物の有用な性質を発見することが必要だと論じている。

 マルクスはそこで「たとえば、以前はほとんど役に立たなかったコールタールをアニリン染料すなわちアカネ染料(アリザリン)に」する技術が開発されていることなどに着目している。

マルクスがここで出しているアリザリンの事例であるが、19世紀、これが発明されるまでは衣服を染色する染料は、自然物から抽出されていた。だから染料はかなり高価なものだった。これに対し、石炭から石炭ガスを生産するときの廃棄物であるコールタールを原料として染料を造ったのがウイリアム・パーキンだった。これにより染料を安価かつ大量に生産することができるようになり、大きな需要を創出した。様々の技術開発が媒介し19世紀末から第一次大戦(1914年~)にかけて、欧州は「ベルエポック」という経済的繁栄の時期を画したが、それは貧富格差を拡大する。さらに第一次大戦は長期化し膨大な戦費が短期間で消費される国家総力戦となった。結果、富裕層の資産も縮小し、労働者階級には戦争動員などでの死がまっていた。そうした体制的危機の中で、ロシア革命―ドイツ革命が勃発することとなった。



●エントロピーの考え方を内包した緑への討究

だがさらにマルクスは、次のようにも述べている。

「このような生産の排泄物の再利用によるその節約とは区別しなければならないのは、廃物を出すことの節約、すなわち生産の排泄物を最小限度に減らすことであり、また、生産にはいってくるすべての原料や補助材料を最大限度まで直接に利用することである」と問題を喚起する。

マルクスは、そこで、「廃物の節約」の問題は、生産過程で生まれる廃物が一番重要な問題であり、機械・道具・原料の良否がその節約の限界を左右する、また、それは、農業においても同じだと展開している。こうしたマルクスの論点は、「エントロピー(廃熱・廃物)の増大」という問題にほかならない。熱力学第二法則(熱を仕事に変えるには、高熱源から低温部への熱の移動が必要だ。そしてどんなに理想的な熱機関でも、熱のすべてを仕事に変えることはできず、必ず無駄になる熱(廃熱)が出る)にもとづくエントロピ―問題として、それはある。21世紀現代における環境負荷、環境破壊の問題、とりわけ生態系を破壊するだけの放射性廃棄物と、フクシマ、チェルノブイリなどの大規模原発事故(現在進行形)の問題に直結する問題である。資本主義工業化社会からのパラダイム・チェンジをマルクスが自己の問題圏に収めていたことがわかるだろう。この観点はかつて、いいだももが表明していたものでもある。



●共同体論と労農連携の視点

マルクスは、こうした資本主義近代にかわり、プロレタリアートの自己解放が実現して行く世界を、例えば「プロレタリアートの革命的独裁」と主張した。だが、その革命の形は、「ドイツ・イデオロギー」「フランスの内乱」「ゴータ綱領批判」などで内容的には多義にわたる。それらは一義一価的に定まった方針として示されたものではないし、またそれでいいと私としては考える。ここでは「共産党宣言・ロシア語第二版序文」でのマルクスの思考をとりあげてみょう。

マルクスはそこで、「もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命に対する合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(この主張はマルクス死後、エンゲルスによっては否定された)と記している。

実はこれにはさまざまな読み方がある。ここでは所有論から考えることにしよう。その場合この文章のポイントは、土地共有制(ミール農耕共同体などのこと)それ自体には実はない。「両者が互いに補いあう」というところこそ、ポイントだと考える。所有論として言うなら、プロレタリア革命によって、形成されるコミューンに基づく共同体が「生産手段の共同体所有と個的占有」(これは全面的国有化か、社会主義市場経済にもとづく生産共同体社会かは、今は問わないものとする)としてあり、また、ミール共同体も、「土地の共同体所有と個的占有(この場合は、これはロシアでの「土地は誰のものでもない」という価値観にもとづくものだが、土地割替制度とそのもとでの「耕作者」の占有権)」として、所有形態的には、同一ベクトルの位相にあるということだ。だからプロレタリア革命の一つの拠点との位置づけが与えられた場合は、共産主義的共同体の一つの萌芽形態になる可能性があるということだ。

イギリスに典型化される西欧のような工業化による資本の本源的蓄積として、全面的な農耕共同体の解体=プロレタリアートという、こう言ってよければ「土地なき農民」のイギリス的な産出ではなく、ロシアは西欧諸国の農業・自然資源の供給国であり、資本の本源的蓄積が西欧のようには進まない農業国だったために、土地共同体は解体を逃れ、また、ナロードニキの反地主闘争の組織化によって、ロシア革命まで保持されていた。このような特殊性をもった問題であるが、農民闘争が、都市プロレタリアの革命運動と連携することで、一つの歴史を描き出すような闘いを実現し、またそこで、民衆の闘う共同性を作り出してゆくことは、戦後日本においても、三里塚闘争が示してきたことだろう。マルクスの労農連携の構想は、人民のラジカルな共同性を実践的に試行してゆくうえで、今後も大きな示唆を社会変革を願う人々に与え続けてゆくに違いない。(マルクスからの引用文は、『マルクス・エンゲルス全集』より)

【著者は、元・季刊「クライシス」編集委員(第三期編集委員会1984年~終刊1990年)】

2018年4月3日火曜日

投機資本主義とヘッジファンド――金融の自由化と富裕層支配


2018/6/02 19:00更新 

【ノート】投機資本主義とヘッジ・ファンド――金融の自由化と富裕層支配

渋谷要



■「帝国主義」<段階>第三期=「投機資本主義」<様態>の位置づけ



以下は著者(渋谷)の見解でしかないが、それが本論の位置づけとなるものである。

資本主義には、重商主義、自由主義、帝国主義という三つの段階があった。現代は、「帝国主義」という資本主義の「段階」を前提とし、その古典的形態を払拭・更新した「様態」をもつものへと転位した形態を示すものとしてある。

 新たなその「様態」を、「投機資本主義」と規定する。が、それは、「帝国主義段階」に代わる新たな<段階ではなく>、あくまでも、「帝国主義段階」<における>「新たな様態」にほかならない。「投機資本主義様態」であり、その根拠は、これから論ずるように、「金融資本」の「様態変化」にもとづくものである。この点、誤解のないように、お願いする。

