ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム
渋谷要
最終更新 2022・02・21/22:20
※断り書き――本論は「反ワクチン論」ではありません。むしろ、世界的なワクチン流通・分配の南北格差を批判する立場です。
<目次>
●ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム
【第一節】 パンデミックの発生と二〇二二年冒頭の経済状態の概観
【第二節】 感染症とグローバリズムによる環境破壊
【第三節】 人類の未来について――感染症の各種分析
●【学習ノート】 新型コロナウイルスの<機制>に関するノート――特に、その「重症化」(⇔サイトカインストーム)との関係で
●【注解ノート】 資本主義と「資本の回転」についてのノート――パンデミックによる経済循環の破壊についての分析の前提となるもの
【第一節】資本主義的搾取の基礎について
【第二節】資本論第二巻第一編 資本の諸変態とその循環
【第三節】資本の現実の運動構造を分析する――「第二編 資本の回転」
【第四節】資本の再生産の機制――資本論第二巻第三篇「社会的総資本の再生産と流通」
●【本論全体の結語として】 「再生産」とパンデミックーー文明史的意味が問われている
―――――
●ノート:コロナパンデミックとグローバリズム
【第一節】パンデミックの発生と二〇二二年冒頭の経済状態の概観
●新型コロナ・パンデミックの発生
二〇二〇年一月三〇日、WHOのテドロス事務局長は、「新型コロナはPHEIC(国際緊急事態)を構成する」との声明を発表した。
IHR(国際保健規則)第一条(定義)は、「PHEICの基準として(1)疾病の国際的拡大ににより他国に公衆衛生リスクをもたらすと認められる事態(2)潜在的に国際的対策の調整が必要な事態」である。二〇二〇年二月一一日、WHOは、新型コロナウイルスの正式名称を「COVID・19」(コ―ヴィッド・ナインティーン)――ハイフン・が正式表記だ――と発表した。これが、一か月ほどで「コロナ・パンデミック」と呼ばれる(WHO三月一一日表明)ようになる最初の経緯だ。
この感染症を「原因不明の肺炎」として、最も早く公式に認めたのは、二〇一九年一二月ごろ、WHOと中国政府によるものだった。地域は中国の武漢市だった。一二月中には、武漢の専門家チームが、調査を開始する。そして、二〇二〇年一月、肺炎患者から新型コロナウイルスを検出、中国国営メディアが報道した。この一月、武漢での死亡例が発表された。全世界に感染は拡大し、パンデミックがはじまった。日本でも、この月、感染が確認されている。この発生源は、まだ特定されていない(二〇二二年二月現在)。
このパンデミックの定義を専門家の説明で確認しておこう。典型例は「スペイン・インフルエンザ」だ。この感染症に関しては本論においても、何度か触れることになる。
「特定の地域で限定的に流行するのがエンデミック(地域流行)です。…これがもう少し広がって、特定の社会・共同体で短期間に予測を越えた感染の流行が起こっている状態がエピデミック(流行)です。そのような感染の急激な発生をアウトブレイク(集団発生)といいます。エピデミックは、ときには、突然、国や地域を越えて感染が広がることもあります。ただし、その広がりは一時的です。……SARS(重症急性呼吸器症候群)やMERS(中東呼吸器症候群)はこの例です。エピデミックからパンデミックになりかけたところで感染が止まりました。これに対して、流行が国や大陸を越えて世界的に大きく広がったものがパンデミック(世界的大流行:パンはすべてという意味です)です。その典型例が一九一八年に起こったスペイン風邪です。世界の約三分の一の人が感染し、約五〇〇〇万人の死者が出ました。鳥インフルエンザウイルス由来のインフルエンザウイルスHINI型が病原体でした。パンデミックを起こす病原体は、動物からヒトに、さらにヒトからヒトに感染するような変異をした、ヒトが経験したことのない新しいものです。このために、われわれのからだの免疫系がすばやく反応を起こすことができず、特に最初の感染をうまく防げないことがしばしばです。その間に感染が広がり、病原性の高い病原体の場合には重篤な結果をもたらすのです」(宮坂昌之『新型コロナ 7つの謎』、講談社ブルーバックス、二〇二〇年、一七~一八頁。以下、宮坂本とする)、ということだ。
●パンデミックと産業・商業変動の現実(二〇二二年二月)
新型コロナ・パンデミックとその被害などの最終の規模・数字的データは、あきらかではない(二〇二二年二月現在)。故に、本論では、数字表現は、可能な限り自粛する方針である。だが必要だと考えられるものは論述する。現在(二〇二二年二月)の時点では、二月九日(日本時間)に、米ジョンズホプキンス大学の集計で、感染者が四億人を越えたとの発表があった。合衆国は7700万人で最多。インドが四二三〇万人、ブラジル二六七〇万人、フランス二一一〇万人、イギリス一八〇〇万人(すべて約数)などとなっている。この一月七日の集計で三億人をこえたばかりだ。「オミクロン株」の感染力の表現でもある。それでも、今年にはいって欧米は感染者数は減少傾向にあるといわれている。こうした状況を注視していく必要がある。
