2015年3月11日水曜日

憲法論議において廣松哲学として、おさえておくべきこと



●はじめに――廣松渉の問題意識


廣松渉は、一九五六~六五年までつづいた(実質的には六四年まで)、戦後初期の憲法調査会の“答申”を引用して、次のように述べている。

「(答申は次のように言う――引用者・渋谷)『一八世紀的な民主主義は、国家権力を最小限におさえると同時に、個人の自由・人権を最大限にのばすという方向をとった。全体よりも個人を、公共の福祉よりも基本的人権の方に重点を置くというのが一八・九世紀民主主義のとったエッセンスであった』。『古典的民主主義が殊に個人を強調したことについては、それなりの正当性と歴史的必然性があったし、大きな役割を果たしてきた』『けれども、人間は個人として生きていると同時に、社会生活を営んでいるわけであるから……個人の自由・人権をいくら最大限に認めるといっても、……他人とのあいだ、そして社会(国家)とのつながりにおいて、それがまったく無制限であることはできない』。……『個人の自由・人権と社会の福祉という二つのものは、たぶんに矛盾し反撥し合うものである』。……『要するに、人間が社会生活をいとなむ以上、個人の自由・人権にも大きな社会的制約があることを認めないわけにはいかない。したがって人間の社会のなかに平和な秩序ある状態を欲するならば、この社会(国家)に対して各個人が共同の忠誠、服従、奉仕の精神をささげなければならないということになる』云々。

 右の一文でさも当然のようにさらりと語られているイデオロギー、これが市民権をうるためには、一八、九世紀的民主主義の個体主義のイデーに対して、かつてはファシストのイデオローグたちがいかに努力を払わねばならなかったことか! 『憲法調査会』の多数派はもとより狭義のファシストではない。今や体制側のイデオロギーは、建前のうえではまだ個体主義的な残滓を留めているにしても、かつてファシストたちが血路を拓いて押しつけた全体主義を、大趣においてはそのまま受容継承しているのである」(「全体主義的イデオロギーの陥穽」、『マルクス主義の理路』、勁草書房、初版一九七四年、所収、二八〇~二八一頁)。 



●社会実在論と社会唯名論


 全体主義と個人主義(近代民主主義)の問題について。

『唯物史観と国家論』(講談社学術文庫、1989年)では次のようである。

「われわれは近代ブルジョア的“社会”観の祖型における特質を“人間”観との関連に即して対自化することができる。

第一に、人間が基体subjectum…として考えられており、社会・国家はたかだか二次的な存在にすぎないとされていること。「本地」authorと「垂迹」personaという伝統的な用語法を踏んでいえば、諸個人があくまで「本地」であって、社会・国家は人工的人格artificial persona、作為的人格personne moraleだとみなされる。

この了解にもとづいて、「社会」という二次的な存在の本質は、“人間の本性”human natureから帰結するものとみなされる。近代的社会観の父、すなわち、――デカルトが近代的世界観一般の地平を拓いたと言われうるのと類比的に『近代的社会観の地平を拓いた』と称されうる――ホッブスが、彼の主著『リヴァイアサン』を人間から始めていることにいちはやくそれが象徴されている。モンテスキューは『法の精神』の序文にいう通り「人間を第一に考究」したのであったし、ルソーの『社会契約説』も「人間をありのままにとらえ」そのことに即して『社会秩序』の基本的構造を討究する姿勢になっている。ロックにせよ、ファーガスンにせよ、スミスにせよ、十七・八世紀の著名な社会思想家がsubjectumたる人間の自然的本性から「社会」を規定していることは逐一想起を求めるまでもあるまい」(九一~九二頁)。

「第二に人間の本源的な同型性isomorphismが想定され、この平等な諸個人が語の優れた意味でのindividuum…として考えられており、このような同型的諸個人のもつ自然権をしかるべく保証する制度的定在として社会・国家が了解されていること。

この了解によって、中世的自然法と近世的自然法との異質性が劃される。人間の平等性、それがたとえ“神の前での平等”というイデオロギー的屈折を経ているにしても、この同型的なsubjectumの存在権そのものから自然権が定立されているのであって、それはもはや神与の自然法に法源をもつものではない。自然法と言う生得の平等的権利は、生存権から財産権へと及ぶ諸々の定在形態において漸次表象されていったが、ともあれ、同型的諸個人の原子的な同調性と反撥性の弁証法によって、社会の制度化が説明される。この自然権とその譲渡alienationの理説は、絶対主義的国家権力とブルジョアジーとの関係の歴史的変異を相即しつつ周知の変様をとげていくが、原初的な平等性の故に、相互的譲渡(結合契約)は許されても、単なる貢納的呈上(服属契約)は許されないということ、この点に留意を促しておきたい」(同前 九二~九三頁)。