 「帝国主義」には、これまで、現在に至る、三つの「様態」がある。古典的帝国主義は、レーニンが規定した「植民地主義」様態の帝国主義である。この様態はイギリス帝国主義によってつくられ、これと独占資本主義のタイプを異ならせたドイツ帝国主義との間で、対立が激化した。だが、総じて、帝国主義宗主国と植民地従属国とは、一対一の関係であり、宗主国による政治的軍事的な直接支配が経済的支配の前提としてあった。

これに対し、第二次大戦後世界では、「新植民地主義」が、主流を形成してきた。そこでは、政治的には自立した開発途上国の国民国家が主要先進資本主義国に経済的に支配・従属されることが基本的動向となった。この関係は一対一ではなく、いろいろな主要先進国が、いろいろな従属諸国の第三世界に、経済進出を行うというものとして展開している。この様態をつくったのが、アメリカ帝国主義である。

そして、現代は同じ「金融独占資本主義(金融寡頭制)」としての「帝国主義」といっても、前二者とは<様態>を異ならせた、「投機資本主義」の<様態>として展開している。これは、多国籍企業を主力としたブルジョアジー集団によって推進される新植民地主義を、あくまで<土台としつつ>、だが、これら多国籍企業に加えて主力となったヘッジファンドなどの投機資本主義集団が、新自由主義の一特徴としての「金融の自由化」によって再編された世界に展開することを基軸的な「様態」とするものに他ならない。まさに現代は「帝国主義」段階の第三期=「投機資本主義」<様態>の時代である。ここでは、「金融の自由化」により、銀行業務自体が、変化するものとなっている。また、ビットコインなどの「仮想通貨」といわれるものも登場し、「金融―自由」といったニュアンスを扇動している。

 この点、わたしの認識にしたがえば、現代を、「帝国主義」段階ではもはやない、「現状分析」の時代とする経済学方法論の見解からは離れた、見解であることは、確認をしておきたいと考えるものである。本論では、この「投機資本主義」のアウトラインを概観する。
そこで、もう一つ、誤解を避けるための、本論の位置づけ・前提を書くことが必要だろう。それは、帝国主義間対立にかかわる問題だ。
 本論著者は、二〇〇六年に刊行した『国家とマルチチュード』(社会評論社、文京区本郷)で、ネグりの「帝国」概念を批判し、端的に一か所だけ引用すれば「だが『<帝国>』の超国家(国民国家主権衰退論)という概念は結局・どうしても採用できないっという結論に達した」(二九頁)と表明し、その根拠を論じた「第三部第一章」を参照せよと指示した。もとより、変動相場制それ自体が、国民国家が経済的国家機能を展開しているということの最大の証左にほかならない。
 本論の位置づけとしては、次のように、その前提を書いておくことにする。


●「帝国主義間対立」はなくなったのか?――それは歴然として存在する


 本論著者の理解では、現代の先進資本主義国家も「政治的国家」としては「帝国主義国家権力」「帝国主義国民国家」と規定すべきものであると考える。
 本論次節での引用か所で降旗氏が、すでにそういう段階ではないと論じている「帝国主義的支配」の段階とは、あくまでも、<経済・社会体制>とこれを基軸的に総括するところの経済的国家機能をめぐることであって、経済・社会的諸関係を<政治体制>として総括する<政治的国家>、<帝国主義国家権力>をめぐるものとは、すくなくとも、直接的には<区別>して、論じられる問題領域に属するものだと考える。また、経済社会構成体としてのブルジョア社会の政治的総括体としての、帝国主義国家が消えてしまったということでもない。
 この間の、アメリカ合衆国・トランプ政権と中国の貿易摩擦・貿易戦争(トランプ政権が2018年3月、鉄鋼・アルミの輸入品に対する追加関税措置を発表したことに端を発する)。それと関節した自由貿易擁護のEU諸国の対米批判などは、資本主義国民国家間の経済対立と定義できるものである。それは、資本主義経済社会構成体=グローバリゼーションと、その機軸をなす<資本間競争>が、資本主義国民国家によって総括されているということに他ならない。
 つまりは、新自由主義グローバリゼーションと、帝国主義国家とは、その活動関係としては、x軸とÝ軸のように交差する座標を描きながら、相互規定的に展開しているとしなければならない。
 本論においては、その座標の一つの軸である、グローバリゼーションの特徴点と、その推進者=突撃隊であるヘッジファンドを扱うものとする。
 

■投機資本主義の位置づけ



投機資本主義とは、一言で言って何かを見ることから始めよう。

その位置づけを、例えば「金融の自由化」の脈絡から宇野経済学派の経済学者・降旗節雄(一九三〇~二〇〇九年)は、二一世紀資本主義の基本的特徴として、次のようにのべている。(降旗氏自身は、「投機資本主義」という言葉は使っていない。ここでは、「金融の自由化」というものに焦点を当てた論述となっている)。

「その点がどうも左翼には理解されていないと思いますが、現代の支配は帝国主義的支配ではないのです。帝国主義的支配というのは、レーニンが語ったように国内の鉄とか鉄道という重工業を基礎にして、生産力的な優位性を保つ。そしてその国がこの優越した過剰な生産力を基礎にして途上国に資本を輸出して収奪する。これをそれぞれの列強がやり出し、これがぶつかるというのが帝国主義的な支配構造です。現代はもはやそんな段階ではない。 

 実体は自動車とか電機という耐久消費財量産型の産業ですが、先進国はそういう産業さえも国内にもたなくなって、国際的に展開して資源と労働力の安いところで工場をつくり、世界中に売り出すという構造になっています。そして主要産業は情報とか金融という実体のない経済によって支配される。この構造が現代社会の基本構造になってきたのです」(降旗節雄著作集第五巻『現代資本主義の展開』所収「第7章 グローバリゼーションとは何か――資本主義におけるその歴史的位相」(初出『技術と人間』二〇〇二年一・二月合併号)、社会評論社、二〇〇五年、二五七~二五八頁)。

