2022年9月18日日曜日

ウクライナ戦争をどう見るか                 渋谷要

 ウクライナ軍民の対ロシア徹底抗戦断固支持! 避難民を救援しよう!

ウクライナ戦争をどう見るか                                                                 渋谷要(社会思想史研究)


【解説】

「研究所テオリア」の新聞「テオリア」は、その2022年9月10日号で、渋谷要「ウクライナ戦争をどう見るか」を掲載した。約一か月前に、編集部の方より渋谷が依頼を受けた文章である。

発売日から一週間がたった今日(9月18日)、 ★書店などで、手に入らない方々が、多数おられると思うので、この「個人ブログ」で、アップします。

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当初、この文章は、ウクライナ戦争をめぐり、いろいろな考え方が、この日本国内で、さまざまに出てきていることに対し、本文を読んでお分かりのようにわたしは「ウクライナ徹底抗戦支持派」だが、むしろそうした主張の、考え方のその背景になにを「風景」としているかを、「論点」として書こうと思った。

こうした「反ファシズム人民戦線論」を書くのは、ぼくの人生で初めてだ。それは、いい。別に悪いわけではない。問題は、資本主義批判がそこで、いかに貫徹しているかどうかだ。

また新聞に掲載された後読んだ、「読後感」として各節間の、文の通りをよくする必要もある。そのため、「執筆後・読後」の「修正加筆」として、★★★「テオリア」に発表した文章に、★4か所★だけ、修正加筆をした★★★。

加筆をしたところは、「■……■」として、■でしめし、加筆したものを可視化している。量は多くない。

また★★★削除したところは【ない】★★★。

また以下の、★★★この「解説」で、三点、この文章への「注釈」★★★を加えることにする。

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以下はその「注釈」である。

(1)まず、前提の問題として、わたし(渋谷)は学生時代より、絶対平和主義者になったことはなく、「九条護憲論者」でもない。ただし右派改憲・右翼の九条改憲には断固反対という立場だ(拙著では『エコロジスト・ルージュ宣言』第二章「国家基本法と実体主義的社会観――自民党憲法改正草案の社会実在論と戦後民主主義憲法の社会唯名論」、社会評論社・2015年刊、参照)。そして天皇制廃止―人民主権・共和制建設と一体のものとして「全人民的民兵制度」の導入などを、かねてから主張してきた。今日でも、抵抗権・革命権などの自然権などの問題を積極的な社会変革要素として考えているものだ。その「民兵制度=実効的人民主権」論はマルクスが1871年のパリ・コミューンを総括した「フランスにおける内乱」で、「コミューンの原則」の一つとして「全人民武装」を明記したことからも明らかに、マルクス主義的根拠をもつものだ、と考える。この【前提をふまえ】、以下は、本論の論点での応接ということになる。

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本論文冒頭で、民衆・市民社会の「抵抗権・革命権」に触れた部分では、その自然権と間接した「国家緊急権」と、其れに関する政治問題である、エルンスト・カッシーラーが提起した「ジャンジャック・ルソー」問題が、論じられていない。

これは、著者・渋谷が、文章の論理構成を、難しくしたくなかったという理由からである。が、ウクライナ戦争でいうなら、「国家緊急権」は、現在、大統領が発動している戦争体制に関する国家の自衛・防衛のための自然権の発動である。そして、ウクライナ戦争で言うなら「ジャンジャック・ルソー問題」は、大統領が発動している動員令「18歳から60歳までの男子は出国禁止」である。つまり「社会契約によって守られてきた市民は、国家が危急の時、死なねばならない(主権者は団結し運命をもとにして戦え)」という問題だ。まさにルソーは「社会契約は契約当事者の生命維持を目的とするものである。……市民は府が危険に身をさらすよう要求するとき、もはやこの危険を云々する立場にはない。執政体が『お前が死ぬのは、国家のためになる』といえば、市民は死ななければならない。それまで彼が安全に生活してきたのは、そういう条件下においてのみであり、その生命はもはや単に自然の恵みではなく、国家の条件つきの贈り物であるからである」と述べている(『社会契約論』井上幸治訳、中公文庫、48頁)。つまり平時に守られる個人の生命は、戦時には、国家を守るためには、生命を賭して闘えとなる。この両義性が、問題になると、カッシーラーはいう。この問題では、拙著『国家とマルチチュード』第一部第一章「近代国家と主権形態」第五節「ルソー民主主義社会契約論の二重性」(社会評論社、2006年刊)。この問題はウクライナ徹底抗戦のように「侵略軍に対する徹底抗戦で市民社会をまもる」という郷土防衛戦争であるかぎり、また、ベトナム・インドシナ革命戦争においてもそうだったように、この両義性は、内容的には、【それらの場合においては】対立するものではないと、私は考える。だから侵略した国の人民は、「祖国敗北主義=自国帝国主義打倒」で、闘おうとなるのではないか。

(2)本論第五節「スターリン主義の影――「強制移住」政策=「民族」解体」では、執筆後・製品読後の修正加筆として次のようなデータをアップすることで、論説内容を強化したいと考える。

 3月25日にアップした『赤いエコロジスト』の「 ソ連スターリン主義を継承するロシア帝国主義戦争国家のウクライナ侵略戦争・「最初」の一ヶ月――ウクライナ人民( ―軍・民)のレジスタンスを支持し、難民を救援しよう」には、「注解」として「スターリン主義の敵対民族「強制移住」政策について」というデータ分析を展開している。このデータは本論で、紹介・引用しているクルトワ、ヴェルトの『共産主義黒書――犯罪・テロル・抑圧――ソ連編』からの引用だ。

そこでは、次のようなデータを書いている。

「さらに第二次大戦期、大規模なソ連邦内の諸民族に対する強制移住が行われた。「ナチス占領軍に集団協力」したという理由での政策であった。一九四三年から一九四四年にかけて、「チェチェン人、イングーシ人、クリミア-タタール人、カラチャイ人、バルカル人、カルムイク人の六民族がシベリア、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギスへ」。さらに「ギリシア人、ブルガリア人、クリミアのアルメニア人、メスヘティア-トルコ人〔グルジア南部のトルコとの国境に近く住むイスラム化したグルジア人〕、クルド人〔旧ソ連ではアゼルバイジャンとアルメニアに多く住んでいた〕、カフカスのヘムシン人〔十八世紀にイスラム化したアルメニア人〕」が強制移住させられた。

こうした移住政策は、スターリン主義権力にとって、その中央権力に対して自立化しようとする民族を解体しようとする意図をもっていた」。

以上を、追加のデータとして表明する。

(3)本論の「反ファシズム戦争」と左翼革命運動との関係であるが。この「反ファシズム人民戦線」という「構図」では、一つの宿題があると、私は考えている。

1930年代、ファシストに対し人民戦争を闘った「スペイン・マルクス主義統一労働者党」(POUM――ジョージ・オウェル『カタロニア讃歌』で有名なグループだ)は、「スパニッシュ・レボリューション」という機関紙(の1937年2月17日号)で、「前線では戦争を、後方には社会主義革命を」(「労働者の革命軍のために――POUM中央委員会の軍事決議」)と表明している(『マルクス主義軍事論≪現代編≫増補版』、革命軍事論研究会編、鹿砦社、1973年)。

 これは、反ファシズム戦争からプロレタリア革命への脈絡をつけようとするものと考えるが、それは、前線では、ファシストと闘うブルジョアジーの民主主義勢力と共闘し、後方では、ブルジョアジーの民主主義勢力の経済的な生命線を破壊する(例えば、生産の直接労働者による奪取=「集産化」――簡単に言うと「国有化」に類似した概念だ――など)ということになる可能性がある。ファシストと決戦を闘っている以上、それは、反ファシスト勢力の分裂につながる可能性がある。少なくともブルジョア民主主義者は不安だろう。だからスターリニストなどPOUMをよく思わない部分からは「POUMはファシストのスパイだ」といわれる口実になった可能性があると考えていいだろう。この問題の解決は、少なくとも実践的には「宿題」として残されていると考える。 

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ウクライナ戦争をどう見るか

              渋谷要(社会思想史研究)

