2015年3月8日日曜日

渋谷要『ロシア・マルクス主義と自由』第7章(社会評論社、2007年刊)(中)

渋谷要『ロシア・マルクス主義と自由』(社会評論社、2007年刊)第7章
「レーニンの『絶対的真理』論とその教条化――『物質の神学』としてのスターリニズム哲学」(中)


今回は、(中)です。次回、最終回(下)の配信は、3月16日前後の予定です。




 ●─ レーニン主客二元論の三項図式的限界

 各論に入ってゆこう。
 前々節で数字をふった順番に、レーニンと廣松哲学の対質をおこなう。レーニンの素朴実在論にもとづく反映論は、廣松哲学にいう「三項図式」「カメラ・モデル」の認識論である。この「三項図式」からレーニンはマッハを批判したということなのである。このことは実はレーニンがマッハを主観的観念論と論定したことと関係している。
 レーニンの反映論は、「物的外界」と「心的内界」を二元論的に分離することを特徴としているが、廣松は例えば『哲学入門一歩前』(講談社現代新書)では次のようにレーニンらが論じたところの反映論・模写論を説明している。
 「意識対象(客観)─意識内容(心像)─意識作用(主観)」の三項図式は、「対象を─心に映った内なる写像─をつうじて見る意識作用」という形で認識していることになる。だがこれでは「意識は対象自体を直に見ることはできず、内なる映像を見ることを介して、間接的に原物を認識するという構図になっている」(六〇頁)と廣松は論じる。
 そこで廣松は次のようにいうのだ。
 「『客観─認識内容─主観』という常套的な了解の構図には警戒を要する。客観が主観に認識内容のかたちで意識されている(主観が客観を認識内容のかたちで意識している)という言い方は倒錯である。正しくは、認識主観は現与の認識内容を単なる与件「以上の」在るものとして、客観的照応性をもつものとして覚識する、といわねばならない(「映像で知るのと言葉で知るのと」廣松渉コレクション第五巻。情況出版。一四九~一五〇頁)。
 「認識内容」は「客観」(意識対象)のもっている意味とはなれてそのままで存在するのではないということだ。だから廣松は「所与─所識」「能知─能識」の四肢構造をたて、反映論がそれとして説明できなかった意味論を認識論に装着したのであった(くわしくは拙著『国家とマルチチュード』社会評論社。八四頁以降参照)。
 三項図式に従えば客観を重視する反映論は、「客観」(実在)の模写として─心像としての「意識内容」ができあがり、それを認識するとなる。
 これに対して主観を重視する主観的観念論は「意識内容」に構成されている構成形式から、対象(実在)を認識するということになる。つまり〈意識は認識内容が経験に先立って保有している構成形式によって対象(客観)を捉える〉(カント『純粋理性批判』(上)。岩波文庫。八七頁参照)、あるいは「精神すなわち知覚するもののほかにはいかなる実体もない」(バークリー『人知原理論』。岩波文庫。四八頁)というような、認識の構成形式や知覚などが世界を構成するという考え方だ。
 つまり、反映論と主観的観念論とは「三項図式」(客観─認識内容─主観)としてはおなじ形式なのである。
 レーニンはマッハの「感覚」を、かかる主観の働きと決め付け、これをバークリーなどと同じ主観的観念論の図式におしこんだのであった。つまりレーニンは三項図式以外の認識形式を想定することができなかったということなのである。ゆえにレーニンはマッハの「要素一元論」を主観的観念論と(マッハの「感覚」を観念論の「知覚」と)おなじものとして規定する以外なかったのである。まさにレーニンはかかる三項図式の呪縛をつうじた言説において、マッハへの論難を主張できたということ以外ではないのである。素朴実在ではない「感覚」を立てるからそれは反映論から見た場合、マッハの「感覚」とは、主観(個々人の主観)の観念だという判断である。だがマッハは主観的観念論ではなく、客観的要素主義であり、そのゆえに、カントの「物自体」やニュートンの「内奥の実体」なるもの、かかる現象の裏側にある本質なるものが存在するという考えを批判していたのである(廣松「哲学の功罪」(廣松渉著作集第三巻。岩波書店。五五六~五五七頁参照)。


