2022年9月18日日曜日

ウクライナ戦争をどう見るか                 渋谷要

 ウクライナ軍民の対ロシア徹底抗戦断固支持! 避難民を救援しよう!

ウクライナ戦争をどう見るか                                                                 渋谷要(社会思想史研究)


【解説】

「研究所テオリア」の新聞「テオリア」は、その2022年9月10日号で、渋谷要「ウクライナ戦争をどう見るか」を掲載した。約一か月前に、編集部の方より渋谷が依頼を受けた文章である。

発売日から一週間がたった今日(9月18日)、 ★書店などで、手に入らない方々が、多数おられると思うので、この「個人ブログ」で、アップします。

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当初、この文章は、ウクライナ戦争をめぐり、いろいろな考え方が、この日本国内で、さまざまに出てきていることに対し、本文を読んでお分かりのようにわたしは「ウクライナ徹底抗戦支持派」だが、むしろそうした主張の、考え方のその背景になにを「風景」としているかを、「論点」として書こうと思った。

こうした「反ファシズム人民戦線論」を書くのは、ぼくの人生で初めてだ。それは、いい。別に悪いわけではない。問題は、資本主義批判がそこで、いかに貫徹しているかどうかだ。

また新聞に掲載された後読んだ、「読後感」として各節間の、文の通りをよくする必要もある。そのため、「執筆後・読後」の「修正加筆」として、★★★「テオリア」に発表した文章に、★4か所★だけ、修正加筆をした★★★。

加筆をしたところは、「■……■」として、■でしめし、加筆したものを可視化している。量は多くない。

また★★★削除したところは【ない】★★★。

また以下の、★★★この「解説」で、三点、この文章への「注釈」★★★を加えることにする。

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以下はその「注釈」である。

(1)まず、前提の問題として、わたし(渋谷)は学生時代より、絶対平和主義者になったことはなく、「九条護憲論者」でもない。ただし右派改憲・右翼の九条改憲には断固反対という立場だ(拙著では『エコロジスト・ルージュ宣言』第二章「国家基本法と実体主義的社会観――自民党憲法改正草案の社会実在論と戦後民主主義憲法の社会唯名論」、社会評論社・2015年刊、参照)。そして天皇制廃止―人民主権・共和制建設と一体のものとして「全人民的民兵制度」の導入などを、かねてから主張してきた。今日でも、抵抗権・革命権などの自然権などの問題を積極的な社会変革要素として考えているものだ。その「民兵制度=実効的人民主権」論はマルクスが1871年のパリ・コミューンを総括した「フランスにおける内乱」で、「コミューンの原則」の一つとして「全人民武装」を明記したことからも明らかに、マルクス主義的根拠をもつものだ、と考える。この【前提をふまえ】、以下は、本論の論点での応接ということになる。

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本論文冒頭で、民衆・市民社会の「抵抗権・革命権」に触れた部分では、その自然権と間接した「国家緊急権」と、其れに関する政治問題である、エルンスト・カッシーラーが提起した「ジャンジャック・ルソー」問題が、論じられていない。

これは、著者・渋谷が、文章の論理構成を、難しくしたくなかったという理由からである。が、ウクライナ戦争でいうなら、「国家緊急権」は、現在、大統領が発動している戦争体制に関する国家の自衛・防衛のための自然権の発動である。そして、ウクライナ戦争で言うなら「ジャンジャック・ルソー問題」は、大統領が発動している動員令「18歳から60歳までの男子は出国禁止」である。つまり「社会契約によって守られてきた市民は、国家が危急の時、死なねばならない(主権者は団結し運命をもとにして戦え)」という問題だ。まさにルソーは「社会契約は契約当事者の生命維持を目的とするものである。……市民は府が危険に身をさらすよう要求するとき、もはやこの危険を云々する立場にはない。執政体が『お前が死ぬのは、国家のためになる』といえば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活してきたのは、そういう条件下においてのみであり、その生命はもはや単に自然の恵みではなく、国家の条件つきの贈り物であるからである」と述べている(『社会契約論』井上幸治訳、中公文庫、48頁)。つまり平時に守られる個人の生命は、戦時には、国家を守るためには、生命を賭して闘えとなる。この両義性が、問題になると、カッシーラーはいう。この問題では、拙著『国家とマルチチュード』第一部第一章「近代国家と主権形態」第五節「ルソー民主主義社会契約論の二重性」(社会評論社、2006年刊)。この問題はウクライナ徹底抗戦のように「侵略軍に対する徹底抗戦で市民社会をまもる」という郷土防衛戦争であるかぎり、また、ベトナム・インドシナ革命戦争においてもそうだったように、この両義性は、内容的には、【それらの場合においては】対立するものではないと、私は考える。だから侵略した国の人民は、「祖国敗北主義=自国帝国主義打倒」で、闘おうとなるのではないか。

(2)本論第五節「スターリン主義の影――「強制移住」政策=「民族」解体」では、執筆後・製品読後の修正加筆として次のようなデータをアップすることで、論説内容を強化したいと考える。

 3月25日にアップした『赤いエコロジスト』の「 ソ連スターリン主義を継承するロシア帝国主義戦争国家のウクライナ侵略戦争・「最初」の一ヶ月――ウクライナ人民( ―軍・民)のレジスタンスを支持し、難民を救援しよう」には、「注解」として「スターリン主義の敵対民族「強制移住」政策について」というデータ分析を展開している。このデータは本論で、紹介・引用しているクルトワ、ヴェルトの『共産主義黒書――犯罪・テロル・抑圧――ソ連編』からの引用だ。

そこでは、次のようなデータを書いている。

「さらに第二次大戦期、大規模なソ連邦内の諸民族に対する強制移住が行われた。「ナチス占領軍に集団協力」したという理由での政策であった。一九四三年から一九四四年にかけて、「チェチェン人、イングーシ人、クリミア-タタール人、カラチャイ人、バルカル人、カルムイク人の六民族がシベリア、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスへ」。さらに「ギリシア人、ブルガリア人、クリミアのアルメニア人、メスヘティア-トルコ人〔グルジア南部のトルコとの国境に近く住むイスラム化したグルジア人〕、クルド人〔旧ソ連ではアゼルバイジャンとアルメニアに多く住んでいた〕、カフカスのヘムシン人〔十八世紀にイスラム化したアルメニア人〕」が強制移住させられた。

こうした移住政策は、スターリン主義権力にとって、その中央権力に対して自立化しようとする民族を解体しようとする意図をもっていた」。

以上を、追加のデータとして表明する。

(3)本論の「反ファシズム戦争」と左翼革命運動との関係であるが。この「反ファシズム人民戦線」という「構図」では、一つの宿題があると、私は考えている。

1930年代、ファシストに対し人民戦争を闘った「スペイン・マルクス主義統一労働者党」(POUM――ジョージ・オウェル『カタロニア讃歌』で有名なグループだ)は、「スパニッシュ・レボリューション」という機関紙(の1937年2月17日号)で、「前線では戦争を、後方には社会主義革命を」(「労働者の革命軍のために――POUM中央委員会の軍事決議」)と表明している(『マルクス主義軍事論≪現代編≫増補版』、革命軍事論研究会編、鹿砦社、1973年)。

 これは、反ファシズム戦争からプロレタリア革命への脈絡をつけようとするものと考えるが、それは、前線では、ファシストと闘うブルジョアジーの民主主義勢力と共闘し、後方では、ブルジョアジーの民主主義勢力の経済的な生命線を破壊する(例えば、生産の直接労働者による奪取=「集産化」――簡単に言うと「国有化」に類似した概念だ――など)ということになる可能性がある。ファシストと決戦を闘っている以上、それは、反ファシスト勢力の分裂につながる可能性がある。少なくともブルジョア民主主義者は不安だろう。だからスターリニストなどPOUMをよく思わない部分からは「POUMはファシストのスパイだ」といわれる口実になった可能性があると考えていいだろう。この問題の解決は、少なくとも実践的には「宿題」として残されていると考える。 

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ウクライナ戦争をどう見るか

              渋谷要(社会思想史研究)

はじめに

224日、ロシア全体主義はウクライナへの侵略戦争を開始した。欧米日帝国主義に対し、ロシアは、ウクライナをロシア「勢力圏」の一部として確保せんとしてきた。それが「ウクライナのNATO加盟」によって破壊されるという言説、これがプーチンのウクライナ侵攻の「正当化」の筋書きだ。

そうした中、私は510日(2022年)付の『テオリア』(116号)で、「『ウクライナ戦争』にどう向き合うか」という座談会を読んだ。私は白川真澄さんが、ロシアが「占領地域では住民を無差別に虐殺している現実のなかで、ウクライナの市民が武器をとって抵抗しているのは当然で、この抵抗は私は支持する」とのべていることに、同意する。近代の市民社会(市民)には、「抵抗権・革命権」という自然権がある。それは「民主主義法秩序」が例えばファシストや侵略軍に破壊されたとき、その「民主主義法秩序」を「回復」させるために戦う権利である。(※これは私の「注釈」だがそれを「愛国主義」というか言わないかは、自由だ。またその「愛国」という意味合いも欧州民主主義的な「個人・市民社会を国家の上位に置く」もの(社会契約としての国家)と、全体主義の「国家という実体があってこその人間だという国家有機体主義」では、全く違ってくる)。

ただその直後、白川さんのウクライナの「左翼」が「政府軍と一体になって戦うことにはディレンマが生ずる」との発言については、そうなんだろうけども、一方で異なった感想も持った。今は、市民と政府軍の一体的な団結が必要だ。左翼がそこで、いろんな人々をオルグすることが必要な時期だと思う。その場合一般論としてだが、オルグでは軍隊と住民が、信頼に値するような活動を左翼がつくりあげていくことが、重要だ。以上が、本論のとっかかりの問題意識だ。

(1)近代日本では特異の「反ファッショ」「反侵略」陣営入り

まず日本の問題を書いておこう。日本の反戦平和の運動では、ウクライナ徹底抗戦に支持を表明する人々と「NATO拡大」などの西側帝国主義のロシアへの軍事挑発や「米ロ代理戦争」という観点などを主眼とする人々に大きく分岐していると思う。私は次のような観点を、介在させる必要があるのではないかと考える。

 日本帝国主義がロシア全体主義を糾弾しているという事態。それは、「日本帝国主義」が<帝国主義国家として>、世界的な戦争で、左翼用語的には「国際反ファシズム統一戦線」の側に、あるいは「反侵略」の側に参加しているという事態である。「反ファシズム戦争」という軸を簡単に言うと「欧米のブルジョア民主主義(の帝国主義国)」と全体主義との戦争だということだ(※ここでいう「帝国主義」とは「資本主義の最高の段階としての帝国主義」というマルクス経済学の規定に基づく)。

 例えば、日本帝国主義は、1920年代、国際的なファシズム潮流が形成され始めると同時に中国全面侵略、ナチス・ドイツなどとのファシズムの「枢軸国=三国軍事同盟」などを結んできた。例えば、それは、「侵略国と被侵略国の区別を付けず『中立』であるとして、戦争は『両方悪い』ということであるのならば、そもそも第二次世界大戦でのナチス・ドイツの侵略や日本の戦争責任についてもすべて免罪することになりかねず、戦後秩序の根幹が崩れます」と、慶応大学の細谷雄一教授がいっているように戦後世界の根幹にかかわる構図である(ハフポスト日本版227250813)。それが国際反ファシズムの「国際連合」の世界の常識だ。

 戦後日本は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争、さらに東西冷戦終結後は9・11テロに対する「自衛権」の行使としてアフガにスタン・イラク侵略戦争など、合衆国の動きに追随してきた。だが今回は、日本が同じく合衆国に追随することで、国際反ファッショ・あるいは反侵略の国家の側に入った、ということだ。これは歴史的に特異な例である。そこに今回のウクライナ戦争での一つのポイントがある。

なお、この場合のファシズム及び全体主義の定義だが、ハンナ・アレント『全体主義の起原』(1951年刊行開始)では階級闘争の解体⇔民主主義的な市民社会の解体→労働者階級の階級としての解体→個人(アトム)化→専制国家への個人の統合という脈絡が重要だと指摘している。これについて拙著では「階級解体と全体主義」『資本主義批判の政治経済学』第二部第三章/社会評論社、参照のこと(他にトロツキー「次は何か」(1930年)、コミンテルン第七回大会のディミトロフ・テーゼなど。人民戦線については、ジャン・プラデル『スペインに武器を 1936』、 ダニエル・ゲラン『人民戦線―革命の破産』、ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』など参照を)。

(2)ブルジョア民主主義の「両義性」

■全体主義ーファシズムの定義を確認したことをふまえて、「反ファシズム戦争」ということをもう少し考えていこう。■

アメリカ合衆国には、その国民国家の物語がある。自らは、■アメリカ独立革命に勝利した後■、合衆国南部の奴隷制と闘い、20世紀には、ナチスドイツや大日本帝国の「枢軸国」ファシズムと闘い(連合国=国際連合)、共産主義(実はスターリン主義だが)との「東西冷戦」を闘い、そして、イスラム過激派と闘たかってきた(対テロ戦争)、今はロシア・中国の「専制主義」と闘っているという、総じて全体主義との闘いで「自由と民主主義」を守ってきたという物語だ。

そうした「反ファシズム」史観は、私の立場から言えば、西側世界の「国家共同幻想」であり、その「自由と民主主義」は、ブルジョア・アトミズム=競争原理に基づく自由主義であって、そのもとで人種差別と格差社会が拡大固定化し、国際的には多国籍企業を中心としたアメリカン・グローバリゼーションと「アメリカの戦争」が展開してきたのである。だが、それは、「全体主義」との闘いを労働者人民が進めるうえで、決して不利益なものばかりであったわけではない。例えば「1930年代の反ファシズム人民戦線」などにおいては、レジスタンス闘争などで優位に働いた「側面」があるということも、確認しなければならない。そういう「両義性」をもってきたのだ。

■例えば「第二次世界戦争」は、「民主主義ー対ーファシズム」の戦いだったといわれる。だがその「民主主義」はあくまでも、自らの資本主義「勢力圏・権益」の利害貫徹をめざしたもので、その本質においてファシズム帝国主義との「帝国主義間戦争」だった。まさに、そうした「両義性」である。■

 その「両義性」に対しては、マルクス主義の反戦闘争論の主体性を立てれば、「侵略された国」の人民解放・民族独立闘争(祖国防衛戦争)と、「侵略した国」の祖国敗北主義のための闘いの連帯ということ、になるだろう。■その場合、植民地を争奪する二つの帝国主義ブロックの争い、国境線で対峙する資本主義間の戦争(相互侵略戦争)等では、両交戦国の反戦運動は、「祖国敗北主義―自国戦争政府の打倒」という原則で闘うことになる。■

(3)国際連合―「国際社会」の矛盾と欧州議会・2019年「重要な記憶」の決議

その場合戦後の「国際秩序」である「国連」には大きな矛盾があった。それが、ファシズム「枢軸国」を打倒した関係で、安保理・常任理事国の中の2国が、スターリン主義に起因する全体主義のロシアと中国としてあるという問題だ。ロシアのプーチンの権力は、1999年以降のイスラム派・対ロ独立勢力を殲滅する戦争(第二次チェチェン紛争)以降、プーチンらは戦争放火をやりはじめた。それが20032004年にかけての「バラ革命」(ジョージア)、「オレンジ革命」(ウクライナ)の民主化運動の進捗と、それにともなうNATOなどへの加盟の動きに対する、クレムリンの対抗という事態にほかならない。クレムリンは、2008年ロシア・グルジア(ジョージア)戦争(ロシア軍の侵攻とグルジア領内での国境線の変更=二つの「独立」地域の承認)へと踏み込み、2015年シリア・アサド政権の要請で内戦介入や、2014年以降のロシアへのクリミアに対する暴力的併合、およびウクライナの東部(ドネツク、ルガンスク両州)の実効支配とそれらの「人民共和国」の「独立」の承認という政治過程を描いてきたのである。これらによって、脅威を覚えたウクライナ、スウェーデン、フィンランドなどロシア周辺諸国は、NATOへの加盟のベクトルを選択することとなった。

ロシアは「連合国」なのか?そこで、全体主義の「定義」という問題になる。それは、ハンナ・アレントの『全体主義の起原』に準拠しているように、私には思われる。「全体主義」に、ナチだけでなくそれと同等なものとしてソ連スターリン主義を同置させている。これは決定的に重要だ。まさにそれが「欧州議会」において、20199月、決議された、「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」という決議である。そこでは「Stalinist,Nazi,and other ictatorships」という全体主義が、断罪の対象となっている。バイデン大統領の「専制主義対民主主義」というフレーズも、これに準拠した考え方だろう。ではプーチンとスターリン主義との関係は如何に。

(4)スターリン主義の影――「強制移住」政策=「民族」解体

プーチン自身がかつて東独ドレスデン・KGB(ソ連国家保安委員会)支部の官僚だった。その全体主義の問題では、ウクライナ侵略戦争での「強制移住」の問題がある。それは<スターリン主義の影>という問題だ。以下に見てゆくようにスターリンの「民族理論」→強制移住で民族を解体するということだ。

まず官僚体制継続の問題から入ろう。1989年以降のソ連スターリン主義体制において、「党の独裁」としてあったノーメンクラツーラ体制は解体した。だが、軍事・警察官僚組織(KGB系列など)はのこった。そして「プーチンの統治で最大の謎の一つは、政権をサンクト派で固めてしまったことだ。…権力層の研究で知られるオリガ・クリシュタノフスカヤは、「プーチンの大統領二期目が終わる08年までに権力中枢ポストの八割以上はプーチンの息のかかったサンクト派や旧KGB人脈で占められた」と分析した」(名越健郎『独裁者プーチン』文春新書、2012年)。そのサンクト派には「シロビキ」といわれるKGB出身グループの「武闘派」が存在し、大統領府長官、連邦麻薬取締兆長官、安保会議書記などの要職を占めてきた。KGBはソ連解体以降、名称を変えながら1995年以降FSB(ロシア連邦保安庁)となって、民主派・改革派に対する弾圧を組織してきたといわれる。

そのスターリン主義と同様の手法は、ウクライナ戦争では、「強制移住」の施策に端的に表れている。ウクライナ侵略戦争を開始したクレムリンは、この約半年間で百数十万人(ウクライナの人口約4300万人)におよぶ、ウクライナ民衆をロシア国内(シベリアなど)に強制移住・連行している。また、東部や南部の占領地帯では、収容所施設をつくり、親ロシア派住民かどうかの選別などを行っているとの報道がある。これには、スターリン民族理論の強い影響があるのは明らかだ。

 スターリンによれば「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である」。そしてこの「すべての特徴が同時に存在する場合に、はじめて民族があたえられるのである」というものだ(スターリン『マルクス主義と民族問題』、原著1913年、引用は国民文庫、50~51頁)。

この規定は、「大ロシア主義」をかかげるプーチンにすれば、大ロシアが、いくつもの国家に分かれているのはおかしい、小ロシア=ウクライナは、クレムリンの「勢力圏」だ、ということに、口実をあたえるものだ。さらに、クレムリンに敵対するウクライナ民族を解体しようとした場合(焦土作戦とつらなる)、「強制移住政策」は、ウクライナの「民族」としての解体とウクライナのロシア化に効果を発揮するものとなるだろう。(※ステファヌ・クルトワ、二コラ・ヴェルト『共産主義黒書――犯罪・テロル・抑圧――<ソ連編>』(外川継男訳、惠雅堂出版、2001年、原書1997年)の「第七章 強制的集団化とクラーク撲滅」「第八章 大飢饉」などでは、その「強制移住」の強権的なファシスト的やり口が、暴露されている)。1930年代、ウクライナなどでの農業集団化における、いわゆる「クラーク(富農)撲滅政策」は、例えば、次のようだ。

「膨大な数のクラーク(これにはクラーク(富農)より圧倒的に多い数の一般農民などが含まれている――引用者・渋谷)の強制移住は、完全な即興とアナーキーの中で行われた。それは前代未聞の『強制移住=棄民』となって、政治にとって経済的になんらプラスにはならなかった。……クラークの強制移住は1930年2月の第一週からはじまった。政治局によって承認された計画では、第一段階で六万家族の移住が四月には終わっていなければならなかった。北方地域で四五〇〇〇、ウラルで一五〇〇〇家族を受け入れることになっていた」。「このように強制移住者は予備の食糧もなしに、多くの場合には仮寝の小屋すらないしに、定住することを余儀なくされた」等々だ。こうした支配方法をクレムリンは今も継続している。

(5)ロシアはウクライナから撤退せよ――戦争性格の変化にも留意を

プーチンにとってその「大ロシア主義」においては、レーニンが「分離の自由」に基づく民族自決権によってウクライナを連邦構成共和国として認めたこと自体が間違いであったという。これに対しスターリンの敵対民族消滅政策をプーチン自らが駆使しつつ、スターリンのようにクレムリンへの国家中央集権主義に基づく大ロシア主義を表明しているのだ。

(※この問題はそもそも、ロシア革命時の、アナーキストのウクライナ・マフノ反乱軍とボリシェビキとの闘いという問題を一つの源流としている。「ウクライナをクレムリンから解放せよ」ということだ。アルシーノフ『マフノ反乱軍史』、鹿砦社刊、1973年など参照)。

「ウクライナ戦争」は、ロシアのウクライナ侵略戦争―対―ウクライナ軍民の徹底抗戦という構図で推移している。すでに、ロシアの側は「核兵器使用」の恫喝も、開戦直後にやっている。反面、戦局の変化とともに、相互侵略戦争の様相へと転変する可能性も否定できないことは対自化すべきだ。そうしたことをも対象化しつつ、「ウクライナ軍民の対ロシア徹底抗戦断固支持! 避難民を救援しよう!」という声をあげていこうではないか。もちろん、この戦争を契機に組織されている日本の軍拡にはストップを!

(しぶや・かなめ 1955年生まれ、元・季刊「クライシス」編集委員(1984年第三期~1990年終刊))◆

2022年9月5日月曜日

ノート:コロナパンデミックとグローバリズム……「本論」部分再アップ 渋谷要


ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム…「本論」部分再アップ

                               渋谷要

【解説】本年二月にアップした、「ノート:コロナパンデミックとグローバリズム」の、「本論」部分を、再アップします。コロナ感染の【パンデミックとしての】終息が見えない中、帝国主義グローバリズムとの関連で、コロナ感染という事態をとらえ返す。そのことを通じて、グローバリズムがもたらす様々な諸結果を、自分たちの身近な問題として把握する視点が、必要であると考えます。

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 ●ノート:コロナパンデミックとグローバリズム

【第一節】パンデミックの発生と二〇二二年冒頭の経済状態の概観

●新型コロナ・パンデミックの発生

 二〇二〇年一月三〇日、WHOのテドロス事務局長は、「新型コロナはPHEIC(国際緊急事態)を構成する」との声明を発表した。

 IHR(国際保健規則)第一条(定義)は、「PHEICの基準として(1)疾病の国際的拡大ににより他国に公衆衛生リスクをもたらすと認められる事態(2)潜在的に国際的対策の調整が必要な事態」である。二〇二〇年二月一一日、WHOは、新型コロナウイルスの正式名称を「COVID・19」(コ―ヴィッド・ナインティーン)――ハイフン・が正式表記だ――と発表した。これが、一か月ほどで「コロナ・パンデミック」と呼ばれる(WHO三月一一日表明)ようになる最初の経緯だ。

 この感染症を「原因不明の肺炎」として、最も早く公式に認めたのは、二〇一九年一二月ごろ、WHOと中国政府によるものだった。地域は中国の武漢市だった。一二月中には、武漢の専門家チームが、調査を開始する。そして、二〇二〇年一月、肺炎患者から新型コロナウイルスを検出、中国国営メディアが報道した。この一月、武漢での死亡例が発表された。全世界に感染は拡大し、パンデミックがはじまった。日本でも、この月、感染が確認されている。この発生源は、まだ特定されていない(二〇二二年二月現在)。

 このパンデミックの定義を専門家の説明で確認しておこう。典型例は「スペイン・インフルエンザ」だ。この感染症に関しては本論においても、何度か触れることになる。 

「特定の地域で限定的に流行するのがエンデミック(地域流行)です。…これがもう少し広がって、特定の社会・共同体で短期間に予測を越えた感染の流行が起こっている状態がエピデミック(流行)です。そのような感染の急激な発生をアウトブレイク(集団発生)といいます。エピデミックは、ときには、突然、国や地域を越えて感染が広がることもあります。ただし、その広がりは一時的です。……SARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)はこの例です。エピデミックからパンデミックになりかけたところで感染が止まりました。これに対して、流行が国や大陸を越えて世界的に大きく広がったものがパンデミック(世界的大流行:パンはすべてという意味です)です。その典型例が一九一八年に起こったスペイン風邪です。世界の約三分の一の人が感染し、約五〇〇〇万人の死者が出ました。鳥インフルエンザウイルス由来のインフルエンザウイルスHINI型が病原体でした。パンデミックを起こす病原体は、動物からヒトに、さらにヒトからヒトに感染するような変異をした、ヒトが経験したことのない新しいものです。このために、われわれのからだの免疫系がすばやく反応を起こすことができず、特に最初の感染をうまく防げないことがしばしばです。その間に感染が広がり、病原性の高い病原体の場合には重篤な結果をもたらすのです」(宮坂昌之『新型コロナ 7つの謎』、講談社ブルーバックス、二〇二〇年、一七~一八頁。以下、宮坂本とする)、ということだ。

●パンデミックと産業・商業変動の現実(二〇二二年二月)

  新型コロナ・パンデミックとその被害などの最終の規模・数字的データは、あきらかではない(二〇二二年二月現在)。故に、本論では、数字表現は、可能な限り自粛する方針である。だが必要だと考えられるものは論述する。現在(二〇二二年二月)の時点では、二月九日(日本時間)に、米ジョンズホプキンス大学の集計で、感染者が四億人を越えたとの発表があった。合衆国は7700万人で最多。インドが四二三〇万人、ブラジル二六七〇万人、フランス二一一〇万人、イギリス一八〇〇万人(すべて約数)などとなっている。この一月七日の集計で三億人をこえたばかりだ。「オミクロン株」の感染力の表現でもある。それでも、今年にはいって欧米は感染者数は減少傾向にあるといわれている。こうした状況を注視していく必要がある。

 コロナ禍のパンデミック(世界的大流行)が発生して約一年後、二〇二一年二月二六日、ジェトロ(日本貿易振興機構)は、ジェトロで実施した「二〇二〇年度 日本企業の海外事業展開に関するアンケート調査」を公表した(JETRO電子版)。そのトップにある見出しが「新型コロナによる日本企業の海外売上高への影響、色濃く」という見出しでのデータだ。