はじめに

224日、ロシア全体主義はウクライナへの侵略戦争を開始した。欧米日帝国主義に対し、ロシアは、ウクライナをロシア「勢力圏」の一部として確保せんとしてきた。それが「ウクライナのNATO加盟」によって破壊されるという言説、これがプーチンのウクライナ侵攻の「正当化」の筋書きだ。

そうした中、私は510日(2022年)付の『テオリア』(116号)で、「『ウクライナ戦争』にどう向き合うか」という座談会を読んだ。私は白川真澄さんが、ロシアが「占領地域では住民を無差別に虐殺している現実のなかで、ウクライナの市民が武器をとって抵抗しているのは当然で、この抵抗は私は支持する」とのべていることに、同意する。近代の市民社会(市民)には、「抵抗権・革命権」という自然権がある。それは「民主主義法秩序」が例えばファシストや侵略軍に破壊されたとき、その「民主主義法秩序」を「回復」させるために戦う権利である。(※これは私の「注釈」だがそれを「愛国主義」というか言わないかは、自由だ。またその「愛国」という意味合いも欧州民主主義的な「個人・市民社会を国家の上位に置く」もの(社会契約としての国家)と、全体主義の「国家という実体があってこその人間だという国家有機体主義」では、全く違ってくる)。

ただその直後、白川さんのウクライナの「左翼」が「政府軍と一体になって戦うことにはディレンマが生ずる」との発言については、そうなんだろうけども、一方で異なった感想も持った。今は、市民と政府軍の一体的な団結が必要だ。左翼がそこで、いろんな人々をオルグすることが必要な時期だと思う。その場合一般論としてだが、オルグでは軍隊と住民が、信頼に値するような活動を左翼がつくりあげていくことが、重要だ。以上が、本論のとっかかりの問題意識だ。

(1)近代日本では特異の「反ファッショ」「反侵略」陣営入り

まず日本の問題を書いておこう。日本の反戦平和の運動では、ウクライナ徹底抗戦に支持を表明する人々と「NATO拡大」などの西側帝国主義のロシアへの軍事挑発や「米ロ代理戦争」という観点などを主眼とする人々に大きく分岐していると思う。私は次のような観点を、介在させる必要があるのではないかと考える。

 日本帝国主義がロシア全体主義を糾弾しているという事態。それは、「日本帝国主義」が<帝国主義国家として>、世界的な戦争で、左翼用語的には「国際反ファシズム統一戦線」の側に、あるいは「反侵略」の側に参加しているという事態である。「反ファシズム戦争」という軸を簡単に言うと「欧米のブルジョア民主主義(の帝国主義国)」と全体主義との戦争だということだ(※ここでいう「帝国主義」とは「資本主義の最高の段階としての帝国主義」というマルクス経済学の規定に基づく)。

 例えば、日本帝国主義は、1920年代、国際的なファシズム潮流が形成され始めると同時に中国全面侵略、ナチス・ドイツなどとのファシズムの「枢軸国=三国軍事同盟」などを結んできた。例えば、それは、「侵略国と被侵略国の区別を付けず『中立』であるとして、戦争は『両方悪い』ということであるのならば、そもそも第二次世界大戦でのナチス・ドイツの侵略や日本の戦争責任についてもすべて免罪することになりかねず、戦後秩序の根幹が崩れます」と、慶応大学の細谷雄一教授がいっているように戦後世界の根幹にかかわる構図である(ハフポスト日本版227250813)。それが国際反ファシズムの「国際連合」の世界の常識だ。

 戦後日本は、アメリカ帝国主義のベトナム侵略戦争、さらに東西冷戦終結後は9・11テロに対する「自衛権」の行使としてアフガにスタン・イラク侵略戦争など、合衆国の動きに追随してきた。だが今回は、日本が同じく合衆国に追随することで、国際反ファッショ・あるいは反侵略の国家の側に入った、ということだ。これは歴史的に特異な例である。そこに今回のウクライナ戦争での一つのポイントがある。

なお、この場合のファシズム及び全体主義の定義だが、ハンナ・アレント『全体主義の起原』(1951年刊行開始)では階級闘争の解体⇔民主主義的な市民社会の解体→労働者階級の階級としての解体→個人(アトム)化→専制国家への個人の統合という脈絡が重要だと指摘している。これについて拙著では「階級解体と全体主義」『資本主義批判の政治経済学』第二部第三章/社会評論社、参照のこと(他にトロツキー「次は何か」(1930年)、コミンテルン第七回大会のディミトロフ・テーゼなど。人民戦線については、ジャン・プラデル『スペインに武器を 1936』、 ダニエル・ゲラン『人民戦線―革命の破産』、ジョージ・オウエル『カタロニア讃歌』など参照を)。

(2)ブルジョア民主主義の「両義性」

■全体主義ーファシズムの定義を確認したことをふまえて、「反ファシズム戦争」ということをもう少し考えていこう。■

アメリカ合衆国には、その国民国家の物語がある。自らは、■アメリカ独立革命に勝利した後■、合衆国南部の奴隷制と闘い、20世紀には、ナチスドイツや大日本帝国の「枢軸国」ファシズムと闘い(連合国=国際連合)、共産主義(実はスターリン主義だが)との「東西冷戦」を闘い、そして、イスラム過激派と闘たかってきた(対テロ戦争)、今はロシア・中国の「専制主義」と闘っているという、総じて全体主義との闘いで「自由と民主主義」を守ってきたという物語だ。

そうした「反ファシズム」史観は、私の立場から言えば、西側世界の「国家共同幻想」であり、その「自由と民主主義」は、ブルジョア・アトミズム=競争原理に基づく自由主義であって、そのもとで人種差別と格差社会が拡大固定化し、国際的には多国籍企業を中心としたアメリカン・グローバリゼーションと「アメリカの戦争」が展開してきたのである。だが、それは、「全体主義」との闘いを労働者人民が進めるうえで、決して不利益なものばかりであったわけではない。例えば「1930年代の反ファシズム人民戦線」などにおいては、レジスタンス闘争などで優位に働いた「側面」があるということも、確認しなければならない。そういう「両義性」をもってきたのだ。

■例えば「第二次世界戦争」は、「民主主義ー対ーファシズム」の戦いだったといわれる。だがその「民主主義」はあくまでも、自らの資本主義「勢力圏・権益」の利害貫徹をめざしたもので、その本質においてファシズム帝国主義との「帝国主義間戦争」だった。まさに、そうした「両義性」である。■

 その「両義性」に対しては、マルクス主義の反戦闘争論の主体性を立てれば、「侵略された国」の人民解放・民族独立闘争(祖国防衛戦争)と、「侵略した国」の祖国敗北主義のための闘いの連帯ということ、になるだろう。■その場合、植民地を争奪する二つの帝国主義ブロックの争い、国境線で対峙する資本主義間の戦争(相互侵略戦争)等では、両交戦国の反戦運動は、「祖国敗北主義―自国戦争政府の打倒」という原則で闘うことになる。■

(3)国際連合―「国際社会」の矛盾と欧州議会・2019年「重要な記憶」の決議

その場合戦後の「国際秩序」である「国連」には大きな矛盾があった。それが、ファシズム「枢軸国」を打倒した関係で、安保理・常任理事国の中の2国が、スターリン主義に起因する全体主義のロシアと中国としてあるという問題だ。ロシアのプーチンの権力は、1999年以降のイスラム派・対ロ独立勢力を殲滅する戦争(第二次チェチェン紛争)以降、プーチンらは戦争放火をやりはじめた。それが20032004年にかけての「バラ革命」(ジョージア)、「オレンジ革命」(ウクライナ)の民主化運動の進捗と、それにともなうNATOなどへの加盟の動きに対する、クレムリンの対抗という事態にほかならない。クレムリンは、2008年ロシア・グルジア(ジョージア)戦争(ロシア軍の侵攻とグルジア領内での国境線の変更=二つの「独立」地域の承認)へと踏み込み、2015年シリア・アサド政権の要請で内戦介入や、2014年以降のロシアへのクリミアに対する暴力的併合、およびウクライナの東部(ドネツク、ルガンスク両州)の実効支配とそれらの「人民共和国」の「独立」の承認という政治過程を描いてきたのである。これらによって、脅威を覚えたウクライナ、スウェーデン、フィンランドなどロシア周辺諸国は、NATOへの加盟のベクトルを選択することとなった。