 降旗氏はここで「もはやそんな段階ではない」といっているが、それは、経済構造の新たな今日的特徴を、はっきりさせるためにする論法と、理解した方がいいだろう。そうしたものとして、降旗氏の言説は、理解されるべきだと、本論論者としては考えるものである。

■金融の自由化とは実践的にどういうことか

この「情報」「金融」を特徴点とする投資資本主義を概観するといった場合、ポイントは、金融自由化の最先端を行くヘッジファンドの規定が重要だ。

「ヘッジファンドというのは株式会社ではありません。プライベートな仕組みで、九九人以下の顧客ですから、小さい。ただしアメリカの場合は、そこに参加するには資格があって、自分の余剰の金融資産、つまり自分の土地とか家屋という資産を数えないで、自由にできるお金が五億ドルあるというのがさいていげんの資格だということです。ヘッジファンドによっていろいろあるようですが、少なくとも一億ドル以上というのは、日本円でいったら100億円です。そのぐらいお金を持っている人からお金を集めて、世界的に運用する」(降旗前掲、二五二頁)。

だが、次のような専門家筋の見解もある。

「そもそも一般的に合意されたヘッジファンドの定義は存在しない。証券監督者国際機構(IOSCO)は、二〇〇九年六月、「ヘッジファンドの監督」に関する最終報告の中で、そうした「統一的な、合意された定義はない」ことから、「以下の特性のいくつかが組み合わさったものの全ての投資スキーム」をヘッジファンドとして考察するという見解を述べている。

 「集団投資スキームに関する規制に通常は含まれている、借入やレバレッジ規制が適用されず、多くの(すべてではないが)ヘッジファンドが高水準のレバレッジを活用している。
(1)返還の運用報酬に加えて相当額の成功報酬(しばしば収益の一定割合)が運用者に支払われる

(2)投資家は、通常定期的に、例えば四半期ごと、半年ごと、一年ごとのようにしか解約できないこと

(3)しばしば運用者の自己資金の相当額が、投資されること

(4)しばしば投機目的でデリバティブが使用され、また、空売りが可能なこと

(5)より多様なリスクまたは複雑な金融商品が用いられること」

(出所 IOSCO 〔2009-1〕)」(高橋誠・浅岡泰史『ヘッジファンド投資ガイドブック』、東洋経済新報社、2010年、一五頁)。



■投機資本主義の手法



だから、ここでポイントとなっているものは、ヘッジファンドをはじめとした投機の手法それ自体である。以下のようなことを多額の資金を使って行う、少数の私募・有志集団がヘッジファンドだということだ。

その手法は先の文章で、すべてカタカナ用語で書かれている用語にある。これらの内容を、本論に必要と考えられる範囲で確認する。



◆レバレッジ……レバレッジ取引のレバレッジとは、「てこ」のことであり、ポイントは、「証拠金」(担保金)である。例えば、10万円の証拠金で、取引所によって倍率の限度は違うが、例えば5倍のレバレッジ取引の場合は、50万円でのとりひきができる。例えば、先物買いなどは、これで大きなリターンが期待できる。



◆デリバティブ……金融派生商品。株、債券といった金融商品ではなく、その取引に派生して生まれる権利や契約を売買する金融商品。例えば、本論との関係で言うなら、CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)がそれで、取引先の倒産に備える保険としての位置づけを持つものである(この解説文の最後の項目「リスクまたは複雑な金融商品」の項目を参照のこと)。



◆空売り……信用取引口座を開設することが前提だが、株の取引の場合、例えばA社の株での場合、自分(Bとする)はA社の株は保有せず、また持っていても使用せず、他のA社株の所有者(C、実際は法人)から借り入れ、例えばA社株が10万円のときに売る、そしてA社株が8万円になったときに、買い戻す。するとB手元に、2万円の差額収益が発生する。こうして買い戻したA社株を、借りたA社株所有者(C)に返す。このときBは、その借りた所有者(C)に「手数料」を支払う必要がある。A社株所有者(C)はそれで、収益を得る。

つまり将来値下がりしそうな株を探すことがポイントとなる。だが、投機的な目的では、値下がりするためにA社株のリスクを演出・組織化することが必要だ。

これを、A社のレベルではなく、一国の国債・通貨総体に対して展開したものが、ヘッジファンドによる1990年代以降の、アジア、欧州などでの国家通貨危機の要因の一つとなっているものだ(後述する)。

(参照:「WEB金融新聞」)

 

◆リスクまたは複雑な金融商品――この例としては、さまざまな場合が考えられるが、本論ではCDS(クレジット・デフォルト・スワップ)をとりあげる。

 A社が、取引のあるB社の倒産に備えて、C銀行とCDSの契約をする。例えばA社が、B社に対し2000万円の売掛債権を保有しているとすると、A社はC銀行と想定元本2000万円のCDS契約をする。B社が倒産した場合、A社はC銀行から、元本相当額の2000万円相当の保証金をうけとることができる。この場合、B社が倒産するまで、A社はC銀行に一定額の「保証料」(元本に対して年率3%なら、60万円)を支払う。B社が倒産しないうちは、C銀行は、「保証料」を得ることになる。

 ここからがポイントだが、こうしたCDSは、しかし、A社がB社に対し実際上、売掛債券を保有していない場合も契約できる。そのときも、B社が倒産すれば、A社は保証金を受け取ることができる。銀行、証券会社、ヘッジファンドが、このような取引の主体だが、これらは、CDSの買い手にも売り手にもなっている。だから投機目的でやり取りされている。

また、「保証料」の「保証料率」は、例えば、B社の状態によって、絶えず変化する。倒産リスクが高まれば「保証料」は高くなり、倒産リスクが低くなれば「保証料」は安くなる。それは、企業のみならず、国家の国債などに対しても適用される。だから、債券などの信用格付けとしての位置づけもあたえられる商品となっている。

(参照:日本経済新聞「nikkei4946com」「全図解ニュース解説」)

投機資本主義のポイントをおさえたところで、まず、投機資本主義の成り立ちから入ってゆこう。



■金本位制の最後的崩壊



一九三〇年代の世界恐慌からブロック化にむかい、保護主義を顕在化させた各国帝国主義は、第二次世界戦争を勃発させた。これは金本位制(金を本位貨幣として通貨の単位価値と一定受領の金とが金兌換をつうじて等位関係で結び付けられている制度)を廃止し、金準備とは関係なく、通貨を発行して公共事業で景気を浮揚し、さらに軍備拡張の軍事的財政政策へとむかっていったことを意味していた。