 「本調査では、新型コロナの拡大が自社ビジネスに与える影響を尋ねた。新型コロナの拡大による二〇二〇年度の売上高への影響について、海外向けにビジネスを行う企業の六四・八%が、海外での売上高に「マイナスの影響(がある)」と回答した。二〇二〇年度の海外売上高への影響について業種別にみると、主要国市場の低迷から「自動車・同部品/その他輸送機器」でマイナスの影響を受ける企業の割合が高い結果となった。他方で、需要が底堅い「飲食料品」では、プラスの影響があるとの回答が一三・九%と相対的に高い」。

「それでは、どのような面にマイナスの影響を与えたのか。マイナスの影響の最大の内容として、国内、国外いずれも七〇%超の企業が「販売」を挙げた。特に海外での販売面での具体的なマイナス影響としては、『ロックダウン』を挙げる企業が目立つ。日本国内よりも厳格なロックダウン(都市封鎖――その地域での商業・産業活動の規制……引用者・渋谷)や、渡航制限の影響が強く出たものとみられる。具体的なコメントとして、ロックダウンによる『取引先の休業』(印刷・同関連、中小企業)、『商談の中断』(プラスチック製品、中小企業)、『店舗休業』(商社・卸売り、大企業)などの声が寄せられた。ロックダウンによる現地需要の低下が、日本からの輸出減少、さらには日本企業の売り上げ減少につながった」。

 こうした傾向は、二〇二一年度もつづいている。コロナ禍の半導体不足なども懸念材料の一つだ。半導体を必要とする業種、たとえば自動車の減産も深刻化している。

 さらに、感染の急拡大に対する「緊急事態宣言」や「まん蔓延防止等緊急措置」などで、そのたびに、お店の協業や短縮、酒類の提供停止や自粛を余儀なくされてきた「飲食業」などは、極端な減収においこまれており、閉店するお店も続出している。もちろん、観光業などは大打撃だ。他方で、家電メーカーなど、いわゆる「自粛での巣籠需要」で営業成績をのばしている業種もあるが、総体的に経済活動の縮小は基調的なベクトルとなっている。労働者階級の状態では、日本の労働者階級で約四割をしめる(総務省「労働力調査(詳細集計)」などによる)といわれる非正規雇用労働者をはじめ、商業・産業の縮小と同時に、雇止め―解雇などが横行しており、失業者増大・生活困窮・貧富格差が拡大している。

 感染の拡大で、生活苦が、子育て世代の親と子供や老人世帯などを直撃している。例えば、保育所や学校でのクラスターとかは言うに及ばず、例えば保育所が休みになり、親が働いていて、子供の面倒を見られない状況となり、親が仕事を休むしかなくなるとか、失業するとか、いろいろなことが起こっている。これに対し「子供食堂」など、いろいろな相互扶助がなされている。さらに、エッセンシャル・ワーカーが感染すれば、社会の基本的な機能が阻害される。エッセンシャル・ワーカーとは医療労働者、介護・福祉の労働者、運送・物流の労働者、スーパー・コンビニなどの労働者、電気・水道・ガス・通信・ごみ収集などに従事する労働者、農・漁業者などである。政府はいろいろな「給付金・助成金」制度の申請を簡略化して政策を立案・執行してきたが、その額だけでは、どうにもならないのが実情だ。それが、一般的な見方だと、本論論者としては、考える。もっと構造的な改革と仕組みが必要だろう。それらの現状は、例えば少なくとも、メディアでも報道していることだ。

 ●医療法「改正」での病床削減問題

 こうした状況に加え、コロナとの闘いの最前線では、とんでもない逆行まさに反動が、政府権力者たちなどの支配勢力によってくわえられている、日本では、特に21世紀に入り、本格的な医療削減計画が展開してきた。新自由主義の弊害だ。

 2021年通常国会では、「医療制度改定一括法案――医療法等改定案」が、自民・公明・維新・国民民主の賛成で国会を通過した。この法制は、病院機能の削減を目的とする「地域医療構想」なるものの延長に、それを推進するシステムとして制定されたものにほかならない。

 すでにリスト化している公立・公的病院の400以上の施設のリスト化をふまえ、「改正」医療法体制では、病院に消費税財源から病床削減に対する給付金を支払う。100%連日空きあるベッドがない病院を病症稼働率100%として、単価一床あたり、50%の病院には114万円、90%の病院には、228万円を給付する。この前提条件は、稼働している病棟の病床の10%以上の削減を前提とするというものだ。また、病院の統廃合を規定。

  労基法36条にもとづく、36協定に関しては、一般的には残業時間の上限は年360時間(繁忙期など、それ以上働く必要から「特別条項付き36協定」があるが法定休日労働を除き年720時間とされている。また、月45時間を超えた時間外労働が許されるのは年6か月)とされているが、診療従事の医師は年960時間、地域医療診療確保の機関を特定したうえで、年1860時間とすると規定するなどとしている。また、医師の仕事を放射線技師などに割り振るなどで、医師不足を弥縫しようとしている。

 また、この一括法案では、患者には75歳以上の医療費窓口負担の、原則1割負担を2割に引き上げることが可決された(「健康保険法等一部改正法案」)。 

 そもそも、この間、コロナ感染対応で、日本の保健所の数が問題となってきているが、1992年には800以上(これがピークといわれている)あったものが、2020年には500か所を切っているといわれている。病院施設・研究施設・マンパワーが総じて削減されているのだ。そうした中で、政府によるコロナ対策の不備と無責任が、国会でも指摘されてきたのである。

 (※ 以上、企業関連、労働者雇用・生活関連に関する、これらの数字的表記については、現在進行中のことでもあり本論では不記とする)。

●ワクチン格差の問題

 ここで、発展途上国などへのワクチン供給問題について、触れておこう。ここでは、経済問題としての側面を中心に言及する。

(※本論論者・渋谷は、いわゆる「反ワクチン」論者ではない。だが、「ワクチンの義務化」には反対する。各人のいろいろな医療的事情を考えれば、それは「必要とする人々」に、というフレーズが、妥当性を持っていると考えるものである。現行の日本における「予防接種法」も、そういう趣旨だと考える。この点、確認しておく)。

 WTOでは、ワクチン・製薬などに関して、TRIPS協定というものに基づき、知的財産権の保護に関する制度の順守を規定している。その場合、とりわけ特許権が重要なものとなる。これにより、一定期間、製品の独占生産・販売などが約束される。しかし、先進国には販売されても発展途上国などには行き渡らないことが問題になってきた。コロナ・ワクチンもその例に漏れないことになった。そこで、南アフリカとインドが「ウェイバー提案」というものを二〇二〇年六月におこなったのである。

 「ウェイバー提案」は、知的財産権の保護の「一時放棄」、先進国のワクチン独占の解除をもとめるものだった。これに対して、EU、イギリスをはじめ先進国は軒並み、反対してきた。これに対し、途上国六〇以上が賛成するとともに、合衆国、中国、ロシアなど、ワクチンの開発・生産が完成した国家は賛成している(二〇二二年二月現在)。これは、「ワクチン外交」のためにほかならない。米・中の間での貿易競争の一端がここにもあらわれている。

 またワクチンの「ウェイバー提案」にたいしては、世界中で製品生産が認められれば、ワクチンを製造する原材料が不足してくるというリスクを懸念する見解がある。それは、確かにあるだろう。だが、発展途上国へのワクチン供給の低迷は、それらの地域での感染を拡大するため、労働力不足や、事業所の生産ラインの減速を結果する。これは例えば、先進国に必要な生産材(中間財)の生産が減速する・入らなくなるということだ。結果、先進国の生産が低迷し、経済的なダメージが経済全体に構造化していく。だから、ワクチンの特許権を免除せよという主張は、経済的な効率性から言っても、こういってよければ、資本主義的な妥当性をもっているのではないか。

  だが他方で、特許独占権をパンデミック中は、ワクチンを開発した大手製薬会社が「一時放棄」すると宣言したとしても、世界中で、開発・生産の設備整備を、どのように展開するのか。ここには、先進資本主義国の生産諸力が、各個の企業の競争力(資本間競争)に規定されているという問題があるだろう。一言でいうなら、「特許独占」も、「一時放棄」も、資本間競争に圧倒的に有利な巨大製薬会社・多国籍製薬企業が、広い市場を形成してゆくということである。

 端的に言うなら「特許独占を一時放棄」をしても、多国籍製薬企業が作り出した・あるいは流通させるワクチンは、どこに売られるかわからない。一番、利益が上がるところに売られていくだろう。それが資本主義だ。結局、ここにもコロナ禍が生産のグローバリズムに負の影響を与えているばかりでなく、そのしわ寄せが、グローバル・サウスに押し付けられているという、世界資本主義の構造的な問題が表出しているということだ。

 こうした問題は、スペイン・インフルエンザ(一九一八~二一年ごろ)の分析においても、以下のような記述がみられる南北問題として存在してきた。

 「留保付きであるが、朝鮮では、スペイン・インフルエンザによる死亡率がかなり高かったと言えるだろう。これは、朝鮮が流行期に寒冷であり、貧困な者はオンドルの燃料にも事欠いていたほどで、罹患者・死亡者が多かったに違いない。また、内地人と比べて、治療・入院などの措置は、朝鮮人には十分でなかっただろうから、この点でも被害を大きくさせた。目の前で日本人は厚遇され、朝鮮人に死者が続出する状景は、三・一運動として、朝鮮の人びとが、大正八(一九一九)年三月に蜂起した(「三・一独立運動」……大日本帝国の朝鮮総督府を執政機関とする植民地主義支配は「韓国併合」といわれているが、一九一〇~一九四五年に及んだ、そういう支配からの民族自決の闘いの一つ――引用者・渋谷)ことの一つの前提となったと考えられないだろうか」(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店、二〇〇六年、四〇四~四〇五頁)。

 まさに、今日的にも経済格差や、政治的抑圧――被抑圧という問題が、コロナ禍で、顕現している。だからパンデミックは帝国主義の問題と相乗「効果」をつくりだして、拡大しているのだ。

【第二節】感染症とグローバリズムによる環境破壊

●産業・都市の様態と感染症

 感染症の拡大については、まず、産業と都市の構造との関係で、石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫、平成30年・2018年)で、次のような論述がある。

「インフルエンザウイルスは、HIVと同じRNAウイルスに属し、哺乳類が一〇〇万年かかる進化を、一年でやってのけるほど変異が激しい。たえず変異を繰り返すので、ワクチンをつくっても完成するころには姿を変えていて、効かないことがしばしばある」(二二〇~二二一頁)。(※RNAウイルスの変異については、本論では第三節で述べている)。

  こうした感染症を防ぐ基本は「接触しないこと」である。そして感染症の拡大は「密集・密接・密閉」などによる、この「接触」の強力な広がりにある。

「以前から存在した鳥インフルエンザウイルスが、なぜ近年になってこれほどまでに猛威を振るいはじめたのだろうか。カート・バンデグリフとら米国カリフォルニア大学サンタクルーズ校のグループは、地球環境の変化が影響したとみている。地質保全の国際機関、ラムサール条約事務局は。農地転換や開発によって過去半世紀に世界の湿地の五〇パーセントが失われたと発表している。カリフォルニア州ではこれまでに、湿地の九〇%を失った。日本でも五〇%が消失した。この結果、カモなど水禽類の越冬地は狭められて過密になっている。……以前に比べてカモのウイルス感染の機会が格段に増えたという。空気感染で広がるインフルエンザウイルスは、人口過密の高い「都市」に適応したウイルスだ。過去の大発生をみても、古代ギリシャ・ローマ、サンクトペテルブルグ(帝政ロシアー引用者・渋谷)、ニューヨーク、東京といった大都市で大発生した。そして、軍隊、工場、学校など人の集まる場所が、ウイルスの温床になってきた。人の密度の低いところでは、ウイルスは生きながらえることはできなかった」。そしてこうのべている。「一八世紀にイギリスではじまった産業革命と工業化によって、多くの人々が過密な大都市に住むようになり、インフルエンザ以外にも結核やコレラなど新たな大流行を経験するようになった」(二二一~二二二頁)と。

 まさに感染症で、とくに、21世紀に入ってから、問題になっている一つに鳥インフルエンザがある。一つの養鶏場で感染が確認されるとその場所で飼われているすべてのトリたちが殺処分される。

 鳥インフルエンザの「原因は畜産革命」だという。「この四半世紀に、世界的に食肉の消費が増加している。とくに、鶏肉の消費量は六倍近くになる。国連食糧農業機関(FOA)によると、世界で飼われている鶏は二〇一〇年には約二〇〇億羽になった。この一〇年で三割も増えた。このうちの二四%を中国が占め、アジア全体では五五%が飼われている。……世界最大の養鶏工場といわれるブラジル南東部のマンディケイラ農場は、八〇〇万羽を飼育、一日五四〇万個の卵を生産している。自然光や外気がほとんど入らない閉鎖式の鶏舎で、身動きできないほど多数の鶏を狭いケージに詰め込む。

 鶏は、遺伝子組み換えトウモロコシのエサを与えられ、むりやり太らされる。四〇~六〇日間飼われるとベルトコンベアーで運ばれ、機械で自動的に食肉処理される。……ファーストフード用やスーパーの安いブロイラーは、もはや大量生産でコストを競う『工業製品』である。

 豚の飼育現場も鶏と変わらない。豚も世界で約八億頭が飼われ、その六〇%までが中国産だ。最初にメキシコで出現した「豚(新亜型)インフルエンザ」は、進出してきた米国の大手養豚会社が経営する巨大養豚場が、発生源だったとみられている。ここで年間一〇〇万頭近い豚が生産され、その高密度飼育と不潔さで悪名高い養豚場である」(二二四~二二五頁)ということだ。

●グローバリズムの産物としての感染症

 ポイントは、世界資本主義の永続的資本蓄積運動は、環境破壊をもたらすと同時に、その環境破壊を通じて感染症の世界的大流行=パンデミックを醸成・結果した。そしてそのことによって逆に、世界資本主義の資本蓄積運動=「資本の回転」を阻害し、破壊した。世界資本主義の自殺行為だ。そしてまた、そこで、生活の困窮に陥っている大多数の人々は、全世界の労働者階級・農民大衆である。

 岡田晴恵『知っておきたい感染症【新版】――新型コロナと21世紀型パンデミック』(二〇二〇年、ちくま新書)は、次のように、感染症の社会的な様相を論述している。 

「2011年10月31日、地球人口は70億人を突破し、2019年には77億人との推定されているが、スペインかぜ(スペイン・インフルエンザ)が流行した1918年ごろは18億人だった。第二次世界大戦後、人口は急増し、12年で10億ずつ増加している。

 人口増加には、食糧増産が必要となる。人類はジャングルや密林などの開発を手掛けて、耕作地を拡げ、家畜を飼育して、食糧増産と供給を促している。さらに、居住区もそれらの開拓地に盛んに造られている。

 野生動物の生息エリアに人が踏み込むことで、これまでは接触する機会の少なかった動物との接点ができる。野生動物は、様々なウイルスや細菌などの微生物の宿主として、これらを保有している。通常、それらの微生物は自然宿主とは病気を起こさずに共存しているが、人がそのウイルスや細菌に感染すると、発症し、ときに病原性の強い、致死性の感染症となることがある。野生動物に直接接触する機会としては、狩猟や肉を取るためなどの解体作業、ブッシュミート等としての経口摂取、さらに皮革などの利用における処理作業などがある。また、人が野生動物生息のエリアの近くに居住し、動物の排泄物や体液、血液などの触れることなどで、感染することも考えられる」(七五~七六頁)。

 また社会構造の問題を軸に見るならば次のようなことになるだろう。

 「現代では、文明の進歩と経済発展とともに人の交流は活発化、広域化している。その影響が野生生物の生息する地域にも及び始めている。密林周囲の村々と近隣の町や大都市が、車や鉄道でつながり、交通量とスピード効率も上がった。

 都市には多数の人が密集して生活する場所が形成され、もしもそこに野生動物由来の新興感染症が侵入すれば、爆発的な流行が起こることになる。都市で流行が起これば、さらに人の移動によって、病原体が地方にも拡散していく。2014年のエボラ出血熱のアウトブレイクの要因としては、野生動物との接点のある村に留まっていた感染症が、都市に運ばれ流行を起こしたことが大きい。そして首都にまで入ったウイルスは、国際空港から航空機で新天地の大陸に拡散していくことも、21世紀の象徴的な感染症拡大の様式である。

 地球人口の増加と高速大量輸送を背景としたグローバル化社会の中で、ここ40年、さまざまな新興感染症が発生し、流行を起こしては世界に拡散していった。エボラ出血熱の流行というウイルス学的には予測し難い想定外の事態も、21世紀における社会環境の変化が色濃く影響している」(七六~七七頁)ということだ。

 以上に示されているように、21世紀世界の大量消費社会と、それを生産するグローバルな開発によって、新たな感染症のリスクが生み出され、猛威を振るってきたのだ。

●環境破壊・地球環境の変化に注目せよ

 宮坂昌之『新型コロナ七つの謎』(講談社ブルーバックス、二〇二〇年。以下、宮坂本とする)、第一章「風邪ウイルスがなぜパンデミックを引き起こしたのか」では次のように言われている。これはパンデミックと言われるものの原因の分析だ。

 「パンデミックの原因はいくつかあります。その一つは、経済の発展とともに起こる環境の破壊です。例えば森林などの自然環境の破壊により、野生動物と人間の距離が近くなり、そのために野生動物に感染しているウイルスがヒトにかかりやすくなることが指摘されています。エイズの原因ウイルスのHIVはアフリカの森林にいるサルに起源があると言われています。また、先に挙げたSARSウイルスも、新型コロナウイルスSARS-CoV-2も、いずれも元は森林や洞窟にすむコウモリに感染していたもので、コウモリとヒトとの距離がちかくなるなかで、やがてヒトに感染するようになったのです」(宮坂本、二四頁)。

 これら人間と野生動物の距離の短縮の問題と同時に、地球温暖化との直接的な関係が指摘される。

「地球環境の変化、特に温暖化も、パンデミックに関わる大きな原因の一つです。温暖化が進むと、気温が上昇するだけでなく降水量も変わり、これにより特定の環境における病原体が増えたり、あるいは、感染症を媒介する動物が増えたり、その分布が変わることがわかっています。たとえば、世界全体で毎年二万人が亡くなるデング熱は、ネッタイシマカやヒトスジシマカが媒介するデング熱ウイルスによって発症する病気で、主に熱帯、亜熱帯で見られます。ところが最近の温暖化とともに、これらの蚊が世界各国で見つかるようになり、デング熱の世界的な発生域が広がるとともに発生率も高まっています。日本でもヒトスジシマカはもともと西日本が生息域だったのですが、次第に北上して、現在では秋田県や岩手県の一部でも見られるようになっています。日本でもデング熱の流行が起こる可能性があることを意味するので、警戒すべき現象です」(宮坂本、二四~二五頁)。

 さらに、その温暖化が、これまで地球の奥底で存在していた、人類にとって未知の感染病原体に接触する機会の可能性に言及している。

「また、温暖化に伴い、シベリアの永久凍土やヨーロッパの氷河が溶け始めています。永久凍土や氷河の下からは未知のウイルスや細菌が出現してくる可能性があります。北極ではマンモスが凍った形で見つかることがあるようですが、マンモスが絶滅した理由の一つとして細菌やウイルスによる感染が挙げられています。これが事実とすると、凍ったマンモスから人類がほとんど見たこともないような病原体が見つかる可能性のあり」と記述している(宮坂本、二五頁)。

 まさに、こうして免疫反応を起こすことができない事態が、今や、限りなく想定されてきているのだ。

 「感染性や病原性を強くするような変異が起きて、しかも、元のウイルスとは異なる抗原性(=個体の体内で免疫反応を起こす力)を持つようになると、ヒトはうまく免疫反応を起こすことができず、結果的に、社会の中で感染が急速に広がるようになる可能性があります。インフルエンザウイルスの場合、トリやブタなどの複数の動物種が宿主となる可能性があり、……一つの動物種の細胞に複数のウイルスが感染して遺伝子が混ざると抗原シフト(新たな雑種ウイルスが形成されること――引用者・渋谷)という現象が起こります。実際にこのために、アジア風邪(一九五七年)や香港風邪(一九六三年)のようなパンデミックが起こりました」(宮坂本、三一頁)。

 そこで、こうした環境破壊・気候変動に対する持続可能な社会の構築が、召されるべきだと述べられる。もちろん、その中にパンデミックから社会を防衛する検査ー医療体制の整備が要求されている。

 「環境破壊も問題です。国際的な環境保護団体であるWWF(世界自然保護基金)は、人獣共通感染症によるパンデミックが今後も起こり続ける可能性があることについて警鐘を鳴らしています。彼らは、このような感染症が起こる原因として、(1)高いリスクを伴った野生生物の取引と消費、(2)森林破壊を引き起こす土地の転換と利用の変化、(3)非持続可能な形での農業と畜産の拡大、という三つの理湯を挙げています。これらの理由は、いずれも、われわれの社会が経済的メリットだけに注目するあまりに、無頓着に環境破壊を進めてきたことが原因だと思われます。また、これとともに、全地球的に気候の温暖化がつづいていることも環境破壊につながっています。……パンデミックに対する社会の防衛体制、特に検査体制、医療体制を築き上げることが必要です」(宮坂本、同上、三一~三二頁)と展開している。

【第三節】人類の未来について――感染症の各種分析

 最後に、かかる感染症の症例を見ていくことにしよう。本論では、二つの事例を挙げ、その特徴と思われるものを取り上げたい。

 感染症各種となるとウイルスの他に細菌なども含まれるが、ペスト、天然痘、コレラ菌、インフルエンザ、エボラウイルス病、エイズ、MERS、SARS、そしてCOVID-19などがある。ここでは、インフルエンザ、エボラウイルス病(エボラ出血熱)をとりあげよう。 

●インフルエンザーーウイルス自体の特性(――変異)について

ここで、各種感染症の特徴をその病名に限って、見ていこう。まず少なくとも本論論者にとって、代表例とおもわれる「インフルエンザ」だ。

 以下の文章は、普通、われわれがもつ、このウイルス感染症の不確かさにかんする疑問から解かれている(小田中直樹『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたのか 世界史のなかの病原体』、二〇二〇年、日経BPマーケティング、一四八~一四九頁。以下、小田中本とする)。

「人間において、予防接種があるのに毎年インフルエンザが流行するのは、ウイルスが変異して別のタイプになることが多く、その場合、予防接種の効力が低下してしまうからだ」。どうしてか。

「インフルエンザ・ウイルスが変異しやすいことには、二つの理由がある。

第一は、人間の遺伝子(遺伝情報)がDNA(デオキシリボ核酸)から成っているのに対して、インフルエンザ・ウイルスの遺伝子はRNA(リボ核酸)からなっていることである。DNAの基本的な機能が遺伝子の保存(遺伝情報の保存)なのに対して、RNAの機能は遺伝子の処理(遺伝情報の処理)であることから、RNAはDNAと比較して不安定であり、さまざまな要因にもとづく突然変異を生じやすい。具体的には、DNAは二本鎖構造をとるのに対して、RNAは一本鎖であり、損傷すると正確な修復が困難である。また、化学構造上、RNAの鎖はDNAより切れやすく、分解されやすい。

第二は、インフルエンザ・ウイルスの遺伝子がRNAで八つの分節にわけて保存されていることである。そのため、別種の遺伝子をもつインフルエンザ・ウイルスと出会うと、遺伝子交雑(くみかえ)が生じて、新しい遺伝子をもった別のタイプになってしまうことが多い。

 RNAの鎖は切れやすいため、たとえば、一つの細胞に遺伝子が異なる二つのウイルスがとりつくと、しばしば、両者のRNAが切れ、クロスして接合し合い、新しい組み合わせの八つの分節からなる遺伝子をもったRNA、ひいてはウイルスが出来上がってしまう。これを『遺伝子再集合』と呼ぶ(〔 岡部他/二〇二〇〕八四頁)(――岡部信彦也『新型インフルエンザパンデミックに日本はいかに立ち向かってきたか』南山堂、2020、――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)」。

 (※ 以下、小田中本の引用文をしめす〔〕内の文字につづき、(――)でもって、示した引用文の紹介文字は、小田中本の、二一八~二二三頁にある【引用・参照文献リスト】から、引用者・渋谷が援用して、書いたものです)。

●スペイン・インフルエンザの場合

その中で「史上最悪のインフルエンザ」といわれているものに、「スペイン・インフルエンザ」がある。一般に「スペイン・インフルエンザ」の「スペイン」とは、発祥地を表わす言葉ではなく、第一次大戦の中立国であり、感染症について軍事情報としての秘密の必要がなかったスペインでの感染が、初期に報じられたことによると言われている。

「スペイン・インフルエンザは、第一次世界大戦のさなかという、感染爆発にとって絶妙のタイミングで発生した。

 愛戦はヨーロッパ諸国を中心とする諸国が連合国(英仏伊露など)と同盟国(独墺など)にわかれ、おもにヨーロッパを戦場として戦う「ヨーロッパの戦争」であり、合衆国にとっては、ほぼ他所事だった。

 ところが、ウッドロー・ウイルソンが第三者として仲介した和平の試みが失敗し、ドイツが、合衆国を含む中立国の船舶も攻撃対象に含める無制限潜水艦作戦を大々的に実施するようになると、合衆国の世論は急速に連合国を支持して参戦する方向に傾き、一九一七年、合衆国はドイツに宣戦布告した。これにより、大量のアメリカ陸海軍兵士が大西洋を渡ってヨーロッパに派遣され、先頭に参加することになった。

 この動員は、大量のヒトが大西洋を渡ることを意味する。

  アメリカは四百万人以上の兵士を徴用し、そのうち約二百万人をヨーロッパ戦線に派遣したが、彼らのなかには大量のインフルエンザ感染者が含まれていた。平時であれば体調不良を理由として移動を断るような症状の人びとも、愛国心に導かれ、あるいは『戦時だからやむをえない』とか『兵士なら出征して当然』とか言った理由で、輸送船に乗りこんだ。