ロシアは「連合国」なのか?そこで、全体主義の「定義」という問題になる。それは、ハンナ・アレントの『全体主義の起原』に準拠しているように、私には思われる。「全体主義」に、ナチだけでなくそれと同等なものとしてソ連スターリン主義を同置させている。これは決定的に重要だ。まさにそれが「欧州議会」において、20199月、決議された、「欧州の未来に向けた重要な欧州の記憶」という決議である。そこでは「Stalinist,Nazi,and other ictatorships」という全体主義が、断罪の対象となっている。バイデン大統領の「専制主義対民主主義」というフレーズも、これに準拠した考え方だろう。ではプーチンとスターリン主義との関係は如何に。

(4)スターリン主義の影――「強制移住」政策=「民族」解体

プーチン自身がかつて東独ドレスデン・KGB(ソ連国家保安委員会)支部の官僚だった。その全体主義の問題では、ウクライナ侵略戦争での「強制移住」の問題がある。それは<スターリン主義の影>という問題だ。以下に見てゆくようにスターリンの「民族理論」→強制移住で民族を解体するということだ。

まず官僚体制継続の問題から入ろう。1989年以降のソ連スターリン主義体制において、「党の独裁」としてあったノーメンクラツーラ体制は解体した。だが、軍事・警察官僚組織(KGB系列など)はのこった。そして「プーチンの統治で最大の謎の一つは、政権をサンクト派で固めてしまったことだ。…権力層の研究で知られるオリガ・クリシュタノフスカヤは、「プーチンの大統領二期目が終わる08年までに権力中枢ポストの八割以上はプーチンの息のかかったサンクト派や旧KGB人脈で占められた」と分析した」(名越健郎『独裁者プーチン』文春新書、2012年)。そのサンクト派には「シロビキ」といわれるKGB出身グループの「武闘派」が存在し、大統領府長官、連邦麻薬取締兆長官、安保会議書記などの要職を占めてきた。KGBはソ連解体以降、名称を変えながら1995年以降FSB(ロシア連邦保安庁)となって、民主派・改革派に対する弾圧を組織してきたといわれる。

そのスターリン主義と同様の手法は、ウクライナ戦争では、「強制移住」の施策に端的に表れている。ウクライナ侵略戦争を開始したクレムリンは、この約半年間で百数十万人(ウクライナの人口約4300万人)におよぶ、ウクライナ民衆をロシア国内(シベリアなど)に強制移住・連行している。また、東部や南部の占領地帯では、収容所施設をつくり、親ロシア派住民かどうかの選別などを行っているとの報道がある。これには、スターリン民族理論の強い影響があるのは明らかだ。

 スターリンによれば「民族とは、言語、地域、経済生活、および文化の共通性のうちにあらわれる心理状態の共通性を基礎として生じたところの、歴史的に構成された、人々の堅固な共同体である」。そしてこの「すべての特徴が同時に存在する場合に、はじめて民族があたえられるのである」というものだ(スターリン『マルクス主義と民族問題』、原著1913年、引用は国民文庫、50~51頁)。

この規定は、「大ロシア主義」をかかげるプーチンにすれば、大ロシアが、いくつもの国家に分かれているのはおかしい、小ロシア=ウクライナは、クレムリンの「勢力圏」だ、ということに、口実をあたえるものだ。さらに、クレムリンに敵対するウクライナ民族を解体しようとした場合(焦土作戦とつらなる)、「強制移住政策」は、ウクライナの「民族」としての解体とウクライナのロシア化に効果を発揮するものとなるだろう。(※ステファヌ・クルトワ、二コラ・ヴェルト『共産主義黒書――犯罪・テロル・抑圧――<ソ連編>』(外川継男訳、惠雅堂出版、2001年、原書1997年)の「第七章 強制的集団化とクラーク撲滅」「第八章 大飢饉」などでは、その「強制移住」の強権的なファシスト的やり口が、暴露されている)。1930年代、ウクライナなどでの農業集団化における、いわゆる「クラーク(富農)撲滅政策」は、例えば、次のようだ。

「膨大な数のクラーク(これにはクラーク(富農)より圧倒的に多い数の一般農民などが含まれている――引用者・渋谷)の強制移住は、完全な即興とアナーキーの中で行われた。それは前代未聞の『強制移住=棄民』となって、政治にとって経済的になんらプラスにはならなかった。……クラークの強制移住は1930年2月の第一週からはじまった。政治局によって承認された計画では、第一段階で六万家族の移住が四月には終わっていなければならなかった。北方地域で四五〇〇〇、ウラルで一五〇〇〇家族を受け入れることになっていた」。「このように強制移住者は予備の食糧もなしに、多くの場合には仮寝の小屋すらないしに、定住することを余儀なくされた」等々だ。こうした支配方法をクレムリンは今も継続している。

(5)ロシアはウクライナから撤退せよ――戦争性格の変化にも留意を

プーチンにとってその「大ロシア主義」においては、レーニンが「分離の自由」に基づく民族自決権によってウクライナを連邦構成共和国として認めたこと自体が間違いであったという。これに対しスターリンの敵対民族消滅政策をプーチン自らが駆使しつつ、スターリンのようにクレムリンへの国家中央集権主義に基づく大ロシア主義を表明しているのだ。

(※この問題はそもそも、ロシア革命時の、アナーキストのウクライナ・マフノ反乱軍とボリシェビキとの闘いという問題を一つの源流としている。「ウクライナをクレムリンから解放せよ」ということだ。アルシーノフ『マフノ反乱軍史』、鹿砦社刊、1973年など参照)。

「ウクライナ戦争」は、ロシアのウクライナ侵略戦争―対―ウクライナ軍民の徹底抗戦という構図で推移している。すでに、ロシアの側は「核兵器使用」の恫喝も、開戦直後にやっている。反面、戦局の変化とともに、相互侵略戦争の様相へと転変する可能性も否定できないことは対自化すべきだ。そうしたことをも対象化しつつ、「ウクライナ軍民の対ロシア徹底抗戦断固支持! 避難民を救援しよう!」という声をあげていこうではないか。もちろん、この戦争を契機に組織されている日本の軍拡にはストップを!

(しぶや・かなめ 1955年生まれ、元・季刊「クライシス」編集委員(1984年第三期~1990年終刊))◆

2022年9月5日月曜日

ノート:コロナパンデミックとグローバリズム……「本論」部分再アップ 渋谷要


ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム…「本論」部分再アップ

                               渋谷要

【解説】本年二月にアップした、「ノート:コロナパンデミックとグローバリズム」の、「本論」部分を、再アップします。コロナ感染の【パンデミックとしての】終息が見えない中、帝国主義グローバリズムとの関連で、コロナ感染という事態をとらえ返す。そのことを通じて、グローバリズムがもたらす様々な諸結果を、自分たちの身近な問題として把握する視点が、必要であると考えます。

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 ●ノート:コロナパンデミックとグローバリズム

【第一節】パンデミックの発生と二〇二二年冒頭の経済状態の概観

●新型コロナ・パンデミックの発生

 二〇二〇年一月三〇日、WHOのテドロス事務局長は、「新型コロナはPHEIC(国際緊急事態)を構成する」との声明を発表した。

 IHR(国際保健規則)第一条(定義)は、「PHEICの基準として(1)疾病の国際的拡大ににより他国に公衆衛生リスクをもたらすと認められる事態(2)潜在的に国際的対策の調整が必要な事態」である。二〇二〇年二月一一日、WHOは、新型コロナウイルスの正式名称を「COVID・19」(コ―ヴィッド・ナインティーン)――ハイフン・が正式表記だ――と発表した。これが、一か月ほどで「コロナ・パンデミック」と呼ばれる(WHO三月一一日表明)ようになる最初の経緯だ。