 これに対し、第二次世界戦争後、アメリカ合衆国を中心とした金本位制が確立した。これがIMF体制だ。アメリカ合衆国に世界の金の七〇%が集まっていたことを背景に、アメリカ合衆国の一定量の金の価値と、各国資本主義国の通貨を結びつける体制がつくられた。それが、「金一オンス三五ドル」――日本円との関係では「ドル=三六〇円」という固定相場制にほかならなかった。

固定相場制は為替相場の変動が起こらないから、貿易も一定の安定性の下に行うことができた。変動相場制において生じるような為替の変動を利用した投機も抑制されていた。国境を越えた貨幣の移動も規制され、通貨供給量は制限されていた。

他方、アメリカのドル散布は西側諸国の復興やベトナム戦争、後進国への経済援助――ソ連圏を包囲する目的を持つ政治的援助の意味を併せ持つなどとして展開されていった。それはアメリカが生産力を誇示し、一人勝ちをしている以上、国際収支の黒字傾向により合衆国にドルはまた帰ってくる。

だが、一九六〇年代後半以降の西独、日本などの経済的台頭、ベトナム戦争の泥沼化による経済的弱体化が生じてくることとなる(これは、一九七五年合衆国のベトナム戦争敗戦に結果する)。

こうしたことを背景に一九七〇年を前後してドル下落の不安感からドルと金の換金が多発化した。また、そうした一人勝ち構造の消滅によって、合衆国から出ていったドルが、合衆国に帰ってこなくなった。そして、帰ってこなくなったドルは、ユーロダラーという形で、世界市場にとどまり、米金融局の管理の外で、展開することになっていった。

かかる要因からユーロダラーで過剰に集積されたドルを、換金するための、金準備が底をつき、 ついに、一九七一年、金と米ドルの兌換を停止するという事態に落ちいったのである(ニクソン・ショック)。こうして金本位制は終焉し、変動為替相場制に移行した。

これは、貨幣の発行量が、金との交換に規定されなくなることを意味している。一九七〇年代初頭、先進国はそこから、スタグフレーションという不況とインフレの同時進行という事態を迎えるが、それは、市場に貨幣が過剰に供給されているが、生産的な事業で投資の機会が鈍化し利潤率の低下を解消することができないという事態に起因するものであった。このことは、オイルショックにおける産油国の外貨準備の増大と、先進資本主義国における金融緩和政策による貨幣供給量の増大などをつうじて、貨幣供給が生産的投資に向かわず、非生産的な投機経済化に向かう方向を作り出したことを意味していた。それは次のようなことだ。



■非生産的投機へ向かった世界経済



「一九七〇年代以降、先進諸国では高度成長が終わり、高い利潤率を求める者にとって投資機会がなくなっていた。そういう時代にあってなおも短期的な観点に立って利潤追求を行おうとした時、存在した手段が投機であった。経済政策はこのような投機の機会を増やすように進められた。もしくは、このような投機を助長するような経済政策が次々と打ち出されたのである。

たとえば、証券業務と銀行業務の垣根が取り払われ、銀行は投機的行動ができるようになった。また外国為替取引における規制の撤廃も八〇年代に進んだ。たとえばそれまでは外国為替取引(自国の通貨を外貨に換えること、あるいはその逆)は財・サービスといった実際の貿易取引がある場合に限られていたが(実需原則)、このような原則が撤廃され、貿易の規模をはるかに超えて無制限に通貨を交換することができるようになったため、刻々と変化する為替レートの変動を利用して利ざやを稼ぐこと、すなわち通貨そのものを短期の投機目的の商品とすることが可能になった。このようにして、国際的な投機的活動を容易にする仕組みが作られた。

以上のような経緯をへて、八〇年代、金融は自由化・国際化されていき、それとともに投機的活動をする余地は大幅に広がっていった。すなわち、新自由主義は金融資本主義と化していったのである」(北見秀司「アタック・フランスのEU批判と代替案が示す『もう一つの世界』の可能性」、三宅芳夫・菊池恵介編「[共同研究]近代世界システムと新自由主義グローバリズム 資本主義は持続可能か?」所収、作品社、二〇一四年、一九三頁。以下「アタック」と略す)。

こうした<投機―金融資本主義>の展開は、資本主義に次のような変化をもたらしたことを意味する。

「金融資産や資本が国境を越え自由に移動できるようになったことも、経済格差を助長した。これにより、労賃の安い地域への資本移転が可能になったからである。これが、世界中の労働者を競争に駆り立て、労賃と労働環境を悪化させた。そのため多国籍企業は記録的な利潤をあげながらも、被雇用者の少なからぬ部分が貧しくなる、という事態がおこった」(同上、一九二頁)。

このことは、資本と国家の関係にも変化を与えた。

「資本の自由な移動は、国家間に法人税切り下げ競争を引き起こした。この競争を享受する多国籍企業は、収益をあげながらも法人税の低い国あるいは無税の国や地域(租税回避地:タックス・ヘイブン)で租税コストを最小化することが可能になった。これが、税を用いた、国家による所得再分配や社会保障の充実、これによる格差の是正を困難にさせた」。

そうした中で、投機資本主義の展開がすすんだ。

「資本移動の自由化は株主の力を強めるのに貢献した。株式投資はいまや世界中の有利なところでできるため、投資家とりわけ国際的に活動する機関投資家がグローバルなレベルで企業を競争させたからである。投資家は、高い配当を求め、そのため異常なまでの高い収益率を求め、短期的観点から見て採算性がないと見なされたものは廃棄するよう指導した。企業やさらにさらには政府さえも、たえずこのような「市場の判断」に晒されつつ活動しなければならず、これが長期的観点から見た場合重要であるような生産への投資を縮小させ、さらには失業率を高める結果となった」(同上、一九二頁)ということだ。

こうして、脱福祉・小さな政府、規制緩和、民営化――戦闘的労働運動解体、高所得者・法人税減税、高金利政策、移動の自由―グローバリゼーションを特徴とするものにほかならない。