 また、兵士を輸送する船舶は、衛生状態が劣悪であり、人口密度が高いこともあって、感染拡大には最適の環境だった。海軍における感染率は四〇パーセント以上であり、最大の被害を出した巡洋艦ピッツバーグに至っては、乗組員の感染率は八〇パーセントに至った(〔 クロスビー/二〇〇九〕一五四~五頁)(――クロスビー、アルフレッド『史上最悪のインフルエンザ【新装版】』西村秀一訳、みすず書房、2009、原著1976――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)。

 「ヨーロッパに到着すれば到着したで、これら二百万人の兵士たちは劣悪な環境、つまり戦場に放りこまれた。戦場の兵士のインフルエンザ感染状況にかんするデータはほとんど存在していないが、感染爆発がピークを迎えた第二波の時期には、インフルエンザで入院した兵士の数は、アメリカ軍が九月の一か月間で約四万人、イギリス軍が一一月の一か月間で三万人、フランス軍が一〇月の一か月間で七・五万人に達している(〔クロスビー/2009〕二〇〇頁――前掲)。いうまでもなく、入院できた兵士は幸運である。その背後に入院できなかった感染兵士が何倍もいたことは、想像に難くない。

 さらに、彼ら感染兵士は、戦場にとどまっていた一般市民に対してインフルエンザを感染させた。戦時中ということもあって、一般市民のインフルエンザに関するデータは兵士にもまして少ないが、世界全体で二千万から五千万と言われる死者の多くがかれらからなっていたこともかた、想像にかたくない。

 戦争は、兵士の動員によってヒトの移動を誘発し、兵士の密集輸送という感染にとって好適な環境をもたらし、さらには、戦場という過酷な環境に兵士を置くことで彼らの体力を奪い、ひいては感染に対する抵抗力を奪う。さらに、兵士の間に広まった感染症は、軍事作戦が続くあいだに、戦場にとどまる一般市民に広がってゆく。

 二〇世紀の戦争は、大規模な総力戦、すなわち戦場と銃後の区別がなくなり、全土が一種の戦場になることによって特徴づけられる。戦争は、とりわけ総力戦は、感染症の拡大に適した環境をもたらすのである」(小田中本一五八~一六一頁)。

 こうしたことは、二〇二一年一二月、新型コロナウイルス感染症の「第六波」において、沖縄在日米軍内にクラスター(感染者集団)が確認(沖縄キャンプ・ハンセンでのクラスターの確認をはじめとして)され、その後、全国的に、厚木・横須賀・岩国その他の米軍基地で、感染が広がっているのが報道され始めた。それが、基地の外に拡大するという事態が、沖縄県当局によって指摘されていた事態からも、確認できるだろう。

●エボラ出血熱の場合

「一九七六年八月、ザイール(現・コンゴ民主共和国)国のある村で、奇妙な病気が発生した(〔山内/二〇一五b〕、〔日経メディカル編/二〇一五〕四六~五三頁、参照〕)――山内一也『エボラ出血熱とエマージングウイルス』、岩波書店・岩波化学ライブラリー、2015――小田中本・二二二頁参照――引用者・渋谷)。発熱、頭痛、嘔吐と下痢、筋肉痛といった症状に続き、歯茎、鼻、消化器など全身からの出血が見られ、ほとんどの場合は多臓器不全か出血多量で死に至った。ついで家族、近隣住民、看護師などが次々に発病し、この病気が感染症であることを示した。病気の流行は二か月続いて一〇月に収束したが、感染者三一八人に対して、死亡者は二八〇人、致死率は約九割に達した」(小田中本、一九三頁)。

「しばらくして、合衆国の疾病管理センター(CDC、現・疾病管理予防センター)が、血液から紐状のウイルスを発見した。これまで見たことのない新種のウイルスであり、病気発生地の近くを流れる川の名前をとってエボラウイルスと命名された」(小田中本、一九四頁。

 その後、エボラは、一九九五年~二〇一九年にかけて、アフリカ大陸で何度か、感染をおこしている。二〇一四年には、ギニア、シエラレオネ、リベリアで、二〇一八年には、コンゴ民主共和国で感染爆発を起こした。

「ウイルスは、人間に感染した場合、免疫異常と血管異常をもたらす(〔クアメン/二〇一五〕七八~八〇頁)。(――クアメン、デビッド『エボラの正体』(山本光伸訳、日経BP、2015、原著2014――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)。

 ウイルスは免疫細胞を攻撃し、免疫システムを機能不全に陥らせる。具体的には、一方では免疫システムの一部を機能低下させることにより、人間の体内での病原体の活動を可能にし、各種の感染をもたらす。他方では、免疫システムの一部の機能を異常亢進させることにより、免疫システムが自己を攻撃する自己免疫症状(サイトカインストーム)を引き起こす」(小田中本、一九六~一九七頁)(※このメカニズムについては、渋谷要の拙著本書では、本論の「【第三節】新型コロナウイルスの<機制>に関するノート――特に、その「重症化」(⇔サイトカインストーム)との関係で」を参照してほしい)。

ではなぜ「エボラウイルス病」が「出血熱」と言われてきたかということだが。

「ウイルスは『エボラウイルス糖タンパク』と呼ばれるたんぱく質を合成するが、このたんぱく質は血管を構成する細胞に付着し、透過性を高める。そのため、血漿を中心とする血液が血管から滲出して各種の出血を引き起こすとともに、滲出しにくい赤血球などが凝縮されたかたちで血管内に残り、血栓をつくって血管を詰まらせ、臓器の機能不全や末端部の壊死をもたらす」(小田中本、一九七頁)。ここに、エボラ出血熱の特徴があるということだ。

 だがさらにエボラ出血熱に関して、ひとつの大きな問題がある。それは、このウイルスが、ヒトを「保有宿主」とはしていないのではないか、という問題だ。これはどういうことかというと。ウイルスは宿主とはひとことで言って、種としては(ウイルスは明確には生物種として自己増殖能力を備えた「生物」ではないが)共存の関係に入っている。だが、宿主でない生命体は、こういってよければ、殲滅していい対象だ、という問題だ。

 エボラウイルスの宿主は、「オオコウモリだろう」と考えられているが、「今日でもなお確定されていない」という問題もある。

そこで、小田中氏は、次のように論じている。

「(「間欠的にしか流行しないこと」などを、エボラの謎という問答で解明している文脈で、――引用者・渋谷)『エボラウイルスは、ヒトを宿主として想定していないから』ではないかと考えられている(〔クアメン/二〇一五〕五六~八頁)(――上記、『エボラの正体』と同じ――引用者・渋谷)」と。

「もしもオオコウモリが保有宿主だとすると、エボラウイルスはオオコウモリとのあいだで微妙なバランスをとりながら存在してきた。『感染して殺すが、殺しすぎると自分も存在あるいは繁殖できないので、殺しすぎはしない』というバランスである。そして、ときどきサルに偶然感染しては、大量死をもたらしてきた。

 ヒトについても、サルの状況と同じである。

 エボラウイルスはヒトを宿主として想定しておらず、偶然の接触によって感染が生じるにすぎない。そのため致死率は高く、人間を恐怖に陥れるが、しかし一九七六年ザイールの事例のように致死率が九割ともなると、ウイルスの存在自体が危うくなる。宿主がいなくなれば、ウイルスも存在できないからだ。しかし、ウイルスはそんなことは計算しないから、高い致死率を保ち、感染者の多くが死亡するのと同時に消滅してゆく。これによって流行は終わり、またウイルスは保有宿主(おそらくはオオコウモリ)の体内で保有宿主と共存する時期に入る。そして、しばらくして、ふたたび偶然の接触が生じ、ヒトにおけるエボラウイルス病の流行がまた始まる」(小田中本、一九九頁)。

 小田中本で書かれているように、このオオコウモリを食用とする中央アフリカや西アフリカで感染が流行していることからも、そうした「接触」が明らかに原因となっているのだろう。

さらに、こうした「偶然の接触」の機会が、人間の乱開発などによって多発化していることも、関係している可能性がある。

●生態系と感染症

「人類は20万年前に誕生してから五大陸に分散し、そこで生態系の頂点にのぼりつめた。この時点で人類という生物種の数を調整できるのは、食糧の枯渇か人類間の殺し合い、そして病原体との闘いである感染症だけになった。つまり生態系から見れば、病原体とは人間という生物の数を調整できる唯一の存在になったのである。病原体はこの役割を担うため、人類が農耕生活を始めた頃から、人類に感染症をおこすことで、その数を調節してきた。ただし、人類が絶滅してしまっては病原体にとっても不利なので、病原体は感染力と毒性を変化させながら人類と闘ってきた。しかし、この変化が効かずに病原体が暴走したのが14世紀のペスト流行だった。その結果、人類は滅亡の危機に瀕したのである」。

20世紀以降、人類は急激に増加している。

「これには19世紀後半の微生物学の発展により感染症が減ったことが大きく影響している。すなわち、この時点で従来の病原体による人類の数の調整がきかなくなり、その結果、20世紀後半から新たな病原体(ウイルス)が人類に襲いかかってきたと考えることができる。人口が増えたため、奥地への開発が加速し、新たな病原体に接したのである。今回の新型コロナウイルスの流行も、生態系という観点から見ると、このように解釈することができるのではないだろうか。

 くりかえすが、病原体にとって人類を絶滅に追い込むのは不利なので、14世紀のペスト流行のような事態は、そう簡単にはおきないだろう。しかし、これから先はわからない。人口の急激な増加が今後も続けば、新たなウイルス感染が人類を襲う頻度は増えてくるはずだ。その時に病原体が暴走を起こし、14世紀のような状況が再現される可能性はある」(濱田篤郎『パンデミックを生き抜く 中世ペストに学ぶ新型コロナ対策』朝日新書、二〇二〇年、二二四~二二五頁)。

 まさに、今日の感染症パンデミックは、グローバリズムによる環境破壊の産物であり、人類の生存をかけた闘いが必要だ。だが、問題は、この人類の生存をかけた闘いは具体的には、環境破壊を作り上げ、推進している、資本主義の永続的資本蓄積運動を主導している先進国ブルジョア体制、「社会主義国家」の官僚制国家資本主義との闘いだということだ。これがラディカルな資本主義批判の立場でなければならない。

 かかる政治的スタンスをあいまい化し、後景化、ないしは忘却させようとする、偽善的環境保護政策を批判してゆくことは、大変重要なことに、なっている。そうした問題意識をも含有しつつ、搾取・抑圧と環境破壊をいかに克服するか、その課題に、向き合っていくこととしたい。

2022年8月28日日曜日

コロナ・パンデミックの中で資本論第二巻「資本の流通過程」を読む  渋谷要

 【解説】2022年2月20日に、このブログ『赤いエコロジスト』にアップした「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」の中から、後半の【注解ノート】「資本主義と『資本の回転』についてのノートーーパンデミックによる経済循環の破壊についての分析の前提となるもの」を、分割アップします。

 この論考は、資本論第二巻のお勉強です。

 第二巻を、いろいろとまとめながら、コロナ・パンデミックにおける「資本の流通過程」の破壊を分析しています。★このアップに限ってタイトルを新たに、付けました★「コロナ・パンデミックの中で資本論第二巻「資本の流通過程」を読む」です。


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コロナ・パンデミックの中で資本論第二巻「資本の流通過程」を読む

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原題・「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」【注解ノート】

 資本主義と「資本の回転」についてのノート――パンデミックによる経済循環の破壊についての分析の前提となるもの 

                         渋谷要

【リード】 以上、本論「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」の「注解」として以下のノートを提示する。

 ここでの課題は、本論の冒頭部分に戻ると思う。コロナ・パンデミックによる「コロナ恐慌」ともいわれる非常事態を、<経済学的に>何を原基的な考え方・<分析視角>としつつ、考えてゆくのか、そのラディカルな視角の原点がふまえられなければならない。その原基こそ、マルクス『資本論』であると考えるものである。

 ここでは、そのコロナ禍経済危機に対する分析視角をなすものを『資本論第二巻資本の流通過程』に求めるものである。資本論第二巻は三篇構成で論述されている。「第一編 資本の諸変態とその循環」、「第二編 資本の回転」、「第三篇 社会的総資本の再生産と流通」。本論では「第二巻第二編・第三篇」を中心にノートをとった。

また、文末には【小括】として、コロナ・パンデミックとのかかわりに関する問題意識を示した。

 まずは、それらの【序説】として、資本主義の基礎をなす「搾取」の<機制>を確認し、そののち、第二巻のノートを論述することとする。なぜなら、この「搾取」論を論の前提とし、骨格として、第二巻「資本の流通過程」が論じられているからである。まず、第二巻にはいる前に、第一巻・第三巻における「資本主義的搾取」の概要を確認することからはじめよう。

【第一節】資本主義的搾取の基礎について

以下は『資本論第一巻・第三巻』における「搾取論」のポイントだ。

資本家的商品生産社会である資本主義社会では商品(W)は、「労働生産過程」において「不変資本(生産手段)c+可変資本(労働力)v+剰余価値m(このv+mは生きた労働vが生産した価値)」として「商品価値」を構成する。

この場合、剰余価値の産出は、自然に過剰なものが生み出されるのではなくマルクスの『経済学批判要綱』(グルントリッセ)に基づけば、「資本の労働に対する処分権」として組織されるものにほかならない。ここに「労働力の商品化」とは、「賃金奴隷制」だとマルクスが喝破した根拠がある。だが、この商品の価値構成は、「生産価格」=費用価格k(c+v)+利潤(市場競争の結果としての平均利潤p)に転形する。これにより、労働力vは剰余価値部分(利潤部分)を生産しない単なる費用価格の一部と観念され、剰余価値の搾取は隠ぺいされる。

 この剰余価値の産出についてだが、労働力をマルクスが「可変資本」としていることにポイントがある。労働力が剰余価値mの生産というように、価値を増殖させるからだ。これに対し、生産手段を「不変資本」というのは、価値を増殖するのではなくて不変のままで生産物に価値を移転するからだ。

 この場合、「労働・生産過程」が「価値形成・増殖過程」となるわけだが、資本の労働に対する処分権の発動をつうじて、労働者の「必要労働」(賃金分の価値に対妥当する時間労働)に対する「剰余労働」(剰余価値の産出として消費される労働)の率を高めることを、つまり搾取率・剰余価値率を高めることを土台に、最終的には利潤率を上昇させることをもって成立する搾取の機制が、ブルジョアジー・キャピタリストによって展開している。

また、その場合、「必要労働時間」「剰余労働時間」というのは、時間が区切られてあるわけではなく、生産過程では、労働力は「新たな価値を形成する」(新たな商品生産をなす)が、「剰余価値は、労働力の買い入れに支払われた価値とこの新たなる価値との差額に他ならない。とくに剰余価値として生産されるわけではない」(宇野弘蔵、岩波全書『経済原論』六六頁)ということだ。

 また、この場合、利潤率の機制がはたらく、剰余価値mは資本家の立場から見れば総資本(投下資本総額c+v)の増加分である。だから、総資本に対する増加分の値が利潤率として定立する。つまり利潤率は「剰余価値m/総資本(c+v)」である。これにより、増加分の利潤率での計算は、剰余価値(m)が労働力(v)によって増加(剰余労働)分として産出されていることを隠ぺいし、総資本(c+v)にプラスして与えられたということになるのである。

そして、ここから資本家と労働者の搾取にもとづく階級対立は「資本―利子、土地ー地代、労働―労賃・企業者利得」=商品所有者間の平等な分配システム(三位一体的定式)へと擬制化する。労働者の賃金は「労働報酬としての労賃」とされ、労働力商品の所有者が、労働市場で資本家にこれを売ったものの対価(だから費用価格の一部と観念される)として通常考えられるようになる。自由な商品交換の主体として労働者と資本家は自由平等な市民社会を構成することになる。マルクスはこれを「自由幻想」と呼んでいる。

こうした、「商品価値」「生産価格」「搾取」「利潤率」「自由幻想」などが、どのように、資本主義社会で展開しているのか、その機制・メカニズムの解明に挑戦したのが、『資本論第二巻 資本の流通過程』だ。


【第二節】「資本論第二巻第一編 資本の諸変態とその循環」

●資本が展開する三つの循環

 この第二巻第一編は、本論の目的上は、序論に当たる部分でもあり、簡単にまとめることにする。

マルクスは「第一編第一章 貨幣資本の循環」では次のようにのべている。

「資本の循環過程は三つの段階を通って進み、これらの段階は、第一巻の叙述によれば、次のような順序をなしている。

 第一段階。資本家は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G-Wを通過する。

 第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素よりも大きい価値をもつ商品である。

 第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W-Gを通過する。

 そこで、貨幣資本の循環を表す定式は次のようになる。G-W…P…W´ーG´。ここで点線は流通過程が中断されれていることを示し、W´とG´は、剰余価値によって増大したWとGを表わしている」(マルクス・エンゲルス全集24「資本論Ⅱ」原書頁31)。

これが資本主義における「資本の回転」の基本的なストーリーとなるものだ。

●資本の諸変態の展開と階級関係の設定

マルクスは「第一編第一節 第一段階GーW」でいう。

「GーWは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わしている。…このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第一に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。それは一方では生産手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因と人的要因であって、それらの特殊な性質は、もちろん、生産される物品の種類に相応していなければならない。労働力をAとし、生産手段をPmとすれば、買われる商品総額W=A+Pm」である。……つまり、GーWは、その内容から見れば、GーW(Pm+A)として表わされる(32)。

 このG―Aは、剰余価値を生産する本質的条件をなしているとマルクスは言う。

「GーAは、貨幣資本から生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜならば、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に、剰余価値を生産する価値に、転化するための本質的な条件だからである」(35)。「貨幣は、Gが貨幣資本に転化するとか経済の一般的性格が変革されるとかいうことがなくても、すでに古くからいわゆる用役の買い手として現われているのである」(36)。

 また、このG-A交換では、貨幣所有者(資本家)と労働力所有者(労働者)の原初的な階級関係が設定されている。

「GーAという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、互いにただ買い手と売り手として関係し、互いに貨幣所有者と商品所有者として相対するのであり、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係ににあるだけなのであるが、ーーーそれにもかかわらず、買い手の方は、はじめから同時に生産手段の所持者として立ち現われ、その生産手段は、労働力がその所持者によって生産的に支出されるための対象的諸条件をなしているのである。言い換えれば、この生産手段は、労働力の所持者に対して他人の所有物として現われるのである。…この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として働くために買い手の支配下にはいらなければならないのであり、彼の資本に合体されなければならないのである。だから、資本家と賃金労働者との階級関係は、両者がGーA(労働者から見ればAーG)という行為で相対して現われる瞬間に、すでに存在しているのであり、すでに前提されているのである」(36~37)。

 こうして「G―W……P……W´ーG´・GーW……P……W´―G´・G―」という資本の循環において、「G―G」は貨幣資本の循環、「P―P」は生産資本の循環、「W´―W´」は商品資本の循環だ。この循環には、これから述べるように、生産過程とともに、生産物が商品として流通する流通資本の過程が展開されている。ブルジョアジーは剰余価値を生産するために生産している。換言すれば資本の増殖につながらないものは、生産する意味がない、それが資本主義的生産の意味だ。

●資本論第二巻と宇野弘蔵の問題意識

 宇野弘蔵(一八九七~一九七七年)は『資本論入門』(講談社学術文庫)で、次のように述べている。

 そこでマルクスは、「(資本論第二巻の)第五章、第六章で、この資本の流通にともなう特殊な問題、流通に要する期間と費用とを考察する。この点は第一巻ではほとんど問題にならなかった。したがってまた第一巻だけで資本を理解したと思っている人にはしばしば見逃されやすい重要な問題をなすのである。……資本家と資本家のあいだの関係が問題になる場合には――第三巻ではその点が考察されるのであるが――これが重要な問題になり、資本主義社会を支配する原理として実際上は商品の価格を理解するうえからいっても、欠くことのできないものとなるなるのである」(一七五頁)。

これには「流通資本」の位置づけの問題がある。

「流通過程にある資本――生産資本にたいして流通資本というのであるが、そしてそれはのちに述べる流動資本とは異なるのであるが――それも資本としてあることを明確にし、いかなる産業においても全資本が生産過程にあって価値、したがって剰余価値を生産しつつあるものとはいえないことを明らかにしている。……生産期間と流通期間とは一様に資本が投ぜられる機関として、のちに述べる資本の回転期間に埋没されてしまうことになり、流通機関が長くなったり、短くなったりすることが、資本の価値増殖にどんな影響を及ぼすかは不明確にならざるをえない」(一七六頁)。

 ここから「流通費用」の中で、「価値」を追加するものと・しないものを分節する。

「マルクスは流通期間にたいしてとくに流通費用を考察している。そしてこの費用を(一)純粋の流通費用として、(1)売買期間、(2)簿記、(3)貨幣――もっともこの貨幣の費用は個々の資本にとっての費用ではなく、資本全体にとっての費用をなすのであるが――をあげている。そしてこの純粋の流通費用が、(二)保管の費用、(三)運輸費用とそれぞれことなった性質を有していることを明らかにする」(一七六~一七七頁)。

「第一の純粋の流通費用が商品の使用価値に変化を加えない点で何らの価値をも追加しないのにたいして、第二の保管の費用は、商品の使用価値にたいして消極的ではあるが、これを保存するという点から社会的に必要とせられるかぎりでは――したがってたんに思惑からの保有はそうはならないが――価値を追加するものとし、第三の運輸も使用価値を実現するために必要なるかぎりで、価値の追加をなすものとする――ふつう、商品の売買にともなう運搬は商業自身の内にもおこなわれ、それと混同せられるが理論的には区別せられなければならない――のである」(一七七頁)ということになる。

 以上この「保管費」と「運輸費」を、マルクスの「資本論第二巻」で、以下確認しておこう。

●「第六章流通費第二節 保管費」について

まず、上の文章での「保管の費用」だ。

「この流通費は、生産過程から生じるものであって、ただこの生産過程が流通のなかでのみ続行され、したがってその生産的な性格が流通形態によって覆い隠されているだけである。…個別資本家にとっては価値形成的に作用することができ、彼の商品の販売価格への付加分をなすことができるのである。……価値をつけ加える労働はすべて剰余価値をもつけ加えることができる。そして資本主義的基礎の上ではつねに剰余価値をつけ加えるであろう。……だから、商品に使用価値をつけ加えることなしに商品の価格を高くする諸費用、したがって社会にとっては生産の空費に属する諸費用が、個別資本家にとっては致富の源泉になることができるのである」(一三八~一三九頁)。

「生産物在庫の社会的形態がどうであろうと、その保管には費用が必要である。……そこで問題になるのは、このような費用はどの程度まで商品の価値んはいるのかということである。……商品在庫なしには商品流通はあり得ない。…商品在庫は、与えられたある期間にわたって需要の大きさにたいして十分であるためには、ある程度の大きなをもっていなければならない。……商品の停滞は商品の販売の必然的な条件とみなされるのである。さらにまた、その大きさは、中位の売れ行きよりm、また中位の需要の大きさよりも、大きくなければならない。そうでなければ、この大きさを越える需要を生み出すことはできないであろう。……在庫形成の費用は、(1)生産物量の量的減少(たとえば穀粉在庫の場合)、(2)品質の損傷、(3)在庫の維持に必要な対象化されている労働と生きている労働都から成っている」(一四六~一五〇頁)というのが、基本的な理解ということになる。

●「第六章第三節 運輸費」にいつて

ここは、運輸労働による「価値付加」という文脈が、重要である。

「生産物の量はその運輸によってふえはしない。また、運輸によってひき起こされるかもしれない生産物の自然的性質の変化も、ある種の例外を除けば、もくろまれた有効効果ではなく、やむをえない害悪である。しかし、物の使用価値はただその消費によってのみ実現されるものであって、その消費のためには物の場所の変換、したがって運輸業の追加生産過程が必要になることもありうる。だから、運輸業に投ぜられる生産資本は、一部は運輸手段からの価値移転によって、一部は運輸労働による価値付加によって、運送される生産物に価値をつけ加えるのである。このような運輸労働による価値付加は、すべての資本主義的生産でそうであるように、労賃の補填と剰余価値とに分かれるのである」(一五一頁)。

こうした、剰余価値の自己増殖を含む資本の運動が、では、どのような構成・機制によって、また、価値観(資本主義の通用的真理)によって展開しているのか、その経済過程を見ていこう。

【第三節】資本の現実の運動構造を分析する――「第二編 資本の回転」 

●「周期的な」循環期間としての回転数

 資本主義における利潤の創造・価値増殖では、とりわけ、「資本の回転」数ということが重要だ。たとえば、コロナ・パンデミックなどでの、時短営業にはじまり、感染拡大・クラスター発生などでの職場休業や工場労働の短縮などの影響などは、こうした「資本の回転」にマイナスの結果をもたらしている。

マルクスは論じている。

「資本の循環が個々別々な過程としてではなく周期的な過程として規定されるとき、それは資本の回転と呼ばれる。この回転の期間は、資本の生産期間と流通期間の合計によって与えられている。この総期間は資本の回転期間をなしている。したがって、それは、総資本価値の一循環周期と次の循環周期とのあいだの間隔を表わしている。それは、資本の生活過程における周期性を、または、そう言いたければ、同じ資本価値の増殖過程または生産過程の更新、反復の時間を表わしている。……一労働日が労働力の機能の自然的な度量単位になっているように、一年は過程を進行しつつある資本の回転の自然的な度量単位になっている。この度量単位の自然的基礎は、資本主義的生産の母国である温帯のもっとも重要な土地果実が一年ごとの生産物だということにある。

 回転期間の度量単位をUとし、ある一定の資本の回転期間をùとし、その回転数をnとすれば、n=ù/Uである。たとえば回転期間ùが三か月ならば、n=3/12=4である。この資本は、一年に四つの回転をおこなう。……ùが18か月ならば、n=18/12=3/2であり、言い換えれば、この資本は、一年にその回転期間の三分の二だけを終える。……資本家にとっては、彼の資本の回転期間は、自分の資本を価値増殖して元の姿で回収するためにそれを前貸ししておかなければならない期間である」(156~157)と。

●「不変資本」の意味

そこで、「資本の回転」のなかで、価値を生む(可変資本)のではなく、価値をただ生産物に転化していくだけの不変資本が考察される。

「不変資本の一部分は、不変資本が生産過程にはいるときの一定の使用形態を、その不変資本の協力によって形成された生産物に対して、元のまま保持している。すなわち、それは、長短の期間にわたって、絶えず繰り返される労働過程で、絶えず繰り返し同じ機能を行うのである。たとえば、作業用の建物や機械など、要するにわれわれが労働手段という名前のもとに総括するものは、すべてそういうものである。不変資本のこの部分は、それ自身の使用価値とともにそれ自身の交換価値を失うのに比例して、生産物に価値を引き渡す」(158)。