 この感染症を「原因不明の肺炎」として、最も早く公式に認めたのは、二〇一九年一二月ごろ、WHOと中国政府によるものだった。地域は中国の武漢市だった。一二月中には、武漢の専門家チームが、調査を開始する。そして、二〇二〇年一月、肺炎患者から新型コロナウイルスを検出、中国国営メディアが報道した。この一月、武漢での死亡例が発表された。全世界に感染は拡大し、パンデミックがはじまった。日本でも、この月、感染が確認されている。この発生源は、まだ特定されていない(二〇二二年二月現在)。

 このパンデミックの定義を専門家の説明で確認しておこう。典型例は「スペイン・インフルエンザ」だ。この感染症に関しては本論においても、何度か触れることになる。 

「特定の地域で限定的に流行するのがエンデミック(地域流行)です。…これがもう少し広がって、特定の社会・共同体で短期間に予測を越えた感染の流行が起こっている状態がエピデミック(流行)です。そのような感染の急激な発生をアウトブレイク(集団発生)といいます。エピデミックは、ときには、突然、国や地域を越えて感染が広がることもあります。ただし、その広がりは一時的です。……SARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)はこの例です。エピデミックからパンデミックになりかけたところで感染が止まりました。これに対して、流行が国や大陸を越えて世界的に大きく広がったものがパンデミック(世界的大流行:パンはすべてという意味です)です。その典型例が一九一八年に起こったスペイン風邪です。世界の約三分の一の人が感染し、約五〇〇〇万人の死者が出ました。鳥インフルエンザウイルス由来のインフルエンザウイルスHINI型が病原体でした。パンデミックを起こす病原体は、動物からヒトに、さらにヒトからヒトに感染するような変異をした、ヒトが経験したことのない新しいものです。このために、われわれのからだの免疫系がすばやく反応を起こすことができず、特に最初の感染をうまく防げないことがしばしばです。その間に感染が広がり、病原性の高い病原体の場合には重篤な結果をもたらすのです」(宮坂昌之『新型コロナ 7つの謎』、講談社ブルーバックス、二〇二〇年、一七~一八頁。以下、宮坂本とする)、ということだ。

●パンデミックと産業・商業変動の現実(二〇二二年二月)

  新型コロナ・パンデミックとその被害などの最終の規模・数字的データは、あきらかではない(二〇二二年二月現在)。故に、本論では、数字表現は、可能な限り自粛する方針である。だが必要だと考えられるものは論述する。現在(二〇二二年二月)の時点では、二月九日(日本時間)に、米ジョンズホプキンス大学の集計で、感染者が四億人を越えたとの発表があった。合衆国は7700万人で最多。インドが四二三〇万人、ブラジル二六七〇万人、フランス二一一〇万人、イギリス一八〇〇万人(すべて約数)などとなっている。この一月七日の集計で三億人をこえたばかりだ。「オミクロン株」の感染力の表現でもある。それでも、今年にはいって欧米は感染者数は減少傾向にあるといわれている。こうした状況を注視していく必要がある。

 コロナ禍のパンデミック(世界的大流行)が発生して約一年後、二〇二一年二月二六日、ジェトロ(日本貿易振興機構)は、ジェトロで実施した「二〇二〇年度 日本企業の海外事業展開に関するアンケート調査」を公表した(JETRO電子版)。そのトップにある見出しが「新型コロナによる日本企業の海外売上高への影響、色濃く」という見出しでのデータだ。

 「本調査では、新型コロナの拡大が自社ビジネスに与える影響を尋ねた。新型コロナの拡大による二〇二〇年度の売上高への影響について、海外向けにビジネスを行う企業の六四・八%が、海外での売上高に「マイナスの影響(がある)」と回答した。二〇二〇年度の海外売上高への影響について業種別にみると、主要国市場の低迷から「自動車・同部品/その他輸送機器」でマイナスの影響を受ける企業の割合が高い結果となった。他方で、需要が底堅い「飲食料品」では、プラスの影響があるとの回答が一三・九%と相対的に高い」。

「それでは、どのような面にマイナスの影響を与えたのか。マイナスの影響の最大の内容として、国内、国外いずれも七〇%超の企業が「販売」を挙げた。特に海外での販売面での具体的なマイナス影響としては、『ロックダウン』を挙げる企業が目立つ。日本国内よりも厳格なロックダウン(都市封鎖――その地域での商業・産業活動の規制……引用者・渋谷)や、渡航制限の影響が強く出たものとみられる。具体的なコメントとして、ロックダウンによる『取引先の休業』(印刷・同関連、中小企業)、『商談の中断』(プラスチック製品、中小企業)、『店舗休業』(商社・卸売り、大企業)などの声が寄せられた。ロックダウンによる現地需要の低下が、日本からの輸出減少、さらには日本企業の売り上げ減少につながった」。

 こうした傾向は、二〇二一年度もつづいている。コロナ禍の半導体不足なども懸念材料の一つだ。半導体を必要とする業種、たとえば自動車の減産も深刻化している。

 さらに、感染の急拡大に対する「緊急事態宣言」や「まん蔓延防止等緊急措置」などで、そのたびに、お店の協業や短縮、酒類の提供停止や自粛を余儀なくされてきた「飲食業」などは、極端な減収においこまれており、閉店するお店も続出している。もちろん、観光業などは大打撃だ。他方で、家電メーカーなど、いわゆる「自粛での巣籠需要」で営業成績をのばしている業種もあるが、総体的に経済活動の縮小は基調的なベクトルとなっている。労働者階級の状態では、日本の労働者階級で約四割をしめる(総務省「労働力調査(詳細集計)」などによる)といわれる非正規雇用労働者をはじめ、商業・産業の縮小と同時に、雇止め―解雇などが横行しており、失業者増大・生活困窮・貧富格差が拡大している。

 感染の拡大で、生活苦が、子育て世代の親と子供や老人世帯などを直撃している。例えば、保育所や学校でのクラスターとかは言うに及ばず、例えば保育所が休みになり、親が働いていて、子供の面倒を見られない状況となり、親が仕事を休むしかなくなるとか、失業するとか、いろいろなことが起こっている。これに対し「子供食堂」など、いろいろな相互扶助がなされている。さらに、エッセンシャル・ワーカーが感染すれば、社会の基本的な機能が阻害される。エッセンシャル・ワーカーとは医療労働者、介護・福祉の労働者、運送・物流の労働者、スーパー・コンビニなどの労働者、電気・水道・ガス・通信・ごみ収集などに従事する労働者、農・漁業者などである。政府はいろいろな「給付金・助成金」制度の申請を簡略化して政策を立案・執行してきたが、その額だけでは、どうにもならないのが実情だ。それが、一般的な見方だと、本論論者としては、考える。もっと構造的な改革と仕組みが必要だろう。それらの現状は、例えば少なくとも、メディアでも報道していることだ。

 ●医療法「改正」での病床削減問題

 こうした状況に加え、コロナとの闘いの最前線では、とんでもない逆行まさに反動が、政府権力者たちなどの支配勢力によってくわえられている、日本では、特に21世紀に入り、本格的な医療削減計画が展開してきた。新自由主義の弊害だ。

 2021年通常国会では、「医療制度改定一括法案――医療法等改定案」が、自民・公明・維新・国民民主の賛成で国会を通過した。この法制は、病院機能の削減を目的とする「地域医療構想」なるものの延長に、それを推進するシステムとして制定されたものにほかならない。

 すでにリスト化している公立・公的病院の400以上の施設のリスト化をふまえ、「改正」医療法体制では、病院に消費税財源から病床削減に対する給付金を支払う。100%連日空きあるベッドがない病院を病症稼働率100%として、単価一床あたり、50%の病院には114万円、90%の病院には、228万円を給付する。この前提条件は、稼働している病棟の病床の10%以上の削減を前提とするというものだ。また、病院の統廃合を規定。

  労基法36条にもとづく、36協定に関しては、一般的には残業時間の上限は年360時間(繁忙期など、それ以上働く必要から「特別条項付き36協定」があるが法定休日労働を除き年720時間とされている。また、月45時間を超えた時間外労働が許されるのは年6か月)とされているが、診療従事の医師は年960時間、地域医療診療確保の機関を特定したうえで、年1860時間とすると規定するなどとしている。また、医師の仕事を放射線技師などに割り振るなどで、医師不足を弥縫しようとしている。

