ロシア農耕共同体と世界資本主義
アップ 2022・04・09 14:06
渋谷要
【リード】アップしたこの文章は、拙著『世界資本主義と共同体』(社会評論社――文京区本郷、2014年)の第六章「ロシア農耕共同体と世界資本主義」です。この農業問題での、ボリシェビの近代生産力主義(社会主義的原始的蓄積政策)を契機に、スターリンの強権的集団化へと至る農業からの収奪→工業化を土台に、民族問題→クレムリンの命令を聞かない・自立化する民族集団の強制移住政策が展開されたと考えます。民族問題の土台には、階級的搾取・収奪の問題がある。そのことが、とりわけ、ロシアという「農業国」で展開したのが、この農耕共同体問題だと考えます。
★★★いろいろな、近代主義的誤解を避けるために、
この【本文】の【結論】を、
あらかじめ、言っておくと、
◎★★★<ロシア農耕共同体を解体したのは、資本主義近代化ではなく、ボリシェビキだった>★★★◎
ということです。この点、誤読のないように!★★★
――――以下【本文】
●はじめに
農業における生産協同組合(広義)のいろいろな形態(社会的労働実態)は今日において、新自由主義グローバリゼーション(世界市場)と対峙する位置を形成しているし、また、今日以上にそれを形成してゆくことが可能である。それが資本からパージされた労働者の生活を保障するものとなるような自由さをもって、広がってゆき、資本家の経営する職場――新自由主義よりこちらの方が生きやすいし、生きがいがあるということになり、都市の労働者が農業耕作者(半農半Xであれ)になることが常態化してゆけば、都市の労働者が資本家の労働力商品として生きることを選択しないようになることが可能となる。
そうなれば逆に資本の労働政策もまた変わるだろう。ソ連「労働者国家」が存在したころの、対抗的・国民統合的な反共政策としてあった社会保障政策・雇用政策をやり方は以前とは違うだろうが、とらなければならないということになるのではないかということだ。そしてそうした労働現場における、資本に対する労働者の闘うヘゲモニーを確立して行くことが労働運動の、ひとつの課題になるだろう。職場生産点において多くの仕事と権限を労働者の自主管理で運営する展望も開拓できるだろう。
まさに新自由主義グローバリズムに対抗する<根拠地>としての都市と農村を自主的流通でつらぬく農業生産協同組合戦略は、このような展望において成立するのではないか。
他方で、そのことの可能性を今一番破壊しているものに福島第一原発の原発事故(現在進行形)がある。森林生態系――海洋・河川・土壌に放射性物質は降りそそいでいる。反原発の闘いと農業生産協同組合戦略は不可分の関係にある。原発・核開発は農産物という命の源を生産する農業を破壊するものだ。このような問題意識のもとに、その共同体問題一つのルーツとなるような問題を考えてゆきたいと思う。
●ラトゥーシュの問題意識●
ラトゥーシュは『<脱成長>は、世界を変えられるか』(作品社、二〇一三年、原著二〇一〇年、以下『脱成長』とする)で、次のように述べている。
「確かにマルクスは、一八八一年にヴェラ・ザスーリッチに宛てた有名な手紙の中で、帝政ロシアの伝統農村共同体(集団農村経営村)(ミール、オプシチーナ農耕共同体のこと――引用者)が資本主義的発展段階を経由せずに社会主義体制に直接以降することを描いた。社会主義革命のこの別のシナリオの可能性は……新たに、メキシコのサパティスタと先住民民族共同体に関して同様のシナリオが構想されている(それはこのラトゥーシュの本の「序章」に論じられているが本論では省略する――引用者)。しかし周知の通り、マルクスの没後から一〇年が経過した頃、エンゲルスがこうしたもう一つの社会主義革命の道に対して非常に懐疑的になった。マルクス思想のこれらの『残滓』は、マルクス没後二〇年たってレーニンによって理論と実践の双方で攻撃され(まさに、この問題を第六章で扱う――引用者)、その後スターリンによって徹底的に除去された。第三世界の様々な『実在するマルクス主義』は、前資本主義的な共同体に対して全く寛容ではなかった。『社会主義的』」近代化は、資本主義的近代化以上の暴力と執拗さを用いて過去を白紙にし、社会主義の実験の失敗に続いて起こった超自由主義的なグローバリゼーションの侵入を容易にしたのである。事実、(『ロマン主義的』あるいは『ユートピア的』という形容詞で根拠なく蔑まれた)初期社会主義の道と声の類稀な多様性は、史的・弁証法的・科学的唯物論の単一的思想の中で矮小化された」(『脱成長』一五一~一五二頁)。
これから本論でのべようとすることは、まさに、この問題である。後述するように、このラトゥーシュの論述の中で、後述するようなマルクスの農耕共同体とプロレタリア革命のユニットによる社会主義革命の「別のシナリオの可能性」(「別」というのは、生産力主義的な都市革命だけのプランとは別という意味だ)が「レーニンによって理論と実践の双方で攻撃され」という、その「理論」とは、「いわゆる市場問題について」、「ロシアにおける資本主義の発展」などで展開されている市場経済の発達による農耕共同体解消論であり、それらは、これから論述するように、カウツキー、エンゲルスなどからレーニンが継承した商品経済史観にもとづくものであった。さらに、この「実践」とは、ナロードニキ――エスエル、左翼エスエルや、ウクライナ・マフノなどとの党派闘争を土台としつつ、一九一八年以降の、ロシア内戦期において、ボリシェビキが展開した、「食糧独裁令」(穀物・農産物の強制徴発)などのことである。さらに、「スターリンによって徹底的に排除された」とは、「農業集団化」をしめすものである。これ以上の解説は、以降の本文にゆだねよう。
まず、ラトゥーシュが述べている、マルクスの社会主義革命のプラン「別のシナリオの可能性」という問題からはじめよう。
●ロシア農耕共同体の運命について
一八八一年二月から三月にかけて、マルクスは、ロシアの革命家、ザスーリッチの依頼に対して四つの草稿をもつ一つの短い手紙を書いた。この手紙の文面に後期マルクスの世界認識をめぐっての重要な観点と一九世紀ロシア革命運動内の戦略論争を背景にしての彼の革命観が表出している。
当時ロシア革命運動は一八七九年、ヴ・ナロード運動の全国的政治組織であった「土地と自由」が二分解し、上からの資本主義化を推進する国家から農耕共同体を守り、国家を暴力的に打倒し革命的独裁を樹立せんとする政治革命派=「人民の意志」党と、農民闘争と同時に都市プロレタリアートの出現に対してこれの組織化を緊要とした「黒い再分割」派が成立していた。前者はツアーリ打倒の真剣な武装闘争をめざし、後者は亡命地において新たな革命の思想形成をめざしていた。
このような情況下で、ロシア革命の戦略的見通しにとって、ロシア社会の中で支配的なミール、オプシチーナといった農耕共同体の運命への分析が要請されていた。国内的に活発な論争が展開し、資本主義的歴史必然として、これが解体する運命にあるのか否か、又、これが資本主義を通過することなく、社会主義へ向かって、解放されていく可能性があるのか否かをめぐって議論が闘わされた。
一八八一年二月の、マルクスによせられた、ザスーリッチ(黒い再分割派に属する)の手紙は、まさに、この論争の中で、マルクスの『資本論』が、重要な分析の対象になっていることを示し、マルクスに、ロシア農耕共同体の見通しに対する分析を求めたものであった。
●ザスーリッチのマルクス宛の手紙
ザスーリッチのマルクス宛の手紙は次のようであった。
「 一八八一年二月一六日 ジュネーヴ、ローザンヌ街四九号 ポーランド印刷所
敬愛する市民よ! あなたの『資本』がロシアで広汎な読者を得ていることは、あなたのよくご存知のことでしょう。出版されたものは没収されました。しかし、没収をまぬがれてわずかに残った版本が、わが国の多少とも教養ある人々の一団によって読まれています。そして繰りかえしよみかえされていくことでしょう。つまり、『資本』を研究している真摯な人々がいるのです。しかしあなたは、ロシアの農業問題やわが農村共同体(commune rurale)に関する私たちの論争のなかで、あなたの『資本』が、現に果たしている役割については、おそらくご存じないでしょう。
(中略)
この問題は、とりわけわが社会主義者党(parti socialiste)にとって生死にかかわる問題である、と私には考えられるのです。わが革命的社会主義たちの、一人一人の運命は、まさに、この問題をめぐる次の二つの見解のうち、いずれをあなたが採るかにかかっております。
二つのうち一方とはすなわち、この農村共同体が、国庫の無際限の租税徴収や領主への支払いから、さらには恣意専制の行政から、ひとたび自由になれば、社会主義の道において己を発展させることができる。いいかえれば、集合主義(コレクティビスト)的基礎のうえに、生産物の生産とその分配とを徐々に組織することができる。この場合にあっては、革命的社会主義者は、この共同体の解放と発展とに向かって、その全勢力を捧げなければならないことになります。
このような見解とは逆に、もし共同体が死滅する運命にあるものであれば、社会主義者にとって次のことだけが残ることになります。すなわち、ロシア農民の土地が彼らの手からブルジョアジーの掌中にうつるには何十年かかるか、資本主義がロシアにおいて西ヨーロッパのそれに類似する発展を遂げていくには、おそらく何百年もかかるであろうが、果たしてどのくらい先のことか、ということを予測するための、あまり根拠のない計算に専念すること、これであります。この場合には、農民層のなかから不断に溢れ出ていく都市労働者のなかで専ら、宣伝活動をしなければならぬことになりましょう。農民が、共同体の解体のために、賃金を求めて、大都市の舗道に投げだされていくからであります。
農村共同体は、歴史が、そして科学的社会主義が、つまり、この争う余地のないものが、死滅すべきものと宣告している、一つの原古的形態である、と語られるのをわれわれは最近しばしば耳にします。このようなことをいい広めている人は、自分たちのことを、すぐれてあなたの弟子すなわち『マルクス主義者』だ、とみずから語っております。彼らの議論の最大の強みは『マルクスがそう言っている』という点にあることがしばしばあるのです。
『しかし、あなたがた(マルクス主義者)は、そのことをマルクスの『資本』から、どのようにして導き出すのか、マルクスは【『資本』では、農業問題を取り扱っていないし、ロシアについても語っていないではないか』と、人は彼らに反論します。
(中略)
こういう次第で、――市民よ――この問題に関するあなたのご意見が、どれほどわれわれの切実な関心事となっているか、またわが農村共同体のさらされる運命に関する、そしてさらに世界中のすべての国々が資本家的生産の全局面を経過するという歴史的必然の理論に関する、あなたのご意見を、あなた御自身が開陳してくださることが、どれほどにまで大きな寄与を私どもにもたらすか、御了解いただけるでありましょう。