●「不変ー固定資本」としての労働手段・機械などと「不変ー流動資本」としての生産物の原料など素材的成分

さらに、不変資本は「固定資本」と「流動資本」に分節される。

 「資本価値のうちこのように労働手段に固定されている部分も、やはり流通するのであって、このことは他のどの部分とも変わらない。……しかし、ここで考察される資本部分の流通は独特なものである。第一に、この部分はその使用価値で流通するのではなく、ただその価値だけが流通するのであり、しかも、それがこの資本部分から商品として流通する生産物に移って行くのにつれてだんだん少しづつ流通するのである。労働手段が機能する全期間にわたってその価値の一部分は常に固定されており、それの助力によって生産される商品にたいして独立に固定されている。この特性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。これに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材的成分は、この固定資本にたいして、流動資本を形成するのである」(159)。

マルクスは、固定資本と流動資本の分節が生産資本の回転の特徴をなすと論じる。そして、「労働手段の価値」は、その一部は、生産過程に縛りつけられたままであり、一部は、貨幣となってこの形態から離れると論じている。コロナ禍では、生産・流通の縮小が、連鎖的にさまざまな業種をっまきこみ、いろいろな生産システムの稼働が縮小した結果、「貨幣となってこの形態からはなれる」価値が減少したことになる。 

「固定資本の独特な流通からは独特な回転が生ずる。固定資本がその現物形態の消耗によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。生産物はその流通によって商品から貨幣に転化する。したがってまた、労働手段の価値のうち生産物によって流通させられる部分も貨幣に転化し、しかもその価値は、この労働手段が生産過程での価値の担い手でなくなって行くのと同じ割合で、流通過程から貨幣になってしたたり落ちてくる。だから労働手段の価値は今では二重の存在をもつことになる。その一部分は、生産過程に属するその使用形態または現物形態に縛りつけられたままであり、もう一つの部分は貨幣となってこの形態から離れる……この点に、生産資本のこの要素の回転の特徴が表れている」(163~164)ということになる。

●「固定資本」の「価値」の特徴

 そうしたあり様を、マルクスは簡単な事例で説明している。

 「かりに10000ポンドという価値のある機会の機能期間が10年だとすれば、この機械のために最初に前貸しされた価値の回転期間は10年である。この期間が過ぎるまではこの機械は更新される必要はなく、その現物形態で作用を続ける。その間にこの機械の価値は、引き続きこの機械で生産される商品の価値部分として少しづつ流通し、こうしてだんだん貨幣に転換して行き、最後に10年間の終わりにはその価値が全部貨幣に展開してさらに貨幣から機会に再転化し、こうしてその転回をすませたことになる。この再生産期間が始まるまでは、機械の価値は、だんだんに、さしあたりは準備金の形で(減価償却基金――引用者)、蓄積されていくのである」(164)と。

●「可変ー流動資本」としての「労働力」と「不変ー流動資本」としての固定資本を形成しない原料など成分的「生産手段」

 このような生産資本の様態を前提として、生産資本の中での、可変資本と不変資本の要素の分節がのべられる。

「生産資本のうちの他の要素は、一部分は、補助材料や原料の形で存在する不変資本要素から成っており、一部分は、労働力に投ぜられた可変資本から成っている」(164)。

剰余価値の実際の生産過程での創造の場面があきらかとなる。 

「労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物に加える。言い換えれば、自分の価値を現実に再生産する。……生産資本のうち労働力に投ぜられる可変的な成分について言えば、労働力は一定の時間を限って買われる。資本家が労働力を買って生産過程に合体させてしまえば、それは彼の資本の一成分をなしており、しかもその可変的な成分をなしている。それは毎日ある時間働いて、そのあいだにただその日価値の全部を生産物につけ加えるだけでなく、さらにそれを越える剰余価値をもつけ加える」(165)。

 「生産資本のうち労働力に前貸しされた部分は、その全体が生産物に移り(ここでは引き続き剰余価値は無視する)、流通部面に属する2つの変態を生産物といっしょに通り、そして不断の更新によって常に生産過程にがったいされている。…すなわち価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本成分との間にどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力とこの不変資本部分とに共通なものである」(165)。

 ここで流通資本ではない「流動資本」の概念が導き出される。 

「生産資本のこれらの部分――生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と――は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本にたいして流動資本として相対するのである」(165)。

 そしてマルクスは、「資本の回転」においては「形態」が重要であること、たとえば、資本家が買うものは、「労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのもの」だということを、以下のように、強調する。この労働力の労働生産過程での、「資本の労働に対する処分権」として、剰余価値の増殖がおこなわれる。そして生産の短縮・縮小は、資本家が剰余価値の創造を保守しながら、労働者の賃金を抑止し、労働者を解雇するなどの失業の多発化ウィ生み出してゆく過程をつくる。そのような労働者に対する抑圧を、資本家が容易にできる仕組みが「非正規雇用」という形態だ。

 資本家が労働者に支払う貨幣は「実際にはただ労働者の必要生活手段の一般的な等価形態でしかない。そのかぎりでは、可変資本は素材的には生活手段からなっている。しかし、ここでは、回転の考察では、問題は形態である。資本家が買うものは、労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのものである。…流動資本――労働力及び生産手段の形での――の価値が前貸しされているのは、ただ、固定資本の大きさによって与えられている生産の規模に応じて、生産物が完成される期間だけのことである」(166)。

●「固定資本」の諸成分・補填・修理・蓄積の問題

 マルクスは、流動資本の解説ののち、他方での「固定資本」の中でのいろいろな要素について論じていく。

 「同じ資本投下でも、固定資本の個々の諸要素は、それぞれ違った寿命をもっており、したがってまた違った回転期間をもっている。たとえば鉄道の場合には、軌条、枕木、駅の建物、橋、トンネル、機関車、車両は、それぞれ違った機能期間と再生産期間をもっており、したがって、それらのために前貸しされた資本もそれぞれ違った回転期間をもっている。建物、プラットホーム、貯水槽、陸橋、トンネル、切り通し、築堤など、簡単に言えばイギリスの鉄道でworks  of  art (工作物)と呼ばれるものは、すべて長い年月にわたって更新を必要としない。消耗品のもっとも主要なものは鉄道と車両(rolling  stock)である」(169)。

固定資本の「手入れ」の問題は、固定資本の維持のため、特に注意を要するものだ。

「固定資本はその手入れのために積極的な労働投下をも必要とする。機械はときどき掃除しなければならない。ここにいうのは、それなしでは機械が使用不能になるような追加労働であり、生活家庭と不可分な有害な自然的影響の単なる防止であり、つまり、最も文字通りの意味で作業可能状態に維持することである。固定資本の平均寿命は、言うまでもなく、その固定資本がその期間中正常に機能しうるための諸条件が満たされるものとして計算されるのであって、ちょうど、人間が平均して30年生きるという場合には、人間が入浴することも想定されているようなものである。また、ここに言うのは、機械に含まれている労働の補填でもなく、機械の使用のために必要になる追加労働である。それは、機械が行う労働ではなく、機械に加えられる労働であって、この労働では機械は生産能因ではなく原料である。この労働に投ぜられる資本は、生産物の源泉になる本来の労働過程にはいるのではないが、流動資本に属する。この労働は生産が行われるあいだ絶えず支出されなければならず、したがってその価値も絶えず生産物の価値によって補填されなければならない」(174)。

この固定資本の維持のための労働と財源だが。

「この労働に投ぜられる資本は、流動資本のうちの、一般的な雑費の支弁にあてられて年間の平均計算によって価値生産物に割り当てられるべき部分に、属する」(174)。

「本来の工業ではこの掃除労働は労働者たちによって休息時間中に無償でおこなわれるのであって、それだからこそまたしばしば生産過程そのもので行われ、そこではこの労働がたいていの災害の根源になるのである。この労働は生産物の価格では計算に入らない。そのかぎりでは、消費者はこの労働を無償で受け取るのである。他方、資本家はこうして自分の機械の維持費をただですますことになる。労働者が自分自身で支払うのであって、このことは資本の自己維持の神秘の一つをなしているのであるが、このような自己維持の神秘は、事実からすれば、機械に対する労働者の法律的要求権を形成して労働者をブルジョア的な法的見地からさえも機械の共同所有者にするのである。とはいえ、たとえば機関車の場合のように、機械を掃除するためにはそれを生産過程から引き離すことが必要であり、したがって掃除が知らぬまにすんでしまうことができないようないろいろな生産部門では、この維持労働は経営費のなかに数えられ、したがって流動資本の要素として数えられる。機関車は、せいぜい三日も仕事をすれば、車庫に入れられて掃除されなければならない」(174)。

それは現在器具の「補填」と「生産規模の拡大」との兼ね合いの問題でもある。 

「実際には補填のために必要な資本のごくわずかな部分が準備金になっているだけである。最も重要な部分は生産規模そのものの拡大にあるのであって、この拡大は、一部は現実の拡張であり、一部は固定資本生産部門の正常な範囲に属するものである。たとえば、機械製造工場は、その顧客の工場が年々拡張されるということ、またいつでもそれらの工場の一部分が全体的かまたは部分的な再生産を必要とすることに備えているのである」。

同じ生産器具でも、消耗した部分を修理するかどうかは、あるいは、どのように修理するかは、資本家・生産管理者の判断によって違う。 

「消耗が、また修理費が、社会的平均によって規定されるとすれば、そこには必然的に非常な不均等が生ずるのであって、同じ生産部門の中で同じ大きさをもちその他の点でも同じ事情のもとにある諸投資のあいだでさえもそうなるのである。実際には、機械などは、ある資本家にとっては返金寿命以上に長もちするが、他の資本家のもとではそれほど長くはもたない。一方の修理費は平均よりも高く、他方のそれは平均よりも低い、等々」(178)。

マルクスは、つぎのように、これらの問題を整理している。 

「われわれが見たように、固定資本の消耗補填分として還流するかなり大きな部分が、毎年、またはもっと短い期間にさえ、固定資本の現物形態に再転化させられるのであるが、それでもなお各個の資本家にとっては、固定資本のうち数年後にはじめて一度にその再生産期に達してそときすっかり取り替えられなければならない部分のために、償却基金が必要である。固定資本のかなり大きな構成部分は、その性質上、一部分ずつの再生産を排除する。そのほかにも、減価した現品に新品が比較的短い間隔でつけ加えられるという仕方で再生産がい部分ずつ行われる場合には、このような補填が行われうる前に、生産部門の独自な性質に応じてあらかじめ大なり小なりの規模の貨幣蓄積が必要である。そのためにはどんな任意の貨幣額でも足りるのではなく、ある一定の大きさの貨幣額が必要なのである」(181~182)。

ここに「蓄蔵貨幣」と「信用制度」の課題があらわれる。 

「この償却基金によって、流通貨幣の一部は、前に固定資本を購入したときに自分の蓄蔵貨幣を流通手段の転化させて手放したその同じ資本家の手のなかで、再び――長短の期間――蓄蔵貨幣を形成する。それは、社会に存在する蓄蔵貨幣の絶えず変動する部分であって、この蓄蔵貨幣は交互に流通手段として機能してはまた再び蓄蔵貨幣として流通貨幣量から分離されるのである。大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行する信用制度の発展につれて、この貨幣は蓄蔵貨幣としてではなく資本として機能するのであるが、しかしその所有者の手のなかでではなく、その利用をまかされた別の資本家たちの手のなかで機能するのである」(182)。

●前貸資本の総回転――「恐慌はいつでも大きな投資の出発点をなしている」

ここで、恐慌の問題がでてくる。それは、「恐慌→革命」という物語ではなく、宇野弘蔵が『経済学方法論』などで論じたように、<新たな資本蓄積の形を創造する>という話だ。

「資本主義的生産様式の発展につれて充用される固定資本の価値量と寿命とが増大するのと同じ度合いで、産業の生命も各個の投資における産業資本の生命も、多年にわたるものに、たとえば平均して一〇年というようなものに、なるのである。一方で固定資本の発達がこの生命を延長するとすれば、他方では、同様に資本主義的生産様式の発展につれて絶えず進展する生産手段の不断の変革によって、この生命が短縮されるのである。したがってまた、資本主義的生産様式の発展につれて、生産手段の変化も、それが肉体的に生命を終わるよりもずっと前から無形の消耗のために絶えず補填される必要も、増大する。大工業の最も決定的な諸部門については、その生命環境は今日では平均して一〇年の周期を持つものと推定してよい。とはいえ、ここでは特定の年数が問題なのではない。ただ次のことだけは明らかである。このようないくもの転回を含んでいて多年にわたる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、このような循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的基礎が生ずるのであって、この循環のなかで事業は不振、中位の状況、過度の繁忙、恐慌という継起する諸時期を通るのである。……とはいえ、恐慌はいつでも大きな投資の出発点をなしている。したがってまた――社会全体としてみれば――多かれ少なかれ次の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をなすのである」(185~186)。

 「コロナ恐慌」が、新たなビジネス・モデルを作り出すといわれているのも、こういう事情に拠っていることだろう。

 たとえば、都内の大手ホテルでは、格安の長期滞在型のホテル生活プランが、人気を呼んでいる。これまでコロナ禍で「キャンセル」続出だった、高価で短期な一泊何万円もするような部屋を、たとえば料金を半額にして設定し、一か月やそれ以上の長期宿泊ができるプランへと変更した。その結果、予約がでてきたというものだ。オンライン・テレワーク生活の定着ができている人々のオフィス生活。混雑な密集空間を避ける。家庭内感染をふせぐため家族と離れて生活する、それは例えば、子供が受験のため、子供に感染させないように、会社勤めの親御さんがホテル住まいをする等々である。また、クルーズ船生活代わりのホテル生活として、数か月部屋を借りるなどだ。お金がまわっていく。

 また、売り上げが伸び、単価はこれまでよりも、低額なものの、確実に売り上げがみこまれてきたことから、従業員の給与も安定して支払うことができるというのが経営者の声としてあるという。

 もちろん、こうしたことはお金がある人たちにしかできないことだが。それが資本主義の現実であり、コロナが格差社会をあぶりだしているといわれる一端だろう。

●「労働期間」の問題――恐慌など生産過程の攪乱による中断など

 マルクスは、労働時間を定義するとともに、生産の中断、一連の生産行為の中断などでの、労働期間の問題を言っている。

「われわれが労働日というときには、労働者が自分の労働力を毎日支出しなければならない労働時間……を意味する。これに対して労働期間と言う場合には、一定の事業部門で一つの完成生産物を供給するために必要な相関連する労働日の数を意味する。……それゆえ、社会的生産過程の中断や攪乱、たとえば恐慌によるそれが分離性の労働生産物に与える影響と、その生産にかなり長い関連した一期間を必要とする労働生産物に与える影響とは、非常に違うのである。一方の場合には、一定量の糸や石炭などの毎日の生産に、明日は糸や石炭などの新しい生産が続かなくなる。ところが、船や建物や鉄道などではそうではない。労働が中断されるだけではなく、一つの関連した生産行為が中断されるのである。仕事が続行されなければ、すでにその生産に消費された生産手段や労働はむだに支出されたことになる。仕事は再開されるとしても、中断期間中は絶えず質の悪化が進行しているのである」(233)。

●地域開発を想定した資本主義時代の「開発」の様相

 さらに以下のような資本主義時代と、その前の時代での、労働時間の回転の相違をとりあげている。

 「資本主義的生産の未発達な段階では、長い労働期間を必要とするためにかなり長期間にわたって大きな資本投下を必要とする諸企業は、ことにそれが大規模にしか実行できない場合には、決して資本主義的には経営されない。たとえば共同体や国家の費用による……道路や運河などの場合である。あるいはまた、その生産に比較的長い労働期間の必要な生産物は、ごくわずかな部分だけが資本家自身の資力によってつくられる。たとえば、家屋の建築の場合には、家屋を建てさせる個人は建築業者に前貸金一部ずつ支払って行く。だから、この人は実際には家屋の生産過程が進行するにつれて少しづつ家屋の代金を支払って行くわけである。ところが、発展した資本主義時代には、一方では大量の資本が個々人の手のなかに集積されており、他方では個別資本家と並んで結合資本家(株式会社)が現れていて同時に信用制度も発達しているのであるが、このような時代には、資本家的建築業者は個々の私人の注文でもはや例外的にしか建築をしない。彼は立ち並ぶ家屋や市区を市場めあてに建設することを商売にする。それは、ちょうど個々の資本家が請負業者として鉄道を建設することを商売にするようなものである」(236)。

●協業・機械などでの「労働期間」の短縮

 マルクスは協業や分業や機械の質が資本の回転を短縮してゆく。これは固定資本の増大と結びついてるし、このことが個々の資本家企業での資本の集積の規模を決定づけると展開する。

「協業や分業や機械の充用は、同時にまた、関連した生産行為の労働期間を短縮する。たとえば機械は家や橋などの建設期間を短縮する。造船の改良は、速度を増すことによって、海運に投下された資本の回転期間を短縮する。……労働期間を短縮し、したがってまた流動資本が前貸しされていなければならない期間を短縮する諸改良は、たいていは固定資本の投下の増大と結びついている……それゆえ、たいていは、この短縮された期間に前貸しされる資本の増大と結びつけられており、したがって、前貸期間が短くなるにつれて資本の前貸しされるされる量がおおきくなるのであるが、――しうだとすれば、ここでは次のことに注意しておかなければならない。すなわち、社会的資本の現在量を別とすれば、問題は、生産手段や生活手段はそれらにたいする処分力がどの程度に分散しているか、または個々の資本家の手のなかにまとめらているか、つまり資本の集積がすでにどれほどの規模に達しているか、に帰着するということである。信用が一人の手のなかでの資本の集積を媒介し、促進し、増進するかぎり、それは労働時間に短縮を助け、したがってまた回転期間の短縮を助けるのである」(238)。

だが「特定の自然条件によって定められている生産部門では、前述のような手段による短縮が行われることはできない」(238)。

 ここで、資本の回転(量)に対する、固定資本と流動資本との機能の違いが指摘されている。 

「機械は、その損耗の補填分貨幣形態で還流するのが遅かろうと速かろうと、引き続き生産過程で働いている。流動資本はそうではない。労働期間の長さに比例して資本が資本がより長い期間固定されていなければならないだけではなく、また、絶えず新たな資本が労賃や原料や補助材料として前貸しされなければならない。それゆえ、還流がおそくなることは固定資本と流動資本とに別々の作用をするのである。還流がおそかろうと速かろうと、固定資本は働き続ける。これに反して、流動資本は、まだ売れていない生産物または未完成でまだ売ることができない生産物の形態に固着しているならば、そしてそれを現物で更新するための追加資本もないならば、還流の遅延によって機能できなくなるのである」(239)。

●「生産期間」の問題――とりわけ長い生産期間について

 マルクスは「ぶどう液」を例にとり、ある生産物の生産における個々の自然過程での時間が必要な「労働過程」の停止と「生産期間」の継続との間の関係を解き明かしている。

「資本が生産過程にあるすべての期間が必ず労働期間であるとはかぎらない。ここで問題にするのは、労働力そのものの自然的制限によってひき起こされる労働過程の中断ではない。……労働過程の長さにかかわりのない、生産物とその生産との性質そのものによってひき起こされる中断であって、その間労働対象は長短の期間にわたる自然過程のもとに置かれていて、物理的、化学的、生理的諸変化を経なければならないのであり、そのあいだ労働過程はその全体または一部分が停止されているのである」(241)。

「たとえば、絞られたぶどう液は、一定の完成度に達するためには、まずしばらく醗酵状態を経てからまたしばらく放置されなければならない。製陶業のように生産物が乾燥の過程を経なければならない産業部門や、漂白業のように生産物がその化学的性状を変えるためにある種の状態にさらしておかなければならない産業部門も多い」(241)。

 労働期間をこえる生産期間という問題が、どのような労働者の状態を結果しているか、マルクスは次のように言う。 

「労働期間を越える生産期間が、穀物の成熟やオークの成長などのように永久的に与えられている自然法則によって規定されているのでないかぎり、回転期間が生産期間の人為的短縮によって多かれ少なかれ短縮されうることも多い。たとえば、屋外漂白に代わる化学的漂白の採用によって、あるいは感想過程でのいっそう有効な乾燥装置によって」(242)。

 「ここでわかるのは、生産期間とそおの一部分でしかない労働期間との不一致が農業と農村の副業との結合の自然的基礎をなしているということ、他方、この副業がまた、最初はまず商人としてはいりこんでくる資本家にとっての手がかりになるということである。その後、資本主義的生産が工業と農業の分離を完成するようになると、ますます農業労働者はただ偶然的でしかない副業にたよることとなり、こうして農業労働者の状態はますます悪くなってくる」(244)。

長い生産期間(また、回転期間)は、その生産分野を、「不利な生産部門」にする。 

「長い生産期間(それは相対的に小さな範囲の労働期間しか含んでいない)、したがって長い回転期間は、造林を不利な私経営部門にし、したがってまた不利な資本主義的経営部門にする。……これに比べれば、耕作や産業が逆に森林の維持や生産のためにやってきたいっさいのことは、全く消えてなくなるような大きさのものである。……つまり、一〇年から四〇年以上に一回の回転なのである」(247)。

●「生産期間」と「労働期間」の差

 マルクスは、いろいろな生産期間のあり様を次のようにまとめている。

「生産期間と労働期間との差は、われわれが見てきたように、非常にさまざまでありうる。流動資本は、本来の労働過程にはいる前に、生産期間にはいっていることがありうる(靴型製造)。または、本来の労働過程をすませてからも生産期間にあることがある(ぶどう酒、穀物の種子)。または、生産期間のところどころに労働期間がはさまることがある(耕作、造林)。流通可能な生産物の大きな一部分は現実の生産過程に合体されたままになっていて、それよりもずっと小さい部分が年々の流通にはいっていく場合もある(造林、畜産)。流動資本が潜勢的な生産資本の形態で投下されなければならない期間の長短、したがってまたこの資本が一度に投下されなければならない量の大小は、生産過程の種類から生ずることもあり(農業)、市場の遠近など、要するに流通部面に属する諸事情にかかっていることもある」(249)。

 「以前に考察した回転期間は、生産過程に前貸しされた固定資本の維持によって与えられている。この回転期間は多かれ少なかれ何年かにわたるものだから、それはまた固定資本の年々の回転のいくつかを、または一年のうちに繰り返される回転のいくつかを含んでいるのである」(249)。

●「流通期間――販売期間」

 資本の回転期間は資本の生産期間と流通期間の合計に等しい。ここに流通期間の合理化、技術的刷新という問題が現れる。 

「資本の回転期間は資本の生産期間と流通期間との合計に等しい。それゆえ流通期間の長さの相違は回転期間を相違させ、したがってまた回転周期の長さを相違させるということは自明である。……流通期間の一部分――そしてそして相対的に最も決定的な一部分――は、販売期間、すなわち資本が商品資本の状態にある期間から成っている。この期間の相対的なな長さにしたがって、流通期間が、したがってまた回転期間一般が、長くなったり短くなったりする。保管費などのために資本の追加投下が必要になることもある。はじめからあきらかなことであるが、できあがった商品を売るために必要な時間は、同じ事業部門のなかでも個々の資本家にとっては非常に違っていることもありうる」(251)。

ことに市場と生産地の移動期間の問題がある。

 「販売期間を相違させ、したがってまた回転期間一般を相違させることにつねに作用する一原因は、商品が売られる市場がその商品の生産地から遠く離れているということである。……運輸交通機関の改良は、商品の移動期間を絶対的には短縮するが、この移動から生ずるところの、いろいろな商品資本の、または同じ商品資本のなかでも別々の市場に行くいろいろな部分の、流通期間の相対的な差を解消しはしない」(252)。

●「生産地と販売地」の変動

生産地と販売地の集積やその変化は、地方の在り方を変える。

「一方では、ある生産地がより多く生産するようになり、より大きな生産中心地となるにつれて、まず第一に運輸機関の機能する頻度、たとえば鉄道の列車数が増加して、その増加は既存の販売市場への方向に、つまり大きな生産中心地や人口集中地や輸出港などに向かって行われる。しかし、他方では、これとは反対に、このように交通が特別に容易であることや、それによって資本の回転が(流通期間によって制約される限り)進められることは、一面では生産中心地の集積を促進し、他面ではその市場地の集積を促進する。このように与えられた地点での人口と資本量との集積が促進されるにつれて、少数の手のなかでのこの資本量の集積が進行する。同時に、交通機関の変化につれて生産地や市場地の相対的な位置が変化することによって、再び変転や移動が生ずる。かつてはその位置が国道や運河に沿っていることによって特別に有 利な位置を占めていた生産地が、今では、相対的に大きな間隔をおいて運転されるだけのただ一本の支線に沿っているのに、他方、主要交通路からまったく離れておた別の地点が今では何本もの鉄道の交差点にあたっている。あとのほうの地方は盛んになり、前の方の地方は衰える」(253)。

運輸交通機関の発達は、世界市場のための前提だ。 

「一方では、資本主義的生産の進歩につれて運輸交通機関の発達が与えられた量の商品の流通期間を短縮するとすれば、この同じ進歩と、運輸交通機関の発達とともに与えられた可能性とは、――逆に、ますます遠い市場のために、一言で言えば、世界市場のために、仕事をする必要をひき起こすのである。……それと同時に、社会的富のうちの、直接的生産手段として役立つのではなく運輸交通機関に投ぜられる部分、また運輸交通機関の経営に必要な固定資本と流動資本との投ぜられる部分も、増大する」(254)。

「生産地から販売地への商品の旅行の相対的な長さだけでも、流通期間の第一の部分である販売期間の相違をひき起こすだけではなく、第二の部分、すなわち貨幣が生産資本の諸要素に再転化する購買期間の相違をもひき起こす」(254)。

●購買期間

購買期間とは、貨幣が再び生産資本の諸要素に転化する期間である。一言で言うと仕入れの期間だ。ここで資本の回転は、生産資本の循環の初めに戻る。

「流通期間の第二の時期である。それは購買期間、すなわち資本が貨幣形態から生産資本の諸要素に再転化する期間である。この期間には資本は長短の時間貨幣資本の状態にとどまっていなければならない。……商品の買い入れに関しては、購買期間があるために、また原料の主要仕入地から多少とも遠く離れているために、かなり長い期間のための原料を買い入れて生産用在庫すなわち潜在的または潜勢的な生産資本の形態で準備しておくことが必要になる。……比較的大量の原料が市場に放出される周期――長短の――も、いろいろな事業部門で同様に作用する。たとえば、ロンドンでは三か月ごとに羊毛の大競売が行なわれて、それが羊毛市場を支配する。他方、綿花市場の方は、収穫期から収穫期までだいたい連続的に、といっても必ずしも一様にではないが、更新される。このような周期は、これらの原料の主要な買い入れ時期を決定し、ことにまた、これらの生産要素のための長短の前貸を伴う思惑的な買い入れにも影響する」(257)。