例えば、この場合、高金利政策は、新自由主義が台頭し始める一九八〇年代初頭において、第三世界で債務危機をつくりだしている。アメリカでは、物価の安定という目的から、政策金利がとられ、一九七九年には約一一%だった金利が一九八一年には二〇%に引き上げられた。これにより、メキシコなど先進資本主義国から経済援助をうけていた債務国や第三世界諸国では、利息が急増し、債務の返済が不可能となる事態に陥った。IMF(国際通貨基金)はこれら負債国に援助する条件として、構造調整政策=新自由主義政策を強制し、公務員削減・民営化、旧予定し、社会福祉費の削減、価格統制撤廃、為替管理の撤廃などの措置が講じられることとなった。この結果、貧富格差が爆発的に進行した。

まさに新自由主義の市場原理主義は、投機資本主義としてカジノ化・ギャンブル化し、アジアなどの経済新興国や欧州などにヘッジファンドをこういってよければ「突撃隊」とする、ユーロ債務危機・アジア通貨危機などといわれる経済危機を作り出していった。



■金融自由化の諸相



以上のような世界資本主義の様態変化を、もう少し特徴的な事例でみていこう。ここではまず、金融自由化の総括的な指標をみることにしよう。そののち、個々のケースについて、タイ通貨危機とギリシャ債務危機をとりあげる。その中でヘッジファンドの動向を概観する。

デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義』(作品社、2007年、原著2005年。監訳・渡辺治、翻訳・森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝)では次のようである。

ハーヴェイのこの文献の「第六章 審判を受ける新自由主義」のところだ。

「一九八〇年以降に始まった金融化の強力な波は、その投機的・略奪的スタイルの点できわだっていた。国際市場における金融取引の一日の総出来高は、一九八三年には二三億ドルであったが、二〇〇一年にはすでに一三〇〇億ドルにのぼっていた。二〇〇一年の年間総取引高は約四〇兆ドルになるが、国際貿易と生産的投資フローを支えるのに必要な総額、推定八〇〇〇億ドルと比べるならその巨大さがわかるだろう。規制緩和によって金融システムは、投機、略奪、詐欺、窃盗を通じた再分配活動の中心となった。組織的な株価操作、ネズミ講型投資詐欺(注が付されている。節の文章の終わりに注の文があるが、ここでは、引用文中の()にて記述することにする――引用者。注・高利殖の投資対象を考え出し、投資家をネズミ講式に勧誘し、先に投資した者が後から投資した者の資金を財源にして高利回りの配当を受けとる方式。ピラミッドの底辺に近づくほどリスクが大きくなり、最終的に破綻する。この方式を編み出した詐欺師チャールズ・ポンジーの名にちなんで、「ポンジー・スキーム」と呼ばれる)、インフレによる大規模な資産破壊、合併・買収(MA)を通じた資産の強奪、先進資本主義諸国でさえ全国民が債務奴隷に追い込まれるほどの額の債務を支払わせること、そして言うまでもなく、会社ぐるみの詐欺行為や信用と株価操作による資産の略奪(年金基金の横領と、株価暴落や企業倒産によるその多くの破壊)。これらすべてが、資本主義的金融システムの中心的な特徴となった。金融システム内部で価値をすくい取る方法は無数に存在する。金融ブローカー(証券会社など)は一回の取引ごとに手数料をとるので、顧客の取引口座上で頻繁に売買取引をさせることによって――その取引が顧客の口座の資金を実際に増やしているかどうかにかかわらず――ブローカーは収入を最大限に増やすことができる(「過当取引」として知られている操作)。株式取引の出来高の高さは、市場への信頼性というよりも過当取引を反映しているだけかもしれない。株価が重視されるようになったのは、経営者への自社株購入権(ストックオプション)という報酬制度を通じて、資本の所有者と経営者の利害が結びついたからである。これは今日では周知のように、多数の人々を犠牲にして、少数の人々に巨大な富をもたらすような市場操作を招いた。エンロンの劇的な崩壊は、多くの人々から生計と年金の権利を奪い取る全般的なプロセスを象徴している」。

※エンロンの悲劇……総合エネルギー会社エンロンが起こした不正会計事件。エンロンはデリバティブなどの金融技術、ITを駆使したビジネスモデルを確立した。だが二〇〇一年、自社株を吊り上げるためにした、巨額の粉飾決算が発覚、株価が暴落。破産宣告し倒産。それに引き続いて、これに加担した米大手会計事務所アンダーセンが消滅するなど、多数の会社で不正会計などが発覚。これに対して二〇〇二年、SOX法(企業改革法)が施行された(――引用者・渋谷)

「それだけでなく、ヘッジファンドをはじめとする巨大金融資本の諸機関によって行われた投機的な売り崩しにも注目する必要がある(節末注を挿入します――引用者。売り崩し――株価や通貨を人為的に暴落させるためにヘッジファンドや投資家がいっせいに特定の通貨や株を売りに出し、十分下がったところで買い戻して、短期間に巨万の富を得る方法。ジョージ・ソロスが一九九二年に英ポンドに対してしかけて大もうけし、一九九七~九八年のアジア通貨危機でもこの方法が用いられた)。なぜなら、たとえ彼らが『リスクの拡散』という積極的利益をもたらしているとみなされていたとしても、これは実際にはグローバルな舞台での『略奪による蓄積』の最先端をなしているからである」(二二四~二二五頁)。



■金融の自由化と生産のグローバル化



こうした投機資本主義の形成過程を実体経済との関係で、とらえるなら、次のようになるだろう。それは、多国籍企業の世界的な展開を媒介としたものだ。

「世界市場を一国内市場と同様に見なして、世界的な生産立地の最適な組み合わせを考える巨大企業が大量に出現すると、したがってまた各国間の貿易構造に大きな影響をもたらす。……多国籍企業の親会社と子会社あるいは子会社相互間の財の移動――「企業内貿易」――が世界貿易全体の中で占める割合は、極めて高い」(柳田侃・野村昭夫編著『国際経済論――世界システムと国民経済』、ミネルヴァ書房、一九八七年、八六頁)。