 また、この一括法案では、患者には75歳以上の医療費窓口負担の、原則1割負担を2割に引き上げることが可決された(「健康保険法等一部改正法案」)。 

 そもそも、この間、コロナ感染対応で、日本の保健所の数が問題となってきているが、1992年には800以上(これがピークといわれている)あったものが、2020年には500か所を切っているといわれている。病院施設・研究施設・マンパワーが総じて削減されているのだ。そうした中で、政府によるコロナ対策の不備と無責任が、国会でも指摘されてきたのである。

 (※ 以上、企業関連、労働者雇用・生活関連に関する、これらの数字的表記については、現在進行中のことでもあり本論では不記とする)。

●ワクチン格差の問題

 ここで、発展途上国などへのワクチン供給問題について、触れておこう。ここでは、経済問題としての側面を中心に言及する。

(※本論論者・渋谷は、いわゆる「反ワクチン」論者ではない。だが、「ワクチンの義務化」には反対する。各人のいろいろな医療的事情を考えれば、それは「必要とする人々」に、というフレーズが、妥当性を持っていると考えるものである。現行の日本における「予防接種法」も、そういう趣旨だと考える。この点、確認しておく)。

 WTOでは、ワクチン・製薬などに関して、TRIPS協定というものに基づき、知的財産権の保護に関する制度の順守を規定している。その場合、とりわけ特許権が重要なものとなる。これにより、一定期間、製品の独占生産・販売などが約束される。しかし、先進国には販売されても発展途上国などには行き渡らないことが問題になってきた。コロナ・ワクチンもその例に漏れないことになった。そこで、南アフリカとインドが「ウェイバー提案」というものを二〇二〇年六月におこなったのである。

 「ウェイバー提案」は、知的財産権の保護の「一時放棄」、先進国のワクチン独占の解除をもとめるものだった。これに対して、EU、イギリスをはじめ先進国は軒並み、反対してきた。これに対し、途上国六〇以上が賛成するとともに、合衆国、中国、ロシアなど、ワクチンの開発・生産が完成した国家は賛成している(二〇二二年二月現在)。これは、「ワクチン外交」のためにほかならない。米・中の間での貿易競争の一端がここにもあらわれている。

 またワクチンの「ウェイバー提案」にたいしては、世界中で製品生産が認められれば、ワクチンを製造する原材料が不足してくるというリスクを懸念する見解がある。それは、確かにあるだろう。だが、発展途上国へのワクチン供給の低迷は、それらの地域での感染を拡大するため、労働力不足や、事業所の生産ラインの減速を結果する。これは例えば、先進国に必要な生産材(中間財)の生産が減速する・入らなくなるということだ。結果、先進国の生産が低迷し、経済的なダメージが経済全体に構造化していく。だから、ワクチンの特許権を免除せよという主張は、経済的な効率性から言っても、こういってよければ、資本主義的な妥当性をもっているのではないか。

  だが他方で、特許独占権をパンデミック中は、ワクチンを開発した大手製薬会社が「一時放棄」すると宣言したとしても、世界中で、開発・生産の設備整備を、どのように展開するのか。ここには、先進資本主義国の生産諸力が、各個の企業の競争力(資本間競争)に規定されているという問題があるだろう。一言でいうなら、「特許独占」も、「一時放棄」も、資本間競争に圧倒的に有利な巨大製薬会社・多国籍製薬企業が、広い市場を形成してゆくということである。

 端的に言うなら「特許独占を一時放棄」をしても、多国籍製薬企業が作り出した・あるいは流通させるワクチンは、どこに売られるかわからない。一番、利益が上がるところに売られていくだろう。それが資本主義だ。結局、ここにもコロナ禍が生産のグローバリズムに負の影響を与えているばかりでなく、そのしわ寄せが、グローバル・サウスに押し付けられているという、世界資本主義の構造的な問題が表出しているということだ。

 こうした問題は、スペイン・インフルエンザ(一九一八~二一年ごろ)の分析においても、以下のような記述がみられる南北問題として存在してきた。

 「留保付きであるが、朝鮮では、スペイン・インフルエンザによる死亡率がかなり高かったと言えるだろう。これは、朝鮮が流行期に寒冷であり、貧困な者はオンドルの燃料にも事欠いていたほどで、罹患者・死亡者が多かったに違いない。また、内地人と比べて、治療・入院などの措置は、朝鮮人には十分でなかっただろうから、この点でも被害を大きくさせた。目の前で日本人は厚遇され、朝鮮人に死者が続出する状景は、三・一運動として、朝鮮の人びとが、大正八(一九一九)年三月に蜂起した(「三・一独立運動」……大日本帝国の朝鮮総督府を執政機関とする植民地主義支配は「韓国併合」といわれているが、一九一〇~一九四五年に及んだ、そういう支配からの民族自決の闘いの一つ――引用者・渋谷)ことの一つの前提となったと考えられないだろうか」(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店、二〇〇六年、四〇四~四〇五頁)。

 まさに、今日的にも経済格差や、政治的抑圧――被抑圧という問題が、コロナ禍で、顕現している。だからパンデミックは帝国主義の問題と相乗「効果」をつくりだして、拡大しているのだ。

【第二節】感染症とグローバリズムによる環境破壊

●産業・都市の様態と感染症

 感染症の拡大については、まず、産業と都市の構造との関係で、石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫、平成30年・2018年)で、次のような論述がある。

「インフルエンザウイルスは、HIVと同じRNAウイルスに属し、哺乳類が一〇〇万年かかる進化を、一年でやってのけるほど変異が激しい。たえず変異を繰り返すので、ワクチンをつくっても完成するころには姿を変えていて、効かないことがしばしばある」(二二〇~二二一頁)。(※RNAウイルスの変異については、本論では第三節で述べている)。

  こうした感染症を防ぐ基本は「接触しないこと」である。そして感染症の拡大は「密集・密接・密閉」などによる、この「接触」の強力な広がりにある。

「以前から存在した鳥インフルエンザウイルスが、なぜ近年になってこれほどまでに猛威を振るいはじめたのだろうか。カート・バンデグリフとら米国カリフォルニア大学サンタクルーズ校のグループは、地球環境の変化が影響したとみている。地質保全の国際機関、ラムサール条約事務局は。農地転換や開発によって過去半世紀に世界の湿地の五〇パーセントが失われたと発表している。カリフォルニア州ではこれまでに、湿地の九〇%を失った。日本でも五〇%が消失した。この結果、カモなど水禽類の越冬地は狭められて過密になっている。……以前に比べてカモのウイルス感染の機会が格段に増えたという。空気感染で広がるインフルエンザウイルスは、人口過密の高い「都市」に適応したウイルスだ。過去の大発生をみても、古代ギリシャ・ローマ、サンクトペテルブルグ(帝政ロシアー引用者・渋谷)、ニューヨーク、東京といった大都市で大発生した。そして、軍隊、工場、学校など人の集まる場所が、ウイルスの温床になってきた。人の密度の低いところでは、ウイルスは生きながらえることはできなかった」。そしてこうのべている。「一八世紀にイギリスではじまった産業革命と工業化によって、多くの人々が過密な大都市に住むようになり、インフルエンザ以外にも結核やコレラなど新たな大流行を経験するようになった」(二二一~二二二頁)と。

 まさに感染症で、とくに、21世紀に入ってから、問題になっている一つに鳥インフルエンザがある。一つの養鶏場で感染が確認されるとその場所で飼われているすべてのトリたちが殺処分される。

 鳥インフルエンザの「原因は畜産革命」だという。「この四半世紀に、世界的に食肉の消費が増加している。とくに、鶏肉の消費量は六倍近くになる。国連食糧農業機関(FOA)によると、世界で飼われている鶏は二〇一〇年には約二〇〇億羽になった。この一〇年で三割も増えた。このうちの二四%を中国が占め、アジア全体では五五%が飼われている。……世界最大の養鶏工場といわれるブラジル南東部のマンディケイラ農場は、八〇〇万羽を飼育、一日五四〇万個の卵を生産している。自然光や外気がほとんど入らない閉鎖式の鶏舎で、身動きできないほど多数の鶏を狭いケージに詰め込む。