「第三に、人間がhome sapiens et faberとして了解され、この意味で『自由な主体』とみなされており、『社会』はかかる自覚的で能動的な主体たる諸個人の営為によって形成されるものとみなされること、ここにおいて『社会』は、契約contract、黙的conventないしは、単なる打算的な相互承認であるにせよ、そしてまた、前意識的な過程を通じて成立するにせよ、ともあれ人間の営為による形成物として了解される」(同前 九三頁)。

「われわれは、以上、とりあえず三つの契機に分けて立言した次第であるが、これを一言で括れば、同型的・自立的なsubjectum(基体)として了解された諸個人を分子的な単位となし、かかる近代的subjektとして了解された諸個人の人格的複合として社会を表象する観方、このような構えAuffassungとして一七・八世紀の“社会観”を特徴づけることができよう」(九四頁)。

「諸個人としての人間を分子的単位とみなし、この分子的単位の相関的複合として社会なるものを表象する観方――これは様々な変様形態をとりつつも“ブルジョア的”社会観の呪縛となっており、――この観方がわれわれの日常的意識にまで浸透している」(九七頁)。

「マルクス主義的社会観をポジティブに捉えるためには、あらためて強調するまでもなく、<物質的生活の生産>という場面に視座を捉えて、生活ファンドの生産と配分のメカニズム、再生産ファンドの蓄積様式と定在形態に定位しなければならない。ブルジョア的社会観においては、それが即自的に“自然的”な大前提とされてしまうことによって――というよりも<物質的生活の生産>はいうなれば私事に属することとされ、私的生産物を携えての交通の場面からはじめて、“社会”……が成立するものとして了解されることによって――、物質的生活の生産を基軸とする“間主観的”な<対象的活動>の総体的聯関……への対自的着眼が事実上欠落している。そのことにおいて、それはまさしくブルジョア的な社会観のネガティブな特質をなすものであり、それとの対比において、当の契機に視座を構えることがマルクス主義的社会観のポジティブな特質の輻輳点をなす」(一四八~一四九頁)。

こうしたブルジョア的社会観は、社会唯名論を一般的に現象させる。

「諸個人を実体化してしまい、社会とは名目にすぎないとみなす“社会唯名論”は、……近代市民社会のアトミズムに照応するイデオロギーとして“現実”の内に根拠をもっている。とはいえ、すでに、スミスが『見えざる手』という仕方で形象化し、ルソーが『われわれはいたるところ鉄鎖につながれている』という仕方で対自化したように、社会形象は外部拘束性をもった或るものとして意識される。社会有機体説にみられるごとき、社会そのものの実体化、“社会実在論”が生ずるのも故なしとはしない。しかしマルクスが『経済学批判要綱』のなかでいう通り『社会は諸個人から成り立っているのではない』。さりとて自存的な実体ではなく、『社会とはこれら諸個人が相互に関わり合っている諸関連、諸関係の総体』にほかならない。しかるに、この間主体的協働の函数的・機能的聯関の『項』を実体化する錯視によって社会唯名論が成立し、当の機能的聯関の総体を実体化してしまう錯視によって社会実在論が生ずることになる。マルクス・エンゲルスは、これら二極的な形態で錯視される与件の真実態は諸個人がそこにおいて参与……するところの協働聯関であることを洞察し、二重の実体化を対自的に斥ける」(一五二~一五三頁)。 

この社会唯名論としてのブルジョア的社会観を全体主義(社会実在論)から見た場合、ファシズムに典型的なように、次のような対立軸が描かれることとなる。


(2)個人主義対全体主義


廣松渉は、「全体主義的イデオロギーの陥穽」(『マルクス主義の理路』1974年初版、勁草書房)では、次のように論じている。――ここでは「個人主義」と「全体主義」との対立軸における論理構成に関し必要と思われる論点だけをとりあげるものとする――。

「ナチズムが『全体主義』の論理を掲げたのは、……理論上の文脈で言えば、近代的個体主義の原理に対するアンチテーゼとしてであった。近代的自然法思想や一七・八世紀の啓蒙主義思想に典型的に顕われている『個体主義の原理』に対するアンチテーゼという点では、同一の思想的構えをイタリアン・ファシズムにも認めることができる。ブルジョア・デモクラシーの理論的基礎をもなす近代的個体主義に対するファシズムの批判は、決して単なる反発ではなく、しかるべき一定の“学”に裏打ちされている」(二五八頁)。