(中略)
もしも、この問題に関する多少とも詳細な御意見を開陳する時間が、いまのあなたにない場合には、せめて、手紙の形式でそうしていただければ、そして、その手紙を翻訳しロシアで公表することを私に対してお許しくだされば、幸いに存じます。市民よ、私の心からなるご挨拶を、お受けとりください。 ヴェラ・ザスーリッチ」(平田清明『新しい歴史形成への模索』、新地書房、一九八二年、一九四~一九七頁。以下「平田本」とする)。
●マルクスからザスーリッチへの手紙
以上のザスーリッチのマルクス宛の手紙に対する返書は、次のようであった。
「 一八八一年三月八日 ロンドン、北西区 メートランド・パーク・ロード 四一番
(中略)
数ヶ月前に私はすでにこの同じ問題について論稿を書くことを、サンクト・ペテルブルグ委員会(「人民の意志」党のこと――引用者)に約束しました。しかし、私の学説といわれるものに関する誤解について、いっさいの疑念をあなたから一掃するには、数行で足りるだろうと思います。
資本家的生産の創生を分析するにあたって、私は次のようにいいました。
『かくして資本主義制度の根底には、生産者と生産手段の根底的分離が存在する。……(引用者注・この「……」はマルクス自身の略)この発展全体の基礎は、耕作者の収奪である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである。……(引用者注・マルクス自身の略)だが西ヨーロッパの他のすべての国も、これと同一の運動を経過する』(『資本』フランス語版、三一五頁)。
このような次第で、この運動の『歴史的宿命』は、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです。このように限定した理由は、第三二章の次の一節のなかに示されています。
『自分自身の労働にもとづく私的所有……(引用者注・マルクス自身の略)は、やがて、他人の労働の搾取にもとづく、賃金制度にもとづく資本家的私的所有によって、取って替わられるであろう』(前掲書、三四一頁)。
こういう次第で、この西ヨーロッパの運動にあっては、私的所有の一つの形態から私的所有の他の一つの形態への転化が、問題なのであります。これに反して、ロシアの農民にあっては、彼らの共同所有を私的所有に転化させる、ということが問題なのでありましょう。
こういう次第で、『資本』に示された分析は、ロシアの農耕共同体の生命力を肯定するために人が利用しうる論拠をも、逆にそれを否定するために人が利用しうる論拠をも、提供していないのです。しかし私は、この問題について特殊研究を行い、その素材をオリジナルな資料に求めてきた結果、次のことを確信するに至りました。
すなわち、この共同体はロシアにおける社会再生の拠点である。しかし、そのようなものとして機能しうるためには、それはまず初めに、あらゆる側面からこの共同体に襲いかかっている有害な諸勢力を排除し、ついで、自然成長的な発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であるでしょう。
親愛な市民よ、あなたの忠実な カール・マルクス」(「平田本」一九九~二〇一頁)。
●マルクスのロシア農耕共同体に関する見解
マルクスの論点は次のように整理できる。
第一に『資本論』のフランス語版を引用し、資本主義の歴史的宿命が西ヨーロッパに限定されていて、ロシア共同体の分析の拠点とはならないのだという点だ。
「資本主義の創成期を分析するにあたり、私は言った。『……資本主義制度の根底には、生産者と生産手段との根本的な分離が存在する。……だが、この発展全体の基礎は耕作民の収奪である。それが根本的な仕方でおこなわれたのはまだイギリスにおいてだけである。……しかし、西ヨーロッパの他のすべての諸国も同一の運動を経過している(『資本論』フランス語版……)』だから、この運動の『歴史的宿命』は、はっきりと西ヨーロッパの諸国に限定されている」(マルクス『資本主義的生産に先行する諸形態』、大月書店、国民文庫、一二九頁)ということである。
第二に、ロシア共同体に対し有害な諸勢力を排除し、発展条件の正常な確保を計れば「ロシアにおける社会再生の拠点」となるという旨のものであった。
また後述するように、『共産党宣言』ロシア語第二版序文においても、マルクスはロシア革命がヨーロッパプロレタリア革命の合図となり、相補的に関係するなら、ロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点となることができると書いている。
だがザスーリッチは一八九〇年代に入りロシア共同体ミール革命拠点論を撤回した。ザスーリッチは「黒い再分割」派そして、そこからから発生したプレハーノフが指導する「労働解放団」に属していた。プレハーノフはミールを「アジア的専制」の土台にすぎないと考えていた。ザスーリッチ同様、ミール否定である。
後に見るようにエンゲルスもまたマルクス死後、ミール農耕共同体=共産主義萌芽説を否定した。
マルクスの「ザスーリッチへの手紙」は、プレハーノフによって幽閉された。この手紙が発見されるのは、『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』の編集を手がけたリャザーノフ(のちトロツキー派としてスターリンにより粛清)によって、草稿が一九一一年発見され、一九二三年「手紙」の所在が判明し公表された(この経緯について詳しくは平田清明『新しい歴史形成への模索』新地書房、一九八二年、参照のこと)。
ミール拠点論の否定と、西欧的資本主義市場化による農村のプロレタリアートとブルジョアジーへの階級分裂という表明は、プレハーノフの系列によって継続され、ロシア社会民主党へ、ボリシェビキへと、そのナロードニキと対立する党派によって継承されていった。そしてこの流れにおいて、レーニンの「ロシアにおける資本主義の発展」などの見地が確立する。さらロシア革命後のボリシェビキ官僚主義によるミール農耕共同体破壊へと展開してゆくのだ。
これに対しミール農耕共同体=革命拠点論(左翼エスエル――SR社会革命党においては、マルクス同様、プロレタリア革命との合流を条件とするミール共同体拠点論である)を、断固主張した「人民の意志」派と、これを継承した社会革命党→左翼エスエル(左翼社会革命党)へと展開する。 ここにボリシェビキと左翼エスエルの根本的な相違も存在するのである。
それはまたボリシェビキが、封建制度→資本主義→社会主義という、後にスターリンが整理することになる、単線的歴史発展段階説として「原始共同体→奴隷制→封建制→資本主義→社会主義」をもって、歴史進歩主義的・近代化主義的にロシア農耕共同体の意義を否定した見解の逆方向でマルクスのロシア革命論が定立していると言うことを意味する。
そもそもこの共同体は封建共同体の概念には入らない、もっと古形の農耕共同体であるロシア農耕共同体について、マルクスは「ザスーリッチへの手紙」への「草稿」中、「西洋でこれにあたるものは、きわめて最近の時代のゲルマン共同体である。それは、ジュリアスシーザーの時代にはまだ存在しておらず、ゲルマン諸種族がイタリアやゴートやスペイン等を征服しにやってきたときには、もはや存在していなかった」と規定している。
つまりこのことは次のことを意味している。このマルクスが言っている「ゲルマン共同体」とは、マルクスが「グルントリッセ」(経済学批判要綱)中の「フォルメン」(「資本主義的生産に先行する諸形態」)でつくった歴史の四類型「アジア的→ギリシア・ローマ的→ゲルマン的→ブルジョア的」の「ゲルマン的」とは別のものであると定義されるものだということだ。
プロレタリア革命との結合によって、共産主義的発展(再生)の出発点・拠点となるという考え方の内に、後期マルクスが、「歴史の単線的発展史観」を否定していることが、鮮明にうちだされているという立場を表明したものに他ならない。
●共産党宣言ロシア語第二版序文
ロシアの農耕共同体の意義を高く評価したマルクスの全文を読もう。
ちなみに、この文書に署名したエンゲルスは一八九四年、ロシア共同体=共産主義拠点論を撤回し、資本主義(商品経済の法則)が共同体を破壊するとしたのであった(「ロシアの社会状態」再販、あとがき)。そこでは次のように論じられている。
「ところでしかし、わすれてはならないことは、ここで(共産党宣言ロシア語第二版序文のこと――引用者)述べたロシアの共同所有のひどい崩壊が、それ以後、いちじるしく進んだことである。……ロシアの共同体の崩壊が一定の水準に達した以上は、世界のいかなる権力といえども、これを復活することはできるものではない」。エンゲルスはその根拠を「貨幣経済の侵入」としている(マルクス・エンゲルス全集第二二巻、原書ページ、四二九~四三〇頁)。
後に見るようにレーニンもそのエンゲルスにしたがって「ロシアにおける資本主義の発展」などでロシア農耕共同体の解体を予測し農耕共同体を拠点とするナロードニキを批判した。だが、これからみるようにその「解体」は世界資本主義の特殊な構造によって全面的にはおこらないばかりか、オプシチーナ、ミールといった農耕共同体には、ロシアの農民の八割以上が帰属し、対地主闘争を元気に展開していった。そして一九一八年ロシア農民革命の一大拠点となっていったのである。
ではいつまで存続したのか? ロシア革命後まで。スターリンがこの共同体を国家暴力によって、国営農場に転換させるまでだ。客観主義的な近代主義者たちの妄想はミールが商品経済の法則によって解体するということを語るだけだった。しかし、ミールはこれからみるように世界資本主義の構造によって存続しただけでなく、一つの革命拠点という共同意志によって自身を保持したのである。そこには新自由主義グローバリゼーションに対する一つの闘いのタイプを発見することもできるのではないか。
「共産党宣言 ロシア語第二版序文」(全文) (マルクス・エンゲルス全集第一九巻から。原書頁二九五頁、以降)は、次のように述べている。
「『共産党宣言』のロシア語初版は、バクーニンの翻訳で、一八六〇年代のはじめに『コロコル』発行所から出版された。当時の西欧の人々には、この本(『宣言』のロシア語版)は、文献上の珍品としか考えられなかった。今では、そういう見方をすることは不可能であろう。