コロナ・パンデミックに例をとるならば、こうした、購買期間においても、コロナ禍における、従業員・技術者などでのクラスターなどでの生産の停滞など、世界的な経済・物流の混乱が起きている。それは、海外での中間財の本国への物流の遅延など、さまざまな分野が影響し合い、まさに「コロナ恐慌」と呼ばれる現実を作り出しているのだ。

【第四節】資本の再生産の機制――資本論第二巻第三篇「社会的総資本の再生産と流通」

●「社会的総資本の再生産」についての考え方と再生産表式の位置づけ

ここで、資本主義的再生産の問題に入ろう。ここでは、資本の諸変態の分析と剰余価値の産出の機制とセットで、「資本主義的再生産」の仕組みを確認することが必要だ。「第18章緒論 第一節 研究の対象」というところで、マルクスは次のようにのべている。

そこではこの研究の位置づけが問題となっている。

「社会的資本の運動は、それの独立化された諸断片の諸運動の総体すなわち個別的諸資本の諸回転の総体からなっている。個々の商品の変態が商品世界の諸変態の列――商品流通――の一環であるように、個別資本の変態、その回転は、社会的資本の循環のなかの一環なのである。この総過程は、生産的消費(直接的生産過程)とそれを媒介する形態変化(素材的に見れば交換)とを含むとともに、個人的消費とそれを媒介する形態変化又は交換とを含んでいる」(352)。

どういうことか。

「それは、一方では、労働力への可変資本の転換を、したがって資本主義的生産過程への労働力の合体を含んでいる。ここでは、労働者は自分の商品である労働力の売り手として現われ、資本家はその買い手として現われる。しかし、他方、商品の販売のうちには労働者階級による商品の購買、つまりこの階級の個人的消費が含まれている。ここでは、労働者階級は買い手として現われ、資本家は労働者への商品の売り手として現われる。商品資本の流通は剰余価値の流通を含んでおり、したがってまた、資本家が自分の個人的消費すなわち剰余価値の消費を媒介するところの売買をも含んでいる」(352)。

かかる「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで社会的総資本の運動を形成するのである。……社会的総資本の循環は、個別資本の循環にははいらない商品流通、すなわち資本を形成しない商品の流通をも含んでいるのである。そこで、……社会的総資本の構成部分としての個別的諸資本の流通過程(その総体において再生産過程の形成をなすもの)が、したがってこの社会的総資本の流通過程が、考察されなければならないのである」(353~354)。

●社会的生産の組織的構成――「第二一〇章 単純再生産 第二節 社会的生産の二つの部門

「社会的総生産物は、したがってまた総生産も、次のような二つの大きな部門に分かれる。

Ⅰ生産手段。生産的消費にはいるよりほかはないかまたは少なくともはいることのできる形態をもっている諸商品。

Ⅱ 消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費にはいる形態をもっている諸商品。

これらの部門のそれぞれのなかで、それに属するいろいろな生産部門の全体が単一の大きな生産部門をなしている。すなわち、一方は生産手段の生産部門を、他方は消費手段の生産部門をなしている。この両生産部門のそれぞれで充用される総資本は、社会的資本の一つの特殊な大部門をなしている。

それぞれの部門で資本は次の成分に分かれる。

(1)可変資本。これは、価値から見れば、この生産部門で充用される社会的労働力の価値に等しく、したがってそれに支払われる労賃の総額に等しい。素材から見れば、それは、活動している労働力そのものから成っている。すなわち、この資本価値によって動かされる生きている労働から成っている。

(2)不変資本。すなわち、この部門での生産に充用される一切の生産手段の価値。この生産手段は、さらにまた、固定資本、うあなわち機械や工具や建物や役畜などと、流動不変資本、すなわち原料や補助材料や半製品などのような生産材料とに分かれる。

 この資本の助けによって両部門のそれぞれで生産される年間総生産物の価値は、生産中に消費され価値から見ればただ生産物に移されただけの不変資本Cを表わす価値部分と、年間総労働によってつけ加えられた価値部分とに分かれる。この後の方の価値部分はさらにまた前貸可変資本Vの補填分と、それを越えて剰余価値mを形成する超過分とに分かれる。つまり、各個の商品の価値と同じに、各部門の年間総生産物の価値もc+v+mに分かれるのである」(394~395)。

ここまでが、社会的総生産の概念的前提になることだ。ここから、単純再生産(の時の表式)、拡大再生産(の時の表式)という話になって行くのである。

●「二部門」の意味内容

 この「生産手段生産部門」と「消費手段生産部門」の二部門ということの、意味だが。「このばあい個々の具体的な産業部門が必ずどちらかに属すると考えてはならない」。たとえば「紡績業についてはそうはいえない。生産物である綿糸は織布業の原料として生産手段であるとともに、直接に生活資料となりうる。……また例えば製粉製パン過程が農業から独立の資本のもとにおかれているとすれば、原料となる小麦の多くは生産手段である」(日高晋『経済原論』、一九八三年、有斐閣選書、一二八~一二九頁)ということは、踏まえなければならない。

●単純再生産の機制

 その社会的総資本の運動の構造だが、まずは「単純再生産」の構図から見ていこう。これにつづくのは「拡大再生産」だが、基本は、単純再生産の拡張だ。

単純再生産は「Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc」という表紙がポイントだ。生産手段生産部門の労働者階級と資本家階級は、第二部門に生産手段を売り、そのことによって、第二部門でつくられた生活資料を購入するということだ。

 ここでは、前掲・日高晋『経済原論』を援用することにする。この表式の解法では、宇野経済学のテキストのなかで、本書は出色にわかりやすいというのが、本論著者・渋谷の個人的な認識だからだ。

「総商品をその用いられる方から第一部門生産物と第二部門生産物にわけるなら、そのおののは価値のうえからそのその部門のcとvとmとをそれぞれあらわしている部分から成り立つ。

こうして総商品W´は、次のような内容を持つ。

Ⅰ=Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm

Ⅱ=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm

このうち1cは生産手段であり、生産手段で補填される部分だから、第一部門の資本家同士の交換をとおして処理できる。またⅡvとⅡmはものは生活資料であって生活資料として用いられるはずのものだから、Ⅱの労働者と資本家および資本家同士の交換をとおして処理される。つまりⅠcとⅡv、Ⅱmは、その部門内で処理することができるのである。

 ところが、ⅠvとⅠmとは、ものは生産手段でありながら、生活手段で補填されなくてはならず、またⅡcは、ものは生活資料でありながら生産手段で補填されなくてはならない。そこでこの両者の価値が等しくⅠvとⅠmがⅡcにたいして交換されるとしたら、単純再生産がおこなわれるだろう。そのためには、次の等式の成立が必要だ。

Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc

この等式の両辺にⅠcを加えるなら

Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm=Ⅰc+Ⅱc

となり、第一部門の生産物である総生産手段は両部門の生産手段を補填することが示される。また先の式(Ⅰv+Ⅰm=Ⅱcの式――引用者・渋谷)の両辺にⅡvとⅡmとを加えるなら

Ⅰv+Ⅰm+Ⅱv+Ⅱm=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm

となり、両部門の資本家階級と労働者階級の生活を支える生活資料は、第二部門で補填されることが示される」(129~130頁)。

●単純再生産の例解

日高前掲で、論述されている例解もやることにしよう。

「かりに9,000億円のうち第一部門の生産物を6000億円、第二部門のそれを3000億円とする。そして両部門の資本をそれぞれ5000億円と2500億円、不変資本と可変資本の割合である資本の構成を両部門とも4対1、剰余価値率を100%とすると、

Ⅰ 6000=4000c+1000v+1000m

Ⅱ 3000=2000c+500v+500m

となる。この生産物で本年も前年と同じ規模の生産をするとすれば、第一部門の資本家は必要とする4000億円の生産手段を部門内の相互の交換で得ることができる。また第二部門の資本家は労働者のための生活資料と自分たちの使う生活資料とを、部門内の資本家相互か労働者をも交えた相互の交換で得ることができる。そこで第一部門の資本家がもつ1000v+1000mに当たる2000億円の生産手段と第二部門の資本家がもつ2000cに当たる生活資料とが交換されるとしよう、すると第一部門の資本家はその労働者の賃金の内容をなす生活資料と自分たちの生活に必要な生活資料を得ることができると同時に、第二部門の資本家は次の生産に必要な生産手段を得ることができる」。

 この場合のポイントは、第一部門の資本家は、第二部門の資本家と、資本を「交換」すると言う意味だ。それは、第一部門の資本家は、第二部門の資本家に生産手段を売った貨幣で第二部門から生活資料を得る=第一部門の資本家と労働者が第二部門から生活資料を購入する、第二部門はその売り上げで、第一部門から生産手段を購入するということだ。同時・等価の交換が成立している。

●拡大・拡張再生産の機制

次は拡大・拡張再生産の機制を見ていこう。

「拡張(拡大)再生産」のポイントは、「Ⅰv+Ⅰm>Ⅱc」である。だが、日高『原論』では、もう一つ、この『原論』にしか見られない――浅学な私の思い込みかもしれないが――表式が書かれている。「Ⅰv+Ⅰm(k)+1m(v)=Ⅱc+Ⅱm(c)」である。

この「Ⅱm(c)」というのがポイントだ。

 このことが、拡大再生産の理解を、きわめて容易なものにしていると、本論論者・渋谷は考えている。

 ここでは、考え方としては、第一部門の生産によってつくられた資本家の剰余価値を全部私的な消費にまわすのではなく、その部分を蓄積し、新たな生産に投入していくことを条件にする。それを根拠として生産手段の生産の増加を根拠とし、第二部門の資本家も生産手段をより多く第一部門より購入すべく、第二部門の資本家の剰余価値を新たな設備投資へと転換する。それにより新たな生産の規模が拡大する、ということだ。

「拡張再生産を拡張再生産たらしめるものは、剰余価値が再びしほんとして投下されることだ。……mは資本家の生活に費やされる部分と追加投資される部分とに分かれる。そして追加投資される部分は、追加的な生産手段を買う部分と追加的な労働力を買う部分とに分かれる。そして買うことができるためには、追加的な生産手段と賃金の内容となる生活資料の追加分が生産されていることが必要だ。こうして拡張再生産表式の第一歩であるW´は次のようになる。

Ⅰ=Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm(k)+Ⅰm(c)+Ⅰm(v)

Ⅱ=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm(k)+Ⅱm(c)+Ⅱm(v)

両部門ともその生産物のうち剰余価値をあらわす部分は三つに分かれる。第一は資本家の生活を可能にする価値部分m(k)であり、のこりは投資されるべき価値部分なのだが、それが追加的生産手段の購入にあてられる部分m(c)と追加的労働力の購入にあてられる部分m(v)とから成り立つ。このようにmがm(k)+m(c)+m(v)とに分けられるところから、Wの運動がはじまるのである」(133~134)。

「第一部門の生産物のうちcとm(c)とは、素材は生産手段であって、しかも生産手段として用いられるべき部分なのだから、第一部門の資本家同士の交換によって処理される。同様に第二部門の生産物のうちvとm(k)とm(v)とは素材も生産資料であり、しかも生活資料に用いられる部分だから、第二部門の資本家同士さらには資本家と労働者との交換によって処理される。だから残るところは、第一部門のvとm(k)とm(v)、および第二部門のcとm(c)である。前者は素材は生産手段でありながら生活資料に換えなくてはならないし、後者は素材は生活資料でありながら生産手段に換えられなくてはならない。そこで両者がもし等価値で交換されるなら、拡張再生産が可能となるのである。すると拡張再生産の条件は、

Ⅰv+Ⅰm(k)+Ⅰm(v)=Ⅱc+Ⅱm(c)

となる。このことは、

Ⅰv+Ⅰm>Ⅱc

であることを示す。単純再生産とくらべて拡張再生産では、第一部門が相対的に大きいことが必要なのだ。こうして新しい生産は両部門ともそれぞれ、cにm(c)を加えたものが新しいcとなり、vにm(v)をくわえたものが新しいvとなって出発する」(134~135)ということだ。

―――――

●【本論全体の結語として】「再生産」とパンデミック――文明史的意味が問われている

 こうした「資本主義的再生産」の構造(秩序)といったものが、恐慌やパンデミックなどでは破壊する。だが、それは、「資本主義の資本蓄積運動」そのものが生み出している、まさに、自殺的現象なのである。

 現代の「生産力主義」の問題を踏まえて言うならば、こうした、生産手段生産部門の構造的拡大が、温暖化を生むと同時に、生活資料生産部門の拡張を生み、生活資料の大量生産・大量消費社会を結果している。まさに成長のための蓄積が価値とされ、その悪無限的増加が、社会の原則とされ、生産力の発展を第一とする考え・価値観が社会的なヘゲモニーを展開することになっている。こうした資本主義の生産力主義がグローバル化し、環境破壊を進行させ、それによって、森林伐採をはじめとする多くの自然破壊を展開するなか、ウイルスが生きていくうえで必要な宿主が生息する自然が失われると同時に、その開発された場所に人間が入り介入する、接近することによって、ウイルスが人間にとりつくことが、これまで、典型的には例えば「エボラ出血熱」などによっておこってきた。まさに資本主義自体を、どうにかする必要があるのは、この資本蓄積・生産力主義を本来的に構造化させているあり方からも、わかるだろう。コロナ・パンデミックは、まさに、かかる資本主義の生み出したものなのだ。その結果、以上のような「資本の回転」が、破壊されてしまっている。「自殺する世界資本主義」といっていいものなのである。もちろん、それによってもっとも打撃を受けているのは、本論冒頭でも指摘したように非正規雇用労働者をはじめとする労働者階級である。

 この感染症は世界資本主義という舞台のうえでその世界資本主義の人流回路とフレンドに発生し、拡大しているというのが、本論論者の認識である。

 岡田晴恵氏の『知っておきたい感染症【新版】――新型コロナと21世紀パンデミック』(ちくま新書、二〇二〇年)には、次のように書かれている。

「21世紀は、医療体制が充実し、衛生環境が行き届いている先進諸国であっても、ウイルスの危険と無縁ではいられない。むしろ、人口の過密化、高速大量輸送を背景とし、不特定多数の人々が集まっては霧散する都市の特徴が、感染症に対するリスクを飛躍的に高めている。さらに、その感染の原因の病原体は、思いも寄らない遠隔地から航空機で運ばれ、または高速道路でやってきた、新たな感染症である可能性が高い。地球の一地点で発生した感染症は、密集した人々の中で感染伝播を繰り返し変異して、さらに広域に拡散、同時多発的な大流行を引き起こす可能性がある。これが、21世紀パンデミックである」(三〇一頁)。

まさに、ドンピシャの分析だ。岡田氏が、書いたことと、まったく同じことが、現実にこの地球でまるごと、起こっている・展開している。そして、資本主義批判の主体的問題としては、こうした「資本の回転」の内容を、変革してゆく必要があるということになるだろう。◆


2022年4月15日金曜日

ソ連スターリン主義国家において農民への構造的収奪はどのように税制化されていったか――「取引税」について(渋谷要『ロシア・マルクス義と自由』第二章「革命ロシアのアルケオロジー」第十三節/ 2007年刊、社会評論社――文京区本郷)

ソ連スターリン主義国家において農民への構造的収奪は、どのように税制化されていったか

「スターリン時代における取引税=官僚的資金調達制度」

(渋谷要『ロシア・マルクス主義と自由』(2007年刊、社会評論社――文京区本郷)第二章「革命ロシアのアルケオロジー」第十三節)。

:初出1987年「季刊・クライシス」32号、「革命のアルケオロジーのために」

                             渋谷要

【リード】4月9日にアップした、「ロシア農耕共同体と世界資本主義」につづいて、初期スターリン主義国家にはじまった農民からの構造的収奪の税制化としての「取引税」の問題を、見ていきたいと思います。 

―――以下、【本文】

●スターリン時代における取引税=官僚制的資金調達制度

ソ連邦の工業化計画は農業の集団化と機械化その拠点はトラクターステーションによって、小農経営による農産物の商品化の絶対的不足を「解決」し都市労働力へのその供給を増大させたが、それは、農村における余剰労働力をつくり出し、それを都市労働力へ転化して集積した。こうして工業化を実現するエネルギーの源泉をつくり出す。また〈集団化〉は、戦時共産主義の時代におこなわれた農村からの食糧徴発、二八年からのスターリンによる「ウラル・シベリア」と呼ばれる強制穀物調達運動の考え方にたって、国民経済の総体的視野から設計された。〈集団化〉は三〇年、ロシア農耕共同体ミール解体を頂点とし、強制によって一挙的に実現された。わずか一年たらずで、主な穀物生産地域の全戸数の三分の二の農民がコルホーズに区画化された(E・H・カー『ロシア革命』、岩波現代選書、二二七頁参照)。コルホーズ・ソフホーズヘの設計主義的組織化がすすんだ。これら集団化の過程で「富農」(クラーク)とみなされた農民が、数百万単位で迫害され、虐殺された(クラーク撲滅政策)。

その場合、パルタイピラミッドは特異な徴税システムを組み立てていたことを確認しなければならない。

その特異なシステムに依って〈生産から生産のエネルギーを再領有化〉していた。一九二〇年代の後半より開始された近代化の中心は、まさにこうしたしかたにおいてであった。都市が農村を、工業が農業を再領有化する。それはプレオブラジェンスキー(トロツキー派)の「社会主義的原始的蓄積」農業からの意識的不等価交換による工業化論をより暴力的形態で実現するものであった。

「社会主義的原始的蓄積」とは、文献としてはトロツキー派のプレオブラジェンスキー『新しい経済』(現代思潮社)がある。例えば「国営経済以外の分野の犠牲による、この分野との不等価交換に基づく蓄積である」(一一四頁)と規定されるものだ。これを農業からの取引税という税徴収で実現し、その資金を工業化計画に投入する政策だ。

トロツキー自身が書いたものとしては「理論家としてのスターリン」中にある。そこでは「過渡期の計画経済は価値法則を基礎としながらも、これを一歩一歩侵害してゆき、そして不等価交換に基づいてさまざまな経済部門の間の、なかんづく工業と農業との間の諸関係を確立する。国家の財政予算は、強制的蓄積と計画的分配に対するテコの役割を演ずる」と(『ソヴィエト経済の諸問題』所収、現代思潮社。九六頁)。

スターリンは一九二〇年代のロシア共産党党内闘争の過程では、ブハーリンとともに「社会主義的原始的蓄積」論に反対した。トロツキー派の理論は労農同盟を破壊し社会主義の基礎を掘り崩すとし、農民に犠牲を強いるのではない、個人農の育成を主張した。だが、スターリンはトロツキー追放後、二八年よりトロツキー達が言っていた工業化路線を採用していく。スターリンはトロツキー追放のためにブハーリンと同盟していたにすぎなかったのである。

かかる歴史的経緯をへてスターリンは「原始的蓄積」をつぎのような政策として具体化したのである。

まさに生産から生産のエネルギーを再領有化することにおけるその固有なロシア・ピラミッディズム的方式は取引税であり、国家企業利潤の収容である。その中心は農業からの収奪であった。開発の独裁。それは、剰余価値の新しい搾取の形態をこの国家に記億させたのだ。

取引税は「低い農業生産物調達価格と、最終的にそれよりなるかに高く消費者に売られる、生および加工された食糧品の価格との間の差(もちろん輸送費・手数料は控除した上で)から生ずる税」のことである。「たとえば一九三三年には穀物調達組織は、一ツェントネルのライ麦に対してざっと五・七〇ルーブリ支払い、このライ麦を国営製粉所へ二二・二〇ルーブリで売り渡していたので、この差額は予算の収入となった」。「一連の小売価格引き上げの後、一九三四年の末には事態は以下の如くであった。穀物調達組織のライ麦販売価格はツェントネル当たり八四ルーブリでそのうちの六六ルーブリは取引税であった。小麦の同様の価格は一〇四ルーブリで、取引税はライ麦よりもさらに高い割合を占め、八九ルーブリであった」。これらの問題は「農民生産者への支払いがきわめて低いことにある。税の負担は第一に農民にかかったのである。低価格での強制的調達は実質上、税の要素を含んでいた。…その重要性は、一九三五年に調達組織が二四〇億ルーブリを予算に寄与したという事実にあらわれている。その年の全取引税は五二二ルーブリであり、全歳入は七五〇億ルーブリであった。かくして農業は、計画の財源に決定的な寄与をしたのである」(アレック・ノーブ『ソ連経済史』、岩波書店、二四五~二四六頁)。

国家は農産物を生産費を回収できないような安価な調達価格で収容し、これを国営食品生産企業にそれよりも数倍高価格で配分する。そして、この差額による収益を工業化資本金として蓄積する。そして食品工業と繊維工業への課税を中心とする取引税は、重工業化生産費と国防費のほぼ全額をおぎない、国家収入総額の約六〇%(一九三〇~四〇年代)を占めたが、その源泉は、コルホーズ農民からの搾取によって実現されることを意味した。その割合は、かなりの値を示している。これがエネルギー領有の構造だ。

こうして取引税は国家的収奪の主要財源となったのである。それは同時に計画化における価格の監視機能、企業利潤の流出の監視、「不良」業種の調整、生活必需品の物価上昇を統制する役割を果たした。税はつまり管理機能をもったのだ。

ピラミッドの財源としての〈税〉とは、剰余価値の国家企業への取得と共にこの国家の剰余価値の資本への転化と官僚の領有のありようを示す。つまり国家共同体的収奪である。資本家が、市場価値の運動による利潤率均等化に基づいて剰余価偉の利潤への転化によるその搾取の完成へ向かうのとは異なった原理がそこに働いている。専制国家の官僚的〈領有〉権が労働者の剰余労働を搾取することを土台にかかる税的収奪をシステムとしたのである。こうしたシステムにもとづいて官僚カーストは、貴族的な分配特権と生活空間を取得し同時に教育を支配して貴族の新世代をつくり出した。生産・流通・分配の円環としての社会的交通を〈領有〉する上級の統一組織体=支配共同体前衛主義党のピラミッド。そして他方には単なる〈被搾取〉の社会的受容体であるプロレタリアート。この両項の関係は、パルタイピラミッドという形において作動しており、その設計の基礎を形づくる労働者大衆の規格化・区画化という抑圧が、官僚制国家の回路を規定していたのである。

2022年4月9日土曜日

NO WAR in the future(日向坂46/けやき坂46)演奏してみた!

ロシア農耕共同体と世界資本主義 (渋谷要『世界資本主義と共同体』(社会評論社――文京区本郷)2014年刊行、第六章)――農耕共同体の破壊者は資本主義近代化ではなくボリシェビキだった!