 ●─ マッハの要素主義

 まさにマッハの「感覚」とは、主観の側の感覚のことではないのだ。
 「色、音、熱、圧、空間、時間等々は、多岐多様な仕方で結合しあっており、さまざまな気分や感情や意志がそれに結びついている。この綾織物から、相対的に固定的・恒常的なものが立ち現われてきて、記憶に刻まれ、言葉で表現される。相対的に恒常的なものとして、先ずは、空間的・時間的(函数的)に結合した色、音、圧、等々の複合体が現われる。これらの複合体は比較的恒常的なため、〈それぞれ〉特別な名称を得る。そして物体と呼ばれる。が、このような複合体は決して絶対的に恒常的なのではない」(『感覚の分析』法政大学出版局。四頁)。
 「物、物体、物質なるものは、諸要素、つまり、色、音、等々の聯関をはなれてはない」(マッハ前掲七頁)。
 このどこが観念論だというのか。
 「多様な姿をとって現われる同一の物体なるものが、いったいどこに存在するというのであろうか? われわれが言いうるのは、さまざまなABC……がさまざまなKLM……と結びついているということだけである」(同一〇頁)。「問題なのは、要素αβγ……ABC……KLMの聯関だけになる。かの〈自我と世界等の〉対立はまさに、この聯関に対して、ただ部分的に妥当な・不完全な表現にすぎなかったのである」。「私が『要素』『要素複合体』という表現と併用して、ないしは、それを代用して、『感覚』『感覚複合体』という言葉を以下で用いる場合、要素は右に述べた結合と聯関においてのみ、すなわち、右に述べた函数的依存関係においてのみ、感覚なのだということを銘記さるべきである」(同一二~一四頁)。「第一次的なもの(根源的なもの)は、自我ではなく、諸要素(感覚)である」(同一九頁)と。
 まさに廣松が言うように「この要素=感覚は、『頭のなかにある』主観的な心像として理解されてはならない」のであり「頭のそとにある感覚なのである」(マッハ前掲の巻末解説。廣松「マッハの哲学」。三三三頁)。そして廣松は、マッハにおいては「諸要素の函数的関係」が「大切」だと説明している。「マッハによれば、諸要素および要素複合体は、それが主観を構成するものであれ客観を構成するものであれ、フンクチオネール(機能的─引用者)な相互依存関係のうちにあり、この聯関を離れては自存しないのである」。まさに「要素はすべて汎通的相互関係のうちにあり、……このゆえに、色、形、等々が主観を離れて自存しないという当然の命題は、マッハをして直ちに主観的観念論に陥らせるものではない」(同三三八頁)ということなのである。
まさにマルクスがいうように「人間の本質とは……社会的諸関係のアンサンブル」(「フォイエルバッハ・テーゼ」廣松渉編訳、小林昌人補訳『ドイツ・イデオロギー』所収。岩波文庫。二三七頁)なのである。そしてかかる多岐多様な物質的諸関係において存在しているということ以外ではない。そしてこの要素一元論から、マッハの時間・空間概念が定立するのである。(マッハの客観的要素主義の陥穽(現相主義)については、拙著では『国家とマルチチュード』八八頁以下参照。廣松の『事的世界観への前哨』勁草書房。六八頁以降参照)。