コロナ禍のパンデミック(世界的大流行)が発生して約一年後、二〇二一年二月二六日、ジェトロ(日本貿易振興機構)は、ジェトロで実施した「二〇二〇年度 日本企業の海外事業展開に関するアンケート調査」を公表した(JETRO電子版)。そのトップにある見出しが「新型コロナによる日本企業の海外売上高への影響、色濃く」という見出しでのデータだ。
「本調査では、新型コロナの拡大が自社ビジネスに与える影響を尋ねた。新型コロナの拡大による二〇二〇年度の売上高への影響について、海外向けにビジネスを行う企業の六四・八%が、海外での売上高に「マイナスの影響(がある)」と回答した。二〇二〇年度の海外売上高への影響について業種別にみると、主要国市場の低迷から「自動車・同部品/その他輸送機器」でマイナスの影響を受ける企業の割合が高い結果となった。他方で、需要が底堅い「飲食料品」では、プラスの影響があるとの回答が一三・九%と相対的に高い」。
「それでは、どのような面にマイナスの影響を与えたのか。マイナスの影響の最大の内容として、国内、国外いずれも七〇%超の企業が「販売」を挙げた。特に海外での販売面での具体的なマイナス影響としては、『ロックダウン』を挙げる企業が目立つ。日本国内よりも厳格なロックダウン(都市封鎖――その地域での商業・産業活動の規制……引用者・渋谷)や、渡航制限の影響が強く出たものとみられる。具体的なコメントとして、ロックダウンによる『取引先の休業』(印刷・同関連、中小企業)、『商談の中断』(プラスチック製品、中小企業)、『店舗休業』(商社・卸売り、大企業)などの声が寄せられた。ロックダウンによる現地需要の低下が、日本からの輸出減少、さらには日本企業の売り上げ減少につながった」。
こうした傾向は、二〇二一年度もつづいている。コロナ禍の半導体不足なども懸念材料の一つだ。半導体を必要とする業種、たとえば自動車の減産も深刻化している。
さらに、感染の急拡大に対する「緊急事態宣言」や「まん蔓延防止等緊急措置」などで、そのたびに、お店の協業や短縮、酒類の提供停止や自粛を余儀なくされてきた「飲食業」などは、極端な減収においこまれており、閉店するお店も続出している。もちろん、観光業などは大打撃だ。他方で、家電メーカーなど、いわゆる「自粛での巣籠需要」で営業成績をのばしている業種もあるが、総体的に経済活動の縮小は基調的なベクトルとなっている。労働者階級の状態では、日本の労働者階級で約四割をしめる(総務省「労働力調査(詳細集計)」などによる)といわれる非正規雇用労働者をはじめ、商業・産業の縮小と同時に、雇止め―解雇などが横行しており、失業者増大・生活困窮・貧富格差が拡大している。
感染の拡大で、生活苦が、子育て世代の親と子供や老人世帯などを直撃している。例えば、保育所や学校でのクラスターとかは言うに及ばず、例えば保育所が休みになり、親が働いていて、子供の面倒を見られない状況となり、親が仕事を休むしかなくなるとか、失業するとか、いろいろなことが起こっている。これに対し「子供食堂」など、いろいろな相互扶助がなされている。さらに、エッセンシャル・ワーカーが感染すれば、社会の基本的な機能が阻害される。エッセンシャル・ワーカーとは医療労働者、介護・福祉の労働者、運送・物流の労働者、スーパー・コンビニなどの労働者、電気・水道・ガス・通信・ごみ収集などに従事する労働者、農・漁業者などである。政府はいろいろな「給付金・助成金」制度の申請を簡略化して政策を立案・執行してきたが、その額だけでは、どうにもならないのが実情だ。それが、一般的な見方だと、本論論者としては、考える。もっと構造的な改革と仕組みが必要だろう。それらの現状は、例えば少なくとも、メディアでも報道していることだ。
●医療法「改正」での病床削減問題
こうした状況に加え、コロナとの闘いの最前線では、とんでもない逆行まさに反動が、政府権力者たちなどの支配勢力によってくわえられている、日本では、特に21世紀に入り、本格的な医療削減計画が展開してきた。新自由主義の弊害だ。
2021年通常国会では、「医療制度改定一括法案――医療法等改定案」が、自民・公明・維新・国民民主の賛成で国会を通過した。この法制は、病院機能の削減を目的とする「地域医療構想」なるものの延長に、それを推進するシステムとして制定されたものにほかならない。
すでにリスト化している公立・公的病院の400以上の施設のリスト化をふまえ、「改正」医療法体制では、病院に消費税財源から病床削減に対する給付金を支払う。100%連日空きあるベッドがない病院を病症稼働率100%として、単価一床あたり、50%の病院には114万円、90%の病院には、228万円を給付する。この前提条件は、稼働している病棟の病床の10%以上の削減を前提とするというものだ。また、病院の統廃合を規定。
労基法36条にもとづく、36協定に関しては、一般的には残業時間の上限は年360時間(繁忙期など、それ以上働く必要から「特別条項付き36協定」があるが法定休日労働を除き年720時間とされている。また、月45時間を超えた時間外労働が許されるのは年6か月)とされているが、診療従事の医師は年960時間、地域医療診療確保の機関を特定したうえで、年1860時間とすると規定するなどとしている。また、医師の仕事を放射線技師などに割り振るなどで、医師不足を弥縫しようとしている。