 鶏は、遺伝子組み換えトウモロコシのエサを与えられ、むりやり太らされる。四〇~六〇日間飼われるとベルトコンベアーで運ばれ、機械で自動的に食肉処理される。……ファーストフード用やスーパーの安いブロイラーは、もはや大量生産でコストを競う『工業製品』である。

 豚の飼育現場も鶏と変わらない。豚も世界で約八億頭が飼われ、その六〇%までが中国産だ。最初にメキシコで出現した「豚(新亜型)インフルエンザ」は、進出してきた米国の大手養豚会社が経営する巨大養豚場が、発生源だったとみられている。ここで年間一〇〇万頭近い豚が生産され、その高密度飼育と不潔さで悪名高い養豚場である」(二二四~二二五頁)ということだ。

●グローバリズムの産物としての感染症

 ポイントは、世界資本主義の永続的資本蓄積運動は、環境破壊をもたらすと同時に、その環境破壊を通じて感染症の世界的大流行=パンデミックを醸成・結果した。そしてそのことによって逆に、世界資本主義の資本蓄積運動=「資本の回転」を阻害し、破壊した。世界資本主義の自殺行為だ。そしてまた、そこで、生活の困窮に陥っている大多数の人々は、全世界の労働者階級・農民大衆である。

 岡田晴恵『知っておきたい感染症【新版】――新型コロナと21世紀型パンデミック』(二〇二〇年、ちくま新書)は、次のように、感染症の社会的な様相を論述している。 

「2011年10月31日、地球人口は70億人を突破し、2019年には77億人との推定されているが、スペインかぜ(スペイン・インフルエンザ)が流行した1918年ごろは18億人だった。第二次世界大戦後、人口は急増し、12年で10億ずつ増加している。

 人口増加には、食糧増産が必要となる。人類はジャングルや密林などの開発を手掛けて、耕作地を拡げ、家畜を飼育して、食糧増産と供給を促している。さらに、居住区もそれらの開拓地に盛んに造られている。

 野生動物の生息エリアに人が踏み込むことで、これまでは接触する機会の少なかった動物との接点ができる。野生動物は、様々なウイルスや細菌などの微生物の宿主として、これらを保有している。通常、それらの微生物は自然宿主とは病気を起こさずに共存しているが、人がそのウイルスや細菌に感染すると、発症し、ときに病原性の強い、致死性の感染症となることがある。野生動物に直接接触する機会としては、狩猟や肉を取るためなどの解体作業、ブッシュミート等としての経口摂取、さらに皮革などの利用における処理作業などがある。また、人が野生動物生息のエリアの近くに居住し、動物の排泄物や体液、血液などの触れることなどで、感染することも考えられる」(七五~七六頁)。

 また社会構造の問題を軸に見るならば次のようなことになるだろう。

 「現代では、文明の進歩と経済発展とともに人の交流は活発化、広域化している。その影響が野生生物の生息する地域にも及び始めている。密林周囲の村々と近隣の町や大都市が、車や鉄道でつながり、交通量とスピード効率も上がった。

 都市には多数の人が密集して生活する場所が形成され、もしもそこに野生動物由来の新興感染症が侵入すれば、爆発的な流行が起こることになる。都市で流行が起これば、さらに人の移動によって、病原体が地方にも拡散していく。2014年のエボラ出血熱のアウトブレイクの要因としては、野生動物との接点のある村に留まっていた感染症が、都市に運ばれ流行を起こしたことが大きい。そして首都にまで入ったウイルスは、国際空港から航空機で新天地の大陸に拡散していくことも、21世紀の象徴的な感染症拡大の様式である。

 地球人口の増加と高速大量輸送を背景としたグローバル化社会の中で、ここ40年、さまざまな新興感染症が発生し、流行を起こしては世界に拡散していった。エボラ出血熱の流行というウイルス学的には予測し難い想定外の事態も、21世紀における社会環境の変化が色濃く影響している」(七六~七七頁)ということだ。

 以上に示されているように、21世紀世界の大量消費社会と、それを生産するグローバルな開発によって、新たな感染症のリスクが生み出され、猛威を振るってきたのだ。

●環境破壊・地球環境の変化に注目せよ

 宮坂昌之『新型コロナ七つの謎』(講談社ブルーバックス、二〇二〇年。以下、宮坂本とする)、第一章「風邪ウイルスがなぜパンデミックを引き起こしたのか」では次のように言われている。これはパンデミックと言われるものの原因の分析だ。

 「パンデミックの原因はいくつかあります。その一つは、経済の発展とともに起こる環境の破壊です。例えば森林などの自然環境の破壊により、野生動物と人間の距離が近くなり、そのために野生動物に感染しているウイルスがヒトにかかりやすくなることが指摘されています。エイズの原因ウイルスのHIVはアフリカの森林にいるサルに起源があると言われています。また、先に挙げたSARSウイルスも、新型コロナウイルスSARS-CoV-2も、いずれも元は森林や洞窟にすむコウモリに感染していたもので、コウモリとヒトとの距離がちかくなるなかで、やがてヒトに感染するようになったのです」(宮坂本、二四頁)。

 これら人間と野生動物の距離の短縮の問題と同時に、地球温暖化との直接的な関係が指摘される。

「地球環境の変化、特に温暖化も、パンデミックに関わる大きな原因の一つです。温暖化が進むと、気温が上昇するだけでなく降水量も変わり、これにより特定の環境における病原体が増えたり、あるいは、感染症を媒介する動物が増えたり、その分布が変わることがわかっています。たとえば、世界全体で毎年二万人が亡くなるデング熱は、ネッタイシマカやヒトスジシマカが媒介するデング熱ウイルスによって発症する病気で、主に熱帯、亜熱帯で見られます。ところが最近の温暖化とともに、これらの蚊が世界各国で見つかるようになり、デング熱の世界的な発生域が広がるとともに発生率も高まっています。日本でもヒトスジシマカはもともと西日本が生息域だったのですが、次第に北上して、現在では秋田県や岩手県の一部でも見られるようになっています。日本でもデング熱の流行が起こる可能性があることを意味するので、警戒すべき現象です」(宮坂本、二四~二五頁)。

 さらに、その温暖化が、これまで地球の奥底で存在していた、人類にとって未知の感染病原体に接触する機会の可能性に言及している。

「また、温暖化に伴い、シベリアの永久凍土やヨーロッパの氷河が溶け始めています。永久凍土や氷河の下からは未知のウイルスや細菌が出現してくる可能性があります。北極ではマンモスが凍った形で見つかることがあるようですが、マンモスが絶滅した理由の一つとして細菌やウイルスによる感染が挙げられています。これが事実とすると、凍ったマンモスから人類がほとんど見たこともないような病原体が見つかる可能性のあり」と記述している(宮坂本、二五頁)。

 まさに、こうして免疫反応を起こすことができない事態が、今や、限りなく想定されてきているのだ。

 「感染性や病原性を強くするような変異が起きて、しかも、元のウイルスとは異なる抗原性(=個体の体内で免疫反応を起こす力)を持つようになると、ヒトはうまく免疫反応を起こすことができず、結果的に、社会の中で感染が急速に広がるようになる可能性があります。インフルエンザウイルスの場合、トリやブタなどの複数の動物種が宿主となる可能性があり、……一つの動物種の細胞に複数のウイルスが感染して遺伝子が混ざると抗原シフト(新たな雑種ウイルスが形成されること――引用者・渋谷)という現象が起こります。実際にこのために、アジア風邪(一九五七年)や香港風邪(一九六三年)のようなパンデミックが起こりました」(宮坂本、三一頁)。

 そこで、こうした環境破壊・気候変動に対する持続可能な社会の構築が、召されるべきだと述べられる。もちろん、その中にパンデミックから社会を防衛する検査ー医療体制の整備が要求されている。