 ●─ ミーチンの機械論的因果論とマッハ・廣松の法則理解

 レーニンは絶対的真理の根拠を物質の一義的で因果論的な法則的運動に求めた。この法則の客観的実在というレーニンの主張もまた、マッハとバッティングするところとなる。
 そして法則実在論を一九三〇年代のソ連において究極的におしすすめたコムアカデミア哲学研究所のミーチンらは、その共同著作『弁証法的唯物論』(ミーチン監修、廣島定吉訳。ナウカ社)で次のようにのべている。
 「われわれがもっと複雑な物理化学的現象に、さらに進んで生物学的現象や社会的現象に移るときは……これらの場合には、原因と結果とは内的な必然的聯関にあるので、この聯関を理解することは、発展の合法則性から出発してのみ可能である。原因は単に結果を起こすばかりでなく、単に結果に移行するばかりでなく、与へられた原因の総体の存在は、さらに必然的に与へられた結果の存在を前提とする」(二九〇頁)。「所与の現象の反復を引き起こし得る根本的な原因を探し出し、この根本的原因を、特殊な一般的原因から区別することも重要である」(二九四頁)。「原因について論ずるには、原因中に交互作用の出発点のみならず、所与の対象を引き起こし、生起させ、一定の仕方でそれを再生する規定的条件があることを、力説することが重要である。諸現象の関数関係だけを論ずることは、実は諸現象の交互作用の客観的基礎にまで達しようとせずに、諸現象の相互聯関の確認にのみとどまる」(二九三頁)というわけである。つまりミーチンは絶対的な形での因果性にモメントをおいた法則なるものが客観的に実在しているといいたいのである。ミーチンは函数関係を「聯関の確認」などと断定しているが、その根拠はしめされていない。諸現象の函数的関係とはどういうことか、マッハはのべている。
 「旧来の因果性の表象は多分に生硬であって、一定量の原因に一定量の結果が継起するというにある。ここには四元素の場合にもみられるような一種の原始的・呪術的な世界が露われている。このことは原因(Ursache=原事象)という言葉からして明白である。自然における連関は、ある与えられた場合に、一つの原因と一つの結果とを指摘できるほど単純なことは稀である。それで、私はずっと以前、因果概念を函数概念で置き換えようと試みた。すなわち、現象相互間の依属関係、より精密にいえば現象の諸徴表相互間の依属関係で置き換えようとした」。これらは「相互的な共時聯関」(マッハ前掲七七~七八頁)だという。
 廣松のいうところでは次のようになる。
 「例えば、物体が千仭の谷に『自由落下』していく場合、この物体の加速度は地球という質量塊の引力(原因)の結果だとされるのが普通である。しかし、この物体が現実におびる加速度は、大気の抵抗、したがって物体の形状によっても規定されるのであり、周囲の山からも引力を受ける。物体の加速度はこれらきわめて多くの要因によって規定されているのであって、決して地球の質量によって一義的に決定されているわけではない。そのうえ、地球の引力は一方的な原因なのではなく、実は地球と物体のあいだには相互作用が成立しているのである。両々原因であると同時に結果でもある等々」(廣松「マッハの哲学」マッハ前掲書三五二頁)ということだ。
 まさにミーチンの言っている〈関数関係は「連関の確認」にすぎない〉などという言説が、全く的外れな批判だということがわかるだろう。まさにミーチンは「根本的な原因を探し出す」などとして原因の実体化をおこない、それを通じて機械論的因果論に結局は陥没しているのである。
 マッハにより斥けられた、かかる因果律的決定論の概念をモーターのひとつにしているレーニンの法則観について、その法則なるものの物象化の機制をみておこう。
 法則はマッハによれば「法則とは知的労働を節約するための縮約的記述である」とされる(同三五三頁)。これは廣松の法則観と相即する。
 廣松は述べている。「個々の法則についていえば、ある種の状態が一定のあり方で随伴、継起すること、この予期的現認が恒常的に充足されること……この現象を斉合的・統一的に説明すべく事象が規則的拘束に服しているという擬人法的な暗黙の想定のもとに、構成的に措定されたもの」(『存在と意味』第一巻五〇六~五〇七頁。岩波書店)ということである。諸関係が生みだした法則という認識から逆に諸関係を「法則が支配する」という想念がうまれるのだ。これを法則の物象化といい、法則なるものが事象を動かしているという『了解』が成立するのである(前掲四八五頁)。まさに法則の客観的実在性という形而上学に陥没することになるのである(くわしくは本書「廣松哲学とエンゲルス主義」を参照してほしい)。