また、この一括法案では、患者には75歳以上の医療費窓口負担の、原則1割負担を2割に引き上げることが可決された(「健康保険法等一部改正法案」)。
そもそも、この間、コロナ感染対応で、日本の保健所の数が問題となってきているが、1992年には800以上(これがピークといわれている)あったものが、2020年には500か所を切っているといわれている。病院施設・研究施設・マンパワーが総じて削減されているのだ。そうした中で、政府によるコロナ対策の不備と無責任が、国会でも指摘されてきたのである。
(※ 以上、企業関連、労働者雇用・生活関連に関する、これらの数字的表記については、現在進行中のことでもあり本論では不記とする)。
●ワクチン格差の問題
ここで、発展途上国などへのワクチン供給問題について、触れておこう。ここでは、経済問題としての側面を中心に言及する。
(※本論論者・渋谷は、いわゆる「反ワクチン」論者ではない。だが、「ワクチンの義務化」には反対する。各人のいろいろな医療的事情を考えれば、それは「必要とする人々」に、というフレーズが、妥当性を持っていると考えるものである。現行の日本における「予防接種法」も、そういう趣旨だと考える。この点、確認しておく)。
WTOでは、ワクチン・製薬などに関して、TRIPS協定というものに基づき、知的財産権の保護に関する制度の順守を規定している。その場合、とりわけ特許権が重要なものとなる。これにより、一定期間、製品の独占生産・販売などが約束される。しかし、先進国には販売されても発展途上国などには行き渡らないことが問題になってきた。コロナ・ワクチンもその例に漏れないことになった。そこで、南アフリカとインドが「ウェイバー提案」というものを二〇二〇年六月におこなったのである。
「ウェイバー提案」は、知的財産権の保護の「一時放棄」、先進国のワクチン独占の解除をもとめるものだった。これに対して、EU、イギリスをはじめ先進国は軒並み、反対してきた。これに対し、途上国六〇以上が賛成するとともに、合衆国、中国、ロシアなど、ワクチンの開発・生産が完成した国家は賛成している(二〇二二年二月現在)。これは、「ワクチン外交」のためにほかならない。米・中の間での貿易競争の一端がここにもあらわれている。
またワクチンの「ウェイバー提案」にたいしては、世界中で製品生産が認められれば、ワクチンを製造する原材料が不足してくるというリスクを懸念する見解がある。それは、確かにあるだろう。だが、発展途上国へのワクチン供給の低迷は、それらの地域での感染を拡大するため、労働力不足や、事業所の生産ラインの減速を結果する。これは例えば、先進国に必要な生産材(中間財)の生産が減速する・入らなくなるということだ。結果、先進国の生産が低迷し、経済的なダメージが経済全体に構造化していく。だから、ワクチンの特許権を免除せよという主張は、経済的な効率性から言っても、こういってよければ、資本主義的な妥当性をもっているのではないか。
だが他方で、特許独占権をパンデミック中は、ワクチンを開発した大手製薬会社が「一時放棄」すると宣言したとしても、世界中で、開発・生産の設備整備を、どのように展開するのか。ここには、先進資本主義国の生産諸力が、各個の企業の競争力(資本間競争)に規定されているという問題があるだろう。一言でいうなら、「特許独占」も、「一時放棄」も、資本間競争に圧倒的に有利な巨大製薬会社・多国籍製薬企業が、広い市場を形成してゆくということである。
端的に言うなら「特許独占を一時放棄」をしても、多国籍製薬企業が作り出した・あるいは流通させるワクチンは、どこに売られるかわからない。一番、利益が上がるところに売られていくだろう。それが資本主義だ。結局、ここにもコロナ禍が生産のグローバリズムに負の影響を与えているばかりでなく、そのしわ寄せが、グローバル・サウスに押し付けられているという、世界資本主義の構造的な問題が表出しているということだ。
こうした問題は、スペイン・インフルエンザ(一九一八~二一年ごろ)の分析においても、以下のような記述がみられる南北問題として存在してきた。
「留保付きであるが、朝鮮では、スペイン・インフルエンザによる死亡率がかなり高かったと言えるだろう。これは、朝鮮が流行期に寒冷であり、貧困な者はオンドルの燃料にも事欠いていたほどで、罹患者・死亡者が多かったに違いない。また、内地人と比べて、治療・入院などの措置は、朝鮮人には十分でなかっただろうから、この点でも被害を大きくさせた。目の前で日本人は厚遇され、朝鮮人に死者が続出する状景は、三・一運動として、朝鮮の人びとが、大正八(一九一九)年三月に蜂起した(「三・一独立運動」……大日本帝国の朝鮮総督府を執政機関とする植民地主義支配は「韓国併合」といわれているが、一九一〇~一九四五年に及んだ、そういう支配からの民族自決の闘いの一つ――引用者・渋谷)ことの一つの前提となったと考えられないだろうか」(速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店、二〇〇六年、四〇四~四〇五頁)。
まさに、今日的にも経済格差や、政治的抑圧――被抑圧という問題が、コロナ禍で、顕現している。だからパンデミックは帝国主義の問題と相乗「効果」をつくりだして、拡大しているのだ。