 「環境破壊も問題です。国際的な環境保護団体であるWWF(世界自然保護基金)は、人獣共通感染症によるパンデミックが今後も起こり続ける可能性があることについて警鐘を鳴らしています。彼らは、このような感染症が起こる原因として、(1)高いリスクを伴った野生生物の取引と消費、(2)森林破壊を引き起こす土地の転換と利用の変化、(3)非持続可能な形での農業と畜産の拡大、という三つの理湯を挙げています。これらの理由は、いずれも、われわれの社会が経済的メリットだけに注目するあまりに、無頓着に環境破壊を進めてきたことが原因だと思われます。また、これとともに、全地球的に気候の温暖化がつづいていることも環境破壊につながっています。……パンデミックに対する社会の防衛体制、特に検査体制、医療体制を築き上げることが必要です」(宮坂本、同上、三一~三二頁)と展開している。

【第三節】人類の未来について――感染症の各種分析

 最後に、かかる感染症の症例を見ていくことにしよう。本論では、二つの事例を挙げ、その特徴と思われるものを取り上げたい。

 感染症各種となるとウイルスの他に細菌なども含まれるが、ペスト、天然痘、コレラ菌、インフルエンザ、エボラウイルス病、エイズ、MERS、SARS、そしてCOVID-19などがある。ここでは、インフルエンザ、エボラウイルス病(エボラ出血熱)をとりあげよう。 

●インフルエンザーーウイルス自体の特性(――変異)について

ここで、各種感染症の特徴をその病名に限って、見ていこう。まず少なくとも本論論者にとって、代表例とおもわれる「インフルエンザ」だ。

 以下の文章は、普通、われわれがもつ、このウイルス感染症の不確かさにかんする疑問から解かれている(小田中直樹『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたのか 世界史のなかの病原体』、二〇二〇年、日経BPマーケティング、一四八~一四九頁。以下、小田中本とする)。

「人間において、予防接種があるのに毎年インフルエンザが流行するのは、ウイルスが変異して別のタイプになることが多く、その場合、予防接種の効力が低下してしまうからだ」。どうしてか。

「インフルエンザ・ウイルスが変異しやすいことには、二つの理由がある。

第一は、人間の遺伝子(遺伝情報)がDNA(デオキシリボ核酸)から成っているのに対して、インフルエンザ・ウイルスの遺伝子はRNA(リボ核酸)からなっていることである。DNAの基本的な機能が遺伝子の保存(遺伝情報の保存)なのに対して、RNAの機能は遺伝子の処理(遺伝情報の処理)であることから、RNAはDNAと比較して不安定であり、さまざまな要因にもとづく突然変異を生じやすい。具体的には、DNAは二本鎖構造をとるのに対して、RNAは一本鎖であり、損傷すると正確な修復が困難である。また、化学構造上、RNAの鎖はDNAより切れやすく、分解されやすい。

第二は、インフルエンザ・ウイルスの遺伝子がRNAで八つの分節にわけて保存されていることである。そのため、別種の遺伝子をもつインフルエンザ・ウイルスと出会うと、遺伝子交雑(くみかえ)が生じて、新しい遺伝子をもった別のタイプになってしまうことが多い。

 RNAの鎖は切れやすいため、たとえば、一つの細胞に遺伝子が異なる二つのウイルスがとりつくと、しばしば、両者のRNAが切れ、クロスして接合し合い、新しい組み合わせの八つの分節からなる遺伝子をもったRNA、ひいてはウイルスが出来上がってしまう。これを『遺伝子再集合』と呼ぶ(〔 岡部他/二〇二〇〕八四頁)(――岡部信彦也『新型インフルエンザパンデミックに日本はいかに立ち向かってきたか』南山堂、2020、――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)」。

 (※ 以下、小田中本の引用文をしめす〔〕内の文字につづき、(――)でもって、示した引用文の紹介文字は、小田中本の、二一八~二二三頁にある【引用・参照文献リスト】から、引用者・渋谷が援用して、書いたものです)。

●スペイン・インフルエンザの場合

その中で「史上最悪のインフルエンザ」といわれているものに、「スペイン・インフルエンザ」がある。一般に「スペイン・インフルエンザ」の「スペイン」とは、発祥地を表わす言葉ではなく、第一次大戦の中立国であり、感染症について軍事情報としての秘密の必要がなかったスペインでの感染が、初期に報じられたことによると言われている。

「スペイン・インフルエンザは、第一次世界大戦のさなかという、感染爆発にとって絶妙のタイミングで発生した。

 愛戦はヨーロッパ諸国を中心とする諸国が連合国(英仏伊露など)と同盟国(独墺など)にわかれ、おもにヨーロッパを戦場として戦う「ヨーロッパの戦争」であり、合衆国にとっては、ほぼ他所事だった。

 ところが、ウッドロー・ウイルソンが第三者として仲介した和平の試みが失敗し、ドイツが、合衆国を含む中立国の船舶も攻撃対象に含める無制限潜水艦作戦を大々的に実施するようになると、合衆国の世論は急速に連合国を支持して参戦する方向に傾き、一九一七年、合衆国はドイツに宣戦布告した。これにより、大量のアメリカ陸海軍兵士が大西洋を渡ってヨーロッパに派遣され、先頭に参加することになった。

 この動員は、大量のヒトが大西洋を渡ることを意味する。

  アメリカは四百万人以上の兵士を徴用し、そのうち約二百万人をヨーロッパ戦線に派遣したが、彼らのなかには大量のインフルエンザ感染者が含まれていた。平時であれば体調不良を理由として移動を断るような症状の人びとも、愛国心に導かれ、あるいは『戦時だからやむをえない』とか『兵士なら出征して当然』とか言った理由で、輸送船に乗りこんだ。

 また、兵士を輸送する船舶は、衛生状態が劣悪であり、人口密度が高いこともあって、感染拡大には最適の環境だった。海軍における感染率は四〇パーセント以上であり、最大の被害を出した巡洋艦ピッツバーグに至っては、乗組員の感染率は八〇パーセントに至った(〔 クロスビー/二〇〇九〕一五四~五頁)(――クロスビー、アルフレッド『史上最悪のインフルエンザ【新装版】』西村秀一訳、みすず書房、2009、原著1976――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)。

 「ヨーロッパに到着すれば到着したで、これら二百万人の兵士たちは劣悪な環境、つまり戦場に放りこまれた。戦場の兵士のインフルエンザ感染状況にかんするデータはほとんど存在していないが、感染爆発がピークを迎えた第二波の時期には、インフルエンザで入院した兵士の数は、アメリカ軍が九月の一か月間で約四万人、イギリス軍が一一月の一か月間で三万人、フランス軍が一〇月の一か月間で七・五万人に達している(〔クロスビー/2009〕二〇〇頁――前掲)。いうまでもなく、入院できた兵士は幸運である。その背後に入院できなかった感染兵士が何倍もいたことは、想像に難くない。

 さらに、彼ら感染兵士は、戦場にとどまっていた一般市民に対してインフルエンザを感染させた。戦時中ということもあって、一般市民のインフルエンザに関するデータは兵士にもまして少ないが、世界全体で二千万から五千万と言われる死者の多くがかれらからなっていたこともかた、想像にかたくない。

 戦争は、兵士の動員によってヒトの移動を誘発し、兵士の密集輸送という感染にとって好適な環境をもたらし、さらには、戦場という過酷な環境に兵士を置くことで彼らの体力を奪い、ひいては感染に対する抵抗力を奪う。さらに、兵士の間に広まった感染症は、軍事作戦が続くあいだに、戦場にとどまる一般市民に広がってゆく。

 二〇世紀の戦争は、大規模な総力戦、すなわち戦場と銃後の区別がなくなり、全土が一種の戦場になることによって特徴づけられる。戦争は、とりわけ総力戦は、感染症の拡大に適した環境をもたらすのである」(小田中本一五八~一六一頁)。

 こうしたことは、二〇二一年一二月、新型コロナウイルス感染症の「第六波」において、沖縄在日米軍内にクラスター(感染者集団)が確認(沖縄キャンプ・ハンセンでのクラスターの確認をはじめとして)され、その後、全国的に、厚木・横須賀・岩国その他の米軍基地で、感染が広がっているのが報道され始めた。それが、基地の外に拡大するという事態が、沖縄県当局によって指摘されていた事態からも、確認できるだろう。

