2013年10月27日日曜日

左翼エスエルから見たロシア農耕共同体問題の全体像


左翼エスエルから見たロシア農耕共同体問題の全体像

★長文になりますが、ここで左翼エスエル指導部の一人でボリシェビキとの連合政府=人民委員会議の司法人民委員だったI.スタインベルク(第二次大戦後まで生き残った)『左翼社会革命党1917――1921』(鹿砦社)「第19章 ロシアの農民」より、ロシア農業農民共同体問題のポイントとなると考えられるものを引用します。
 

①などの〇番号と見出しは引用者でつけたものです。

①ロシア農耕共同体
「ロシアの農民は、オプシチーナあるいはミールと呼ばれるその土地共同体の根深い諸伝統を革命にもちこんだ。農民人口の5分の4までが、オプシチーナの構成下にある土地で、その諸原理に従って働いていたのである。この制度の主要な原理とは何であったのか? 第1は、土地の共同所有権、第2は土地に対する全農民の権利。第3はオプシチーナにおける共同体的管理運営。(中略)農奴であった時ですらも、農民たちは確信に満ちてこう言うのであった。「わしらは御領主様の物だ、けど土地はわしらのものさ」と。
 彼らはオプシチーナに所属しており、そのことは、一種の直接民主制である農民スホード即ち、村の寄合であらゆる決定がなされることを意味していた。オプシチーナは、その成員の間での種種の土地の配分を決定した。どの農民も自分と自分の家族が耕作するだけの一片の土地への権利を有していた。この意味において権利の平等は広く行きわたっていたのである。新たな世代のためではなく、すべての者にこの権利が保証されることを確保するために、定期的な土地の割替が行われた。そしてこの習慣が、土地は「わしのもの」ではなく、皆のものだ、といった農民の信念を増大させたのである。かくしてこの土地に対する権利というものが、農民経済が、ただ、「売却、購入、そして相続」に立脚しているにすぎない国々とは異なった社会的倫理的風土と社会的諸関係の体系とを創りあげたのであった。
 
 なるほど、オプシチーナは、ツアーリ政府とその徴税政策の重圧のもとに置かれてはきた。だが上からの圧迫は、その内的な様式を変化させることができなかった。1906年、ツアーリの大臣ストルイピンは、農民にそのオプシチーナより離脱する「自由」ならびにひとつかみの土地の私的所有者となることを認める有名な仕事を布告した。その目的とするところは、新たな何百万という小ブルジョア的農民階級を創り出すことによって、くすぶりつつある革命の焔を消しとめることにあった。しかしながら、この機会に乗じてオプシチーナを破壊しようとした者はほとんどなく、しかも1917年に革命が勃発すると直ちに、多くの者が自発的にそこへ帰っていったのであった。
 

 これこそ、ロシアの農民たちが偉大な動乱に対して献げた共同体的生活経験という社会的精神的資産だったのである。それは農村だけに行きわたっていたのではなく、ロシアで一般的であった協同組合運動の中にも見うけられた。ロシアの職人たちもまた、その多数が都市の工業労働者となる以前は、アルテリという労働組合に広範に組織されていたのである。良きに突け悪しきにつけあらゆる機会に、彼らは、農村におけるオプシチーナの都市版であるアルテリの原理へ引きつけられたのであった」。
 

②土地社会化法の成立(19181月)
「ロシア農業革命の先触れとなった土地社会化法についてさらに注意深く検討してみよう。この法令は、はやくも19175月、ペトログラードにおける第1回農大会でその大要が定められていたのであった。(中略)この作業は、第3回農民大会が(ペトログラードにおいて)初めて第3回労働者兵士ソビエト大会と合同で開催されていた19181月に完了した(この大会で採択された引用者)。900名のプロレタリアートの、そして600名の農民の代表が、ロシア勤労人民の統一を、《レーニンとスピリドーノワの握手》に象徴される統一をうちたてたのである」。(注:マリア・スピリドーノワ。左翼エスエル最高指導者。1917年10月革命以降の農民ソビエトの議長。スターリンにより1941年9・11メドヴェージェフスキーの森で銃殺刑。享年56歳――引用者)
 