【第二節】感染症とグローバリズムによる環境破壊
●産業・都市の様態と感染症
感染症の拡大については、まず、産業と都市の構造との関係で、石弘之『感染症の世界史』(角川ソフィア文庫、平成30年・2018年)で、次のような論述がある。
「インフルエンザウイルスは、HIVと同じRNAウイルスに属し、哺乳類が一〇〇万年かかる進化を、一年でやってのけるほど変異が激しい。たえず変異を繰り返すので、ワクチンをつくっても完成するころには姿を変えていて、効かないことがしばしばある」(二二〇~二二一頁)。(※RNAウイルスの変異については、本論では第三節で述べている)。
こうした感染症を防ぐ基本は「接触しないこと」である。そして感染症の拡大は「密集・密接・密閉」などによる、この「接触」の強力な広がりにある。
「以前から存在した鳥インフルエンザウイルスが、なぜ近年になってこれほどまでに猛威を振るいはじめたのだろうか。カート・バンデグリフとら米国カリフォルニア大学サンタクルーズ校のグループは、地球環境の変化が影響したとみている。地質保全の国際機関、ラムサール条約事務局は。農地転換や開発によって過去半世紀に世界の湿地の五〇パーセントが失われたと発表している。カリフォルニア州ではこれまでに、湿地の九〇%を失った。日本でも五〇%が消失した。この結果、カモなど水禽類の越冬地は狭められて過密になっている。……以前に比べてカモのウイルス感染の機会が格段に増えたという。空気感染で広がるインフルエンザウイルスは、人口過密の高い「都市」に適応したウイルスだ。過去の大発生をみても、古代ギリシャ・ローマ、サンクトペテルブルグ(帝政ロシアー引用者・渋谷)、ニューヨーク、東京といった大都市で大発生した。そして、軍隊、工場、学校など人の集まる場所が、ウイルスの温床になってきた。人の密度の低いところでは、ウイルスは生きながらえることはできなかった」。そしてこうのべている。「一八世紀にイギリスではじまった産業革命と工業化によって、多くの人々が過密な大都市に住むようになり、インフルエンザ以外にも結核やコレラなど新たな大流行を経験するようになった」(二二一~二二二頁)と。
まさに感染症で、とくに、21世紀に入ってから、問題になっている一つに鳥インフルエンザがある。一つの養鶏場で感染が確認されるとその場所で飼われているすべてのトリたちが殺処分される。
鳥インフルエンザの「原因は畜産革命」だという。「この四半世紀に、世界的に食肉の消費が増加している。とくに、鶏肉の消費量は六倍近くになる。国連食糧農業機関(FOA)によると、世界で飼われている鶏は二〇一〇年には約二〇〇億羽になった。この一〇年で三割も増えた。このうちの二四%を中国が占め、アジア全体では五五%が飼われている。……世界最大の養鶏工場といわれるブラジル南東部のマンディケイラ農場は、八〇〇万羽を飼育、一日五四〇万個の卵を生産している。自然光や外気がほとんど入らない閉鎖式の鶏舎で、身動きできないほど多数の鶏を狭いケージに詰め込む。
鶏は、遺伝子組み換えトウモロコシのエサを与えられ、むりやり太らされる。四〇~六〇日間飼われるとベルトコンベアーで運ばれ、機械で自動的に食肉処理される。……ファーストフード用やスーパーの安いブロイラーは、もはや大量生産でコストを競う『工業製品』である。
豚の飼育現場も鶏と変わらない。豚も世界で約八億頭が飼われ、その六〇%までが中国産だ。最初にメキシコで出現した「豚(新亜型)インフルエンザ」は、進出してきた米国の大手養豚会社が経営する巨大養豚場が、発生源だったとみられている。ここで年間一〇〇万頭近い豚が生産され、その高密度飼育と不潔さで悪名高い養豚場である」(二二四~二二五頁)ということだ。
●グローバリズムの産物としての感染症
ポイントは、世界資本主義の永続的資本蓄積運動は、環境破壊をもたらすと同時に、その環境破壊を通じて感染症の世界的大流行=パンデミックを醸成・結果した。そしてそのことによって逆に、世界資本主義の資本蓄積運動=「資本の回転」を阻害し、破壊した。世界資本主義の自殺行為だ。そしてまた、そこで、生活の困窮に陥っている大多数の人々は、全世界の労働者階級・農民大衆である。
岡田晴恵『知っておきたい感染症【新版】――新型コロナと21世紀型パンデミック』(二〇二〇年、ちくま新書)は、次のように、感染症の社会的な様相を論述している。
「2011年10月31日、地球人口は70億人を突破し、2019年には77億人との推定されているが、スペインかぜ(スペイン・インフルエンザ)が流行した1918年ごろは18億人だった。第二次世界大戦後、人口は急増し、12年で10億ずつ増加している。
人口増加には、食糧増産が必要となる。人類はジャングルや密林などの開発を手掛けて、耕作地を拡げ、家畜を飼育して、食糧増産と供給を促している。さらに、居住区もそれらの開拓地に盛んに造られている。