●エボラ出血熱の場合

「一九七六年八月、ザイール(現・コンゴ民主共和国)国のある村で、奇妙な病気が発生した(〔山内/二〇一五b〕、〔日経メディカル編/二〇一五〕四六~五三頁、参照〕)――山内一也『エボラ出血熱とエマージングウイルス』、岩波書店・岩波化学ライブラリー、2015――小田中本・二二二頁参照――引用者・渋谷)。発熱、頭痛、嘔吐と下痢、筋肉痛といった症状に続き、歯茎、鼻、消化器など全身からの出血が見られ、ほとんどの場合は多臓器不全か出血多量で死に至った。ついで家族、近隣住民、看護師などが次々に発病し、この病気が感染症であることを示した。病気の流行は二か月続いて一〇月に収束したが、感染者三一八人に対して、死亡者は二八〇人、致死率は約九割に達した」(小田中本、一九三頁)。

「しばらくして、合衆国の疾病管理センター(CDC、現・疾病管理予防センター)が、血液から紐状のウイルスを発見した。これまで見たことのない新種のウイルスであり、病気発生地の近くを流れる川の名前をとってエボラウイルスと命名された」(小田中本、一九四頁。

 その後、エボラは、一九九五年~二〇一九年にかけて、アフリカ大陸で何度か、感染をおこしている。二〇一四年には、ギニア、シエラレオネ、リベリアで、二〇一八年には、コンゴ民主共和国で感染爆発を起こした。

「ウイルスは、人間に感染した場合、免疫異常と血管異常をもたらす(〔クアメン/二〇一五〕七八~八〇頁)。(――クアメン、デビッド『エボラの正体』(山本光伸訳、日経BP、2015、原著2014――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)。

 ウイルスは免疫細胞を攻撃し、免疫システムを機能不全に陥らせる。具体的には、一方では免疫システムの一部を機能低下させることにより、人間の体内での病原体の活動を可能にし、各種の感染をもたらす。他方では、免疫システムの一部の機能を異常亢進させることにより、免疫システムが自己を攻撃する自己免疫症状(サイトカインストーム)を引き起こす」(小田中本、一九六~一九七頁)(※このメカニズムについては、渋谷要の拙著本書では、本論の「【第三節】新型コロナウイルスの<機制>に関するノート――特に、その「重症化」(⇔サイトカインストーム)との関係で」を参照してほしい)。

ではなぜ「エボラウイルス病」が「出血熱」と言われてきたかということだが。

「ウイルスは『エボラウイルス糖タンパク』と呼ばれるたんぱく質を合成するが、このたんぱく質は血管を構成する細胞に付着し、透過性を高める。そのため、血漿を中心とする血液が血管から滲出して各種の出血を引き起こすとともに、滲出しにくい赤血球などが凝縮されたかたちで血管内に残り、血栓をつくって血管を詰まらせ、臓器の機能不全や末端部の壊死をもたらす」(小田中本、一九七頁)。ここに、エボラ出血熱の特徴があるということだ。

 だがさらにエボラ出血熱に関して、ひとつの大きな問題がある。それは、このウイルスが、ヒトを「保有宿主」とはしていないのではないか、という問題だ。これはどういうことかというと。ウイルスは宿主とはひとことで言って、種としては(ウイルスは明確には生物種として自己増殖能力を備えた「生物」ではないが)共存の関係に入っている。だが、宿主でない生命体は、こういってよければ、殲滅していい対象だ、という問題だ。

 エボラウイルスの宿主は、「オオコウモリだろう」と考えられているが、「今日でもなお確定されていない」という問題もある。

そこで、小田中氏は、次のように論じている。

「(「間欠的にしか流行しないこと」などを、エボラの謎という問答で解明している文脈で、――引用者・渋谷)『エボラウイルスは、ヒトを宿主として想定していないから』ではないかと考えられている(〔クアメン/二〇一五〕五六~八頁)(――上記、『エボラの正体』と同じ――引用者・渋谷)」と。

「もしもオオコウモリが保有宿主だとすると、エボラウイルスはオオコウモリとのあいだで微妙なバランスをとりながら存在してきた。『感染して殺すが、殺しすぎると自分も存在あるいは繁殖できないので、殺しすぎはしない』というバランスである。そして、ときどきサルに偶然感染しては、大量死をもたらしてきた。

 ヒトについても、サルの状況と同じである。

 エボラウイルスはヒトを宿主として想定しておらず、偶然の接触によって感染が生じるにすぎない。そのため致死率は高く、人間を恐怖に陥れるが、しかし一九七六年ザイールの事例のように致死率が九割ともなると、ウイルスの存在自体が危うくなる。宿主がいなくなれば、ウイルスも存在できないからだ。しかし、ウイルスはそんなことは計算しないから、高い致死率を保ち、感染者の多くが死亡するのと同時に消滅してゆく。これによって流行は終わり、またウイルスは保有宿主(おそらくはオオコウモリ)の体内で保有宿主と共存する時期に入る。そして、しばらくして、ふたたび偶然の接触が生じ、ヒトにおけるエボラウイルス病の流行がまた始まる」(小田中本、一九九頁)。

 小田中本で書かれているように、このオオコウモリを食用とする中央アフリカや西アフリカで感染が流行していることからも、そうした「接触」が明らかに原因となっているのだろう。

さらに、こうした「偶然の接触」の機会が、人間の乱開発などによって多発化していることも、関係している可能性がある。

●生態系と感染症

「人類は20万年前に誕生してから五大陸に分散し、そこで生態系の頂点にのぼりつめた。この時点で人類という生物種の数を調整できるのは、食糧の枯渇か人類間の殺し合い、そして病原体との闘いである感染症だけになった。つまり生態系から見れば、病原体とは人間という生物の数を調整できる唯一の存在になったのである。病原体はこの役割を担うため、人類が農耕生活を始めた頃から、人類に感染症をおこすことで、その数を調節してきた。ただし、人類が絶滅してしまっては病原体にとっても不利なので、病原体は感染力と毒性を変化させながら人類と闘ってきた。しかし、この変化が効かずに病原体が暴走したのが14世紀のペスト流行だった。その結果、人類は滅亡の危機に瀕したのである」。

20世紀以降、人類は急激に増加している。

「これには19世紀後半の微生物学の発展により感染症が減ったことが大きく影響している。すなわち、この時点で従来の病原体による人類の数の調整がきかなくなり、その結果、20世紀後半から新たな病原体(ウイルス)が人類に襲いかかってきたと考えることができる。人口が増えたため、奥地への開発が加速し、新たな病原体に接したのである。今回の新型コロナウイルスの流行も、生態系という観点から見ると、このように解釈することができるのではないだろうか。

 くりかえすが、病原体にとって人類を絶滅に追い込むのは不利なので、14世紀のペスト流行のような事態は、そう簡単にはおきないだろう。しかし、これから先はわからない。人口の急激な増加が今後も続けば、新たなウイルス感染が人類を襲う頻度は増えてくるはずだ。その時に病原体が暴走を起こし、14世紀のような状況が再現される可能性はある」(濱田篤郎『パンデミックを生き抜く 中世ペストに学ぶ新型コロナ対策』朝日新書、二〇二〇年、二二四~二二五頁)。

 まさに、今日の感染症パンデミックは、グローバリズムによる環境破壊の産物であり、人類の生存をかけた闘いが必要だ。だが、問題は、この人類の生存をかけた闘いは具体的には、環境破壊を作り上げ、推進している、資本主義の永続的資本蓄積運動を主導している先進国ブルジョア体制、「社会主義国家」の官僚制国家資本主義との闘いだということだ。これがラディカルな資本主義批判の立場でなければならない。

 かかる政治的スタンスをあいまい化し、後景化、ないしは忘却させようとする、偽善的環境保護政策を批判してゆくことは、大変重要なことに、なっている。そうした問題意識をも含有しつつ、搾取・抑圧と環境破壊をいかに克服するか、その課題に、向き合っていくこととしたい。