ロシア農耕共同体と世界資本主義

アップ 2022・04・09 14:06

                             渋谷要

【リード】アップしたこの文章は、拙著『世界資本主義と共同体』(社会評論社――文京区本郷、2014年)の第六章「ロシア農耕共同体と世界資本主義」です。この農業問題での、ボリシェビの近代生産力主義(社会主義的原始的蓄積政策)を契機に、スターリンの強権的集団化へと至る農業からの収奪→工業化を土台に、民族問題→クレムリンの命令を聞かない・自立化する民族集団の強制移住政策が展開されたと考えます。民族問題の土台には、階級的搾取・収奪の問題がある。そのことが、とりわけ、ロシアという「農業国」で展開したのが、この農耕共同体問題だと考えます。

★★★いろいろな、近代主義的誤解を避けるために、

この【本文】の【結論】を、

あらかじめ、言っておくと、

◎★★★<ロシア農耕共同体を解体したのは、資本主義近代化ではなく、ボリシェビキだった>★★★◎

ということです。この点、誤読のないように!★★★

――――以下【本文】

  

                                 

●はじめに

農業における生産協同組合(広義)のいろいろな形態(社会的労働実態)は今日において、新自由主義グローバリゼーション(世界市場)と対峙する位置を形成しているし、また、今日以上にそれを形成してゆくことが可能である。それが資本からパージされた労働者の生活を保障するものとなるような自由さをもって、広がってゆき、資本家の経営する職場――新自由主義よりこちらの方が生きやすいし、生きがいがあるということになり、都市の労働者が農業耕作者(半農半Xであれ)になることが常態化してゆけば、都市の労働者が資本家の労働力商品として生きることを選択しないようになることが可能となる。

そうなれば逆に資本の労働政策もまた変わるだろう。ソ連「労働者国家」が存在したころの、対抗的・国民統合的な反共政策としてあった社会保障政策・雇用政策をやり方は以前とは違うだろうが、とらなければならないということになるのではないかということだ。そしてそうした労働現場における、資本に対する労働者の闘うヘゲモニーを確立して行くことが労働運動の、ひとつの課題になるだろう。職場生産点において多くの仕事と権限を労働者の自主管理で運営する展望も開拓できるだろう。

まさに新自由主義グローバリズムに対抗する<根拠地>としての都市と農村を自主的流通でつらぬく農業生産協同組合戦略は、このような展望において成立するのではないか。

他方で、そのことの可能性を今一番破壊しているものに福島第一原発の原発事故(現在進行形)がある。森林生態系――海洋・河川・土壌に放射性物質は降りそそいでいる。反原発の闘いと農業生産協同組合戦略は不可分の関係にある。原発・核開発は農産物という命の源を生産する農業を破壊するものだ。このような問題意識のもとに、その共同体問題一つのルーツとなるような問題を考えてゆきたいと思う。

 

●ラトゥーシュの問題意識●

 

 ラトゥーシュは『<脱成長>は、世界を変えられるか』(作品社、二〇一三年、原著二〇一〇年、以下『脱成長』とする)で、次のように述べている。

「確かにマルクスは、一八八一年にヴェラ・ザスーリッチに宛てた有名な手紙の中で、帝政ロシアの伝統農村共同体(集団農村経営村)(ミール、オプシチーナ農耕共同体のこと――引用者)が資本主義的発展段階を経由せずに社会主義体制に直接以降することを描いた。社会主義革命のこの別のシナリオの可能性は……新たに、メキシコのサパティスタと先住民民族共同体に関して同様のシナリオが構想されている(それはこのラトゥーシュの本の「序章」に論じられているが本論では省略する――引用者)。しかし周知の通り、マルクスの没後から一〇年が経過した頃、エンゲルスがこうしたもう一つの社会主義革命の道に対して非常に懐疑的になった。マルクス思想のこれらの『残滓』は、マルクス没後二〇年たってレーニンによって理論と実践の双方で攻撃され(まさに、この問題を第六章で扱う――引用者)、その後スターリンによって徹底的に除去された。第三世界の様々な『実在するマルクス主義』は、前資本主義的な共同体に対して全く寛容ではなかった。『社会主義的』」近代化は、資本主義的近代化以上の暴力と執拗さを用いて過去を白紙にし、社会主義の実験の失敗に続いて起こった超自由主義的なグローバリゼーションの侵入を容易にしたのである。事実、(『ロマン主義的』あるいは『ユートピア的』という形容詞で根拠なく蔑まれた)初期社会主義の道と声の類稀な多様性は、史的・弁証法的・科学的唯物論の単一的思想の中で矮小化された」(『脱成長』一五一~一五二頁)。

 これから本論でのべようとすることは、まさに、この問題である。後述するように、このラトゥーシュの論述の中で、後述するようなマルクスの農耕共同体とプロレタリア革命のユニットによる社会主義革命の「別のシナリオの可能性」(「別」というのは、生産力主義的な都市革命だけのプランとは別という意味だ)が「レーニンによって理論と実践の双方で攻撃され」という、その「理論」とは、「いわゆる市場問題について」、「ロシアにおける資本主義の発展」などで展開されている市場経済の発達による農耕共同体解消論であり、それらは、これから論述するように、カウツキー、エンゲルスなどからレーニンが継承した商品経済史観にもとづくものであった。さらに、この「実践」とは、ナロードニキ――エスエル、左翼エスエルや、ウクライナ・マフノなどとの党派闘争を土台としつつ、一九一八年以降の、ロシア内戦期において、ボリシェビキが展開した、「食糧独裁令」(穀物・農産物の強制徴発)などのことである。さらに、「スターリンによって徹底的に排除された」とは、「農業集団化」をしめすものである。これ以上の解説は、以降の本文にゆだねよう。

まず、ラトゥーシュが述べている、マルクスの社会主義革命のプラン「別のシナリオの可能性」という問題からはじめよう。

 

●ロシア農耕共同体の運命について

 

 一八八一年二月から三月にかけて、マルクスは、ロシアの革命家、ザスーリッチの依頼に対して四つの草稿をもつ一つの短い手紙を書いた。この手紙の文面に後期マルクスの世界認識をめぐっての重要な観点と一九世紀ロシア革命運動内の戦略論争を背景にしての彼の革命観が表出している。

当時ロシア革命運動は一八七九年、ヴ・ナロード運動の全国的政治組織であった「土地と自由」が二分解し、上からの資本主義化を推進する国家から農耕共同体を守り、国家を暴力的に打倒し革命的独裁を樹立せんとする政治革命派=「人民の意志」党と、農民闘争と同時に都市プロレタリアートの出現に対してこれの組織化を緊要とした「黒い再分割」派が成立していた。前者はツアーリ打倒の真剣な武装闘争をめざし、後者は亡命地において新たな革命の思想形成をめざしていた。

このような情況下で、ロシア革命の戦略的見通しにとって、ロシア社会の中で支配的なミール、オプシチーナといった農耕共同体の運命への分析が要請されていた。国内的に活発な論争が展開し、資本主義的歴史必然として、これが解体する運命にあるのか否か、又、これが資本主義を通過することなく、社会主義へ向かって、解放されていく可能性があるのか否かをめぐって議論が闘わされた。

一八八一年二月の、マルクスによせられた、ザスーリッチ(黒い再分割派に属する)の手紙は、まさに、この論争の中で、マルクスの『資本論』が、重要な分析の対象になっていることを示し、マルクスに、ロシア農耕共同体の見通しに対する分析を求めたものであった。

 

●ザスーリッチのマルクス宛の手紙

 

ザスーリッチのマルクス宛の手紙は次のようであった。

「 一八八一年二月一六日 ジュネーヴ、ローザンヌ街四九号 ポーランド印刷所

敬愛する市民よ! あなたの『資本』がロシアで広汎な読者を得ていることは、あなたのよくご存知のことでしょう。出版されたものは没収されました。しかし、没収をまぬがれてわずかに残った版本が、わが国の多少とも教養ある人々の一団によって読まれています。そして繰りかえしよみかえされていくことでしょう。つまり、『資本』を研究している真摯な人々がいるのです。しかしあなたは、ロシアの農業問題やわが農村共同体(commune rurale)に関する私たちの論争のなかで、あなたの『資本』が、現に果たしている役割については、おそらくご存じないでしょう。

(中略)

この問題は、とりわけわが社会主義者党(parti socialiste)にとって生死にかかわる問題である、と私には考えられるのです。わが革命的社会主義たちの、一人一人の運命は、まさに、この問題をめぐる次の二つの見解のうち、いずれをあなたが採るかにかかっております。

二つのうち一方とはすなわち、この農村共同体が、国庫の無際限の租税徴収や領主への支払いから、さらには恣意専制の行政から、ひとたび自由になれば、社会主義の道において己を発展させることができる。いいかえれば、集合主義(コレクティビスト)的基礎のうえに、生産物の生産とその分配とを徐々に組織することができる。この場合にあっては、革命的社会主義者は、この共同体の解放と発展とに向かって、その全勢力を捧げなければならないことになります。

このような見解とは逆に、もし共同体が死滅する運命にあるものであれば、社会主義者にとって次のことだけが残ることになります。すなわち、ロシア農民の土地が彼らの手からブルジョアジーの掌中にうつるには何十年かかるか、資本主義がロシアにおいて西ヨーロッパのそれに類似する発展を遂げていくには、おそらく何百年もかかるであろうが、果たしてどのくらい先のことか、ということを予測するための、あまり根拠のない計算に専念すること、これであります。この場合には、農民層のなかから不断に溢れ出ていく都市労働者のなかで専ら、宣伝活動をしなければならぬことになりましょう。農民が、共同体の解体のために、賃金を求めて、大都市の舗道に投げだされていくからであります。

農村共同体は、歴史が、そして科学的社会主義が、つまり、この争う余地のないものが、死滅すべきものと宣告している、一つの原古的形態である、と語られるのをわれわれは最近しばしば耳にします。このようなことをいい広めている人は、自分たちのことを、すぐれてあなたの弟子すなわち『マルクス主義者』だ、とみずから語っております。彼らの議論の最大の強みは『マルクスがそう言っている』という点にあることがしばしばあるのです。

『しかし、あなたがた(マルクス主義者)は、そのことをマルクスの『資本』から、どのようにして導き出すのか、マルクスは【『資本』では、農業問題を取り扱っていないし、ロシアについても語っていないではないか』と、人は彼らに反論します。

(中略)

こういう次第で、――市民よ――この問題に関するあなたのご意見が、どれほどわれわれの切実な関心事となっているか、またわが農村共同体のさらされる運命に関する、そしてさらに世界中のすべての国々が資本家的生産の全局面を経過するという歴史的必然の理論に関する、あなたのご意見を、あなた御自身が開陳してくださることが、どれほどにまで大きな寄与を私どもにもたらすか、御了解いただけるでありましょう。

(中略)

もしも、この問題に関する多少とも詳細な御意見を開陳する時間が、いまのあなたにない場合には、せめて、手紙の形式でそうしていただければ、そして、その手紙を翻訳しロシアで公表することを私に対してお許しくだされば、幸いに存じます。市民よ、私の心からなるご挨拶を、お受けとりください。 ヴェラ・ザスーリッチ」(平田清明『新しい歴史形成への模索』、新地書房、一九八二年、一九四~一九七頁。以下「平田本」とする)。

 

●マルクスからザスーリッチへの手紙

 

以上のザスーリッチのマルクス宛の手紙に対する返書は、次のようであった。

 

「 一八八一年三月八日 ロンドン、北西区 メートランド・パーク・ロード 四一番

(中略)

数ヶ月前に私はすでにこの同じ問題について論稿を書くことを、サンクト・ペテルブルグ委員会(「人民の意志」党のこと――引用者)に約束しました。しかし、私の学説といわれるものに関する誤解について、いっさいの疑念をあなたから一掃するには、数行で足りるだろうと思います。

資本家的生産の創生を分析するにあたって、私は次のようにいいました。

『かくして資本主義制度の根底には、生産者と生産手段の根底的分離が存在する。……(引用者注・この「……」はマルクス自身の略)この発展全体の基礎は、耕作者の収奪である。これが根底的に遂行されたのは、まだイギリスにおいてだけである。……(引用者注・マルクス自身の略)だが西ヨーロッパの他のすべての国も、これと同一の運動を経過する』(『資本』フランス語版、三一五頁)。

このような次第で、この運動の『歴史的宿命』は、西ヨーロッパ諸国に明示的に限定されているのです。このように限定した理由は、第三二章の次の一節のなかに示されています。 

『自分自身の労働にもとづく私的所有……(引用者注・マルクス自身の略)は、やがて、他人の労働の搾取にもとづく、賃金制度にもとづく資本家的私的所有によって、取って替わられるであろう』(前掲書、三四一頁)。

こういう次第で、この西ヨーロッパの運動にあっては、私的所有の一つの形態から私的所有の他の一つの形態への転化が、問題なのであります。これに反して、ロシアの農民にあっては、彼らの共同所有を私的所有に転化させる、ということが問題なのでありましょう。

こういう次第で、『資本』に示された分析は、ロシアの農耕共同体の生命力を肯定するために人が利用しうる論拠をも、逆にそれを否定するために人が利用しうる論拠をも、提供していないのです。しかし私は、この問題について特殊研究を行い、その素材をオリジナルな資料に求めてきた結果、次のことを確信するに至りました。

すなわち、この共同体はロシアにおける社会再生の拠点である。しかし、そのようなものとして機能しうるためには、それはまず初めに、あらゆる側面からこの共同体に襲いかかっている有害な諸勢力を排除し、ついで、自然成長的な発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であるでしょう。

親愛な市民よ、あなたの忠実な カール・マルクス」(「平田本」一九九~二〇一頁)。

 

●マルクスのロシア農耕共同体に関する見解

 

マルクスの論点は次のように整理できる。

第一に『資本論』のフランス語版を引用し、資本主義の歴史的宿命が西ヨーロッパに限定されていて、ロシア共同体の分析の拠点とはならないのだという点だ。

「資本主義の創成期を分析するにあたり、私は言った。『……資本主義制度の根底には、生産者と生産手段との根本的な分離が存在する。……だが、この発展全体の基礎は耕作民の収奪である。それが根本的な仕方でおこなわれたのはまだイギリスにおいてだけである。……しかし、西ヨーロッパの他のすべての諸国も同一の運動を経過している(『資本論』フランス語版……)』だから、この運動の『歴史的宿命』は、はっきりと西ヨーロッパの諸国に限定されている」(マルクス『資本主義的生産に先行する諸形態』、大月書店、国民文庫、一二九頁)ということである。

第二に、ロシア共同体に対し有害な諸勢力を排除し、発展条件の正常な確保を計れば「ロシアにおける社会再生の拠点」となるという旨のものであった。

また後述するように、『共産党宣言』ロシア語第二版序文においても、マルクスはロシア革命がヨーロッパプロレタリア革命の合図となり、相補的に関係するなら、ロシアの土地共有制は、共産主義的発展の出発点となることができると書いている。

だがザスーリッチは一八九〇年代に入りロシア共同体ミール革命拠点論を撤回した。ザスーリッチは「黒い再分割」派そして、そこからから発生したプレハーノフが指導する「労働解放団」に属していた。プレハーノフはミールを「アジア的専制」の土台にすぎないと考えていた。ザスーリッチ同様、ミール否定である。

後に見るようにエンゲルスもまたマルクス死後、ミール農耕共同体=共産主義萌芽説を否定した。

マルクスの「ザスーリッチへの手紙」は、プレハーノフによって幽閉された。この手紙が発見されるのは、『マルクス・エンゲルス・アルヒーフ』の編集を手がけたリャザーノフ(のちトロツキー派としてスターリンにより粛清)によって、草稿が一九一一年発見され、一九二三年「手紙」の所在が判明し公表された(この経緯について詳しくは平田清明『新しい歴史形成への模索』新地書房、一九八二年、参照のこと)。

ミール拠点論の否定と、西欧的資本主義市場化による農村のプロレタリアートとブルジョアジーへの階級分裂という表明は、プレハーノフの系列によって継続され、ロシア社会民主党へ、ボリシェビキへと、そのナロードニキと対立する党派によって継承されていった。そしてこの流れにおいて、レーニンの「ロシアにおける資本主義の発展」などの見地が確立する。さらロシア革命後のボリシェビキ官僚主義によるミール農耕共同体破壊へと展開してゆくのだ。

これに対しミール農耕共同体=革命拠点論(左翼エスエル――SR社会革命党においては、マルクス同様、プロレタリア革命との合流を条件とするミール共同体拠点論である)を、断固主張した「人民の意志」派と、これを継承した社会革命党左翼エスエル(左翼社会革命党)へと展開する。  ここにボリシェビキと左翼エスエルの根本的な相違も存在するのである。

それはまたボリシェビキが、封建制度資本主義社会主義という、後にスターリンが整理することになる、単線的歴史発展段階説として「原始共同体奴隷制封建制資本主義社会主義」をもって、歴史進歩主義的・近代化主義的にロシア農耕共同体の意義を否定した見解の逆方向でマルクスのロシア革命論が定立していると言うことを意味する。

そもそもこの共同体は封建共同体の概念には入らない、もっと古形の農耕共同体であるロシア農耕共同体について、マルクスは「ザスーリッチへの手紙」への「草稿」中、「西洋でこれにあたるものは、きわめて最近の時代のゲルマン共同体である。それは、ジュリアスシーザーの時代にはまだ存在しておらず、ゲルマン諸種族がイタリアやゴートやスペイン等を征服しにやってきたときには、もはや存在していなかった」と規定している。

つまりこのことは次のことを意味している。このマルクスが言っている「ゲルマン共同体」とは、マルクスが「グルントリッセ」(経済学批判要綱)中の「フォルメン」(「資本主義的生産に先行する諸形態」)でつくった歴史の四類型「アジア的ギリシア・ローマ的ゲルマン的ブルジョア的」の「ゲルマン的」とは別のものであると定義されるものだということだ。

プロレタリア革命との結合によって、共産主義的発展(再生)の出発点・拠点となるという考え方の内に、後期マルクスが、「歴史の単線的発展史観」を否定していることが、鮮明にうちだされているという立場を表明したものに他ならない。

 

●共産党宣言ロシア語第二版序文

 

ロシアの農耕共同体の意義を高く評価したマルクスの全文を読もう。

ちなみに、この文書に署名したエンゲルスは一八九四年、ロシア共同体=共産主義拠点論を撤回し、資本主義(商品経済の法則)が共同体を破壊するとしたのであった(「ロシアの社会状態」再販、あとがき)。そこでは次のように論じられている。

「ところでしかし、わすれてはならないことは、ここで(共産党宣言ロシア語第二版序文のこと――引用者)述べたロシアの共同所有のひどい崩壊が、それ以後、いちじるしく進んだことである。……ロシアの共同体の崩壊が一定の水準に達した以上は、世界のいかなる権力といえども、これを復活することはできるものではない」。エンゲルスはその根拠を「貨幣経済の侵入」としている(マルクス・エンゲルス全集第二二巻、原書ページ、四二九~四三〇頁)。

後に見るようにレーニンもそのエンゲルスにしたがって「ロシアにおける資本主義の発展」などでロシア農耕共同体の解体を予測し農耕共同体を拠点とするナロードニキを批判した。だが、これからみるようにその「解体」は世界資本主義の特殊な構造によって全面的にはおこらないばかりか、オプシチーナ、ミールといった農耕共同体には、ロシアの農民の八割以上が帰属し、対地主闘争を元気に展開していった。そして一九一八年ロシア農民革命の一大拠点となっていったのである。

ではいつまで存続したのか? ロシア革命後まで。スターリンがこの共同体を国家暴力によって、国営農場に転換させるまでだ。客観主義的な近代主義者たちの妄想はミールが商品経済の法則によって解体するということを語るだけだった。しかし、ミールはこれからみるように世界資本主義の構造によって存続しただけでなく、一つの革命拠点という共同意志によって自身を保持したのである。そこには新自由主義グローバリゼーションに対する一つの闘いのタイプを発見することもできるのではないか。

「共産党宣言 ロシア語第二版序文」(全文) (マルクス・エンゲルス全集第一九巻から。原書頁二九五頁、以降)は、次のように述べている。

 「『共産党宣言』のロシア語初版は、バクーニンの翻訳で、一八六〇年代のはじめに『コロコル』発行所から出版された。当時の西欧の人々には、この本(『宣言』のロシア語版)は、文献上の珍品としか考えられなかった。今では、そういう見方をすることは不可能であろう。

その当時に(一八四七年一二月)プロレタリア運動がまだどんなに限られた地域にしか及んでいなかったかは、『宣言』の最後の章、さまざまな国のさまざまな反政府諸党にたいする共産主義者の立場という章が、このうえなくはっきりと示している。つまり、そこには、ほかならぬ――ロシアと合衆国が欠けている。それは、ロシアがヨーロッパの全反動の最後の大きな予備軍となっていた時代であり、また合衆国がヨーロッパのプロレタリアートの過剰な力を移民によって吸収していた時代であった。どちらの国も、ヨーロッパに対する原料の供給者であると同時に、ヨーロッパの工業製品の販売市場になっていた。だから、その当時には、どちらの国もなんらかの仕方でヨーロッパの既成秩序の支柱であった。

それがいまではなんという変わりようだろう! まさにこのヨーロッパからの移民の力が北アメリカに、大規模な農業生産を発展させる可能性をあたえた。そして、いまこの農業生産の競争が、ヨーロッパの土地所有を――大小の別なく――根底からゆりうごかしている。そのうえ、この移民のおかげで合衆国は、非常な勢力と規模でその膨大な工業資源を利用することができたので、西ヨーロッパ、とりわけイギリスの従来の工業上の独占は、まもなく打破されるにちがいない。

この二つの事情は、ともにアメリカそのものに革命的な反作用を及ぼしている。全政治制度の土台である農業者の中小の土地所有は、しだいに巨大農場の競争に敗れている。それと同時に、工業地帯では、大量のプロレタリアートとおとぎ話のような資本の集積とが、はじめて発展しつつある。 それでは、ロシアはどうか! 一八四八年一八四九年の革命のときには、ヨーロッパの君主たちだけでなく、ヨーロッパのブルジョアもまた、ようやくめざめかけていたプロレタロアートから自分たちを守ってくれる唯一の救いは、ロシアの干渉であると見ていた。ツアーリはヨーロッパの反動派の首領であると、宣言された。

今日では、彼はガッチナ【引用者注:一八八一年三月、人民の意志党はアレクサンドル二世を完全打倒(=暗殺)した。これをうけて、アレクサンドル三世はサンクトペテルブルグ(レニングラート)付近にある城・ガッチナに、「人民の意志党」のテロルを避けるため軍隊などの警護をうけて、篭ることになっていた、そのガッチナ】で革命の捕虜になっており、ロシアはヨーロッパの革命的行動の前衛となっている。

『共産党宣言』の課題は、近代のブルジョア的所有の解体が不可避的にせまっていることを宣言することであった。ところが、ロシアでは、資本主義の思惑が急速に開花し、ブルジョア的土地所有がようやく発展しかけているその半面で、土地の大半が農民の共有になっていることが見られる。そこで、次のような問題が生まれる。ロシアの農民共同体(オプシチーナ)は、ひどくくずれてはいても、太古の土地共有制の一形態であるが、これから直接に、共産主義的な共同所有という、より高度の形態に移行できるであろうか? それとも反対に、農民共同体は、そのまえに、西欧の歴史的発展でおこなわれたのと同じ解体過程をたどらなければならないのであろうか? この問題にたいして今日あたえることのできるただ一つの答えは、次のとおりである。もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命にたいする合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる。

ロンドン、一八八二年一月二一日、カール・マルクス、F・エンゲルス」。

 そして、こういうマルクスの思潮とフレンドなものとして、まさにナロードニキの次のような共同体論が展開されていたということなのである。

 

●ゲルツェンの農民共同体論

 

これから見るようにレーニンの商品市場拡大=ミール農耕共同体解体論の予測にもかかわらず、そして一九一七年以降のロシア農民革命により、「一九二五年で農民の九〇%以上が農民共同体に属していた」(アレック・ノーヴ『ソ連経済史』、岩波書店、一九八二年、一一九頁)という、この現実において、レーニンが言うような<共同体革命論はロマンチズム>でもなんでもなく、現実の実践的な運動として、レーニンたちに対しては外在化した、歴史的・社会的ヘゲモニーとして存在していたのである。

「共同体所有と個的占有」を所有形態とした農耕共同体は、生産手段のブルジョア的私的所有と非和解的に対立し、社会主義的共同占有とフレンドなものに他ならない。

結局この共同体を打ち砕いたのは、ボリシェビキ官僚主義の農業集団化であり、官僚制国家所有にもとづく近代工業化国家路線にほかならなかった。

以下の共同体革命論は、こうした歴史の流れをふまえつつよまれるべきものである。

ナロードニキのイデオローグ、ゲルツェンに登場願おう。

ゲルツェンが一八五一年に書いた「ロシアにおける革命思想の発達について」(岩波文庫、二〇〇二年)は次のように述べている。

「ロシアの農村共同体はいつのころともわからない遠い昔から存在している。……農村共同体はいわば社会的なひとつの単位であり、法人である。国家はけっしてその内部に立ち入ることはできなかった。共同体は所有者であり、納税の義務を持つ。それはすべてのものに対してまたおのおのの個人に対して責任をもつ。それゆえに内部のことに関するすべてにおいて自治的である。

共同体の経済的原則はマルサスの有名な格言にたいする完全なるアンチテーゼである。共同体は例外なくすべての者におのが食卓の席を提供する。土地は共同体に属するのであって、その個々の成員に属するのではない。これらの成員はおなじ共同体の他のおのおのの成員の所有している土地と同じ面積の土地を所有する不可侵の権利をもっている。この土地は彼が死ぬまでその所有にゆだねられる。彼はこれを遺産として残すことはできない。またその必要もない。彼のむすこは成年に達するやいなや父親が生きている場合でも、共同体から土地の分け前を要求する権利をもつ。一方その成員が死んだ場合は土地は共同体に返還される。

非常にとしをとった成員が自分の土地を渡し、それによって免罪の権利を得る場合もしばしばある。共同体を一時はなれる農民も土地に対する権利を失うことはない。共同体(または政府)によって追放の宣言をうけた者のみが土地をとりあげられる。しかし共同体がかかる決定をするには全員の同意を必要とする。しかもこのような手段に訴えるのは特別の場合に限られる。最後に農民は自己の要求によって共同体との結びつきから解放される場合にも土地に対する権利を失う。その場合には農民は動産のみを持ち去ることを許される。それには自己の家屋の処分または移転を許されることもある。かくて農村プロレタリアートの発生は不可能である。

共同体の中で土地を所有するおのおのの者、すなわち青年に達し納税の義務あるおのおのの者は、共同体内の問題に関する発言権をもっている。村の長老とその補助役たちは一般の集会で選ばれる。種種の共同体の間での問題の審査、土地の分配や租税の割当もおなじようにして行なわれる。(なぜなら本質において支払うものは個人ではなくて、土地だからである。政府は頭数だけを数えているが、共同体は実際に働く労働者、すなわち土地を利用している労働者を単位と見なしている)」。

「地主は農民の土地を切り取り、もっとも良い土地を自分に取り上げることができる。しかし農民に充分な土地を拒むことはできない。土地は共同体に属することによって完全に共同体の管理のもとに、すなわち自由な土地が管理されている場合と同じ原則のもとに置かれている。地主はけっして共同体の管理に干渉することはない。

土地を区分して個人所有に移すヨーロッパ式システムを採用しようとした地主もいた。これらの試みは大部分バルティク諸県の貴族によっておこなわれたものであるが、すべて失敗し、たいていは地主の殺害か土地屋敷の焼き討ちをもって終わった。これはロシアの百姓が自己の抗議を表明するときに用いる国民的な手段である」(付属章「ロシアにおける農村共同体について」)。

こうした農耕共同体を起点としてのゲルツェンの主張は、このようなミールの土地共有と土地の定期的割り替えの仕組みを共同体に対する外からの抑圧としての封建的束縛から解放する、この共同体に生活する農民を抑圧している国家から解放することをめざしてゆくのである。移住の権利、農民の個人的自由は、一七世紀初期の法律により制限された。まさに「窒息せしめられたものは共同体ではなく農民であった、われわれは一七世紀のはじめにおけるツアーリ・ゴドノフの法律を知っている。これはひとりの地主の土地から他の地方の土地に移動する農民の権利を規定し、制限したものである。これが農奴制への第一歩であった」(ゲルツェン、前掲五一頁)。

このような農民に対する国家の抑圧と闘うナロードニキのミール農耕共同体の課題は、現にそこにあるロシア共同体の価値化というにとどまるものではなく、この共同体の作り出している平等なシステムを、革命によって、より活かしてゆくことをポイントにしている。つまり、「共同体がどのような運命か」という、これから見るようなレーニンの問いかけ自身が、客観主義なのである。

ナロードニキは資本主義化で、農民層の労働者階級への階級分化(資本の本源的蓄積)を経ることなくロシアは社会主義に移行できると考えたが、そのポイントは何がしかの宿命論・決定論ではなく、共同体をポジティブな、さらに自己変革してゆく可能性を持った平等的共同体としてとらえる観点、農耕共同体ミール、オプシチーナ、生産協同組合アルテリといったロシア共同体を、ひとつの<新生事物>として〈再生〉してゆくということが、ナロードニキやマルクスのポイントになっているのである。

そしてゲルツェンは前掲書で次のように述べている。

まさにこのような共同体社会を実現するのは、この共同体の革命的発展を妨害してきた専制国家を打倒する革命を不可避とするのだと。

「ロシアの国民は共同体の生活の中にのみ生活してきた。彼らは共同体との関係においてのみ自己の権利と義務とを理解していた。共同体以外のところには彼らは義務を認めず、ただ暴力のみを見る。かれらがそれに服従するのはただ力に服従しているだけである。……ロシアにおいては目に見える状態の背後に、既存秩序の進化であり変形にほかならないような、不可能な理想というものは存在しない。たえず実現を約束しながら、けっして実現することのないような、不可能な理想というものは存在しない。最高権力がわれわれのまわりにはりめぐらしているところの柵のうしろには何ものも存在していない。ロシアにおける革命の可能性は帰するところ物質的な力についての問題である」(前掲一八二頁)と。