野生動物の生息エリアに人が踏み込むことで、これまでは接触する機会の少なかった動物との接点ができる。野生動物は、様々なウイルスや細菌などの微生物の宿主として、これらを保有している。通常、それらの微生物は自然宿主とは病気を起こさずに共存しているが、人がそのウイルスや細菌に感染すると、発症し、ときに病原性の強い、致死性の感染症となることがある。野生動物に直接接触する機会としては、狩猟や肉を取るためなどの解体作業、ブッシュミート等としての経口摂取、さらに皮革などの利用における処理作業などがある。また、人が野生動物生息のエリアの近くに居住し、動物の排泄物や体液、血液などの触れることなどで、感染することも考えられる」(七五~七六頁)。
また社会構造の問題を軸に見るならば次のようなことになるだろう。
「現代では、文明の進歩と経済発展とともに人の交流は活発化、広域化している。その影響が野生生物の生息する地域にも及び始めている。密林周囲の村々と近隣の町や大都市が、車や鉄道でつながり、交通量とスピード効率も上がった。
都市には多数の人が密集して生活する場所が形成され、もしもそこに野生動物由来の新興感染症が侵入すれば、爆発的な流行が起こることになる。都市で流行が起これば、さらに人の移動によって、病原体が地方にも拡散していく。2014年のエボラ出血熱のアウトブレイクの要因としては、野生動物との接点のある村に留まっていた感染症が、都市に運ばれ流行を起こしたことが大きい。そして首都にまで入ったウイルスは、国際空港から航空機で新天地の大陸に拡散していくことも、21世紀の象徴的な感染症拡大の様式である。
地球人口の増加と高速大量輸送を背景としたグローバル化社会の中で、ここ40年、さまざまな新興感染症が発生し、流行を起こしては世界に拡散していった。エボラ出血熱の流行というウイルス学的には予測し難い想定外の事態も、21世紀における社会環境の変化が色濃く影響している」(七六~七七頁)ということだ。
以上に示されているように、21世紀世界の大量消費社会と、それを生産するグローバルな開発によって、新たな感染症のリスクが生み出され、猛威を振るってきたのだ。
●環境破壊・地球環境の変化に注目せよ
宮坂昌之『新型コロナ七つの謎』(講談社ブルーバックス、二〇二〇年。以下、宮坂本とする)、第一章「風邪ウイルスがなぜパンデミックを引き起こしたのか」では次のように言われている。これはパンデミックと言われるものの原因の分析だ。
「パンデミックの原因はいくつかあります。その一つは、経済の発展とともに起こる環境の破壊です。例えば森林などの自然環境の破壊により、野生動物と人間の距離が近くなり、そのために野生動物に感染しているウイルスがヒトにかかりやすくなることが指摘されています。エイズの原因ウイルスのHIVはアフリカの森林にいるサルに起源があると言われています。また、先に挙げたSARSウイルスも、新型コロナウイルスSARS-CoV-2も、いずれも元は森林や洞窟にすむコウモリに感染していたもので、コウモリとヒトとの距離がちかくなるなかで、やがてヒトに感染するようになったのです」(宮坂本、二四頁)。
これら人間と野生動物の距離の短縮の問題と同時に、地球温暖化との直接的な関係が指摘される。
「地球環境の変化、特に温暖化も、パンデミックに関わる大きな原因の一つです。温暖化が進むと、気温が上昇するだけでなく降水量も変わり、これにより特定の環境における病原体が増えたり、あるいは、感染症を媒介する動物が増えたり、その分布が変わることがわかっています。たとえば、世界全体で毎年二万人が亡くなるデング熱は、ネッタイシマカやヒトスジシマカが媒介するデング熱ウイルスによって発症する病気で、主に熱帯、亜熱帯で見られます。ところが最近の温暖化とともに、これらの蚊が世界各国で見つかるようになり、デング熱の世界的な発生域が広がるとともに発生率も高まっています。日本でもヒトスジシマカはもともと西日本が生息域だったのですが、次第に北上して、現在では秋田県や岩手県の一部でも見られるようになっています。日本でもデング熱の流行が起こる可能性があることを意味するので、警戒すべき現象です」(宮坂本、二四~二五頁)。
さらに、その温暖化が、これまで地球の奥底で存在していた、人類にとって未知の感染病原体に接触する機会の可能性に言及している。
「また、温暖化に伴い、シベリアの永久凍土やヨーロッパの氷河が溶け始めています。永久凍土や氷河の下からは未知のウイルスや細菌が出現してくる可能性があります。北極ではマンモスが凍った形で見つかることがあるようですが、マンモスが絶滅した理由の一つとして細菌やウイルスによる感染が挙げられています。これが事実とすると、凍ったマンモスから人類がほとんど見たこともないような病原体が見つかる可能性のあり」と記述している(宮坂本、二五頁)。
まさに、こうして免疫反応を起こすことができない事態が、今や、限りなく想定されてきているのだ。
「感染性や病原性を強くするような変異が起きて、しかも、元のウイルスとは異なる抗原性(=個体の体内で免疫反応を起こす力)を持つようになると、ヒトはうまく免疫反応を起こすことができず、結果的に、社会の中で感染が急速に広がるようになる可能性があります。インフルエンザウイルスの場合、トリやブタなどの複数の動物種が宿主となる可能性があり、……一つの動物種の細胞に複数のウイルスが感染して遺伝子が混ざると抗原シフト(新たな雑種ウイルスが形成されること――引用者・渋谷)という現象が起こります。実際にこのために、アジア風邪(一九五七年)や香港風邪(一九六三年)のようなパンデミックが起こりました」(宮坂本、三一頁)。