 ●─ ニュートン古典力学への批判とマッハの時間・空間論

 以上の機械論的因果論への批判は、ニュートン力学への以下の批判をベースとするものである。 かかるマッハの要素複合体という概念が、ニュートンの絶対空間・絶対時間の観念を解体することになるのである。
 ニュートンは『プリンキピア』において「絶対的空間は、その本性上いかなる外のものとの関係をも有せず、常に同形的であり、不動である。相対的空間は絶対的空間の或る可動的な次元または測度であって、これをわれわれの感覚が物体に対するそれの位置によって決定する」と定義している。
 廣松は「この命題に対して、マッハ哲学の立場からすれば……(絶対空間は─引用者)経験的には確証することのできぬ単なる思考上のもの」であって、「力学の諸定律は、すべて物体の相対的位置と運動とに関する経験〈を縮約的に記述したもの〉である」と(「相対性理論の哲学」廣松渉著作集第三巻所収。四二四頁)。
 廣松はマッハの「運動一般が相対的である」という説明を紹介する。
 「『物体Kの運動は他の物体群ABC……との関係においてしか判定することができない。われわれはいつも十分な数の相対的に静止している物体ないしは極めてゆっくりとしか位置を変じない物体を役立てることができるので、特定の物体を指示することなくして、あれこれの物体を適宜に無視することができる。このため、物体群は端的に無関係だという思念が生ずる』。しかし実際には、物体群との相互関係をはなれて運動なるものが存立するわけではない。『物体Kがその方向と速度とをもっぱら他の一つの物体K'の影響によって変ずるというとき、物体Kの運動をそれに微して判定する別の物体群ABC……が現前しないならば、われわれは決してKがK'の影響で方向と速さとを変ずるという洞見に達することはできないであろう。それゆえ、実際には、われわれは物体群ABC……に対する物体Kの関係を認識しているのである』。ここでもし『われわれが突然ABC……を捨象し、絶対空間内におけるKの動向を云々しようとするならば、それは二重の誤りをおかすことになろう。第一に、われわれはABC……が実在しない場合に一体Kがどのような動きを示すかを知らないし、第二に、物体Kの動向を判定し自分の主張を検証すべき一切の手段を欠くことになり、従ってわれわれの立言はいかなる科学的な意味をも有せぬことになろう』。
 このゆえに、運動は……いっさい相対的であり、絶対空間内における絶対運動という思念は、発生論的な根拠は肯けるにしても、客観的に存在するとはいえない。『物理空間は物理学的諸要素相互間の或る特別な依属関係』なのであって、……絶対空間なるものは単に思考されただけのものである」(四二五~四二六頁)。
 絶対時間も同様に批判することができる。ニュートンは絶対時間を次のように定義している。
 「絶対的な・真の・数学的・時間はひとりでに、それ自体の本性から、いかなる外的なものとの関係もなしに、一様に流れる。……相対的な・見掛け上の・通常の・時間は、或る可感的・外的な測度─運動という方法による測度─である」と。
 廣松はマッハを援用する。ある〈事物の変化を時間で測ることはできない〉のである。「『事物Aが時間につれて変化するというのは、事物Aの状態が他の事物Bの状態に依属しているということの縮約的表現である……一切は相互に聯関しているのであって、われわれは〈絶対的な基準となる〉特定の尺度をもちあわせてはいない』。『それは余計な形而上学的概念である』」と。
 ここでのポイントは「共同主観的な時間体系、従ってまた物理学的な時間体系は、物体間の位置関係に定位して─平たくいえば時計の針が動いた距離、天体が動いた距離、等々に定位して─組み立てるしかなすすべがない。言い換えれば、時間測定と称されるものは、結局において空間的規定に帰着する。この故に、要素一元論的世界観や操作主義といったマッハ哲学の立場からすれば、物理学体系の原理論においては、『時間という独立変数を消去してそれを空間的規定の指標によって代置すべし』という提題が当然の要求となる」(同四三二~四三七頁)ということなのである。
 まさに時間・空間は「物理学的な聯関においては、感官感覚によって特性づけられる要素相互間の函数的依属関係」(『感覚の分析』二八二頁)だとなるのである。
 まさにマッハはつぎのようにニュートンの時間・空間論を批判的に総括してみせたのである(『時間と空間』野家啓一編訳。法政大学出版局)。
 「ニュートンにとっては、時間と空間とは何かしら超物理学的なものであった。つまり、時間と空間とは直接に到達できるものではなく、少なくとも厳密には規定できない。依属関係をもたない(独立の)原変数なのであって、それにしたがって全世界が方向づけられまた統御されるものなのである。空間が太陽を回る最も遠い惑星の運動をも律しているように、時間もまた最も遠い天体の運動と、ごく些細な地上の事象とを符号させているのである。このような理解を通じて、世界は一つの有機体となる。あるいはこういった表現を好むのならば、一つの機械となるのである。そこでは、一つの部分の運動にしたがってすべての部分が完全に調和しながら動いており、いわば一つの統一的な意思によって導かれている」(一四四頁)云々。
 このような力学的自然観、因果論的・機械論的決定論がニュートン物理学の考え方であり、その考え方をマッハが函数的依属関係という考え方によって否定したということがおさえられなければならない。
 まさに野家が巻末解説においてアインシュタインを引用しているように「一九世紀において、空間という概念を排除することを真剣に考えた唯一の人はマッハであった。マッハは彼の試論において、空間をあらゆる質点間の瞬間的な相対距離の総体という考えでもって置き換えようとしたのであった」(アインシュタイン全集第三巻。四〇三~四〇四頁参照─引用者)ということだ(前掲二一八頁)。まさにこのようにマッハ哲学はアインシュタインの相対論を切り開いた科学哲学だったのである。
 そこで本論の次の幕はアインシュタインが開けることになる。