その当時に(一八四七年一二月)プロレタリア運動がまだどんなに限られた地域にしか及んでいなかったかは、『宣言』の最後の章、さまざまな国のさまざまな反政府諸党にたいする共産主義者の立場という章が、このうえなくはっきりと示している。つまり、そこには、ほかならぬ――ロシアと合衆国が欠けている。それは、ロシアがヨーロッパの全反動の最後の大きな予備軍となっていた時代であり、また合衆国がヨーロッパのプロレタリアートの過剰な力を移民によって吸収していた時代であった。どちらの国も、ヨーロッパに対する原料の供給者であると同時に、ヨーロッパの工業製品の販売市場になっていた。だから、その当時には、どちらの国もなんらかの仕方でヨーロッパの既成秩序の支柱であった。
それがいまではなんという変わりようだろう! まさにこのヨーロッパからの移民の力が北アメリカに、大規模な農業生産を発展させる可能性をあたえた。そして、いまこの農業生産の競争が、ヨーロッパの土地所有を――大小の別なく――根底からゆりうごかしている。そのうえ、この移民のおかげで合衆国は、非常な勢力と規模でその膨大な工業資源を利用することができたので、西ヨーロッパ、とりわけイギリスの従来の工業上の独占は、まもなく打破されるにちがいない。
この二つの事情は、ともにアメリカそのものに革命的な反作用を及ぼしている。全政治制度の土台である農業者の中小の土地所有は、しだいに巨大農場の競争に敗れている。それと同時に、工業地帯では、大量のプロレタリアートとおとぎ話のような資本の集積とが、はじめて発展しつつある。 それでは、ロシアはどうか! 一八四八年―一八四九年の革命のときには、ヨーロッパの君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ようやくめざめかけていたプロレタロアートから自分たちを守ってくれる唯一の救いは、ロシアの干渉であると見ていた。ツアーリはヨーロッパの反動派の首領であると、宣言された。
今日では、彼はガッチナ【引用者注:一八八一年三月、人民の意志党はアレクサンドル二世を完全打倒(=暗殺)した。これをうけて、アレクサンドル三世はサンクト―ペテルブルグ(レニングラート)付近にある城・ガッチナに、「人民の意志党」のテロルを避けるため軍隊などの警護をうけて、篭ることになっていた、そのガッチナ】で革命の捕虜になっており、ロシアはヨーロッパの革命的行動の前衛となっている。
『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の解体が不可避的にせまっていることを宣言することであった。ところが、ロシアでは、資本主義の思惑が急速に開花し、ブルジョア的土地所有がようやく発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることが見られる。そこで、次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体(オプシチーナ)は、ひどくくずれてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか? それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展でおこなわれたのと同じ解体過程をたどらなければならないのであろうか? この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。
ロンドン、一八八二年一月二一日、カール・マルクス、F・エンゲルス」。
そして、こういうマルクスの思潮とフレンドなものとして、まさにナロードニキの次のような共同体論が展開されていたということなのである。
●ゲルツェンの農民共同体論
これから見るようにレーニンの商品市場拡大=ミール農耕共同体解体論の予測にもかかわらず、そして一九一七年以降のロシア農民革命により、「一九二五年で農民の九〇%以上が農民共同体に属していた」(アレック・ノーヴ『ソ連経済史』、岩波書店、一九八二年、一一九頁)という、この現実において、レーニンが言うような<共同体革命論はロマンチズム>でもなんでもなく、現実の実践的な運動として、レーニンたちに対しては外在化した、歴史的・社会的ヘゲモニーとして存在していたのである。
「共同体所有と個的占有」を所有形態とした農耕共同体は、生産手段のブルジョア的私的所有と非和解的に対立し、社会主義的共同占有とフレンドなものに他ならない。
結局この共同体を打ち砕いたのは、ボリシェビキ官僚主義の農業集団化であり、官僚制国家所有にもとづく近代工業化国家路線にほかならなかった。
以下の共同体革命論は、こうした歴史の流れをふまえつつよまれるべきものである。
ナロードニキのイデオローグ、ゲルツェンに登場願おう。
ゲルツェンが一八五一年に書いた「ロシアにおける革命思想の発達について」(岩波文庫、二〇〇二年)は次のように述べている。
「ロシアの農村共同体はいつのころともわからない遠い昔から存在している。……農村共同体はいわば社会的なひとつの単位であり、法人である。国家はけっしてその内部に立ち入ることはできなかった。共同体は所有者であり、納税の義務を持つ。それはすべてのものに対してまたおのおのの個人に対して責任をもつ。それゆえに内部のことに関するすべてにおいて自治的である。
共同体の経済的原則はマルサスの有名な格言にたいする完全なるアンチテーゼである。共同体は例外なくすべての者におのが食卓の席を提供する。土地は共同体に属するのであって、その個々の成員に属するのではない。これらの成員はおなじ共同体の他のおのおのの成員の所有している土地と同じ面積の土地を所有する不可侵の権利をもっている。この土地は彼が死ぬまでその所有にゆだねられる。彼はこれを遺産として残すことはできない。またその必要もない。彼のむすこは成年に達するやいなや父親が生きている場合でも、共同体から土地の分け前を要求する権利をもつ。…一方その成員が死んだ場合は土地は共同体に返還される。
非常にとしをとった成員が自分の土地を渡し、それによって免罪の権利を得る場合もしばしばある。共同体を一時はなれる農民も土地に対する権利を失うことはない。共同体(または政府)によって追放の宣言をうけた者のみが土地をとりあげられる。しかし共同体がかかる決定をするには全員の同意を必要とする。しかもこのような手段に訴えるのは特別の場合に限られる。最後に農民は自己の要求によって共同体との結びつきから解放される場合にも土地に対する権利を失う。その場合には農民は動産のみを持ち去ることを許される。それには自己の家屋の処分または移転を許されることもある。かくて農村プロレタリアートの発生は不可能である。
共同体の中で土地を所有するおのおのの者、すなわち青年に達し納税の義務あるおのおのの者は、共同体内の問題に関する発言権をもっている。村の長老とその補助役たちは一般の集会で選ばれる。種種の共同体の間での問題の審査、土地の分配や租税の割当もおなじようにして行なわれる。(なぜなら本質において支払うものは個人ではなくて、土地だからである。政府は頭数だけを数えているが、共同体は実際に働く労働者、すなわち土地を利用している労働者を単位と見なしている)」。
「地主は農民の土地を切り取り、もっとも良い土地を自分に取り上げることができる。…しかし農民に充分な土地を拒むことはできない。土地は共同体に属することによって完全に共同体の管理のもとに、すなわち自由な土地が管理されている場合と同じ原則のもとに置かれている。地主はけっして共同体の管理に干渉することはない。
土地を区分して個人所有に移すヨーロッパ式システムを採用しようとした地主もいた。これらの試みは大部分バルティク諸県の貴族によっておこなわれたものであるが、すべて失敗し、たいていは地主の殺害か土地屋敷の焼き討ちをもって終わった。これはロシアの百姓が自己の抗議を表明するときに用いる国民的な手段である」(付属章「ロシアにおける農村共同体について」)。
こうした農耕共同体を起点としてのゲルツェンの主張は、このようなミールの土地共有と土地の定期的割り替えの仕組みを共同体に対する外からの抑圧としての封建的束縛から解放する、この共同体に生活する農民を抑圧している国家から解放することをめざしてゆくのである。移住の権利、農民の個人的自由は、一七世紀初期の法律により制限された。まさに「窒息せしめられたものは共同体ではなく農民であった、われわれは一七世紀のはじめにおけるツアーリ・ゴドノフの法律を知っている。これはひとりの地主の土地から他の地方の土地に移動する農民の権利を規定し、制限したものである。これが農奴制への第一歩であった」(ゲルツェン、前掲五一頁)。
このような農民に対する国家の抑圧と闘うナロードニキのミール農耕共同体の課題は、現にそこにあるロシア共同体の価値化というにとどまるものではなく、この共同体の作り出している平等なシステムを、革命によって、より活かしてゆくことをポイントにしている。つまり、「共同体がどのような運命か」という、これから見るようなレーニンの問いかけ自身が、客観主義なのである。
ナロードニキは資本主義化で、農民層の労働者階級への階級分化(資本の本源的蓄積)を経ることなくロシアは社会主義に移行できると考えたが、そのポイントは何がしかの宿命論・決定論ではなく、共同体をポジティブな、さらに自己変革してゆく可能性を持った平等的共同体としてとらえる観点、農耕共同体ミール、オプシチーナ、生産協同組合アルテリといったロシア共同体を、ひとつの<新生事物>として〈再生〉してゆくということが、ナロードニキやマルクスのポイントになっているのである。
そしてゲルツェンは前掲書で次のように述べている。
まさにこのような共同体社会を実現するのは、この共同体の革命的発展を妨害してきた専制国家を打倒する革命を不可避とするのだと。
「ロシアの国民は共同体の生活の中にのみ生活してきた。彼らは共同体との関係においてのみ自己の権利と義務とを理解していた。共同体以外のところには彼らは義務を認めず、ただ暴力のみを見る。かれらがそれに服従するのはただ力に服従しているだけである。……ロシアにおいては目に見える状態の背後に、既存秩序の進化であり変形にほかならないような、不可能な理想というものは存在しない。たえず実現を約束しながら、けっして実現することのないような、不可能な理想というものは存在しない。最高権力がわれわれのまわりにはりめぐらしているところの柵のうしろには何ものも存在していない。ロシアにおける革命の可能性は帰するところ物質的な力についての問題である」(前掲一八二頁)と。
こうしたナロードニキの共同体論に対して、かかる農耕共同体の解消論を展開したのがレーニンだった。
●レーニンのロシア農村共同体解消論――その「商品経済史観」的限界