そこで、こうした環境破壊・気候変動に対する持続可能な社会の構築が、召されるべきだと述べられる。もちろん、その中にパンデミックから社会を防衛する検査ー医療体制の整備が要求されている。
「環境破壊も問題です。国際的な環境保護団体であるWWF(世界自然保護基金)は、人獣共通感染症によるパンデミックが今後も起こり続ける可能性があることについて警鐘を鳴らしています。彼らは、このような感染症が起こる原因として、(1)高いリスクを伴った野生生物の取引と消費、(2)森林破壊を引き起こす土地の転換と利用の変化、(3)非持続可能な形での農業と畜産の拡大、という三つの理湯を挙げています。これらの理由は、いずれも、われわれの社会が経済的メリットだけに注目するあまりに、無頓着に環境破壊を進めてきたことが原因だと思われます。また、これとともに、全地球的に気候の温暖化がつづいていることも環境破壊につながっています。……パンデミックに対する社会の防衛体制、特に検査体制、医療体制を築き上げることが必要です」(宮坂本、同上、三一~三二頁)と展開している。
【第三節】人類の未来について――感染症の各種分析
最後に、かかる感染症の症例を見ていくことにしよう。本論では、二つの事例を挙げ、その特徴と思われるものを取り上げたい。
感染症各種となるとウイルスの他に細菌なども含まれるが、ペスト、天然痘、コレラ菌、インフルエンザ、エボラウイルス病、エイズ、MERS、SARS、そしてCOVID-19などがある。ここでは、インフルエンザ、エボラウイルス病(エボラ出血熱)をとりあげよう。
●インフルエンザーーウイルス自体の特性(――変異)について
ここで、各種感染症の特徴をその病名に限って、見ていこう。まず少なくとも本論論者にとって、代表例とおもわれる「インフルエンザ」だ。
以下の文章は、普通、われわれがもつ、このウイルス感染症の不確かさにかんする疑問から解かれている(小田中直樹『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたのか 世界史のなかの病原体』、二〇二〇年、日経BPマーケティング、一四八~一四九頁。以下、小田中本とする)。
「人間において、予防接種があるのに毎年インフルエンザが流行するのは、ウイルスが変異して別のタイプになることが多く、その場合、予防接種の効力が低下してしまうからだ」。どうしてか。
「インフルエンザ・ウイルスが変異しやすいことには、二つの理由がある。
第一は、人間の遺伝子(遺伝情報)がDNA(デオキシリボ核酸)から成っているのに対して、インフルエンザ・ウイルスの遺伝子はRNA(リボ核酸)からなっていることである。DNAの基本的な機能が遺伝子の保存(遺伝情報の保存)なのに対して、RNAの機能は遺伝子の処理(遺伝情報の処理)であることから、RNAはDNAと比較して不安定であり、さまざまな要因にもとづく突然変異を生じやすい。具体的には、DNAは二本鎖構造をとるのに対して、RNAは一本鎖であり、損傷すると正確な修復が困難である。また、化学構造上、RNAの鎖はDNAより切れやすく、分解されやすい。
第二は、インフルエンザ・ウイルスの遺伝子がRNAで八つの分節にわけて保存されていることである。そのため、別種の遺伝子をもつインフルエンザ・ウイルスと出会うと、遺伝子交雑(くみかえ)が生じて、新しい遺伝子をもった別のタイプになってしまうことが多い。
RNAの鎖は切れやすいため、たとえば、一つの細胞に遺伝子が異なる二つのウイルスがとりつくと、しばしば、両者のRNAが切れ、クロスして接合し合い、新しい組み合わせの八つの分節からなる遺伝子をもったRNA、ひいてはウイルスが出来上がってしまう。これを『遺伝子再集合』と呼ぶ(〔 岡部他/二〇二〇〕八四頁)(――岡部信彦也『新型インフルエンザパンデミックに日本はいかに立ち向かってきたか』南山堂、2020、――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)」。
(※ 以下、小田中本の引用文をしめす〔〕内の文字につづき、(――)でもって、示した引用文の紹介文字は、小田中本の、二一八~二二三頁にある【引用・参照文献リスト】から、引用者・渋谷が援用して、書いたものです)。
●スペイン・インフルエンザの場合
その中で「史上最悪のインフルエンザ」といわれているものに、「スペイン・インフルエンザ」がある。一般に「スペイン・インフルエンザ」の「スペイン」とは、発祥地を表わす言葉ではなく、第一次大戦の中立国であり、感染症について軍事情報としての秘密の必要がなかったスペインでの感染が、初期に報じられたことによると言われている。
「スペイン・インフルエンザは、第一次世界大戦のさなかという、感染爆発にとって絶妙のタイミングで発生した。
愛戦はヨーロッパ諸国を中心とする諸国が連合国(英仏伊露など)と同盟国(独墺など)にわかれ、おもにヨーロッパを戦場として戦う「ヨーロッパの戦争」であり、合衆国にとっては、ほぼ他所事だった。