 ●─ アインシュタイン相対性理論における観測結果の相対性

 ニュートンの古典物理学では、物質の運動は絶対空間に対する運動ということに整理され、物質的諸関係は幾何学的な因果律によって運動する有機体として考えられた。絶対空間・絶対時間というものを「絶対的な座標系」としていたのである。つまりこれに対しアインシュタインは反対の方法をとったのである。ニュートン物理学にあっては「知覚的経験現相(経験としてあたえられた或ること─引用者)を超絶する独立自存の絶対的実在を前提・出発点にして、運動学を構築した。それに対して、特殊相対性理論におけるアインシュタインは、あくまでも経験的現相に定位しつつ、それを可能ならしめている条件の分析に即して時間論・空間論……を構築して行く」(廣松『哲学入門一歩前』講談社現代新書。一〇一頁)ということになる。例えば同時刻の相対性ということが措定される。
 おなじ時間がそれぞれの慣性系で異なる実験として、有名なものに次のような実験がある。廣松の解説によって考えていこう。
 今、二人の観測者は、等速直線運動をする電車がその中央で点灯したところを「車中」と「地上」から各々観測している。
 「今、電車が真直な線路上を走っている。この電車……の中央の実験台上に電球が固定してある。電球に点灯した! さてどうなるか? 車中の観測者にとっては、当然、光は車輛の先端部(前壁)と後端部(後壁)とに同時に到達する。では、この事件を地上から観察した場合にはどうなるであろうか? やはり、前後壁に同時に光が到達するであろうか?」(前掲一〇六頁)。
 「古典理論では、飛行機上から発射した弾丸のように、光の速度と電車の速度とが代数的に加算される。従って、前壁に向かう光の速度と後壁に向かう光の速度とに差があり、前壁までと後壁までは走光距離が違うが、速度のほうも違うので、到着時刻は同時という結果になるはずであった」(前掲一〇七頁)。しかし「光速度一定」という「相対性理論の第二前提のもとでは、そうはならない」(前掲一〇六頁)のである。
 つまりは地上の観測者にとっては、前壁と後壁への光の到着時刻は相違するということになる。この場合、列車の進行方向に対して、車輛の後壁は中央で点灯した点へと走行するので点灯点への距離が短くなる。車輛の前壁は点灯点より先へ進むので点灯点から距離が長くなる。光速度は一定なので、後壁に先に光が達することになるわけである。
 これは車中の観測者と地上の観測者の位置している慣性系の違いから異なった観測がなされるということだ。それぞれの慣性系で異なった時間が流れているということになるのである。すべての慣性系をつらぬく〈時間なるもの〉は存在しないのである。
 「こうして、相対運動をしている一方の系では同時刻に起こった事件が、他方の系では別々の時刻に起こったことになる!」(前掲一〇七頁)。
 さらに電車の長さも観測者の位置で相違する。車内の乗客にとって動いている電車の長さと、例えばこの電車を見ているプラットホームにいる駅員にとっての電車の長さも異なる。運動している座標系では、進行方向に長さが縮むのである。「動いているもの(の空間)は縮む」ということだ。
つまり、時間、空間(長さ)は慣性系によって異なるということが相対論でいわれる特徴である。
「相対性理論によれば、物理的時間や物理的空間というものは、こうして、観測系(観測者)と相対的である。相対論的時空間は、もはや絶対的実在ではなくなっている」。「観測者という要因を導入して言えば、系Sに属する観測者S氏と系S'に属するS'氏とのあいだで」各々「対自的な現相」と「対他的な現相」とは相互共軛的に相違しはするが、それら相違する現相(あるがまま─引用者)的測定値を整合的・統一的に定式・措定する相、それが物理的実在相にほかならないものと見做される所以となる」(これは「質量」についても同じと廣松は説明している)(前掲一一〇頁)。
 「こうして、観測者による間主観的(共同主観的……)な測定・定式ということを離れては、もはや、空間と時間という物理的実在相の措定が意味をなさない」(前掲一一〇頁)となった。
 こうして、アインシュタインはどのような観測においても絶対的な結果をみちびく運動法則があるという自然観を唱える古典物理学のパラダイムをチェンジしたのである。本論ではこれ以上、相対性理論には論脈上ふみこまないこととする。
 本論の舞台は以上を踏まえ、量子力学への舞台回しとなる。タイトルは「不確定性関係」である。 (つづく