「ユーロ・ダラー市場の成長は、……米多国籍企業の発展と密接に結びついており、そうした結びつきを促したのが米銀の国際化であった。つまり、米銀の海外(とりわけ欧州)への進出は、米多国籍企業への巨額のファイナンスを最大の理由としたのである。……さらに七〇年代以降になると、米銀以外の他国の銀行の国際化すなわちユーロ・バンク化が進行するなかで、かれらはオイル・ショック以降の国際収支の赤字ファイナンスをおこなう一方、多国籍企業の膨大な資金需要を満たす役割を一層促進したのである。

……多国籍企業はそもそも、対外直接投資の資金としては親会社によって調達する部分を極力抑え、できる限り進出先ないし国際金融・資本市場で調達する傾向が強い、……銀行の国際化、国際金融・資本市場、ならびに多国籍企業の三者は、いわば三位一体的な発展を遂げていると考えることができるのである。ここにわれわれは、多国籍企業への世界的な規模での資本集中という、資本集積のきわめて今日的な姿を見いだすことができよう」(前掲一三九頁)。

「多国籍企業は他方で、国際金融市場を巨額の資金をプールする場として利用している。その国際金湯資本は、いわゆるオフショア・センターとしてのタックス・ヘブン(税避難地)と呼ばれるものである。それは、法人税・資産税を免除・軽減する目的を持った市場であり、そこでは実際の取引がおこなわれているわけではなく、名目的に多国籍企業の本社が法的所在地として置かれている(前掲一三九頁)。

このタックス・ヘブンは「バミューダ・バハマ・蘭領アンティル・パナマなど」であり「ここでは、企業活動に対して課税はないか、あってもわずかである。したがって多国籍企業の企業収益をタックス・ヘブンに移し、租税の回避をはかる。

そのやり方は、こうである。例えば、東南アジアの現地子会社でカラー・テレビの部品組立をおこない、製品をEC(当時の呼び名、まだEUではない――引用者)内の現地子会社を通じてヨーロッパに販売している米系多国籍企業を取りあげてみよう。この企業は子会社1への租税を回避するために子会社S3を(タックス・ヘブンに――引用者)新たに設け、S1の組立加工によるカラー・テレビを、S3を経由して子会社S2に輸出するという方途をとる。その場合、例えばS1は五〇ドルで親会社Pから輸入した部品を組み立て、製品を五〇ドルでS3に輸出する。S2による輸入価格が一〇〇ドルだとすれば、本来S1が獲得すべき利益五〇ドルは価格操作によってS3に移転され、S1への課税は回避されるという次第である。無駄な、しかし多国籍企業にとっては重要な企業内取引が、新たに付加されることになるのである」(前掲一九〇頁)。

つまりS1(東南アジア)からS2(EC)に輸出すれば、S1は課税されるが、S3(タックス・ヘブン)からS2に(EC)に輸出したことにすればS1への課税は回避されるということだ。実体経済と投機資本主義の相互関係は、こうして形成されていった。

「経済の実体を見ますと、主として先進工業国同士が水平分業を拡大してきましたが、これも帝国主義段階にはなかったことです。例えば日本の自動車会社がアメリカで自動車を造ります。トヨタ、日産、ホンダ。マツダ、富士、いすゞなどはアメリカに工場をつくり、日産、三菱、すずき、トヨタはさらにGMなどと合弁会社をつくっています。アメリカのフォードやGMもヨーロッパに工場をつくっています。電機、ハイテクも皆そうです。先進国同士で高度な製品の水平分業を拡大しています」(降旗、前掲、二〇二頁)。

さらに、こうした実体経済は、生産力の中身の問題として、ⅯE化と金融の世界化というものに展開して行く。

「金融商品もさまざまなものが出てきました。譲渡性貯金(NCD)、市場金利連動型貯金(NⅯC)、相場連動型貯金、オプション付貯金、オフショア・ファンドなどさまざまですが、これは……金融の世界化とコンピューター化の結果です。貯金をしておくとその額に応じて一番利子率の高いところに自動的に振り替えてくれるというサービスもありますが、これはコンピューターがなかったら膨大な費用がかかってできない。コンピューターの出現によってはじめて可能となった貯金や融資の形態上の変化です」(降旗、前掲二〇六頁)ということになってきたのである。

情報・金融・の世界化とⅯE化を軸とした世界経済の展開。まさにこれらが実体経済と投機資本主義の相関関係ということになるだろう。

以上のように展開してきた世界経済だが、20世紀の後半から、かかる金融の自由化は、新たな様相の金融危機・国家財政危機をつくりだしてゆく。



■金融危機の展開図



ここで、20世紀最後期の金融危機の展開図を概観しよう。同じハーヴェイの著作から引用する。

「金融危機は、ある地域を震源地にするとともに、次から次へと伝染していくものでもあった。一九八〇年代の債務危機は、メキシコに限られたものではなく、世界的な広がりを持っていた。……それから一九九〇年代には、相互に関連した一連の金融危機が二度にわたって起こり、不均等な新自由主義化という否定的傷跡を残した」(同上一三四頁)。メキシコ危機は、ブラジル、アルゼンチンなどに波及していく。また「さらに広範囲にわたった金融危機の第二の波はタイを震源地とするものであった。それは一九九七年、投機的不動産市場の崩壊につづくタイ・バーツの暴落をきっかけとして起こった。この危機は、まずはインドネシア、マレーシア、フィリピンに、次に、香港、台湾、シンガポール、韓国に伝染した。その後、エストニアとロシアが強烈な危機に見舞われ、まもなくブラジルが崩壊し、アルゼンチンに長期的影響をもたらした。オーストラリア、ニュージーランド、トルコさえも影響を受けた。……開発主義国家によって推進された『東アジア蓄積体制』全体が、一九九七~九八年に過酷な試練を受けた。これによる社会的影響は壊滅的なものであった。