「ファシズムの提起した論点を検討し、その陥穽を見定めるためにも、近代的個体主義の虚構性をわれわれなりに一瞥するところから始めよう。……近代的社会思想においては、古代や中世のアリストテレス・トマス的な『国家社会が諸個人に先立つ』という了解が卻けられて、実体的諸個人が社会や国家に先立つものとされ、社会や国家はたかだか第二次的なものとみなされる。近代の社会思想はそのすべてが社会契約説を採るわけではないが、人間諸個人は本来的には自由・平等な主体であるという了解とも相即的に、社会や国家というものは、本源的には自律的な諸個人が自己の便益を図って形成する人為的な一制度、ないしは、集合的な一団体であるという了解が基底をなしている。……近代社会においては、諸個人は古い共同体のしがらみから解放されて、たしかに自律的な人格として現われる。彼らは対等な商品交換者として交渉的聯関を取り結ぶのであって、資本家と労働者の関係ですら、身分的に不平等な隷属関係としてではなく、労働力という“商品”の対等な売買関係として現象する。社会的関係は独立の人格どうしの自発的な関わり合いであって、原理的には、任意に取り決めることができるものと了解されている。アダム・スミスがいみじくも表現しているように、人間諸個人の社会的諸関係は一種の商人社会的関係として現われ、そこでは相互的打算にもとづいて他人を手段的に扱うが、この相互的手段化が分業と商品交換の原理によって一つの調和的統一を存立せしめる。

諸個人こそが第一次的に存在する主体=実体であり、社会・国家は第二次的な形成体にすぎないとみなす個体主義的な社会観は、近代的商品経済社会、近代的市民社会の如上の在り方を投影したものとして、その限りで近代の歴史的現実のうちに一定の根拠をもっている。

このことを一応は認めうるにしても、ファシストたちの指摘を俟つまでもなく、個体主義的社会観の虚構性は覆えない。この問題について“理論的”な討究をおこなったファシストのイデオローグとして、読者は直ちに、イタリアのアルフレッド・ロッコやオーストリアのオトマール・シュパンを想起されることであろう。彼らが互いに独立に、しかし殆んど同じ言葉、同じ論理を用いているのは象徴的であるが、彼らは近代的個体主義の社会観を『機械論的・原子論的』であると評し、アリストテレスの『国家社会的動物』という大命題を復権しつつ、『有機体的・歴史的な国家社会概念』を彼らは顕揚する」(二五九~二六〇頁)。

「近代的個体主義に全体主義を反定立するにあたって、経済学者として出発したシュパンは、個々人は実体的に自存するものではなく、全体の肢節としてのみ存立するという論点を軸にしたのであったが、……法学者ロッコは、法人格を生物学主義的に実体化させる方向で議論を立てている。すなわち、彼は国家・社会の全体性は決して個々人の代数和には還元できないこと、国家社会はそれ固有の目的、固有の生命をもつ独特の存在体であることを直截に主張する。この点において、ロッコはヒットラーヤローゼンベルクのそれとも相通ずる議論の構造に定位しているということができる。しかも、彼の議論は『血と地』の理論のごとき、全体主義のイデーそのものにとって本来的には偶有的な論点を含んでおらず、ファシズムの全体主義的社会・国家観をティピカル(典型的・類型的――引用者)に表象するのに恰好である」(二六三頁)。

そこで廣松はロッコの「パルウジア講演の記録 (Bigongiari英訳、長崎太郎邦訳)」を援用する。

「ムッソリーニが『私は一字一句これを承認する。君は実に堂に入った方法を以ってファシズムの教理を示してくれた』と評した」(二六三頁)ものだ。

「『人間種族の目的は、ある時点に生存している個々人の目的ではない。それは時として個々人の目的とは相反することすらある。社会団体の目的は、その団体に属する個々人の目的ではなくて、個々人の目的と衝突することすらある。これは種族の保存・発展が、個人の犠牲を要求する場合、つねに明らかなところである』と言い切る」。「『ファシズムは、自由民主主義の基礎にある旧い原子論的・機械論的な国家論に代えうるに、有機体的・歴史的概念を以ってする。われわれはいわゆる国家有機体説をそのまま採る者ではないが、われわれは、個々人の目的、個々人の生命を超越せる固有の生命、固有の目的を社会団体が有するということを言表したいのである』」(二六四~二六五頁)。

このことは、ファシスト的社会(国家)有機体説を表明するものにほかならないということをそれは意味している(なお、コント、スペンサーの有機体説については、廣松では、『唯物史観と国家論』第三章第一節の注記などを参照せよ)。まさに社会団体が「固有の生命」をもっており、それが、その目的に即して「個人の犠牲を要求」するということだ。まさに社会・国家有機体説を含有した社会実在論の徹底化という以外ではない。

「ファシズムの全体主義は、社会というもものが諸個人の代数和ではないということを主張する限りでは正しいにしても、マルクスを援用していえば、社会というものを諸個人の現実的な関わり合いの機能的聯関の総体として把握せず、それを自存的な実体に仕立て上げるという物象化的錯視に陥ってしまっている。マルクス的な社会把握とのこの相違点に、全体主義イデオロギーの社会(国家)観のもつ根本的な難点が存するように思われる」(二七九頁)。