「彼らの最終的な条文は以下のようなものとなった。『土地、鉱石、水、森林もしくは他の天然資源に関する種種の所有権(国家的所有もふくめて!)はロシア・ソビエト連邦共和国の領土において永久に廃止される。』
この冒頭の宣言に、全ロシアを新たなる土台の上に組み立て、土地総割替(チェールヌイ・ペレジェール)即ち全面的土地再分割という農民の長年の夢を実現した一群の条項が続いた。引用されているのは第2,3,4条である。『土地は、無賠償で全勤労者の使用に供せられることになる』『土地の使用権は、自らの手で労働するもの(つまり、賃労働を雇用しないもの)にのみ属するものである』『この土地の使用権は、性別、宗教、国境もしくは市民権を理由として制限されてはならない』(中略)「ゼムリャー・イ・ヴォーリャ(土地と自由)というスローガンは、もはや一国的性格を脱して、世界性を獲得せんと渇望していた」。

(●●●引用者・KANAMEの注;  但し、「模範農場」の規定にはソビエトが農場を「《国家》により支払われる労働で耕作する」規定、「《労働者統制》の一般的基準に従う」規定の両規定が併記されている(前者規定=ボルシェビキ、後者規定=左翼エスエル)ことに見られるように両者で論争がおこなわれたことが反映されている)

③農民革命(191719185月)
「『実際に生じつつあった事態とは、村民による仲間うちでの土地の割替ということだったのだ。小地主や富農は、その土地の大部分を多くの子供をかかえた家族へ譲り渡し、不平を一言ももらさずに自ら滅びつつあった。一週間後には全員が耕作のために畑へと戻り、こうして再分割は完了したのである。』(著者スタインベルクによる、1923年の内にユーゴスラビアで刊行された雑誌『ルースカヤ・ムイスリ(ロシアの思想)』でのレポートからの引用引用者)
 

(中略)こうして19184月に、ロシアの農民たち土地所有者たちはその所有地を社会的精神的解放のための共同資金へと投げ出したのである。当時の彼らの支払った犠牲というものは、もう一つの事実これも劣らず重要なことではあったがすなわちロシアにおける封建的地主制の崩壊よりも、なお重いものだった。
(原注)『1917―1918年の期間に、共同体(コミューン)によって再分割のために没収された土地の総面積は農民からのものが約7000デシャチーナ(18900万エーカー)そして大土地所有者からのものが約4200デシャチーナ(11400万エーカー)と見積もられていた。大領地からのよりも、農民の所有地からより多くの土地が取り上げられ(貯えられた)(プール)のである。(以下略)』(著者スタインベルクのディヴィット・ミットラー『農民対マルクス』よりの引用文引用者)」。
 

④―A レーニンの食糧独裁令(1918年5・13)
1918年の春、ブレスト=リトフスク講和条約締結直後のことであった(左翼エスエルは講和反対で人民委員会議(政府)から脱退。ソビエトには議員が存在する引用者)。我々は、このいわゆる講和がロシアに、とりわけ都市部に深刻な衝撃を与えたことをすでに知っている。それは、新たな困窮、飢え、政治不安をもたらしたのであった。ドイツ人は食糧生産地域の広大な部分を占領し、中央ロシアをその供給源から切断していた。政府は、力づくで農民からパンを挑発することを決定した。

 ボリシェビキはこれ以上ひどい災厄を呼び寄せることはできなかったであろう。農村は、その精神的熱狂の再高揚期を通り過ぎたばかりであった。農村は自己を地主のくびきから解き放っただけではなく、その日常生活における経済的・社会的平等化への基礎をも築いたのであった。(中略)人民にとって必要不可欠な商品の生産者である農民が、都市の工業労働者との友情の絆をすぐにも創りあげるのは、当然のことと思われていた。その時になって突然、ボリシェビキ国家は、彼らに対して何か階級闘争の如きものをしかけたのだった(5月食糧独裁令のこと引用者)。

 農村そのものにおいて、ボリシェビキ再びその旧式の理論(カウツキーに影響された「小ブル=農民層の資本家と労働者への階級分化・両極分解」の教条的な理論引用者・KANAME)へと後退したは、勤労農民に、《小ブルジョア》、商売気や私的取引や本来的貪欲さにかぶれた人間という烙印を押しつけた。彼らはほんの少し残っていた《貧民》を圧倒的な農民大衆に敵対させるために組織した、つまり彼らは《貧農》のソビエトを設立したのである。こうして彼らは、自らの手で新たな革命的農村の基礎を破壊することに着手した。