この文のサブタイトルに書いた「商品経済史観」を前提としておさえておこう。商品経済史観とは宇野経済学などで、社会的労働実態としての「資本の本源的蓄積」(典型的な例としてよくあげられることで言えばイギリスのエンクロージャーのような、生産者と生産手段の所有の暴力的分離・収奪の過程)を忘却し、資本主義の形成を単なる商品集積や分業形態の変化に置き換えただけの商品経済拡大史観のことをいう。批判対象となる方法論の呼び名の一つだ。この概念が本論の以降のひとつのキー概念をなすものに他ならない。
宇野弘蔵は次のように述べている。
「古代、中世等々の諸社会における商品経済の発達は、これらの諸社会の歴史的過程をそのままに包含しうるものではない。この商品経済の発達に伴う商品、貨幣、資本の形態的発展を直ちに歴史的過程となすことは、他のところでものべたように(……)、唯物史観を商品経済史観に歪曲し、矮小化するものにほかならない。そればかりではない。商品、貨幣、資本の流通形態の転回自身をも純形態的に行ないえないようにする。いわゆる単純商品社会論はその点を端的に示している。労働価値説がこの商品形態論で行われることの難点もそこにある。例えば、商品論で直ちに行われる労働価値説は、社会的労働といっても、労働力の商品化を基礎とする資本の生産過程を前提しえないために論証不十分なものとならざるをえない。実際またそういう形態規定は、奴隷労働と資本主義的な賃金労働の社会的平均労働をさえ想定しなければならないことにもなるであろう。資本の移動、労働の移動を想定することのできない商品交換関係で想定される社会的労働が、実質的な規定をもちえないのは当然といってもよいであろう。それは労働価値説を真に展開するものではない――と私は考えている。ところがこの商品論で、いわゆる単純商品社会を想定することが、実は旧社会関係の商品経済による全面的支配の過程をも、単なる商品経済自身の発展過程に解消し、歪曲することになるのである。『資本論』が資本の原始的蓄積の過程を商品・貨幣・資本の体系的展開から離れて解明しているのも、それが単なる商品経済自身の内部的な発展となしえないからである」(宇野弘蔵『社会科学の根本問題』「Ⅴ 経済学と唯物史観」、青木書店、一九六六年、一一七~一一八頁)。
つまりこれらのことは、<商品経済自身の発展過程>なるものの自己運動でその国の産業構造が決まってゆくのではなく、そこには社会的労働実態を基礎とした産業が、どのようなあり方を国際的にも要請されているか、あるいは、国際的な役割連関の中での位置を持つものとなっているかということの中で決まってゆくのだということを、意味している。
そこでこの商品経済史観だが、エンゲルスは次のように述べている。
「中世に発展していたような商品生産のもとでは、労働の生産物は誰であるべきかという問題は全然起こりようがなかった。通例、個人的生産者は自分のものである原料、しばしば自分で生産した原料で、自分の労働手段を使って、自分またはその家族の手労働でそれを生産した。彼はその生産物をあらためてわがものにするまでもなかった。それはまったくおのずから彼のものであった。こうして生産物の所有は自己労働にもとづいていたのである。……そこへ大きな仕事場や手工制工場への生産手段の集積が、それらの事実上の社会的生産手段への転化がやってきた。しかし、この社会的生産手段と生産物は、それまで通り個々人の生産手段と生産物であるかのように取り扱われた。これまで労働手段の所有者が生産物を取得したのは、その生産物が通例彼自身の生産物であって、他人の補助労働は例外だったからであるが、いまでは、労働手段の所有者は、生産物がもはや彼の生産物ではなく、もっぱら他人の労働の生産物であったにもかかわらず、それを取得し続けた。こうして、生産物は、いまでは社会的に生産されるようになったのに、それを取得するのは、生産手段を実際に動かし、生産物を実際につくりだした人々ではなく、資本家であった。……一方の、資本家の手に集積された生産手段と、他方の、自分の労働力以外にはなにももたなくなった生産者との分離が完了していた」(『マルクス・エンゲルス全集第』一九巻、「空想から科学への社会主義の発展」、原書頁二一三頁)。
つまりここでは単純商品生産者の社会から商品(―生産手段)が資本家に集積され、そのことで階級分解が拡大してゆく様相が論述されているわけである。そして「商品生産が広がるにつれて、ことに資本主義的生産様式が現れるとともに、それまで眠っていた商品生産の諸法則も、もっと公然ともっと力強く作用するようになった」(前掲、原著頁二一六頁)としている。
これが、商品経済史観といわれているものだ。<単純商品生産者の社会→資本家となる大所有者への商品集積→貧富格差→個人的小生産者のプロレタリア化→階級分裂→資本・賃労働関係の形成>というもので、資本の原始的蓄積(生産者と労働実現条件・生産手段の所有の暴力的・強力的分離、生産者からの生産手段の収奪の過程による階級関係の形成)を忘却、ないしは後景化し、ただ商品経済の拡大と集積を命題とするものである。
これに対して「原始的蓄積」とは次のようなことを言う。
例えばマルクスはさきの「ザスーリッチへの手紙」でも書いていた、エンクロージャー(土地囲い込み)などの原始的蓄積をおこなったイギリスの例を念頭にこうのべている。「資本関係を創造する過程は……一方では社会の生活手段と生産手段を資本に転化させ他方では直接生産者を賃金労働者に転化させる過程以外のなにものでもありえないいわゆる本源的蓄積は生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない」。「この新たに解放された人々はかれらからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。そしてこのような彼らの収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれている。「人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程の基礎をなしている」(『資本論』第一巻二四章、岡崎次郎訳、国民文庫、第三分冊、三六〇~三六二頁)ということである。
●商品経済史観にもとづく「農民層の両極分解」論
以下に見るレーニンの「いわゆる市場問題について」(一八九三年執筆)の分析視覚は、ロシア共同体解消説といってよいものだ。これから見ていくように完全な商品経済史観による論法である。そして後に見るように、そのことは社会的労働実態に関わる分析を後景化させるものとなっているのだ。この観点は「ロシアにおける資本主義の発展」(「発展」とする。一八九六~一八九九年執筆)においても貫かれており、レーニンにおいては規定性を持った分析視角の一つだ。それは端的に言ってレーニンの立場であるロシア・マルクス主義(広義)のナロードニキに対する党派闘争としての意味を持っているのである。
例えばレーニンのいうところでは、「ただナロードニキ主義の経済学者だけが、農民一般をなにか反資本主義的なものと解釈して、「農民」大衆がすでに資本主義的生産の全体系の中でまったく確定した地位を、すなわち農業および工業の賃金労働者という地位をしめていることを、無視しているのである」(「発展」、全集第三巻、一四七頁)というのがそれだ。
だが、そういう分析こそ歴史の現実に裏切られたのである。が、ここで一つ確認しておくべきことは、ナロードニキは農村共同体の「共同体の共同所有と耕作者個人の占有(私有ではない)」、つまり、私有の否定と共同体的所有が、社会主義の出発点になると考えていたのであって、農民の即自存在をそれとして「反資本主義」的としていたわけではないということである。
前置きはこれくらいでいいだろう。レーニンの「いわゆる市場問題について」に入ってゆこう。レーニンはのべている。
「資本主義とは、もはや人間労働の生産物だけでなく、人間の労働力そのものも商品になるという、商品生産の一発展段階のことである。したがって、資本主義の歴史的発展においては、二つの契機が、すなわち、(一)直接生産者の現物経済の商品生産への転化、(二)商品経済の資本主義経済への転化が重要である。第一の転化は、社会的分業――孤立した《これが商品経済の必須条件であることに、注意せよ》、個々の生産者がただ一つの産業部門の仕事に専門化すること――があらわれることによって、おこなわれる。第二の転化は、個々の生産者がおのおの単独で市場目あてに商品を生産し、競争の関係に入ることによって、おこなわれる。各生産者は、より高く売り、より安く買おうとつとめる。その必然的結果は、強者の強大化と弱者の没落、少数者の富裕化と大衆の零落であり、これが、独立生産者の賃金労働者への転化と、多数の小経営の少数の大経営への転化とを、もたらすものである」(レーニン全集第一巻原書頁七七以降、引用頁はすべて原書頁)。
これがおおきな見取り図である。
この場合レーニンが言う、階級分裂へといたる「個々の生産者」とは、エンゲルスなどで「個人的生産者の社会」=単純商品生産者社会なるものを措定し、そこからの商品集積や社会的分業の成功度などでの貧富格差の発生から階級分裂を説く、先述したようなエンゲルス「空想から科学へ」(マルクス・エンゲルス全集第一九巻)第三節の第三、四、五、六、八などのパラグラフに論述されているところの商品経済史観に依拠したものにほかならない。
そしてそれは、マルクスが『資本論』第一巻第二四章で明らかにした資本の本源的蓄積(農民・直接生産者に対する生産手段の所有からの暴力的分離による無産の労働者の形成の過程)を後景化ないしは忘却せんとするものに他ならないのである。
では、もう少しこまかくみていこう。レーニンは述べている。
「『市場』の概念は、社会的分業――マルクスが言っている「あらゆる商品生産《したがってまた資本主義的生産――と、私から付け加えよう》の一般的基礎」――の概念と、まったく不可分のものである、ということである。社会的分業と商品生産があらわれるところに、また、あらわれるかぎりで、「市場」があらわれる。そして市場の大きさは、社会的分業の専門化の程度と、不可分にむすびついている」(八三~八四頁)。
「『人民大衆の貧困化』(市場に関するあらゆるナロードニキ的な議論にかならずつきもの)は、資本主義の発展をさまたげないばかりでなく、かえってその発展をあらわすのであり、資本主義の条件であり、また資本主義を強化するものであるということである。資本主義にとっては「自由な労働者」が必要である。そして、貧困化とは小生産者が賃金労働者に転化することである。大衆のこの貧困化は、少数の搾取者たちの富裕化をともない、小経営の没落と衰退とは、より大きな経営の強化と発展をともなう。この二つの過程は市場の発展を助成する。以前には自分の経営で生活していた「貧しくなった」農民は、いまでは「賃仕事」によって、すなわち自分の労働力の販売によって生活する。……他方ではこの農民は生産手段から解放され、それらの生産手段は少数のものの手に集積されて、資本に転化される。そして、生産された生産物は市場にはいる。農民改革以後の時期におけるわが農民の大量的な収奪が、国の総生産能力の減少ではなく、その増大と、国内市場の増大とをともなったという現象は、ひとえにこのためである」(八七頁))。