 こうしたナロードニキの共同体論に対して、かかる農耕共同体の解消論を展開したのがレーニンだった。

 

●レーニンのロシア農村共同体解消論――その「商品経済史観」的限界

この文のサブタイトルに書いた「商品経済史観」を前提としておさえておこう。商品経済史観とは宇野経済学などで、社会的労働実態としての「資本の本源的蓄積」(典型的な例としてよくあげられることで言えばイギリスのエンクロージャーのような、生産者と生産手段の所有の暴力的分離・収奪の過程)を忘却し、資本主義の形成を単なる商品集積や分業形態の変化に置き換えただけの商品経済拡大史観のことをいう。批判対象となる方法論の呼び名の一つだ。この概念が本論の以降のひとつのキー概念をなすものに他ならない。

宇野弘蔵は次のように述べている。

「古代、中世等々の諸社会における商品経済の発達は、これらの諸社会の歴史的過程をそのままに包含しうるものではない。この商品経済の発達に伴う商品、貨幣、資本の形態的発展を直ちに歴史的過程となすことは、他のところでものべたように(……)、唯物史観を商品経済史観に歪曲し、矮小化するものにほかならない。そればかりではない。商品、貨幣、資本の流通形態の転回自身をも純形態的に行ないえないようにする。いわゆる単純商品社会論はその点を端的に示している。労働価値説がこの商品形態論で行われることの難点もそこにある。例えば、商品論で直ちに行われる労働価値説は、社会的労働といっても、労働力の商品化を基礎とする資本の生産過程を前提しえないために論証不十分なものとならざるをえない。実際またそういう形態規定は、奴隷労働と資本主義的な賃金労働の社会的平均労働をさえ想定しなければならないことにもなるであろう。資本の移動、労働の移動を想定することのできない商品交換関係で想定される社会的労働が、実質的な規定をもちえないのは当然といってもよいであろう。それは労働価値説を真に展開するものではない――と私は考えている。ところがこの商品論で、いわゆる単純商品社会を想定することが、実は旧社会関係の商品経済による全面的支配の過程をも、単なる商品経済自身の発展過程に解消し、歪曲することになるのである。『資本論』が資本の原始的蓄積の過程を商品・貨幣・資本の体系的展開から離れて解明しているのも、それが単なる商品経済自身の内部的な発展となしえないからである」(宇野弘蔵『社会科学の根本問題』「Ⅴ 経済学と唯物史観」、青木書店、一九六六年、一一七~一一八頁)。

 つまりこれらのことは、<商品経済自身の発展過程>なるものの自己運動でその国の産業構造が決まってゆくのではなく、そこには社会的労働実態を基礎とした産業が、どのようなあり方を国際的にも要請されているか、あるいは、国際的な役割連関の中での位置を持つものとなっているかということの中で決まってゆくのだということを、意味している。

 そこでこの商品経済史観だが、エンゲルスは次のように述べている。

「中世に発展していたような商品生産のもとでは、労働の生産物は誰であるべきかという問題は全然起こりようがなかった。通例、個人的生産者は自分のものである原料、しばしば自分で生産した原料で、自分の労働手段を使って、自分またはその家族の手労働でそれを生産した。彼はその生産物をあらためてわがものにするまでもなかった。それはまったくおのずから彼のものであった。こうして生産物の所有は自己労働にもとづいていたのである。……そこへ大きな仕事場や手工制工場への生産手段の集積が、それらの事実上の社会的生産手段への転化がやってきた。しかし、この社会的生産手段と生産物は、それまで通り個々人の生産手段と生産物であるかのように取り扱われた。これまで労働手段の所有者が生産物を取得したのは、その生産物が通例彼自身の生産物であって、他人の補助労働は例外だったからであるが、いまでは、労働手段の所有者は、生産物がもはや彼の生産物ではなく、もっぱら他人の労働の生産物であったにもかかわらず、それを取得し続けた。こうして、生産物は、いまでは社会的に生産されるようになったのに、それを取得するのは、生産手段を実際に動かし、生産物を実際につくりだした人々ではなく、資本家であった。……一方の、資本家の手に集積された生産手段と、他方の、自分の労働力以外にはなにももたなくなった生産者との分離が完了していた」(『マルクス・エンゲルス全集第』一九巻、「空想から科学への社会主義の発展」、原書頁二一三頁)。

つまりここでは単純商品生産者の社会から商品(―生産手段)が資本家に集積され、そのことで階級分解が拡大してゆく様相が論述されているわけである。そして「商品生産が広がるにつれて、ことに資本主義的生産様式が現れるとともに、それまで眠っていた商品生産の諸法則も、もっと公然ともっと力強く作用するようになった」(前掲、原著頁二一六頁)としている。

 これが、商品経済史観といわれているものだ。<単純商品生産者の社会→資本家となる大所有者への商品集積→貧富格差→個人的小生産者のプロレタリア化→階級分裂→資本・賃労働関係の形成>というもので、資本の原始的蓄積(生産者と労働実現条件・生産手段の所有の暴力的・強力的分離、生産者からの生産手段の収奪の過程による階級関係の形成)を忘却、ないしは後景化し、ただ商品経済の拡大と集積を命題とするものである。

 これに対して「原始的蓄積」とは次のようなことを言う。

例えばマルクスはさきの「ザスーリッチへの手紙」でも書いていた、エンクロージャー(土地囲い込み)などの原始的蓄積をおこなったイギリスの例を念頭にこうのべている。「資本関係を創造する過程は……一方では社会の生活手段と生産手段を資本に転化させ他方では直接生産者を賃金労働者に転化させる過程以外のなにものでもありえないいわゆる本源的蓄積は生産者と生産手段との歴史的分離過程にほかならない」。「この新たに解放された人々はかれらからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建的な諸制度によって与えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまってから、はじめて自分自身の売り手になる。そしてこのような彼らの収奪の歴史は、血に染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれている。「人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引き離されて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農村の生産者すなわち農民からの土地収奪は、この全過程の基礎をなしている」(『資本論』第一巻二四章、岡崎次郎訳、国民文庫、第三分冊、三六〇~三六二頁)ということである。

 

●商品経済史観にもとづく「農民層の両極分解」論

 

以下に見るレーニンの「いわゆる市場問題について」(一八九三年執筆)の分析視覚は、ロシア共同体解消説といってよいものだ。これから見ていくように完全な商品経済史観による論法である。そして後に見るように、そのことは社会的労働実態に関わる分析を後景化させるものとなっているのだ。この観点は「ロシアにおける資本主義の発展」(「発展」とする。一八九六~一八九九年執筆)においても貫かれており、レーニンにおいては規定性を持った分析視角の一つだ。それは端的に言ってレーニンの立場であるロシア・マルクス主義(広義)のナロードニキに対する党派闘争としての意味を持っているのである。

例えばレーニンのいうところでは、「ただナロードニキ主義の経済学者だけが、農民一般をなにか反資本主義的なものと解釈して、「農民」大衆がすでに資本主義的生産の全体系の中でまったく確定した地位を、すなわち農業および工業の賃金労働者という地位をしめていることを、無視しているのである」(「発展」、全集第三巻、一四七頁)というのがそれだ。

だが、そういう分析こそ歴史の現実に裏切られたのである。が、ここで一つ確認しておくべきことは、ナロードニキは農村共同体の「共同体の共同所有と耕作者個人の占有(私有ではない)」、つまり、私有の否定と共同体的所有が、社会主義の出発点になると考えていたのであって、農民の即自存在をそれとして「反資本主義」的としていたわけではないということである。

前置きはこれくらいでいいだろう。レーニンの「いわゆる市場問題について」に入ってゆこう。レーニンはのべている。

「資本主義とは、もはや人間労働の生産物だけでなく、人間の労働力そのものも商品になるという、商品生産の一発展段階のことである。したがって、資本主義の歴史的発展においては、二つの契機が、すなわち、(一)直接生産者の現物経済の商品生産への転化、(二)商品経済の資本主義経済への転化が重要である。第一の転化は、社会的分業――孤立した《これが商品経済の必須条件であることに、注意せよ》、個々の生産者がただ一つの産業部門の仕事に専門化すること――があらわれることによって、おこなわれる。第二の転化は、個々の生産者がおのおの単独で市場目あてに商品を生産し、競争の関係に入ることによって、おこなわれる。各生産者は、より高く売り、より安く買おうとつとめる。その必然的結果は、強者の強大化と弱者の没落、少数者の富裕化と大衆の零落であり、これが、独立生産者の賃金労働者への転化と、多数の小経営の少数の大経営への転化とを、もたらすものである」(レーニン全集第一巻原書頁七七以降、引用頁はすべて原書頁)。

これがおおきな見取り図である。

この場合レーニンが言う、階級分裂へといたる「個々の生産者」とは、エンゲルスなどで「個人的生産者の社会」=単純商品生産者社会なるものを措定し、そこからの商品集積や社会的分業の成功度などでの貧富格差の発生から階級分裂を説く、先述したようなエンゲルス「空想から科学へ」(マルクス・エンゲルス全集第一九巻)第三節の第三、四、五、六、八などのパラグラフに論述されているところの商品経済史観に依拠したものにほかならない。

そしてそれは、マルクスが『資本論』第一巻第二四章で明らかにした資本の本源的蓄積(農民・直接生産者に対する生産手段の所有からの暴力的分離による無産の労働者の形成の過程)を後景化ないしは忘却せんとするものに他ならないのである。

では、もう少しこまかくみていこう。レーニンは述べている。

「『市場』の概念は、社会的分業――マルクスが言っている「あらゆる商品生産《したがってまた資本主義的生産――と、私から付け加えよう》の一般的基礎」――の概念と、まったく不可分のものである、ということである。社会的分業と商品生産があらわれるところに、また、あらわれるかぎりで、「市場」があらわれる。そして市場の大きさは、社会的分業の専門化の程度と、不可分にむすびついている」(八三~八四頁)。

「『人民大衆の貧困化』(市場に関するあらゆるナロードニキ的な議論にかならずつきもの)は、資本主義の発展をさまたげないばかりでなく、かえってその発展をあらわすのであり、資本主義の条件であり、また資本主義を強化するものであるということである。資本主義にとっては「自由な労働者」が必要である。そして、貧困化とは小生産者が賃金労働者に転化することである。大衆のこの貧困化は、少数の搾取者たちの富裕化をともない、小経営の没落と衰退とは、より大きな経営の強化と発展をともなう。この二つの過程は市場の発展を助成する。以前には自分の経営で生活していた「貧しくなった」農民は、いまでは「賃仕事」によって、すなわち自分の労働力の販売によって生活する。……他方ではこの農民は生産手段から解放され、それらの生産手段は少数のものの手に集積されて、資本に転化される。そして、生産された生産物は市場にはいる。農民改革以後の時期におけるわが農民の大量的な収奪が、国の総生産能力の減少ではなく、その増大と、国内市場の増大とをともなったという現象は、ひとえにこのためである」(八七頁))。

「商品経済から資本主義経済への移行、商品生産者の資本家とプロレタリアートへの分解である。そこで、われわれがロシアの近代社会の経済の諸現象に目をむけると、わが小生産者たちの分解こそが主要な地位を占めていることを見るであろう。耕作農民をとりあげてみよう、――そうすれば、一方では、農民が群れをなして土地を放棄し、経済的独立性を失って、プロレタリアになりかわりつつあり、他方では、農民がたえず耕作地を拡張し、改良された耕作に移行している、と言うことがわかる」(九二頁)。

レーニンは、このように書いているのであるが。そして、こう結論付けているのであるが。

「これらの事実を説明する唯一のものは、わが「共同体的」農民をもブルジョアジーとプロレタリアートに分解させつつある。商品経済の諸法則のうちにあるのである」(九三)。 

まさにレーニンの分析方法は、概念化した「市場」なるものの現実への形態論的アテハメであり、「商品経済の諸法則」という〈「法則」の自己運動〉論にほかならない。

だがこうした「市場」の理論からする、レーニンの「ロシア農民の両極分解」の見通しは、例えば宇野経済学派の渡辺寛が論じているように完全に裏切られる結果となったのである。

まさに「だが事実は、こうしたレーニンの予想を裏切ることになった。一九〇五年にはじまる、中央黒土地帯を中心とする農民の共同体的結合による、地主所有地の全面的没収の運動がそれであった。この第一次ロシア革命の農業的構成部分は、レーニンの予想のように農民は両極に分解したのではなく、まだそのうちに、地主にたいする土地要求については、統一的集合力を有する一階級として存在していることを、現実に示したのである」(渡辺寛『レーニンとスターリン』東京大学出版会、一九七六年)ということなのである

 

●ロシア農民の階級的両極分解はなぜおきなかったのか

 

こうしたレーニンの「市場」の理論は、とりわけ、後進ロシアにおいて、それを分析しえない限界をもった理論装置としてそもそも、その弱点を指摘しなければならない。 その問題が先述したような、資本主義の形成条件に、マルクスが『資本論』第一巻二四章で定義した「資本の本源的・原始的蓄積」(生産者と生産手段の所有の分離)論の忘却であり、それは資本主義の形成はただ、共同体の社会的分業の拡大が商品経済を拡大させると同時に、かかる「単純商品生産者の社会」のなかで、強者には商品集積を弱者にはプロレタリア化を展開してゆくという商品経済拡大史観にほかならないのである。 これでは、後進ロシアの資本主義化は分析できなかったといってよい。どうしてか。

そこで宇野経済学の研究者・渡辺寛は、その農民層の階級的分解がなされない問題を、世界資本主義におけるロシア的特性に規定されたところの工業化の狭隘性にもとづく、資本の「原始的蓄積」の限界と、そのことにもとづく、農民のプロレタリア化の圧倒的なまでの不可能性という展開にもとめたのであった。

ここではロシア農耕共同体が存続した客観的諸条件について見てゆこう。この客観的条件に、農民の対地主反乱という主体的な条件が重複することにより、ロシア農耕共同体は解体する運命を免れていたのである。

渡辺は『レーニンとスターリン』では次のように述べている。

 「ロシアの資本主義化は、イギリスにおける産業資本の展開を基軸としてヨーロッパ資本主義が世界市場を形成した自由主義段階で、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の穀倉として、世界市場にリンクされつつ、工業的・金融的には、イギリス、ドイツ、ベルギー、スウェーデン、フランスなどに大きく依存して、外国資本の関与のもとに、かなり高度の、しかも矮小な規模の工業生産を中心としておこなわれた。そのためにドイツなどとは質的にことなった農業問題をかかえざるをえなかったのである。

都市における工業の一面的発展、つまり全体としては矮小な規模で、しかも個々的には高度の資本の集中をみた工業の発展、少数の極度に集中したプロレタリアート――これに対応した、農村における過剰人口の堆積、共同体的土地用益の土地私有への転化の停滞、これらを根拠とした地主所有地における高率の労働、現物、貨幣小作料の成立。こうした事態は、世紀末の新大陸諸国の世界穀物市場への登場による、ヨーロッパ穀物市場でのロシアの地位の衰退を、農民にたいする苛斂誅求によってカヴァしようとする大土地所有者の貨幣的欲望を通して、人災の凶作・飢饉を結果することになった。それは、ロシア革命の農業的基礎を形成することになったのである。

(中略) だが、こうした視点を方法的にも捨象せざるをえなかったレーニンは、「資本主義的な賃労働の発展は、雇役制度を根底からくつがえしつつある」と述べ、ロシアの農業問題も、全面的資本主義化とともに解消しつつあるものと想定したのである。

だが事実は、こうしたレーニンの予想を裏切ることになった。一九〇五年にはじまる、中央黒土地帯を中心とする農民の共同体的結合による、地主所有地の全面的没収の運動がそれであった。この第一次ロシア革命の農業的構成部分は、レーニンの予想のように農民は両極に分解したのではなく、まだそのうちに、地主にたいする土地要求については、統一的集合力を有する一階級として存在していることを、現実に示したのである」(三三~三九頁)。

それを、渡辺寛は、『レーニンの農業理論』(一九六三年、お茶の水書房)では、次のようにのべているのである。

 「資本主義である限り、いずれの国もこの過程を経過しなければならなかった」ところの「先進資本主義国イギリスの原始的蓄積の過程に対して、後進資本主義諸国の原始的蓄積の過程は、直接的生産者たる農民と土地との原生的結合と経済外的強制による彼らの土地への緊縛との解除による労働力商品化の機構確立の前提条件の創出という課題を実現しつつも、非常に異なった様相を呈することになる。これらの諸国は、世界市場がイギリスを世界の工場として編成されていたために、この世界市場の要求からして、多分に原料国的、農業国的色彩のもとに、資本主義を確立しなければなかった。しかもイギリスで発展した資本主義的生産方法を輸入して自国を資本主義化したのである。比較的高度の有機的構成(相対的過剰人口が増大する――引用者)による、しかも矮小な規模での資本の蓄積は、工業が農業に対して要求する労働力を比較的小規模にする傾向を生ぜしめ、旧来の農村の諸関係を徹底的に排除することなく、工業の必要とする労働力の商品化を実現しうることにもなるのであった。」

ここがポイントだ。

「したがって、後進資本主義国では、イギリスのように農業と土地所有とを徹底的には変革することなく、原始的蓄積がおこなわれる。従来の小農的生産方法が広汎に存続することにもなるのである。(中略)後進資本主義国の原始的蓄積の特殊性は、農民層の広汎な存在を許すことになる。しかもその後における資本主義の発展は、ひとたび創出された賃金労働者階級とその子弟とを基礎として、相対的過剰人口を形成することによって、労働力商品化の機構をそれ自身でつくりだしてゆく傾向がある。したがって、工業ないし商業が農業から吸収する労働力の規模は、農民をしてその経営を放棄させるに足りるほどのものとはなりにくい。かえって、吸収度が弱化し、農村に過剰人口を停滞させることにもなる」。

 つまり、資本主義近代化の進行にあっても、都市の相対的過剰人口(資本の価値増殖運動に対し過剰な労働人口)の形成は、農村部における労働力の過剰な停滞をつくりだすことが一般的な傾向となるのである。

「農業の再生産過程を根底から商品化しなくとも、すなわち労働力を商品化しなくとも、その生産物を商品化することによって、また工業製品を生活資料、生産手段として販売することによって、資本主義は農業を商品経済化し、自己の体制に包摂する。こうして、一社会として存立しうるのである」。

こうした原始的蓄積の分析は、レーニンの農業の資本主義化の分析からは、はずされていると渡辺は論じている。

「レーニンの市場理論は、工業が最初に資本主義化し、農業は最後に資本主義化するという想定に立っている。だが、かれはこれを時間的な前後関係としてしかみていなかったようである。工業の資本主義化につづいて、農業も自生的に、漸次的に資本主義化してゆくものと想定されたのである。現物経済から商品経済の移行において、商品経済化の契機を内部に求めた結果、商品経済の底力ともいうべきものを過度に評価する傾向が出てきたのであるが、いま、商品経済から資本主義経済への移行を究明するさいに農業内部に資本主義化の推進力(「社会的分業のこと――引用者)を求める結果、資本主義の歴史的画期としての原始的蓄積の問題が、考察からはずされてしまった。商品経済の発生と発展とが内生的なものと想定され、したがってまたその推進力を過度に評価する点では、方法的に(レーニンは――引用者)一貫している」(一〇九~一一一頁)ということなのである。

レーニンはこのような陥穽のもとで、「商品経済の諸法則」(レーニン)が必然的にミール農耕共同体を解体するという仮説をたてたのであり、それは、以上のような後進ロシアの事情によって、予測倒れとなる以外なかったのである。

それにしても、まだ疑問は残るだろう。レーニンがこういう論法をどうして用いることになったのかということである。

 

●レーニンの論法について――カウツキー農業理論「農民層の両極分解」論(資本主義発展一元史観)とその破産

 

渡辺寛は『レーニンとスターリン』の第三章「農業理論」(初出、一九六五年「ロシア革命とレーニンの農業理論」『思想』六五年一一月号)で次のように論じている。

「当時の『マルクス理論』は、『資本論』をもってただちに資本主義の生成・発展・消滅の過程をも明らかにしているものと解釈し、この過程のうちに産業資本による全面的資本主義化、つまり地主・ブルジョアジーとプロレタリアートへの完全な階級分解が、いずれの国において緩急はあれ、実現するものと想定したのであった。

社会の純粋資本主義化がいずれの国においてもやがては実現されるという想定は、現実の世界史的な資本主義の発展の中で示された、商人資本、産業資本、金融資本という、資本の蓄積形態の質的変化をともなう資本主義の段階的発展と、資本家的商品形態によって実質的に包摂さえないで、外的対立を構成することになる農業問題の顕現とによって、その誤りが暴露されることになったのである。資本主義の発展を、産業資本の拡大による全面的資本主義化の過程として把握するこうした考えを、「資本主義発展一元史観」と呼ぶとすれば、レーニンもこの史観から自由たりえなかったのである。

農業問題の古典とされているカウツキーの『農業問題』(一八九九年)は、『資本論』を資本主義発展一元史観として解釈し、その正しさを一九世紀ドイツ農業のうちに実証しようとしたものであった。しかし、中農層の存続と増大という現実をまえにして、さすがのカウツキーも、修正派のように公然とではなく、なしくずしに中農層の増大を認めざるをえなくなったのであるが、それは、『資本論』と現実とに相即不離の関係しか認めない一元史観の立場からして、資本主義の発展過程で中農層が増大すると言う一般的命題を生みだすことになった。それでもなおカウツキーは理論と現実との不一致に苦しんで、やがて『農業問題』を絶版にしてしまったのである。それは、まさに資本主義発展一元史観の現実的破綻にほかならなかったといってよいであろう。

(中略)

(だがしかし――引用者)社会主義革命後にいたるまでの中央黒土地帯を中心とした農村共同体(ミール)の広範な存続、農地における私的所有の未完成、さらには地主所有地での「雇役」制度などに典型的に表現される、ロシア資本主義の特殊的農業問題は、あまりにも特殊的であるために、かえって容易にレーニンをして、封建制度の存続という外的事情にもとづくものと判断させたのである。したがって資本主義発展一元史観は、カウツキーのような複雑さを含むことなく、初期レーニンの著作で展開されることになった。

 レーニンは、資本主義発展一元史観をさらに、「共同体」内部における商品経済の内生的発展・市場の形成・資本主義的両極分解を想定する「市場の理論」……に図式化し、ほぼこの図式にしたがって、ロシア資本主義を分析していった。

一八九九年に完成した大著『ロシアにおける資本主義の発展』がそれである。『小農耕者が農業企業家と農業労働者にわかれてゆく過程』を明らかにしながら、レーニンは、『この(農民層の引用者(この引用者は渡辺))分解が現在すでに完成された事実であること、農民層は対立する諸群に完全に分裂したこと』を実証しようとしたのであるが、ここでロシア農業の特殊問題にゆきあたる。『わが国の農村の経済で農民層の分解をはばんでいる……重要な現象は、賦役経済の遺物、すなわち雇役である』。雇役とは、地主経営地の『付近の農民が自分の農具で(地主の引用者=渡辺)土地を耕すことにあり、その場合の支払い形態は(……貨幣による支払いであろうと、……生産物による支払いであろうと、……土地または土地用役による支払いであろうと)この制度の本質を変えるものではない。雇役は賦役経済の残存物である』というものであった。

つまり、一八六一年にはじまる農民解放の過程で、次第に農民地として画定しはじめた「分与地」だけでは農民は生計を維持してゆくことができず、地主所有地の小作をしなければならないという事態を、レーニンは、『雇役制度』=『賦役経済の直接の残存物』と規定するのである。だが問題は、農奴解放の開始から十月革命にいたる半世紀のあいだ、なぜこのような制度が存続したのかということであり、それは『賦役経済の直接の残存物』という規定を与えても、決して解明されるものではなかった。

共同体的結合を強く残した農民層の存続とその窮乏化、それに基礎を置く雇役、こうしたロシア農業問題の解明は、「市場の理論」という資本主義発展一元史観の果たせるところではなかったといってよい」。と渡辺はのべているのである。

つまりレーニンは農村共同体が窮乏化しつつその存在を維持するためにおこなっていた小作労働・「雇役」労働を、「賦役経済の直接の残存物」と規定することで、農耕共同体をまさしく封建共同体として性格づけ、資本主義発展一元史観にもとづいて階級分化的に解体してゆく過程にあるものと規定したということだ。あるいはレーニンの「資本主義発展一元史観」の方法論的立場からはそのように規定するしかなかったということだ。その規定の限界はこれまで見てきたとおりである。

 

●「資本―賃労働」両階級への機械的分解の理論

 

 ここで渡辺が指摘した農民層の資本家と労働者への両極分解論を概観しておこう。

「「カウツキー「農業問題」の書評」(一八九九年)、「農業における資本主義」(一八九九年)、「農業問題と《マルクス批判家》」(一九〇一年(第一~第九章)、〇七年(第一〇~第一二章)などの諸論文を見てもわかるように、初期のレーニンのマルクス経済学理解はカウツキーによって代表される第二インターナショナルの正統派の水準に拠るものであったといってよい。

例えばレーニンの『カウツキー「農業問題」の書評』(レーニン全集第四巻)では次のように展開されている。

「小規模農業は、大規模農業の競争者であることをやめて、大規模農業のための労働力の提供者に転化するときに、安定性をえるのである。大土地所有者と小土地所有者との関係は、資本家とプロレタリアとの関係にますます近づく」。「農業は、たえまない改変の状態、資本主義的生産様式一般を特徴づけているあの状態に陥った。『農業大経営――その資本主義的性格はますます発展している――のもとにある広大な土地、借地や土地抵当の拡大、農業の工業化、――これらのことは農業生産を社会化するための地盤を準備する要素である』……社会では、一つの部分はある方向に発展し、他の部分は反対の方向に発展すると考えるのは、不合理であろう、とカウツキーはおわりにあたっていっている。実際、『社会の発展は農業でも工業でも同じ方向にすすんでいる』」

 「現代社会における進歩的活動がなしうることは、資本主義的進歩が住民に与える有害な作用をよわめ、この住民の自覚と集団的自己防衛の能力とをつよめるように努力することだけである」(原書頁八一~八三頁)。