「人々の間主体的な営為の総体は、なるほど諸個人とその代数和には還元できないが、しかし、当のIntersubjektivな営為はあくまで機能的・函数的な間聯なのであって、機能的全体なる固有の生命体が実体的に自存するものではないということ、この点の対自的把握を欠くところから、遡っては間主体的な協働聯関の存在構造を把握しえぬところから、民族や民族国家なるものを誤って形象化したり、資本の論理に盲目(ママ)であったりといった一連の契機が派生し、ファッショ的全体主義イデオロギーの徒花が展開されることになる」(二八〇頁)。

廣松はゲッペルスの次のような言を引用する。ゲッペルスは言う。

「自由主義が個人を出発点にし、各人を万事の中心におくのに対して、われわれは個々人の代わりに民族を、各人の代わりに国家共同体を置きかえた」「個人の自由が国家の自由と矛盾する場合には、個人の自由が制限されねばならなかったことは言うまでもない」云々(二八二頁)。


廣松は、述べている。

「全体主義の思想にとって中枢的な論点は、決して独裁的な指導者の存在や彼と被指導者との一体性といったところに存在するわけではなく、また、領土拡大後のナチスが弁じた通り、必ずしも民族排外主義に存するのでもない。ヒットラー一派はユダヤ民族をスケープゴートに仕立てたが、これとて全体主義思想の論理必然的な契機ではなく、そもそも人種主義的な民族有機体論ですら本質必然的な論点をなしていない。事は一つに懸かって“国家共同体”なるものを物神的に形象化し、全国民にそれへの帰依的帰入を求める点にある。

対外的緊張関係を媒介にして即自的に意識される民族国家という“共同体”、それが実際には階級的編成構造をもち、資本の論理を動軸にして存在している場合には、この擬似的“共同体”への滅私奉公は、階級的支配・被支配の現構造を強化しつつ資本の論理を維持すること、これ以外の帰結をもたらしえよう筈がない」(二八二~二八三頁)。

「人間社会はたとえ階級的に編成されていようとも、近代的個体主義が錯視するごとき機械論的・原子論的な体系ではなく、有機的な協働聯関をなしていることは確かであるが、これを真のゲマインシャフト(共同体社会――引用者)として再編成することが今や人類史の課題となっている」(二八四頁)。

「予め既述の論点の整理と図式の提示を兼ねてかいておけば、旧来のヨーロッパ的『人間―社会観』は三つの類型ないしは三つの極を立てて類別することができるように見受けられる。①機械論的個体主義、②有機体的全体主義、③聯関論的統体主義の三つがすなわちそれである。①が近代ヨーロッパの典型的な人間―社会観、②は古代・中世の主流であり、近代ではファシズムが典型、③はマルクス主義が典型であるといえよう(ヘーゲルは②と③との中間というよりも、両者の間を動揺している)。①は社会生活の即自的な協働聯関の間主体的な関係の「項」を実体的に自存化させる錯視によって成立し、②は当の聯関の「総体」を実体的に自存化せしめることによって成立するものであって、原理的に言えば、③の二極的に異型の射影として位置づけられる」(二八四~二八五頁)。

「……クローズアップされるのがマルクス主義の「個即類」のテーゼである。けだし、この提題の継承・展開こそが、個体主義対全体主義の対立交代劇を端的に止揚する鍵鑰をなす所為である。……われわれが実践的にそれの実現を志向するゲマインシャフトを理論的に基礎づけるためには、①と②との対立を生ずる地平そのものを超克しなければならない。因みにいえば、全体主義の②に対して個体主義の①を対置したのではファシズムを思想的に超克する所為とはなりえない。しかるに人民戦線時代のコミンテルンは古典的な民主主義の①の立場を以ってファシズムの全体主義思想に対処したのであって、これでは“思想的に敗北”したのもけだし当然であったといわなければならない!」(二八六頁)。

この「③聯関論的統体主義」のマルクス的根拠としては「人間の本質は社会的諸関係のアンサンブルである」という、マルクスの「フォイエルバッハに関するテーゼ」にある考え方が、的を得ているだろう。

全体主義は<国家>(社会)の実体化に基づいている。個人主義は<個人>の実体化に基づいている。私見(渋谷)では、これら二つの実体主義に対する廣松の言うところの「聯関論的統体主義」は、<個と共同性の共振>に基づいている。それは「共同体的所有と個的占有」にもとづく社会を前提として形成される。もちろん主権は人民にあり、人民は、自分たちの共同体を「全人民武装」と「一切の特権の廃止」ということをルールにして運営し、相互扶助の社会を形成する。

このような論法から、改憲論議に、どう肉迫できるかだ、と思っています。