ところが、ウッドロー・ウイルソンが第三者として仲介した和平の試みが失敗し、ドイツが、合衆国を含む中立国の船舶も攻撃対象に含める無制限潜水艦作戦を大々的に実施するようになると、合衆国の世論は急速に連合国を支持して参戦する方向に傾き、一九一七年、合衆国はドイツに宣戦布告した。これにより、大量のアメリカ陸海軍兵士が大西洋を渡ってヨーロッパに派遣され、先頭に参加することになった。
この動員は、大量のヒトが大西洋を渡ることを意味する。
アメリカは四百万人以上の兵士を徴用し、そのうち約二百万人をヨーロッパ戦線に派遣したが、彼らのなかには大量のインフルエンザ感染者が含まれていた。平時であれば体調不良を理由として移動を断るような症状の人びとも、愛国心に導かれ、あるいは『戦時だからやむをえない』とか『兵士なら出征して当然』とか言った理由で、輸送船に乗りこんだ。
また、兵士を輸送する船舶は、衛生状態が劣悪であり、人口密度が高いこともあって、感染拡大には最適の環境だった。海軍における感染率は四〇パーセント以上であり、最大の被害を出した巡洋艦ピッツバーグに至っては、乗組員の感染率は八〇パーセントに至った(〔 クロスビー/二〇〇九〕一五四~五頁)(――クロスビー、アルフレッド『史上最悪のインフルエンザ【新装版】』西村秀一訳、みすず書房、2009、原著1976――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)。
「ヨーロッパに到着すれば到着したで、これら二百万人の兵士たちは劣悪な環境、つまり戦場に放りこまれた。戦場の兵士のインフルエンザ感染状況にかんするデータはほとんど存在していないが、感染爆発がピークを迎えた第二波の時期には、インフルエンザで入院した兵士の数は、アメリカ軍が九月の一か月間で約四万人、イギリス軍が一一月の一か月間で三万人、フランス軍が一〇月の一か月間で七・五万人に達している(〔クロスビー/2009〕二〇〇頁――前掲)。いうまでもなく、入院できた兵士は幸運である。その背後に入院できなかった感染兵士が何倍もいたことは、想像に難くない。
さらに、彼ら感染兵士は、戦場にとどまっていた一般市民に対してインフルエンザを感染させた。戦時中ということもあって、一般市民のインフルエンザに関するデータは兵士にもまして少ないが、世界全体で二千万から五千万と言われる死者の多くがかれらからなっていたこともかた、想像にかたくない。
戦争は、兵士の動員によってヒトの移動を誘発し、兵士の密集輸送という感染にとって好適な環境をもたらし、さらには、戦場という過酷な環境に兵士を置くことで彼らの体力を奪い、ひいては感染に対する抵抗力を奪う。さらに、兵士の間に広まった感染症は、軍事作戦が続くあいだに、戦場にとどまる一般市民に広がってゆく。
二〇世紀の戦争は、大規模な総力戦、すなわち戦場と銃後の区別がなくなり、全土が一種の戦場になることによって特徴づけられる。戦争は、とりわけ総力戦は、感染症の拡大に適した環境をもたらすのである」(小田中本一五八~一六一頁)。
こうしたことは、二〇二一年一二月、新型コロナウイルス感染症の「第六波」において、沖縄在日米軍内にクラスター(感染者集団)が確認(沖縄キャンプ・ハンセンでのクラスターの確認をはじめとして)され、その後、全国的に、厚木・横須賀・岩国その他の米軍基地で、感染が広がっているのが報道され始めた。それが、基地の外に拡大するという事態が、沖縄県当局によって指摘されていた事態からも、確認できるだろう。
●エボラ出血熱の場合
「一九七六年八月、ザイール(現・コンゴ民主共和国)国のある村で、奇妙な病気が発生した(〔山内/二〇一五b〕、〔日経メディカル編/二〇一五〕四六~五三頁、参照〕)――山内一也『エボラ出血熱とエマージングウイルス』、岩波書店・岩波化学ライブラリー、2015――小田中本・二二二頁参照――引用者・渋谷)。発熱、頭痛、嘔吐と下痢、筋肉痛といった症状に続き、歯茎、鼻、消化器など全身からの出血が見られ、ほとんどの場合は多臓器不全か出血多量で死に至った。ついで家族、近隣住民、看護師などが次々に発病し、この病気が感染症であることを示した。病気の流行は二か月続いて一〇月に収束したが、感染者三一八人に対して、死亡者は二八〇人、致死率は約九割に達した」(小田中本、一九三頁)。
「しばらくして、合衆国の疾病管理センター(CDC、現・疾病管理予防センター)が、血液から紐状のウイルスを発見した。これまで見たことのない新種のウイルスであり、病気発生地の近くを流れる川の名前をとってエボラウイルスと命名された」(小田中本、一九四頁。
その後、エボラは、一九九五年~二〇一九年にかけて、アフリカ大陸で何度か、感染をおこしている。二〇一四年には、ギニア、シエラレオネ、リベリアで、二〇一八年には、コンゴ民主共和国で感染爆発を起こした。
「ウイルスは、人間に感染した場合、免疫異常と血管異常をもたらす(〔クアメン/二〇一五〕七八~八〇頁)。(――クアメン、デビッド『エボラの正体』(山本光伸訳、日経BP、2015、原著2014――小田中本・二一九頁参照――引用者・渋谷)。
ウイルスは免疫細胞を攻撃し、免疫システムを機能不全に陥らせる。具体的には、一方では免疫システムの一部を機能低下させることにより、人間の体内での病原体の活動を可能にし、各種の感染をもたらす。他方では、免疫システムの一部の機能を異常亢進させることにより、免疫システムが自己を攻撃する自己免疫症状(サイトカインストーム)を引き起こす」(小田中本、一九六~一九七頁)(※このメカニズムについては、渋谷要の拙著本書では、本論の「【第三節】新型コロナウイルスの<機制>に関するノート――特に、その「重症化」(⇔サイトカインストーム)との関係で」を参照してほしい)。