  けれども、それでさえも十分ではなかったのだ。彼らは何千人という特別に組織された工業労働者を《パンの徴発》のために農村へと送り込んだ。本書の他の章、とくに「ボルシェビキ・テロル発動す」は、これらの部隊これは抵抗する農民たちに対する懲罰遠征隊にしばしば早変わりしたのだががいかにそのプロレタリア的参加者を堕落させ、信じ難い残虐行為へと導いたかを詳述している」。

④―B スターリンの農業集団化(1929年~)へ
「都市への一層迅速なパンの供給を保証するために、政府は農村における経済組織の新制度を布告した。コルホーズ(集団開拓地)およびソフホーズ(国営農場)である。ソフホーズは《実際にはパン製造工場》とでもいうべきものであった。


 即ちそれは、巨大な土地を中央集権化された擬似産業体に転換したものであり、そこでは農民は賃労働者として働くこととなっていたのである。
コルホーズは、共産主義的精神で共同の農業単位を確立するためのものと主張された。けれどもそうした精神は、かつて土地革命を鼓吹したオプシチーナ精神とは天と地ほどにも異なっていた。それは農民の自由な決定と国家の強制との間の差異であり、農民たちの中から生まれた共同性と上から押しつけられた統計学的官僚主義的平準化との差異であったのである。
 ボルシェビキ的な農業形態の中では、ロシア農民の固有な伝統は、もはやいかなる役割をも果たさなかった。今よりのち、農民は(その軍務に加えるに)都市にパンや他の原料を供給するための物理的経済的道具という存在にすぎなくなったのだった。旧きマルクス主義的処方箋が、今や武装せる国家権力の援助の下に、至る所において勝利を収めていた」。


以上がスタインベルクの分析と主張です。

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●●●スターリンによる農業集団化をめぐって
                                            by  Kaname



 工業化のための農業の集団化政策は、そもそも1920年代におけるトロツキー派経済学者のプレオブラジェンスキーが『新しい経済』(1970年代、現代思潮社から翻訳書が出た)などを書き、そのなかで「社会主義的原始的蓄積」を提起し、社会主義の「労働者国家」における、農耕共同体経済などに影響力を持った(国有工業化に対して独自の)市場的経済調整力の解体、農民層の労働者化と工業化のための農業に対する不等価交換の政策を提唱したことを始まりとしている。当初、スターリンは、これに対し労農同盟の破壊だとしてブハーリンらとともに反対していたが、トロツキーを追放した後、この工業化政策の考えを取り入れた(トロツキー派の工業化路線それ自体を取り入れたわけではない)。手法は「取引税」である。




「取引税」システムは、工業化のための不等価交換、間接税などから形成される。例えば国家の穀物調達組織が農民から買い取ったライ麦価格をその買い取り額の例えば4倍の金額で国営製粉所に売り、それで得た収入を工業化にまわす。この場合、買い取りには低価格が強制されたため、これが実質的に税の機能を果たしていた。


さらに農業の集団化はそれによって生成した過剰人口を工業労働に組織してゆくことになったのであり、それは、ボリシェビキの近代生産力主義・開発独裁としての工業化論においてはまさに、必然的な過程にほかならなかったのである。
 こうした経緯のもとで、スターリンは1930730日、オプシチーナ、ミールを解体する法令を公布した。


宇野弘蔵系列のマルクス経済学者渡辺寛はのべている。

「スターリンが粗暴な両極分解論に拠って、「階級としての富農の絶滅」を命令し、富農の生産手段(土地、生産用具)の集団農場への没収をすすめるにつれて、それは農村住民に恐るべき影響をもたらした。富農とみなされ土地を没収され追放されたもの、およそ550万人の多くはシベリアに追放され」(渡辺『レーニンとスターリン』194P以降)た。「富農と中農を区別することは実際には困難」であり、中農にも追放はおよび、中農は、自分たちの家畜を大量に殺処分して富農ではないということを表明せざるをえなかった。

 「32年にはロシアの農地の7割は集団化され、穀物生産も28年に対して2割以上の増加をみせた」。だがスターリンは、「31年の集団化計画の完了とともに」第一次5カ年計画のなかで、富農とその支持者がコルホーズとソフホーズに紛れ込んでいるから、摘発せよとして、30年代における大テロルの時代、国内粛清の時代を展開していったのである。
 

 ロシア農耕共同体を破壊した近代は、資本主義ではなくてボリシェビキだったのだ。レーニンの「ロシア共同体消滅」論自体は、ここでも、あらためて、検討することになります。

だけど、字だけのものを二つもつづけてしまったので、次は、いくつかの映像を見ることにしましょう?