「商品経済から資本主義経済への移行、商品生産者の資本家とプロレタリアートへの分解である。そこで、われわれがロシアの近代社会の経済の諸現象に目をむけると、わが小生産者たちの分解こそが主要な地位を占めていることを見るであろう。耕作農民をとりあげてみよう、――そうすれば、一方では、農民が群れをなして土地を放棄し、経済的独立性を失って、プロレタリアになりかわりつつあり、他方では、農民がたえず耕作地を拡張し、改良された耕作に移行している、と言うことがわかる」(九二頁)。
レーニンは、このように書いているのであるが。そして、こう結論付けているのであるが。
「これらの事実を説明する唯一のものは、わが「共同体的」農民をもブルジョアジーとプロレタリアートに分解させつつある。商品経済の諸法則のうちにあるのである」(九三)。
まさにレーニンの分析方法は、概念化した「市場」なるものの現実への形態論的アテハメであり、「商品経済の諸法則」という〈「法則」の自己運動〉論にほかならない。
だがこうした「市場」の理論からする、レーニンの「ロシア農民の両極分解」の見通しは、例えば宇野経済学派の渡辺寛が論じているように完全に裏切られる結果となったのである。
まさに「だが事実は、こうしたレーニンの予想を裏切ることになった。一九〇五年にはじまる、中央黒土地帯を中心とする農民の共同体的結合による、地主所有地の全面的没収の運動がそれであった。この第一次ロシア革命の農業的構成部分は、レーニンの予想のように農民は両極に分解したのではなく、まだそのうちに、地主にたいする土地要求については、統一的集合力を有する一階級として存在していることを、現実に示したのである」(渡辺寛『レーニンとスターリン』東京大学出版会、一九七六年)ということなのである
●ロシア農民の階級的両極分解はなぜおきなかったのか
こうしたレーニンの「市場」の理論は、とりわけ、後進ロシアにおいて、それを分析しえない限界をもった理論装置としてそもそも、その弱点を指摘しなければならない。 その問題が先述したような、資本主義の形成条件に、マルクスが『資本論』第一巻二四章で定義した「資本の本源的・原始的蓄積」(生産者と生産手段の所有の分離)論の忘却であり、それは資本主義の形成はただ、共同体の社会的分業の拡大が商品経済を拡大させると同時に、かかる「単純商品生産者の社会」のなかで、強者には商品集積を弱者にはプロレタリア化を展開してゆくという商品経済拡大史観にほかならないのである。 これでは、後進ロシアの資本主義化は分析できなかったといってよい。どうしてか。
そこで宇野経済学の研究者・渡辺寛は、その農民層の階級的分解がなされない問題を、世界資本主義におけるロシア的特性に規定されたところの工業化の狭隘性にもとづく、資本の「原始的蓄積」の限界と、そのことにもとづく、農民のプロレタリア化の圧倒的なまでの不可能性という展開にもとめたのであった。
ここではロシア農耕共同体が存続した客観的諸条件について見てゆこう。この客観的条件に、農民の対地主反乱という主体的な条件が重複することにより、ロシア農耕共同体は解体する運命を免れていたのである。
渡辺は『レーニンとスターリン』では次のように述べている。
「ロシアの資本主義化は、イギリスにおける産業資本の展開を基軸としてヨーロッパ資本主義が世界市場を形成した自由主義段階で、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の穀倉として、世界市場にリンクされつつ、工業的・金融的には、イギリス、ドイツ、ベルギー、スウェーデン、フランスなどに大きく依存して、外国資本の関与のもとに、かなり高度の、しかも矮小な規模の工業生産を中心としておこなわれた。そのためにドイツなどとは質的にことなった農業問題をかかえざるをえなかったのである。
都市における工業の一面的発展、つまり全体としては矮小な規模で、しかも個々的には高度の資本の集中をみた工業の発展、少数の極度に集中したプロレタリアート――これに対応した、農村における過剰人口の堆積、共同体的土地用益の土地私有への転化の停滞、これらを根拠とした地主所有地における高率の労働、現物、貨幣小作料の成立。こうした事態は、世紀末の新大陸諸国の世界穀物市場への登場による、ヨーロッパ穀物市場でのロシアの地位の衰退を、農民にたいする苛斂誅求によってカヴァしようとする大土地所有者の貨幣的欲望を通して、人災の凶作・飢饉を結果することになった。それは、ロシア革命の農業的基礎を形成することになったのである。
(中略) だが、こうした視点を方法的にも捨象せざるをえなかったレーニンは、「資本主義的な賃労働の発展は、雇役制度を根底からくつがえしつつある」と述べ、ロシアの農業問題も、全面的資本主義化とともに解消しつつあるものと想定したのである。
だが事実は、こうしたレーニンの予想を裏切ることになった。一九〇五年にはじまる、中央黒土地帯を中心とする農民の共同体的結合による、地主所有地の全面的没収の運動がそれであった。この第一次ロシア革命の農業的構成部分は、レーニンの予想のように農民は両極に分解したのではなく、まだそのうちに、地主にたいする土地要求については、統一的集合力を有する一階級として存在していることを、現実に示したのである」(三三~三九頁)。
それを、渡辺寛は、『レーニンの農業理論』(一九六三年、お茶の水書房)では、次のようにのべているのである。
「資本主義である限り、いずれの国もこの過程を経過しなければならなかった」ところの「先進資本主義国イギリスの原始的蓄積の過程に対して、後進資本主義諸国の原始的蓄積の過程は、直接的生産者たる農民と土地との原生的結合と経済外的強制による彼らの土地への緊縛との解除による労働力商品化の機構確立の前提条件の創出という課題を実現しつつも、非常に異なった様相を呈することになる。これらの諸国は、世界市場がイギリスを世界の工場として編成されていたために、この世界市場の要求からして、多分に原料国的、農業国的色彩のもとに、資本主義を確立しなければなかった。しかもイギリスで発展した資本主義的生産方法を輸入して自国を資本主義化したのである。比較的高度の有機的構成(相対的過剰人口が増大する――引用者)による、しかも矮小な規模での資本の蓄積は、工業が農業に対して要求する労働力を比較的小規模にする傾向を生ぜしめ、旧来の農村の諸関係を徹底的に排除することなく、工業の必要とする労働力の商品化を実現しうることにもなるのであった。」
ここがポイントだ。
「したがって、後進資本主義国では、イギリスのように農業と土地所有とを徹底的には変革することなく、原始的蓄積がおこなわれる。従来の小農的生産方法が広汎に存続することにもなるのである。(中略)後進資本主義国の原始的蓄積の特殊性は、農民層の広汎な存在を許すことになる。しかもその後における資本主義の発展は、ひとたび創出された賃金労働者階級とその子弟とを基礎として、相対的過剰人口を形成することによって、労働力商品化の機構をそれ自身でつくりだしてゆく傾向がある。したがって、工業ないし商業が農業から吸収する労働力の規模は、農民をしてその経営を放棄させるに足りるほどのものとはなりにくい。かえって、吸収度が弱化し、農村に過剰人口を停滞させることにもなる」。
つまり、資本主義近代化の進行にあっても、都市の相対的過剰人口(資本の価値増殖運動に対し過剰な労働人口)の形成は、農村部における労働力の過剰な停滞をつくりだすことが一般的な傾向となるのである。
「農業の再生産過程を根底から商品化しなくとも、すなわち労働力を商品化しなくとも、その生産物を商品化することによって、また工業製品を生活資料、生産手段として販売することによって、資本主義は農業を商品経済化し、自己の体制に包摂する。こうして、一社会として存立しうるのである」。
こうした原始的蓄積の分析は、レーニンの農業の資本主義化の分析からは、はずされていると渡辺は論じている。
「レーニンの市場理論は、工業が最初に資本主義化し、農業は最後に資本主義化するという想定に立っている。だが、かれはこれを時間的な前後関係としてしかみていなかったようである。工業の資本主義化につづいて、農業も自生的に、漸次的に資本主義化してゆくものと想定されたのである。現物経済から商品経済の移行において、商品経済化の契機を内部に求めた結果、商品経済の底力ともいうべきものを過度に評価する傾向が出てきたのであるが、いま、商品経済から資本主義経済への移行を究明するさいに農業内部に資本主義化の推進力(「社会的分業のこと――引用者)を求める結果、資本主義の歴史的画期としての原始的蓄積の問題が、考察からはずされてしまった。商品経済の発生と発展とが内生的なものと想定され、したがってまたその推進力を過度に評価する点では、方法的に(レーニンは――引用者)一貫している」(一〇九~一一一頁)ということなのである。
レーニンはこのような陥穽のもとで、「商品経済の諸法則」(レーニン)が必然的にミール農耕共同体を解体するという仮説をたてたのであり、それは、以上のような後進ロシアの事情によって、予測倒れとなる以外なかったのである。
それにしても、まだ疑問は残るだろう。レーニンがこういう論法をどうして用いることになったのかということである。
●レーニンの論法について――カウツキー農業理論「農民層の両極分解」論(資本主義発展一元史観)とその破産
渡辺寛は『レーニンとスターリン』の第三章「農業理論」(初出、一九六五年「ロシア革命とレーニンの農業理論」『思想』六五年一一月号)で次のように論じている。
「当時の『マルクス理論』は、『資本論』をもってただちに資本主義の生成・発展・消滅の過程をも明らかにしているものと解釈し、この過程のうちに産業資本による全面的資本主義化、つまり地主・ブルジョアジーとプロレタリアートへの完全な階級分解が、いずれの国において緩急はあれ、実現するものと想定したのであった。
社会の純粋資本主義化がいずれの国においてもやがては実現されるという想定は、現実の世界史的な資本主義の発展の中で示された、商人資本、産業資本、金融資本という、資本の蓄積形態の質的変化をともなう資本主義の段階的発展と、資本家的商品形態によって実質的に包摂さえないで、外的対立を構成することになる農業問題の顕現とによって、その誤りが暴露されることになったのである。資本主義の発展を、産業資本の拡大による全面的資本主義化の過程として把握するこうした考えを、「資本主義発展一元史観」と呼ぶとすれば、レーニンもこの史観から自由たりえなかったのである。