『この危機が進行するにつれて、失業率は急上昇し、国内総生産(GDP)は急落、銀行は閉鎖された。失業率は韓国で四倍、タイで三倍、インドネシアで一〇倍になった。インドネシアでは、一九九七年の就労男性の約一五%が一九九八年八月までに職を失っており、経済的荒廃は中心地ジャワ島の都市部でとくにひどかった。韓国では都市貧民層がほぼ三倍に増え、全人口の約四分の一が貧困状態に陥った。インドネシアでは貧困層が倍増した。……一九九八年のGDPは、インドネシアで一三・一%、韓国で六・七%、タイで一〇・八%減少した。この危機の三年後のGDPでも、危機以前に比べて、インドネシアで七・五%、タイでは二・三%低かった』」(同上一三六~一三七頁)。

※『』内の引用文は、引用者(渋谷)の方で、『』を付したものである。また、文章の終わりには「注」が付されており、邦訳で、「スティグリッツ『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』一四六~一四七頁」と指示されている。

(なお、08年恐慌=リーマン・ショックに関しては、拙著では、『世界資本主義と共同体』第四章「〇八年恐慌と共同体主義の復権」、二〇一四年、社会評論社、文京区本郷、を参照のこと)。



 

■タイ通貨危機



アジア通貨危機は、1997年、タイ、インドネシア、韓国などの経済新興国で連鎖的に発生した。そして、ロシアやブラジルなどに飛び火して行く。日本でも融資の焦げ付きなどから金融危機が発生した。

タイ・バーツ危機の遠因はプラザ合意にはじまる。これは1985年、合衆国の貿易赤字を解消するため、ドル安に先進国各国が協調して誘導したものだ。ドル安は、例えば合衆国の輸出品を買いやすくし、貿易赤字を縮小する。

1990年代、米ドルとの固定相場制であるドルペッグ制(ドルに対して固定して連動する為替のメカニズム)を、タイをはじめとしたアジアの経済新興諸国は、とっていた。ドルとバーツは等価だ。バーツはドル安の恩恵をうけることになる。

これは又、企業などにとっては為替変動のリスクを回避できることを意味する。しかも、タイは、高金利に自国通貨を設定することで、例えばバーツで貯金した方が、ドルでするより、お金を増やすことができた。また、タイの国内で活動する企業にとっては、タイの高金利と、ドルの低金利との差を利用して、ドルでお金を借り、それをバーツに換えて運用し、バーツをドルに換えて返せば、バーツで借りてバーツで返すより、安く返済できる。

タイなどのアジアの新興諸国は、外国通貨の流入に対する規制を、工業化などの観点から緩和しており、以上のような条件において、先進諸国は、タイに資金を流入させ、タイはその資金で不動産などの設備投資を拡大していくことができた。

だが、タイなど新興国は、経常収支で常に赤字だった。これは他国との貿易競争で常に損失を出していることを意味する。つまり、通貨は国外に流出している傾向にある。だから、通貨を増発的に発行しなければならない。それは、通貨の価値を下げることを意味する。
 だが、工業生産などは成長し、輸出産業の成長そのものは実現していた。経済の景気それ自体は良好なので、1990年代中期までは、それほど問題にはなっていなかった。

だが、1995年、合衆国が、「ドル高」政策に転換。これを受け、新興国の安い製品輸出は、ドルペッグ制のため、ドル高に影響され、高い輸出品へと転じてしまった。これはタイの経済における輸出・価格競争力が低下したことを意味する。(つまり例えばの話、日本円でいうと、これまでは、一ドルを一〇〇円で買えたのに、一三〇円だせないと買えなくなったということだ)。

輸出が縮小すると、経常収支の赤字幅も膨らんでくる。その他の要因、例えば住宅バブルがはじけ、不良債権が増加したことなどが影響し、経済成長は鈍化。バーツの貨幣価値は、下がってゆく以外ない。ドルペッグ制を維持できるのは、明確にあやしくなってきた。

だが、ドル高は進行し、ドルペッグ制であったため、バーツの価値はそれ自体として、下がらなかった。これは、バーツの価値が不相応に高く評価されていることを意味した。

ここで、これはいつかは、バーツの価値は下がるし、下がるように操作・誘導できると考えたのがヘッジファンドだ。

ヘッジファンドはバーツを巨額に<空売り>(このやり方の基本は本論の前の方で書いたとおりだ)しにかかった。海外にバーツが大量に出始める。これをタイ政府は、買い支えしようとした。これを見て、タイにおける金融の自由化で、大量にタイに流入してきていた外国資本・投資家は、ドルペッグ制が崩壊した場合、前述したように、高金利が今まで有利に作用してきたことの正反対として、高金利が借金の返済額を、おしあげるなどの、巨額な損益が発生することなどから、タイから資金を引きあげはじめた。

そうした攻防の結果、タイは、政府の買い支えもむなしく、ヘッジファンドに敗北し、バーツの価値が下落。ヘッジファンドは巨額の富を手にした。

タイは変動相場制に移行。IMFの構造調整プログラムで、緊縮財政をしいられることとなった。まさに「略奪による蓄積」(ハーヴェイ)だ。



■ギリシア債務危機の位相



 欧州においては、金融危機での金融・財政の改善が自国の力だけではできないとされる諸国を総称して、PIGSという言葉ができている。これは、ポルトガル・アイルランド・ギリシア・スペインの頭文字を意味するものだ。二一世紀に入り、ギリシア、アイルランド、スペインに債務危機が襲った。アイルランド、スペインは住宅バブルが原因だった。ここでは、ギリシアについて見ていこう。

ギリシアの財政赤字の原因は、公務員の多さにあるとする分析がある。全労働人口の4人に一人が公務員であり、それが生産性を阻害しているというわけである。だが、例えば、アタック・フランスが主張するものはそれとは異なっている。

ギリシアの債務累積は、ギリシアが軍事政権であった1960年代から始まっている。民政に移行してからも債務は増え続けた。その原因は軍事政権期からの武器の輸入にほかならない。ドイツやフランス、イギリス、ロシアといった国々の軍事兵器産業の得意先だ。「このような状況の下、軍事費は膨れ上がり、GDPの四%を占めるにいたったが(ちなみにフランスは二・四%)、EUは、ギリシアを財政支援する際、緊縮財政を要求したにもかかわらず、なぜか軍事費削減は要求しなかった」(「アタック」、一九八頁)とされる。
 さらに、インフォーマルセクター(非行政指導セクター。国家の統計記録がない産業で、非店舗の行商など)が、GDPの三五%を占め、税収の二〇%が失われていること。また、ドイツ、フランスなどの銀行が、欧州中央銀行から低利で資金を調達し、それより高利でギリシアの政府や民間部門に貸し続け、利益を得ていた。民間部門の債務はこの銀行ローンによって増え続けていた。