 農村のブルジョアジーとプロレタリアートへの階級分裂は不可避だと言っているわけである。この場合、問題は、例えば中農の存在がどうあるかが問題になるだろう。

カウツキーは『農業問題』(岩波文庫、一九四六年、向坂逸郎訳、原著一八九九年)では次のように言っている。

「中農の農業的人口の総ての商品生産的階級の中で、賃金労働者の欠乏によって悩まされること最も少ないものであるが、その代わり近代の農業上に増大する他の負担の下に最も多く悩むのは、まさにこの階級であるのだ!中農は高利貸や中間商人による搾取の主要目的である。貨幣租税と軍務とはこれに最も酷く当る。彼の土地は最も多く地力の枯渇と乱獲にさらされる。そしてかかる経営は商品を生産するものの中最も非合理的のものに属するが故に、それは、最も甚だしく、競争戦を超人間的の労働と非人間的の生活方法とによって遂行するところの経営である。……なほこれらの農民を、その比較的には大きな所有地が郷土につないでおく。だが、ただ彼等だけであって、その子供はもはやつながれていない」。工業へ・都市へ・軍務へと向かう。そして、「中農の家族は小さくなり、それだけにただわづかに経営を進めて行くにも足らなくなり、それだけ農業労働者がここでも演ずる役割は大となり、且つ、それだけに労働者問題も、他の障碍と共に、この段階の経営にも著しくなる」(上巻、三九三~三九五頁)。

つまり農村のブルジョアジーとプロレタリアートへの階級分化は中農の没落とともにすすむと論じたのである。しかし、そのことが実際あった国となかった国とがあった。このことは、これまで見てきたとおりである。

まさに後進国の原始的蓄積は、後進国が市場的・産業的に中心国・先進国の国際的下部構造化(原料・農業国化)する中で、中心国・先進国の工業化の限界・限度に規定される。そのため、後進国では、工業化は、全面的ではなく中間的・部分的・変則的にしかおこなわれず、工業化のための労働力の必要性は限定的なものとなる。つまり原始的蓄積の必要性は限界を描くので、農村部には常に過剰人口が形成される。これによって、農村の階級分解は進まず、ロシアにあるような農耕共同体はむしろ、過剰人口を吸収して存続し、むしろ、地主と農民共同体との矛盾を深めることになる。

つまり、レーニンの「商品経済の法則⇒単純商品生産者社会の措定⇒社会的分業の発展⇒商品経済拡大⇒貧富格差⇒富者への生産手段の集中⇒農村の階級分化」という商品経済拡大史観モデルは――そもそもこの商品経済史観は原始的蓄積過程を分析視覚から忘却しているのであるが――、後進ロシアでは、少なくともそのままの形ではそして全面的には展開しなかったということになるわけである。

 

●左派ナロードニキから見たロシア農耕共同体問題の全体像

 

さてここで話は終わりなのではない。このロシア農耕共同体が、一九一七年ロシア革命以降の時期を含めてどのように展開したかが、次に重要なポイントになる。

この共同体論の一番広いウインドウをあけることにしよう。長文になるが、ここで左翼エスエル指導部の一人でボリシェビキとの連合政府=人民委員会議の司法人民委員だったI.スタインベルク(第二次大戦後に生き残った)『左翼社会革命党一九一七―― 一九二一』(鹿砦社、一九七二年、原著一九五五年)の「第一九章 ロシアの農民」(二三〇頁以降)より、ロシア農業農民共同体問題のポイントとなると考えられるものを引用する。

 

(1)   などの〇番号と見出しは引用者でつけた。

(1)ロシア農耕共同体

「ロシアの農民は、オプシチーナあるいはミールと呼ばれるその土地共同体の根深い諸伝統を革命にもちこんだ。農民人口の五分の四までが、オプシチーナの構成下にある土地で、その諸原理に従って働いていたのである。

この制度の主要な原理とは何であったのか? 第一は、土地の共同所有権、第二は土地に対する全農民の権利。第三はオプシチーナにおける共同体的管理運営。(中略)農奴であった時ですらも、農民たちは確信に満ちてこう言うのであった。「わしらは御領主様の物だ、けど土地はわしらのものさ」と。

彼らはオプシチーナに所属しており、そのことは、一種の直接民主制である農民スホード即ち、村の寄合であらゆる決定がなされることを意味していた。オプシチーナは、その成員の間での種種の土地の配分を決定した。どの農民も自分と自分の家族が耕作するだけの一片の土地への権利を有していた。この意味において権利の平等は広く行きわたっていたのである。新たな世代のためではなく、すべての者にこの権利が保証されることを確保するために、定期的な土地の割替が行われた。そしてこの習慣が、土地は「わしのもの」ではなく、皆のものだ、といった農民の信念を増大させたのである。かくしてこの土地に対する権利というものが、農民経済が、ただ、「売却、購入、そして相続」に立脚しているにすぎない国々とは異なった社会的倫理的風土と社会的諸関係の体系とを創りあげたのであった。

なるほど、オプシチーナは、ツアーリ政府とその徴税政策の重圧のもとに置かれてはきた。だが上からの圧迫は、その内的な様式を変化させることができなかった。1906年、ツアーリの大臣ストルイピンは、農民にそのオプシチーナより離脱する『自由』ならびにひとつかみの土地の私的所有者となることを認める有名な仕事を布告した。その目的とするところは、新たな何百万という小ブルジョア的農民階級を創り出すことによって、くすぶりつつある革命の焔を消しとめることにあった。しかしながら、この機会に乗じてオプシチーナを破壊しようとした者はほとんどなく、しかも一九一七年に革命が勃発すると直ちに、多くの者が自発的にそこへ帰っていったのであった。

これこそ、ロシアの農民たちが偉大な動乱に対して献げた共同体的生活経験という社会的精神的資産だったのである。それは農村だけに行きわたっていたのではなく、ロシアで一般的であった協同組合運動の中にも見うけられた。ロシアの職人たちもまた、その多数が都市の工業労働者となる以前は、アルテリという労働組合に広範に組織されていたのである。良きにつけ悪しきにつけあらゆる機会に、彼らは、農村におけるオプシチーナの都市版であるアルテリの原理へ引きつけられたのであった」。

(二)土地社会化法の成立(一九八一年一月)

「ロシア農業革命の先触れとなった土地社会化法についてさらに注意深く検討してみよう。この法令は、はやくも一九一七年五月、ペトログラードにおける第一回労農大会でその大要が定められていたのであった。(中略)この作業は、第三回農民大会が(ペトログラードにおいて)初めて第三回労働者兵士ソビエト大会と合同で開催されていた一九一八年一月に完了した(この大会で採択された引用者)。九〇〇名のプロレタリアートの、そして六〇〇名の農民の代表が、ロシア勤労人民の統一を、《レーニンとスピリドーノワの握手》に象徴される統一をうちたてたのである」。(注:マリア・スピリドーノワ。左翼エスエル最高指導者。一九一七年一〇月革命以降の農民ソビエトの議長。スターリンにより一九四一年九・一一メドヴェージェフスキーの森で銃殺刑。享年五六歳――引用者)

「彼らの最終的な条文は以下のようなものとなった。「土地、鉱石、水、森林もしくは他の天然資源に関する種種の所有権(国家的所有もふくめて!)はロシア・ソビエト連邦共和国の領土において永久に廃止される。」

この冒頭の宣言に、全ロシアを新たなる土台の上に組み立て、土地総割替(チェールヌイ・ペレジェール)即ち全面的土地再分割という農民の長年の夢を実現した一群の条項が続いた。引用されているのは第二,三,四条である。「土地は、無賠償で全勤労者の使用に供せられることになる」「土地の使用権は、自らの手で労働するもの(つまり、賃労働を雇用しないもの)にのみ属するものである」「この土地の使用権は、性別、宗教、国境もしくは市民権を理由として制限されてはならない」(中略)「ゼムリャー・イ・ヴォーリャ(土地と自由)というスローガンは、もはや一国的性格を脱して、世界性を獲得せんと渇望していた」。

(引用者・渋谷の注:但し、「模範農場」の規定にはソビエトが農場を「《国家》により支払われる労働で耕作する」規定、「《労働者統制》の一般的基準に従う」規定の両規定が併記されている(前者規定=ボリシェビキ、後者規定=左翼エスエル)ことに見られるように、この法をめぐって両者で論争がおこなわれたことは確認しておくべきだ――菊池黒光『十月革命への挽歌』、情況出版、一九七二年、三五一頁参照)。

(三)農民革命(一九一七~一九一八年五月)
「『実際に生じつつあった事態とは、村民による仲間うちでの土地の割替ということだったのだ。小地主や富農は、その土地の大部分を多くの子供をかかえた家族へ譲り渡し、不平を一言ももらさずに自ら滅びつつあった。一週間後には全員が耕作のために畑へと戻り、こうして再分割は完了したのである。』(著者スタインベルクによる、一九二三年の内にユーゴスラビアで刊行された雑誌『ルースカヤ・ムイスリ(ロシアの思想)』でのレポートからの引用引用者)

(中略)こうして一九一八年四月に、ロシアの農民たち土地所有者たちはその所有地を社会的精神的解放のための共同資金へと投げ出したのである。当時の彼らの支払った犠牲というものは、もう一つの事実これも劣らず重要なことではあったがすなわちロシアにおける封建的地主制の崩壊よりも、なお重いものだった。
(原注)『一九一七―― 一九一八年の期間に、共同体(コミューン)によって再分割のために没収された土地の総面積は農民からのものが約七〇〇〇デシャチーナ(一億八九〇〇万エーカー)そして大土地所有者からのものが約四二〇〇デシャチーナ(一億一四〇〇万エーカー)と見積もられていた。大領地からよりも、農民の所有地からより多くの土地が取り上げられ《貯えられた》)(プール)のである。(以下略)』(著者スタインベルクのディヴィット・ミットラー『農民対マルクス』よりの引用文引用者)」。

(四―A) レーニンの食糧独裁令(一九一八年五・一三)
「一九一八年の春、ブレスト=リトフスク講和条約締結直後のことであった(左翼エスエルは講和反対で人民委員会議(政府)から脱退。ソビエトには議員が存在する引用者)。我々は、このいわゆる講和がロシアに、とりわけ都市部に深刻な衝撃を与えたことをすでに知っている。それは、新たな困窮、飢え、政治不安をもたらしたのであった。ドイツ人は食糧生産地域の広大な部分を占領し、中央ロシアをその供給源から切断していた。政府は、力づくで農民からパンを挑発することを決定した。

ボリシェビキはこれ以上ひどい災厄を呼び寄せることはできなかったであろう。農村は、その精神的熱狂の再高揚期を通り過ぎたばかりであった。農村は自己を地主のくびきから解き放っただけではなく、その日常生活における経済的・社会的平等化への基礎をも築いたのであった。(中略)人民にとって必要不可欠な商品の生産者である農民が、都市の工業労働者との友情の絆をすぐにも創りあげるのは、当然のことと思われていた。その時になって突然、ボリシェビキ国家は、彼らに対して何か階級闘争の如きものをしかけたのだった(五月食糧独裁令のこと引用者)。

農村そのものにおいて、ボリシェビキ再びその旧式の理論(カウツキーに影響された「小ブル=農民層の資本家と労働者への階級分化・両極分解」の教条的な理論引用者・渋谷)へと後退したは、勤労農民に、《小ブルジョア》、商売気や私的取引や本来的貪欲さにかぶれた人間という烙印を押しつけた。彼らはほんの少し残っていた《貧民》を圧倒的な農民大衆に敵対させるために組織した、つまり彼らは《貧農》のソビエトを設立したのである。こうして彼らは、自らの手で新たな革命的農村の基礎を破壊することに着手した。

けれども、それでさえも十分ではなかったのだ。彼らは何千人という特別に組織された工業労働者を《パンの徴発》のために農村へと送り込んだ。本書の他の章、とくに「ボリシェビキ・テロル発動す」は、これらの部隊これは抵抗する農民たちに対する懲罰遠征隊にしばしば早変わりしたのだががいかにそのプロレタリア的参加者を堕落させ、信じ難い残虐行為へと導びいたかを詳述している」。

(四―B) スターリンの農業集団化(一九二九年~)

「都市への一層迅速なパンの供給を保証するために、政府は農村における経済組織の新制度を布告した。コルホーズ(集団開拓地)およびソフホーズ(国営農場)である。ソフホーズは《実際にはパン製造工場》とでもいうべきものであった。

即ちそれは、巨大な土地を中央集権化された擬似産業体に転換したものであり、そこでは農民は賃労働者として働くこととなっていたのである。コルホーズは、共産主義的精神で共同の農業単位を確立するためのものと主張された。けれどもそうした精神は、かつて土地革命を鼓吹したオプシチーナ精神とは天と地ほどにも異なっていた。それは農民の自由な決定と国家の強制との間の差異であり、農民たちの中から生まれた共同性と上から押しつけられた統計学的官僚主義的平準化との差異であったのである。

ボリシェビキ的な農業形態の中では、ロシア農民の固有な伝統は、もはやいかなる役割をも果たさなかった。今よりのち、農民は(その軍務に加えるに)都市にパンや他の原料を供給するための物理的経済的道具という存在にすぎなくなったのだった。旧きマルクス主義的処方箋が、今や武装せる国家権力の援助の下に、到る所において勝利を収めていた」。

以上がスタインベルクの分析と主張だ。

 

●廣松渉の「食糧独裁令」に対する分析

 

ここで、哲学者廣松渉(19331994年。『存在と意味』(岩波書店)など)の『マルクスと歴史の現実』(平凡社)での分析を見よう。

一九一八年、内戦のさなか「ロシアでは、五、六、七の月三ヶ月間は端境期にあたり、穀物が市場にほとんど出荷しません。土地革命で小規模自作農化した農民たちは、戦争と革命で商品経済が低迷し、穀物を売っても買う品物がない状態になっていたこともあり、穀物を売りに出そうとはしません。講和条約の締結がもたついていた間にウクライナその他の穀倉地帯がドイツ軍に占領された関係もあって、都市での食糧危機は深刻です。政府としては、とりわけ中央農業地帯とヴォルガ河流域から穀物を調達するしかありません。ところが、この両地域は農民革命の主舞台となった地帯でもあり、エスエル(社会革命党―引用者)の拠点でもありました。左翼エスエルは穀物調達の地方分権化や公定価格の引き上げによる解決策を提議しました。しかし、政府は『貧農委員会』の組織化、『穀物の貯えをかくす農村ブルジョアジーとの闘争』を指令し、『食糧徴発隊』を中央から大挙農村へと派遣してことに当たらせました。いわゆる『食糧独裁令』の施行です。左翼エスエルは『勤労者共和国の基礎をなす二つの勢力、すなわち勤労農民とプロレタリアートが相互にけしかけられる危険』を警告して断固反対しました。現に、食糧徴発隊と現地農民との武力衝突、農民叛乱が各地で起こりました」(二二一~二二二頁)。

こうした<強権の行使>を「階級闘争」と称して展開することをつうじ、ボリシェビキに外在化し、かれらとは独立したヘゲモニーをつくりだしていた農民革命勢力を、ボリシェビキは解体していったのである。

 

●食糧独裁令に対する左翼エスエルの闘い

 

廣松が展開した観点を参考にしつつ、ここでは左翼エスエルに内在した視点を見ることにする。左派ナロードニキであり、農民ソビエト議長マリア・スピリドーノワを最高指導者とする左翼エスエル(SR社会革命党)の、ボリシェビキとの闘いを見ることにしよう。(以下の年表は次の文献に準拠するものである。加藤一郎編『ナロードの革命党史――資料・左翼社会主義―革命家党』、鹿砦社、一九七五年、三〇九~三一〇頁、以下、「資料」とする。 注:この文献には左翼エスエル党の綱領(草案)が全文掲載されるなど、資料価値の高いものとなっている)。

【五・一三】食糧独裁令公布。

【五・一四】全ロシア執行委員会、モスクワ・ソビエト、労働組合と工場委員会代表者合同会議で、カムコーフ(左翼エスエル指導者)ボリシェビキの対外政策は「革命の漸次的圧殺」であると非難。

【六・一一】カレーリン(左翼エスエル)、全露中央執行委第一九回会議で貧農委員会の組織化を批判。

【六・一六】左翼エスエル党中央委員会決定「勤労農民層の不自然な階層分化に帰する有害な方策の実施にたいして、中央と地方で断乎とした形態で戦うことを、左翼エスエルとマクシマリストは声明する」が、左翼エスエル機関紙『ズナーミャー・トルダー』(勤労の旗)に掲載さる。(レーニン・ボリシェビキの「農民層の階級分化・両極分解」論の教条と、農民層に対する「クラーク」のレッテルに対する非難)

【六・二〇】左翼エスエル党中央委員会指令「全党組織は国外国内反革命との斗争のための武装義勇隊を党委員会付属として設立せよ」。党中央委員会付属全ロシア戦闘団総司令部設立。

【六・二四】左翼エスエル党中央委員会、ブレストリトフスク講和条約(三・三調印)による息つぎを即時終結させるためドイツ帝国主義の代表者に対してテロルを組織することを決定。

【六・二八~七・一】左翼エスエル第三回大会(モスクワ)、ブレスト講和、死刑の適用、国家行政の中央集権化に反対する決議採択。

【七・四~一〇】第五回全ロシア・ソビエト大会(ボリシェビキ七七三名、左翼エスエル三五三名など一一六四名)

  【七・六~七】左翼エスエル戦闘団のドイツ大使・ミルバッハ暗殺を合図に、左翼エスエル・モスクワ蜂起。

モスクワ蜂起はブレストリトフスク講和条約に反対し、対独徹底抗戦に突入することを目的とするものだったが、それはこれまで読んできたように、左翼エスエルとしては、ドイツ軍がウクライナをはじめとしたロシアの穀倉地帯を占領していることに対する闘いの呼びかけであり、ドイツと講和し農民から農産物を徴発しているボリシェビキに対する農民革命勢力による抵抗権の発動としての主張をもったものとしてあった。

この七月蜂起によって左翼エスエルは赤軍に鎮圧され非合法化されることとなった。なお、この七月蜂起に反対して結成された左翼エスエル内の二つの分派(ナロードニキ共産党、革命的共産主義者党)は、その後、ボリシェビキ党に入党している。

 

●スピリドーノワのボリシェビキ党弾劾演説
 

 ここでもう一度、左派ナロードニキの主張を、今度は、スピリドーノワ自身の言葉で確認しておきたい。

第五回全ロシアソビエト大会では一九一八年七月四日、スピリドーノワがボリシェビキに対する弾劾演説をおこなった。(引用は前掲「資料」、一七五頁以降の「演説」全文掲載からの抜粋)

「同志諸君! 中央執行委員会に設置されている農民部の活動に関して報告することを許していただきたい」。「この布告(食糧独裁令引用者)は、クラークにではなく広範な層の勤労農民にひどい打撃を与えている。もちろん、エスエル(右派のこと)がおしゃべりをしている。同志諸君!ボリシェビキ、農民諸君! マルクス主義の部厚い著作を手に取ってほしい。そうすれば、なぜ諸君たちに懲罰隊が派遣されているかわかるであろう(カウツキー・レーニンの「小ブル農民層のブルジョアジーとプロレタリアートへの両極分解・階級分解論」にほかならない引用者)。

  私は赤軍兵士隊が襲撃にきて、上からの命令で農村にパニックを持ち込み、余剰

穀物をとりあげているが、クラークから取り上げているのではないという確固とした事実を持っている。(騒ぎ)農村にはソビエトが組織されている。そのソビエトはよく編成されており、農村では誰のところにどういったものがあるかを知っている。

  だからわれわれが農民大会でも語っているように、ソビエトに事業を委任すべきなのである。農村は約九〇%を占める膨大な農民層と一握りのクラークからなっている。この農民群、勤労農民は賃労働によって生活しているわけではない。ツアーリはこの農民層の上に踵で立っていたのである。彼らは戦い。税を支払った。この勤労農民が、今、懲罰隊を向けられているのである。(中略) 農民に対する政策に関する問題では、われわれはあらゆる布告に対して戦闘をしかけるであろう。われわれは地方で闘う。だから地方の貧農委員会(「農業賃労働者」をまきこんで組織したボリシェビキ委員会引用者)は存在しえなくなろう」。「食糧独裁令は(ソビエトに対する引用者)解散権を与えているから、農民代表ソビエトはほぼ解散されるという脅威の下で生存しているようなものである」。

 「(ブレストリトフスク問題では)ボリシェビキ党は、降服に向かっており、すでに帝国主義にとらえられてしまっている。(中略)わが左翼エスエル党は、最後まで国際主義的でありつづけ、いかなる降服、いかなる和解にも応じないであろう。同志諸君!こうした方策によってのみ、階級闘争を先鋭化させ、革命をその論理的帰結にいたるまで推し進めるという方策によってのみ、人民、農民と労働者の階級的本能は最後まで充実したものとなり、その後、われわれは社会主義、平等、友愛、公平の未来王国を勝ち取ることができるであろう」。

スピリドーノワはこの演説で、人民委員会議から撤退したことに伴い、ボルシェビキだけになった農業人民委員部の指令として、農村コミューンには資金を出さず、国家による賃労働を復活させていることを批判、少数にすぎないクラークではなく農民を苦しめている食糧独裁令を批判し、国家による死刑の復活に対し「ブルジョアジーの階級闘争の道具」である「死刑」に反対するとした。

  左翼エスエルの七月モスクワ蜂起の基調的提起、意思統一の内容がここにあった。まさにドイツ軍の侵攻でどれだけの農民が打撃を受けているか、また食糧独裁令でどれだけの農村共同体が打撃を受けているか、左翼エスエルとしては、そういう国内外の農民抑圧に対する正義の蜂起、食糧独裁令とブレスト講和に対する抵抗権の発動、それがモスクワ七月蜂起の左翼エスエルが主張する意味であった。

 それは一九二一年三月クロンシュタット叛乱にいたる――旧帝政派の「白軍」諸潮流との闘いの他方で――ロシア革命派内部の党派闘争の本格的なはじまりを意味するものに他ならなかった。

 渡辺寛はレーニンの革命後の農業理論について『レーニンの農業理論』で、つぎのようにのべている。

「ここではごく簡単にその要点をのべておこう。十月革命を通して大土地所有者から土地を奪い取った農民は、そのなかから必然的に資本主義的両極分解の傾向を示すようになり、この傾向を客観的基礎として、農村でも階級闘争が展開され、やがて「農村における本当のプロレタリア革命」(……「農業問題についてのテーゼ原案」(一九二〇・六)……)がはじまる。この革命の重要な構成部分として、おもに富農にたいする穀物徴発を実施する――これがレーニンの戦時共産主義政策の基本的な考え方であったといってよいであろう。そしてこの考え方の基礎には、レーニンの経済学研究においてすでにすでに定式化されていた、現物経済→商品経済→資本主義経済の内生的発展を説く市場の理論があった。市場の理論によれば、農業においても工業と同じように商品経済はたえず生産者の両極分解を通して資本主義経済に転化するはずのものであった。そしてこのような理論にもとづいて、革命後ロシアの農村においても両極分解の傾向が進展していると主張したのである」(二三四頁)。

 

そういう論理のもとに、戦時共産主義期の下、食糧独裁という、農村に対する「赤色テロル」が吹き荒れたのである。これに対し、一九二一年、クロンシュタット叛乱をうけて政策転換した後の、ネップ期の経済政策では、農民にたいし戦時共産主義の「割当徴発」なるものから「食糧税」に転換し市場を復活させたのである。さらに、レーニン死後、スターリンの専制が開始されてゆく中で農業集団化へと展開してゆく。

 

●スターリンによる農業集団化

 

農業の集団化を組織するに至った工業化路線は、そもそも一九二〇年代においてトロツキー派経済学者のプレオブラジェンスキーが『新しい経済』(一九六〇年代、現代思潮社から翻訳書が出た)などを書き、そのなかで「社会主義的原始的蓄積」を提起し、社会主義の「労働者国家」における、農耕共同体経済などに影響力を持った(国有工業化に対して独自の)市場的経済調整力の解体、農民層の労働者化と工業化のための農業に対する不等価交換の政策を提唱したことを始まりとしている。そこでこの不等価交換による工業化路線を主張したプレオブラジェンスキーと、プレオブラジェンスキーの考えに反対し、消費財生産に従属した工業化と「農民的農業」の育成等々の観点を主張するブハーリンとの間で、論争となったものである(この問題をめぐっては、本書の続編で章を設ける予定)。当初、スターリンは、これに対し労農同盟の破壊だとしてブハーリンらとともにプレオブラジェンスキーに反対していたが、トロツキーを追放した後、この工業化路線の考え方を取り入れた。

ただし、プレオブラジェンスキーもトロツキーも、後述するようにスターリンがやったような強権的な農業集団化には反対していたことは、確認しておかなければならないだろう。

不等価交換の手法は「取引税」である。

「取引税」システムは、工業化のための不等価交換、間接税などから形成される。例えば国家の穀物調達組織が農民から買い取ったライ麦価格をその買い取り額の例えば四倍の金額で国営製粉所に売り、それで得た収入を工業化にまわす。この場合、買い取りには低価格が強制されたため、これが実質的に税の機能を果たしていた。

さらに農業の集団化はそれによって生成した過剰人口を工業労働に組織してゆくことになったのであり、それは、ボリシェビキの近代生産力主義・開発独裁としての工業化論においてはまさに、必然的な過程にほかならなかったのである。

こうした経緯のもとで、スターリンは一九三〇年代初頭、オプシチーナ、ミールの解体を強行したのであった。

渡辺寛はのべている。

「スターリンが粗暴な両極分解論に拠って、「階級としての富農の絶滅」を命令し、富農の生産手段(土地、生産用具)の集団農場への没収をすすめるにつれて、それは農村住民に恐るべき影響をもたらした。富農とみなされ土地を没収され追放されたもの、およそ五五〇万人の多くはシベリアに追放され」(渡辺『レーニンとスターリン』一九四頁以降)た。「富農と中農を区別することは実際には困難」であり、中農にも追放はおよび、中農は、自分たちの家畜を大量に殺処分して富農ではないということを表明せざるをえなかった。

 「三二年にはロシアの農地の七割は集団化され、穀物生産も二八年に対して二割以上の増加をみせた」。だがスターリンは、「三一年の集団化計画の完了とともに」第一次五カ年計画のなかで、富農とその支持者がコルホーズとソフホーズに紛れ込んでいるから、摘発せよとして、三〇年代における大テロルの時代、国内粛清の時代を展開していったのである。 ロシア農耕共同体を破壊した近代は、資本主義ではなくてボリシェビキだったのだ。