農業問題の古典とされているカウツキーの『農業問題』(一八九九年)は、『資本論』を資本主義発展一元史観として解釈し、その正しさを一九世紀ドイツ農業のうちに実証しようとしたものであった。しかし、中農層の存続と増大という現実をまえにして、さすがのカウツキーも、修正派のように公然とではなく、なしくずしに中農層の増大を認めざるをえなくなったのであるが、それは、『資本論』と現実とに相即不離の関係しか認めない一元史観の立場からして、資本主義の発展過程で中農層が増大すると言う一般的命題を生みだすことになった。それでもなおカウツキーは理論と現実との不一致に苦しんで、やがて『農業問題』を絶版にしてしまったのである。それは、まさに資本主義発展一元史観の現実的破綻にほかならなかったといってよいであろう。
(中略)
(だがしかし――引用者)社会主義革命後にいたるまでの中央黒土地帯を中心とした農村共同体(ミール)の広範な存続、農地における私的所有の未完成、さらには地主所有地での「雇役」制度などに典型的に表現される、ロシア資本主義の特殊的農業問題は、あまりにも特殊的であるために、かえって容易にレーニンをして、封建制度の存続という外的事情にもとづくものと判断させたのである。したがって資本主義発展一元史観は、カウツキーのような複雑さを含むことなく、初期レーニンの著作で展開されることになった。
レーニンは、資本主義発展一元史観をさらに、「共同体」内部における商品経済の内生的発展・市場の形成・資本主義的両極分解を想定する「市場の理論」……に図式化し、ほぼこの図式にしたがって、ロシア資本主義を分析していった。
一八九九年に完成した大著『ロシアにおける資本主義の発展』がそれである。『小農耕者が農業企業家と農業労働者にわかれてゆく過程』を明らかにしながら、レーニンは、『この(農民層の―引用者(この引用者は渡辺))分解が現在すでに完成された事実であること、農民層は対立する諸群に完全に分裂したこと』を実証しようとしたのであるが、ここでロシア農業の特殊問題にゆきあたる。『わが国の農村の経済で農民層の分解をはばんでいる……重要な現象は、賦役経済の遺物、すなわち雇役である』。雇役とは、地主経営地の『付近の農民が自分の農具で(地主の―引用者=渡辺)土地を耕すことにあり、その場合の支払い形態は(……貨幣による支払いであろうと、……生産物による支払いであろうと、……土地または土地用役による支払いであろうと)この制度の本質を変えるものではない。雇役は賦役経済の残存物である』というものであった。
つまり、一八六一年にはじまる農民解放の過程で、次第に農民地として画定しはじめた「分与地」だけでは農民は生計を維持してゆくことができず、地主所有地の小作をしなければならないという事態を、レーニンは、『雇役制度』=『賦役経済の直接の残存物』と規定するのである。だが問題は、農奴解放の開始から十月革命にいたる半世紀のあいだ、なぜこのような制度が存続したのかということであり、それは『賦役経済の直接の残存物』という規定を与えても、決して解明されるものではなかった。
共同体的結合を強く残した農民層の存続とその窮乏化、それに基礎を置く雇役、こうしたロシア農業問題の解明は、「市場の理論」という資本主義発展一元史観の果たせるところではなかったといってよい」。と渡辺はのべているのである。
つまりレーニンは農村共同体が窮乏化しつつその存在を維持するためにおこなっていた小作労働・「雇役」労働を、「賦役経済の直接の残存物」と規定することで、農耕共同体をまさしく封建共同体として性格づけ、資本主義発展一元史観にもとづいて階級分化的に解体してゆく過程にあるものと規定したということだ。あるいはレーニンの「資本主義発展一元史観」の方法論的立場からはそのように規定するしかなかったということだ。その規定の限界はこれまで見てきたとおりである。
●「資本―賃労働」両階級への機械的分解の理論
ここで渡辺が指摘した農民層の資本家と労働者への両極分解論を概観しておこう。
「「カウツキー「農業問題」の書評」(一八九九年)、「農業における資本主義」(一八九九年)、「農業問題と《マルクス批判家》」(一九〇一年(第一~第九章)、〇七年(第一〇~第一二章)などの諸論文を見てもわかるように、初期のレーニンのマルクス経済学理解はカウツキーによって代表される第二インターナショナルの正統派の水準に拠るものであったといってよい。
例えばレーニンの『カウツキー「農業問題」の書評』(レーニン全集第四巻)では次のように展開されている。
「小規模農業は、大規模農業の競争者であることをやめて、大規模農業のための労働力の提供者に転化するときに、安定性をえるのである。大土地所有者と小土地所有者との関係は、資本家とプロレタリアとの関係にますます近づく」。「農業は、たえまない改変の状態、資本主義的生産様式一般を特徴づけているあの状態に陥った。『農業大経営――その資本主義的性格はますます発展している――のもとにある広大な土地、借地や土地抵当の拡大、農業の工業化、――これらのことは農業生産を社会化するための地盤を準備する要素である』……社会では、一つの部分はある方向に発展し、他の部分は反対の方向に発展すると考えるのは、不合理であろう、とカウツキーはおわりにあたっていっている。実際、『社会の発展は農業でも工業でも同じ方向にすすんでいる』」
「現代社会における進歩的活動がなしうることは、資本主義的進歩が住民に与える有害な作用をよわめ、この住民の自覚と集団的自己防衛の能力とをつよめるように努力することだけである」(原書頁八一~八三頁)。
農村のブルジョアジーとプロレタリアートへの階級分裂は不可避だと言っているわけである。この場合、問題は、例えば中農の存在がどうあるかが問題になるだろう。
カウツキーは『農業問題』(岩波文庫、一九四六年、向坂逸郎訳、原著一八九九年)では次のように言っている。
「中農の農業的人口の総ての商品生産的階級の中で、賃金労働者の欠乏によって悩まされること最も少ないものであるが、その代わり近代の農業上に増大する他の負担の下に最も多く悩むのは、まさにこの階級であるのだ!中農は高利貸や中間商人による搾取の主要目的である。貨幣租税と軍務とはこれに最も酷く当る。彼の土地は最も多く地力の枯渇と乱獲にさらされる。そしてかかる経営は商品を生産するものの中最も非合理的のものに属するが故に、それは、最も甚だしく、競争戦を超人間的の労働と非人間的の生活方法とによって遂行するところの経営である。……なほこれらの農民を、その比較的には大きな所有地が郷土につないでおく。だが、ただ彼等だけであって、その子供はもはやつながれていない」。工業へ・都市へ・軍務へと向かう。そして、「中農の家族は小さくなり、それだけにただわづかに経営を進めて行くにも足らなくなり、それだけ農業労働者がここでも演ずる役割は大となり、且つ、それだけに労働者問題も、他の障碍と共に、この段階の経営にも著しくなる」(上巻、三九三~三九五頁)。
つまり農村のブルジョアジーとプロレタリアートへの階級分化は中農の没落とともにすすむと論じたのである。しかし、そのことが実際あった国となかった国とがあった。このことは、これまで見てきたとおりである。
まさに後進国の原始的蓄積は、後進国が市場的・産業的に中心国・先進国の国際的下部構造化(原料・農業国化)する中で、中心国・先進国の工業化の限界・限度に規定される。そのため、後進国では、工業化は、全面的ではなく中間的・部分的・変則的にしかおこなわれず、工業化のための労働力の必要性は限定的なものとなる。つまり原始的蓄積の必要性は限界を描くので、農村部には常に過剰人口が形成される。これによって、農村の階級分解は進まず、ロシアにあるような農耕共同体はむしろ、過剰人口を吸収して存続し、むしろ、地主と農民共同体との矛盾を深めることになる。
つまり、レーニンの「商品経済の法則⇒単純商品生産者社会の措定⇒社会的分業の発展⇒商品経済拡大⇒貧富格差⇒富者への生産手段の集中⇒農村の階級分化」という商品経済拡大史観モデルは――そもそもこの商品経済史観は原始的蓄積過程を分析視覚から忘却しているのであるが――、後進ロシアでは、少なくともそのままの形ではそして全面的には展開しなかったということになるわけである。
●左派ナロードニキから見たロシア農耕共同体問題の全体像
さてここで話は終わりなのではない。このロシア農耕共同体が、一九一七年ロシア革命以降の時期を含めてどのように展開したかが、次に重要なポイントになる。
この共同体論の一番広いウインドウをあけることにしよう。長文になるが、ここで左翼エスエル指導部の一人でボリシェビキとの連合政府=人民委員会議の司法人民委員だったI.スタインベルク(第二次大戦後に生き残った)『左翼社会革命党一九一七―― 一九二一』(鹿砦社、一九七二年、原著一九五五年)の「第一九章 ロシアの農民」(二三〇頁以降)より、ロシア農業農民共同体問題のポイントとなると考えられるものを引用する。
(1) などの〇番号と見出しは引用者でつけた。
(1)ロシア農耕共同体
「ロシアの農民は、オプシチーナあるいはミールと呼ばれるその土地共同体の根深い諸伝統を革命にもちこんだ。農民人口の五分の四までが、オプシチーナの構成下にある土地で、その諸原理に従って働いていたのである。
この制度の主要な原理とは何であったのか? 第一は、土地の共同所有権、第二は土地に対する全農民の権利。第三はオプシチーナにおける共同体的管理運営。(中略)農奴であった時ですらも、農民たちは確信に満ちてこう言うのであった。「わしらは御領主様の物だ、けど土地はわしらのものさ」と。
彼らはオプシチーナに所属しており、そのことは、一種の直接民主制である農民スホード即ち、村の寄合であらゆる決定がなされることを意味していた。オプシチーナは、その成員の間での種種の土地の配分を決定した。どの農民も自分と自分の家族が耕作するだけの一片の土地への権利を有していた。この意味において権利の平等は広く行きわたっていたのである。新たな世代のためではなく、すべての者にこの権利が保証されることを確保するために、定期的な土地の割替が行われた。そしてこの習慣が、土地は「わしのもの」ではなく、皆のものだ、といった農民の信念を増大させたのである。かくしてこの土地に対する権利というものが、農民経済が、ただ、「売却、購入、そして相続」に立脚しているにすぎない国々とは異なった社会的倫理的風土と社会的諸関係の体系とを創りあげたのであった。