二〇〇九年、政権交代を機に、それまでの政府発表で、財政赤字がGDP比五%に対して、一三・六%(二〇一〇年四月発表の数字)であることがわかり、財政危機が表面化する。

それを発端として、ヘッジファンド、大手投資銀行による、ギリシア国債に対する投機がはじまった。つまり、「ギリシア債の価格を急落させ、CDSに対する投機と国債の『空売り』によって利益を上げようとした」(「アタック」、一九八頁)のである。

CDSは、本論冒頭で解説したような仕組みであり、この場合は、ギリシア債が投機対象となる。ギリシア国家が国債の債務の返済ができなくなった時、このCDSの発行元である銀行や保険会社が代わって、債権者に損害額を支払うが、CDSの買い手は売り手に保証料を支払わねばならない。ポイントは債務者の返済能力がなくなってゆくほど、保証料は高くなってゆく仕組みにある(また、実際に国債を保有していなくても、CDSは売買できる)。さらに、ヘッジファンドなどの機関投資家たちがギリシア国債の『空売り』を展開した。

この場合の「空売り」の契約は、ギリシャ債が、現在あるユーロ価値に対し、例えば、一〇%下がった数か月先に予測される価値で売る内容で契約する(契約時は、まだ購入しない)。実際は、数か月先、一五%下がっていれば、その一五%下がった価値で買ったギリシャ債を、契約通り一〇%下がった価値で売る。五%の儲けがでるという手法だ。

「そのため機関投資家は、ギリシア国家財政の危機を鳴り物入りで騒ぎ立てた。……続いて、このようなCDSの急騰を見て、格付け会社は、ギリシア政府の返済能力が低いと判断し。国債の格を下げた。その結果、国債の金利が急騰し、ギリシア政府の借金は膨らみ、危機がさらに深刻化した」。二〇一〇年五月、EUによるギリシア救済措置が講じられたが、それは、ギリシアの国家破産で、債務一部帳消しなどの事態を避け、投資家たちの利益を守るためだったと、アタック・フランスは分析する。

その結果、ギリシアは緊縮財政を強いられ、「定年退職年齢が六七歳に引き上げられ、年金は七%、公務員の給与は一五%削減され、消費税は二%引き上げられた」(「アタック」、二〇〇頁)ということになった。

 

■富裕層の世界権力とヘッジファンド



以上見てきたようにヘッジファンドは、世界中を、こういってよければ<遊牧>し、各国の財政矛盾に付け込んで、大きな権益をあげている。

例えば、反貧困NGO・オックスファムが二〇一四年に出した数字では、世界の個人資産の上位一%が所有する富は、世界の四八%、一人当たりで平均二七〇万ドル(約三億二〇〇〇万円)だが、それは、厳密な数字がどうの、というよりも、その規模にまずは注目すべきだ。そして、その資金運用では、レッバレッジを効かせたもっと、大規模な額の運用が可能となるだろう。

「ヘッジ・ファンドなどが動員する投機マネーは、一国の経済を呑み込むことができるばかりか、世界経済を震撼させるだけの規模があるのである。……ここで『レバレッジを利かせる』という手法が重要になる。レバレッジとは英語で『梃子』という意味だが、金融の世界ではこれを、実際の手持ちの資金よりも大量の資金を動かして投資する行為をさして読んでいる。ヘッジ・ファンドは、調達してきた大量の資金を元手に借り入れをしてレバレッジを利かせる・そうして非常に危険であるが極めて高いリターン・レートの投資、というよりは投機を行っている。そのレートは実物資産に対する投資のレートをはるかに上回る。そのため本来ならば実物資産に向かうはずの投資に金が回らなくなる」(志賀櫻『タックス・ヘイブン――逃げてゆく税金』、岩波新書、二〇一三年、一五二~一五三頁)。

こうして得た収益は、ヘッジファンドが、一般の人々に資金を公募する株式会社などとは異なり、少数の私的に集まった人々の資金で運用されるため、公的規制が適用されない。さらに、租税回避地が、これらの収益をまもることとなる。

「ヘッジ・ファンドは、タックス・ヘイブンないしオフショア金融センター(オフショア・マーケット……国内市場と切り離した形で、被居住者の資金調達、運用を、金融、税制、為替管理などの機制が少ない自由な取引として認める市場と一般に規定されているもの――引用者)で設立されていることが多い。これは、タックス・ヘイブンの重要三要素である、税制、秘密保全、規制監督法制などを考えての選択である。たとえば、ソロスのクォンタム・ファンドはキュラソー(タックス・ヘイブンでカリブ海にある、オランダ王国の構成国――引用者)で設立された」(同上、一五六頁)ということである。



■結語

本論では、ヘッジファンドに代表される金融の自由化の様態を概観してきた。まさにこのヘッジファンドが富裕層支配の突撃隊である。

この投機に対する規制の方法については、投機行為に対するトービン税などでの課税の主張、「民主主義的グローバリゼーション」でのヘッジファンドの廃止やデリバティブの廃止などの主張、ピケティによる「税制社会国家」の主張、反グローバリゼーションの地域共同体の復権・創造という考え方などが、いろいろな人々によって展開されてきた。とりわけ、二〇一二年におけるフランスでの金融取引税の成立で、それらの主張が、いかほどかの現実味を帯びてきたものでもある。この仏金融取引税だが、対象は上場株式や一部のデリバティブに対するもので、買い手に〇・二%の税率での課税が実施されている。

日本では海外合弁企業における法人所得の海外流出に対する移転価格税制などは、日本でも実施されているが、投機や資産に対する税制対策は、これからである。

同時に今後、先に挙げたさまざまな主張には、さらに具体的な政策提言や法制定プロセス、または、転じて、投機資本主義打倒の革命プロセスとして現実化して行く道のりをあきらかにすることが求められているといえるだろう。