なるほど、オプシチーナは、ツアーリ政府とその徴税政策の重圧のもとに置かれてはきた。だが上からの圧迫は、その内的な様式を変化させることができなかった。1906年、ツアーリの大臣ストルイピンは、農民にそのオプシチーナより離脱する『自由』ならびにひとつかみの土地の私的所有者となることを認める有名な仕事を布告した。その目的とするところは、新たな何百万という小ブルジョア的農民階級を創り出すことによって、くすぶりつつある革命の焔を消しとめることにあった。しかしながら、この機会に乗じてオプシチーナを破壊しようとした者はほとんどなく、しかも一九一七年に革命が勃発すると直ちに、多くの者が自発的にそこへ帰っていったのであった。
これこそ、ロシアの農民たちが偉大な動乱に対して献げた共同体的生活経験という社会的精神的資産だったのである。それは農村だけに行きわたっていたのではなく、ロシアで一般的であった協同組合運動の中にも見うけられた。ロシアの職人たちもまた、その多数が都市の工業労働者となる以前は、アルテリという労働組合に広範に組織されていたのである。良きにつけ悪しきにつけあらゆる機会に、彼らは、農村におけるオプシチーナの都市版であるアルテリの原理へ引きつけられたのであった」。
(二)土地社会化法の成立(一九八一年一月)
「ロシア農業革命の先触れとなった土地社会化法についてさらに注意深く検討してみよう。この法令は、はやくも一九一七年五月、ペトログラードにおける第一回労農大会でその大要が定められていたのであった。(中略)この作業は、第三回農民大会が(ペトログラードにおいて)初めて第三回労働者兵士ソビエト大会と合同で開催されていた一九一八年一月に完了した(この大会で採択された―引用者)。九〇〇名のプロレタリアートの、そして六〇〇名の農民の代表が、ロシア勤労人民の統一を、《レーニンとスピリドーノワの握手》に象徴される統一をうちたてたのである」。(注:マリア・スピリドーノワ。左翼エスエル最高指導者。一九一七年一〇月革命以降の農民ソビエトの議長。スターリンにより一九四一年九・一一メドヴェージェフスキーの森で銃殺刑。享年五六歳――引用者)
「彼らの最終的な条文は以下のようなものとなった。「土地、鉱石、水、森林もしくは他の天然資源に関する種種の所有権(国家的所有もふくめて!)はロシア・ソビエト連邦共和国の領土において永久に廃止される。」
この冒頭の宣言に、全ロシアを新たなる土台の上に組み立て、土地総割替(チェールヌイ・ペレジェール)即ち全面的土地再分割という農民の長年の夢を実現した一群の条項が続いた。引用されているのは第二,三,四条である。「土地は、無賠償で全勤労者の使用に供せられることになる」「土地の使用権は、自らの手で労働するもの(つまり、賃労働を雇用しないもの)にのみ属するものである」「この土地の使用権は、性別、宗教、国境もしくは市民権を理由として制限されてはならない」(中略)「ゼムリャー・イ・ヴォーリャ(土地と自由)というスローガンは、もはや一国的性格を脱して、世界性を獲得せんと渇望していた」。
(引用者・渋谷の注:但し、「模範農場」の規定にはソビエトが農場を「《国家》により支払われる労働で耕作する」規定、「《労働者統制》の一般的基準に従う」規定の両規定が併記されている(前者規定=ボリシェビキ、後者規定=左翼エスエル)ことに見られるように、この法をめぐって両者で論争がおこなわれたことは確認しておくべきだ――菊池黒光『十月革命への挽歌』、情況出版、一九七二年、三五一頁参照)。
(三)農民革命(一九一七~一九一八年五月)
「『実際に生じつつあった事態とは、村民による仲間うちでの土地の割替ということだったのだ。小地主や富農は、その土地の大部分を多くの子供をかかえた家族へ譲り渡し、不平を一言ももらさずに自ら滅びつつあった。一週間後には全員が耕作のために畑へと戻り、こうして再分割は完了したのである。』(著者スタインベルクによる、一九二三年の内にユーゴスラビアで刊行された雑誌『ルースカヤ・ムイスリ(ロシアの思想)』でのレポートからの引用―引用者)
(中略)こうして一九一八年四月に、ロシアの農民たち―土地所有者たち―はその所有地を社会的精神的解放のための共同資金へと投げ出したのである。当時の彼らの支払った犠牲というものは、もう一つの事実―これも劣らず重要なことではあったが―すなわちロシアにおける封建的地主制の崩壊よりも、なお重いものだった。
(原注)『一九一七―― 一九一八年の期間に、共同体(コミューン)によって再分割のために没収された土地の総面積は農民からのものが約七〇〇〇デシャチーナ(一億八九〇〇万エーカー)そして大土地所有者からのものが約四二〇〇デシャチーナ(一億一四〇〇万エーカー)と見積もられていた。大領地からよりも、農民の所有地からより多くの土地が取り上げられ《貯えられた》)(プール)のである。(以下略)』(著者スタインベルクのディヴィット・ミットラー『農民対マルクス』よりの引用文―引用者)」。
(四―A) レーニンの食糧独裁令(一九一八年五・一三)
「一九一八年の春、ブレスト=リトフスク講和条約締結直後のことであった(左翼エスエルは講和反対で人民委員会議(政府)から脱退。ソビエトには議員が存在する―引用者)。我々は、このいわゆる講和がロシアに、とりわけ都市部に深刻な衝撃を与えたことをすでに知っている。それは、新たな困窮、飢え、政治不安をもたらしたのであった。ドイツ人は食糧生産地域の広大な部分を占領し、中央ロシアをその供給源から切断していた。政府は、力づくで農民からパンを挑発することを決定した。
ボリシェビキはこれ以上ひどい災厄を呼び寄せることはできなかったであろう。農村は、その精神的熱狂の再高揚期を通り過ぎたばかりであった。農村は自己を地主のくびきから解き放っただけではなく、その日常生活における経済的・社会的平等化への基礎をも築いたのであった。(中略)人民にとって必要不可欠な商品の生産者である農民が、都市の工業労働者との友情の絆をすぐにも創りあげるのは、当然のことと思われていた。その時になって突然、ボリシェビキ国家は、彼らに対して何か階級闘争の如きものをしかけたのだった(五月食糧独裁令のこと―引用者)。
農村そのものにおいて、ボリシェビキ―再びその旧式の理論(カウツキーに影響された「小ブル=農民層の資本家と労働者への階級分化・両極分解」の教条的な理論―引用者・渋谷)へと後退した―は、勤労農民に、《小ブルジョア》、商売気や私的取引や本来的貪欲さにかぶれた人間という烙印を押しつけた。彼らはほんの少し残っていた《貧民》を圧倒的な農民大衆に敵対させるために組織した、つまり彼らは《貧農》のソビエトを設立したのである。こうして彼らは、自らの手で新たな革命的農村の基礎を破壊することに着手した。
けれども、それでさえも十分ではなかったのだ。彼らは何千人という特別に組織された工業労働者を《パンの徴発》のために農村へと送り込んだ。本書の他の章、とくに「ボリシェビキ・テロル発動す」は、これらの部隊―これは抵抗する農民たちに対する懲罰遠征隊にしばしば早変わりしたのだが―がいかにそのプロレタリア的参加者を堕落させ、信じ難い残虐行為へと導びいたかを詳述している」。
(四―B) スターリンの農業集団化(一九二九年~)
「都市への一層迅速なパンの供給を保証するために、政府は農村における経済組織の新制度を布告した。―コルホーズ(集団開拓地)およびソフホーズ(国営農場)である。ソフホーズは《実際にはパン製造工場》とでもいうべきものであった。
即ちそれは、巨大な土地を中央集権化された擬似産業体に転換したものであり、そこでは農民は賃労働者として働くこととなっていたのである。コルホーズは、共産主義的精神で共同の農業単位を確立するためのものと主張された。けれどもそうした精神は、かつて土地革命を鼓吹したオプシチーナ精神とは天と地ほどにも異なっていた。それは農民の自由な決定と国家の強制との間の差異であり、農民たちの中から生まれた共同性と上から押しつけられた統計学的官僚主義的平準化との差異であったのである。
ボリシェビキ的な農業形態の中では、ロシア農民の固有な伝統は、もはやいかなる役割をも果たさなかった。今よりのち、農民は(その軍務に加えるに)都市にパンや他の原料を供給するための物理的経済的道具という存在にすぎなくなったのだった。旧きマルクス主義的処方箋が、今や武装せる国家権力の援助の下に、到る所において勝利を収めていた」。
以上がスタインベルクの分析と主張だ。
●廣松渉の「食糧独裁令」に対する分析
ここで、哲学者廣松渉(1933~1994年。『存在と意味』(岩波書店)など)の『マルクスと歴史の現実』(平凡社)での分析を見よう。
一九一八年、内戦のさなか「ロシアでは、五、六、七の月三ヶ月間は端境期にあたり、穀物が市場にほとんど出荷しません。土地革命で小規模自作農化した農民たちは、戦争と革命で商品経済が低迷し、穀物を売っても買う品物がない状態になっていたこともあり、穀物を売りに出そうとはしません。講和条約の締結がもたついていた間にウクライナその他の穀倉地帯がドイツ軍に占領された関係もあって、都市での食糧危機は深刻です。政府としては、とりわけ中央農業地帯とヴォルガ河流域から穀物を調達するしかありません。ところが、この両地域は農民革命の主舞台となった地帯でもあり、エスエル(社会革命党―引用者)の拠点でもありました。左翼エスエルは穀物調達の地方分権化や公定価格の引き上げによる解決策を提議しました。しかし、政府は『貧農委員会』の組織化、『穀物の貯えをかくす農村ブルジョアジーとの闘争』を指令し、『食糧徴発隊』を中央から大挙農村へと派遣してことに当たらせました。いわゆる『食糧独裁令』の施行です。左翼エスエルは『勤労者共和国の基礎をなす二つの勢力、すなわち勤労農民とプロレタリアートが相互にけしかけられる危険』を警告して断固反対しました。現に、食糧徴発隊と現地農民との武力衝突、農民叛乱が各地で起こりました」(二二一~二二二頁)。
こうした<強権の行使>を「階級闘争」と称して展開することをつうじ、ボリシェビキに外在化し、かれらとは独立したヘゲモニーをつくりだしていた農民革命勢力を、ボリシェビキは解体していったのである。
●食糧独裁令に対する左翼エスエルの闘い
廣松が展開した観点を参考にしつつ、ここでは左翼エスエルに内在した視点を見ることにする。左派ナロードニキであり、農民ソビエト議長マリア・スピリドーノワを最高指導者とする左翼エスエル(SR社会革命党)の、ボリシェビキとの闘いを見ることにしよう。(以下の年表は次の文献に準拠するものである。加藤一郎編『ナロードの革命党史――資料・左翼社会主義―革命家党』、鹿砦社、一九七五年、三〇九~三一〇頁、以下、「資料」とする。 注:この文献には左翼エスエル党の綱領(草案)が全文掲載されるなど、資料価値の高いものとなっている)。
【五・一三】食糧独裁令公布。
【五・一四】全ロシア執行委員会、モスクワ・ソビエト、労働組合と工場委員会代表者合同会議で、カムコーフ(左翼エスエル指導者)ボリシェビキの対外政策は「革命の漸次的圧殺」であると非難。
【六・一一】カレーリン(左翼エスエル)、全露中央執行委第一九回会議で貧農委員会の組織化を批判。
【六・一六】左翼エスエル党中央委員会決定「勤労農民層の不自然な階層分化に帰する有害な方策の実施にたいして、中央と地方で断乎とした形態で戦うことを、左翼エスエルとマクシマリストは声明する」が、左翼エスエル機関紙『ズナーミャー・トルダー』(勤労の旗)に掲載さる。(レーニン・ボリシェビキの「農民層の階級分化・両極分解」論の教条と、農民層に対する「クラーク」のレッテルに対する非難)
【六・二〇】左翼エスエル党中央委員会指令「全党組織は国外国内反革命との斗争のための武装義勇隊を党委員会付属として設立せよ」。党中央委員会付属全ロシア戦闘団総司令部設立。
【六・二四】左翼エスエル党中央委員会、ブレストリトフスク講和条約(三・三調印)による息つぎを即時終結させるためドイツ帝国主義の代表者に対してテロルを組織することを決定。
【六・二八~七・一】左翼エスエル第三回大会(モスクワ)、ブレスト講和、死刑の適用、国家行政の中央集権化に反対する決議採択。
【七・四~一〇】第五回全ロシア・ソビエト大会(ボリシェビキ七七三名、左翼エスエル三五三名など一一六四名)
【七・六~七】左翼エスエル戦闘団のドイツ大使・ミルバッハ暗殺を合図に、左翼エスエル・モスクワ蜂起。
モスクワ蜂起はブレストリトフスク講和条約に反対し、対独徹底抗戦に突入することを目的とするものだったが、それはこれまで読んできたように、左翼エスエルとしては、ドイツ軍がウクライナをはじめとしたロシアの穀倉地帯を占領していることに対する闘いの呼びかけであり、ドイツと講和し農民から農産物を徴発しているボリシェビキに対する農民革命勢力による抵抗権の発動としての主張をもったものとしてあった。
この七月蜂起によって左翼エスエルは赤軍に鎮圧され非合法化されることとなった。なお、この七月蜂起に反対して結成された左翼エスエル内の二つの分派(ナロードニキ共産党、革命的共産主義者党)は、その後、ボリシェビキ党に入党している。
●スピリドーノワのボリシェビキ党弾劾演説
ここでもう一度、左派ナロードニキの主張を、今度は、スピリドーノワ自身の言葉で確認しておきたい。
第五回全ロシアソビエト大会では一九一八年七月四日、スピリドーノワがボリシェビキに対する弾劾演説をおこなった。(引用は前掲「資料」、一七五頁以降の「演説」全文掲載からの抜粋)
「同志諸君! 中央執行委員会に設置されている農民部の活動に関して報告することを許していただきたい」。「この布告(食糧独裁令―引用者)は、クラークにではなく広範な層の勤労農民にひどい打撃を与えている。もちろん、エスエル(右派のこと)がおしゃべりをしている。同志諸君!ボリシェビキ、農民諸君! マルクス主義の部厚い著作を手に取ってほしい。そうすれば、なぜ諸君たちに懲罰隊が派遣されているかわかるであろう(カウツキー・レーニンの「小ブル農民層のブルジョアジーとプロレタリアートへの両極分解・階級分解論」にほかならない―引用者)。
私は赤軍兵士隊が襲撃にきて、上からの命令で農村にパニックを持ち込み、余剰
穀物をとりあげているが、クラークから取り上げているのではないという確固とした事実を持っている。(騒ぎ)農村にはソビエトが組織されている。そのソビエトはよく編成されており、農村では誰のところにどういったものがあるかを知っている。
だからわれわれが農民大会でも語っているように、ソビエトに事業を委任すべきなのである。農村は約九〇%を占める膨大な農民層と一握りのクラークからなっている。この農民群、勤労農民は賃労働によって生活しているわけではない。ツアーリはこの農民層の上に踵で立っていたのである。彼らは戦い。税を支払った。この勤労農民が、今、懲罰隊を向けられているのである。(中略) 農民に対する政策に関する問題では、われわれはあらゆる布告に対して戦闘をしかけるであろう。われわれは地方で闘う。だから地方の貧農委員会(「農業賃労働者」をまきこんで組織したボリシェビキ委員会―引用者)は存在しえなくなろう」。「食糧独裁令は(ソビエトに対する―引用者)解散権を与えているから、農民代表ソビエトはほぼ解散されるという脅威の下で生存しているようなものである」。
「(ブレストリトフスク問題では)ボリシェビキ党は、降服に向かっており、すでに帝国主義にとらえられてしまっている。(中略)わが左翼エスエル党は、最後まで国際主義的でありつづけ、いかなる降服、いかなる和解にも応じないであろう。同志諸君!こうした方策によってのみ、階級闘争を先鋭化させ、革命をその論理的帰結にいたるまで推し進めるという方策によってのみ、人民、農民と労働者の階級的本能は最後まで充実したものとなり、その後、われわれは社会主義、平等、友愛、公平の未来王国を勝ち取ることができるであろう」。
スピリドーノワはこの演説で、人民委員会議から撤退したことに伴い、ボルシェビキだけになった農業人民委員部の指令として、農村コミューンには資金を出さず、国家による賃労働を復活させていることを批判、少数にすぎないクラークではなく農民を苦しめている食糧独裁令を批判し、国家による死刑の復活に対し「ブルジョアジーの階級闘争の道具」である「死刑」に反対するとした。
左翼エスエルの七月モスクワ蜂起の基調的提起、意思統一の内容がここにあった。まさにドイツ軍の侵攻でどれだけの農民が打撃を受けているか、また食糧独裁令でどれだけの農村共同体が打撃を受けているか、左翼エスエルとしては、そういう国内外の農民抑圧に対する正義の蜂起、食糧独裁令とブレスト講和に対する抵抗権の発動、それがモスクワ七月蜂起の左翼エスエルが主張する意味であった。
それは一九二一年三月クロンシュタット叛乱にいたる――旧帝政派の「白軍」諸潮流との闘いの他方で――ロシア革命派内部の党派闘争の本格的なはじまりを意味するものに他ならなかった。
渡辺寛はレーニンの革命後の農業理論について『レーニンの農業理論』で、つぎのようにのべている。
「ここではごく簡単にその要点をのべておこう。十月革命を通して大土地所有者から土地を奪い取った農民は、そのなかから必然的に資本主義的両極分解の傾向を示すようになり、この傾向を客観的基礎として、農村でも階級闘争が展開され、やがて「農村における本当のプロレタリア革命」(……「農業問題についてのテーゼ原案」(一九二〇・六)……)がはじまる。この革命の重要な構成部分として、おもに富農にたいする穀物徴発を実施する――これがレーニンの戦時共産主義政策の基本的な考え方であったといってよいであろう。そしてこの考え方の基礎には、レーニンの経済学研究においてすでにすでに定式化されていた、現物経済→商品経済→資本主義経済の内生的発展を説く市場の理論があった。市場の理論によれば、農業においても工業と同じように商品経済はたえず生産者の両極分解を通して資本主義経済に転化するはずのものであった。そしてこのような理論にもとづいて、革命後ロシアの農村においても両極分解の傾向が進展していると主張したのである」(二三四頁)。
そういう論理のもとに、戦時共産主義期の下、食糧独裁という、農村に対する「赤色テロル」が吹き荒れたのである。これに対し、一九二一年、クロンシュタット叛乱をうけて政策転換した後の、ネップ期の経済政策では、農民にたいし戦時共産主義の「割当徴発」なるものから「食糧税」に転換し市場を復活させたのである。さらに、レーニン死後、スターリンの専制が開始されてゆく中で農業集団化へと展開してゆく。
●スターリンによる農業集団化
農業の集団化を組織するに至った工業化路線は、そもそも一九二〇年代においてトロツキー派経済学者のプレオブラジェンスキーが『新しい経済』(一九六〇年代、現代思潮社から翻訳書が出た)などを書き、そのなかで「社会主義的原始的蓄積」を提起し、社会主義の「労働者国家」における、農耕共同体経済などに影響力を持った(国有工業化に対して独自の)市場的経済調整力の解体、農民層の労働者化と工業化のための農業に対する不等価交換の政策を提唱したことを始まりとしている。そこでこの不等価交換による工業化路線を主張したプレオブラジェンスキーと、プレオブラジェンスキーの考えに反対し、消費財生産に従属した工業化と「農民的農業」の育成等々の観点を主張するブハーリンとの間で、論争となったものである(この問題をめぐっては、本書の続編で章を設ける予定)。当初、スターリンは、これに対し労農同盟の破壊だとしてブハーリンらとともにプレオブラジェンスキーに反対していたが、トロツキーを追放した後、この工業化路線の考え方を取り入れた。
ただし、プレオブラジェンスキーもトロツキーも、後述するようにスターリンがやったような強権的な農業集団化には反対していたことは、確認しておかなければならないだろう。
不等価交換の手法は「取引税」である。
「取引税」システムは、工業化のための不等価交換、間接税などから形成される。例えば国家の穀物調達組織が農民から買い取ったライ麦価格をその買い取り額の例えば四倍の金額で国営製粉所に売り、それで得た収入を工業化にまわす。この場合、買い取りには低価格が強制されたため、これが実質的に税の機能を果たしていた。
さらに農業の集団化はそれによって生成した過剰人口を工業労働に組織してゆくことになったのであり、それは、ボリシェビキの近代生産力主義・開発独裁としての工業化論においてはまさに、必然的な過程にほかならなかったのである。
こうした経緯のもとで、スターリンは一九三〇年代初頭、オプシチーナ、ミールの解体を強行したのであった。
渡辺寛はのべている。
「スターリンが粗暴な両極分解論に拠って、「階級としての富農の絶滅」を命令し、富農の生産手段(土地、生産用具)の集団農場への没収をすすめるにつれて、それは農村住民に恐るべき影響をもたらした。富農とみなされ土地を没収され追放されたもの、およそ五五〇万人の多くはシベリアに追放され」(渡辺『レーニンとスターリン』一九四頁以降)た。「富農と中農を区別することは実際には困難」であり、中農にも追放はおよび、中農は、自分たちの家畜を大量に殺処分して富農ではないということを表明せざるをえなかった。
「三二年にはロシアの農地の七割は集団化され、穀物生産も二八年に対して二割以上の増加をみせた」。だがスターリンは、「三一年の集団化計画の完了とともに」第一次五カ年計画のなかで、富農とその支持者がコルホーズとソフホーズに紛れ込んでいるから、摘発せよとして、三〇年代における大テロルの時代、国内粛清の時代を展開していったのである。 ロシア農耕共同体を破壊した近代は、資本主義ではなくてボリシェビキだったのだ。