ではなぜ「エボラウイルス病」が「出血熱」と言われてきたかということだが。
「ウイルスは『エボラウイルス糖タンパク』と呼ばれるたんぱく質を合成するが、このたんぱく質は血管を構成する細胞に付着し、透過性を高める。そのため、血漿を中心とする血液が血管から滲出して各種の出血を引き起こすとともに、滲出しにくい赤血球などが凝縮されたかたちで血管内に残り、血栓をつくって血管を詰まらせ、臓器の機能不全や末端部の壊死をもたらす」(小田中本、一九七頁)。ここに、エボラ出血熱の特徴があるということだ。
だがさらにエボラ出血熱に関して、ひとつの大きな問題がある。それは、このウイルスが、ヒトを「保有宿主」とはしていないのではないか、という問題だ。これはどういうことかというと。ウイルスは宿主とはひとことで言って、種としては(ウイルスは明確には生物種として自己増殖能力を備えた「生物」ではないが)共存の関係に入っている。だが、宿主でない生命体は、こういってよければ、殲滅していい対象だ、という問題だ。
エボラウイルスの宿主は、「オオコウモリだろう」と考えられているが、「今日でもなお確定されていない」という問題もある。
そこで、小田中氏は、次のように論じている。
「(「間欠的にしか流行しないこと」などを、エボラの謎という問答で解明している文脈で、――引用者・渋谷)『エボラウイルスは、ヒトを宿主として想定していないから』ではないかと考えられている(〔クアメン/二〇一五〕五六~八頁)(――上記、『エボラの正体』と同じ――引用者・渋谷)」と。
「もしもオオコウモリが保有宿主だとすると、エボラウイルスはオオコウモリとのあいだで微妙なバランスをとりながら存在してきた。『感染して殺すが、殺しすぎると自分も存在あるいは繁殖できないので、殺しすぎはしない』というバランスである。そして、ときどきサルに偶然感染しては、大量死をもたらしてきた。
ヒトについても、サルの状況と同じである。
エボラウイルスはヒトを宿主として想定しておらず、偶然の接触によって感染が生じるにすぎない。そのため致死率は高く、人間を恐怖に陥れるが、しかし一九七六年ザイールの事例のように致死率が九割ともなると、ウイルスの存在自体が危うくなる。宿主がいなくなれば、ウイルスも存在できないからだ。しかし、ウイルスはそんなことは計算しないから、高い致死率を保ち、感染者の多くが死亡するのと同時に消滅してゆく。これによって流行は終わり、またウイルスは保有宿主(おそらくはオオコウモリ)の体内で保有宿主と共存する時期に入る。そして、しばらくして、ふたたび偶然の接触が生じ、ヒトにおけるエボラウイルス病の流行がまた始まる」(小田中本、一九九頁)。
小田中本で書かれているように、このオオコウモリを食用とする中央アフリカや西アフリカで感染が流行していることからも、そうした「接触」が明らかに原因となっているのだろう。
さらに、こうした「偶然の接触」の機会が、人間の乱開発などによって多発化していることも、関係している可能性がある。
●生態系と感染症
「人類は20万年前に誕生してから五大陸に分散し、そこで生態系の頂点にのぼりつめた。この時点で人類という生物種の数を調整できるのは、食糧の枯渇か人類間の殺し合い、そして病原体との闘いである感染症だけになった。つまり生態系から見れば、病原体とは人間という生物の数を調整できる唯一の存在になったのである。病原体はこの役割を担うため、人類が農耕生活を始めた頃から、人類に感染症をおこすことで、その数を調節してきた。ただし、人類が絶滅してしまっては病原体にとっても不利なので、病原体は感染力と毒性を変化させながら人類と闘ってきた。しかし、この変化が効かずに病原体が暴走したのが14世紀のペスト流行だった。その結果、人類は滅亡の危機に瀕したのである」。
20世紀以降、人類は急激に増加している。
「これには19世紀後半の微生物学の発展により感染症が減ったことが大きく影響している。すなわち、この時点で従来の病原体による人類の数の調整がきかなくなり、その結果、20世紀後半から新たな病原体(ウイルス)が人類に襲いかかってきたと考えることができる。人口が増えたため、奥地への開発が加速し、新たな病原体に接したのである。今回の新型コロナウイルスの流行も、生態系という観点から見ると、このように解釈することができるのではないだろうか。
くりかえすが、病原体にとって人類を絶滅に追い込むのは不利なので、14世紀のペスト流行のような事態は、そう簡単にはおきないだろう。しかし、これから先はわからない。人口の急激な増加が今後も続けば、新たなウイルス感染が人類を襲う頻度は増えてくるはずだ。その時に病原体が暴走を起こし、14世紀のような状況が再現される可能性はある」(濱田篤郎『パンデミックを生き抜く 中世ペストに学ぶ新型コロナ対策』朝日新書、二〇二〇年、二二四~二二五頁)。
まさに、今日の感染症パンデミックは、グローバリズムによる環境破壊の産物であり、人類の生存をかけた闘いが必要だ。だが、問題は、この人類の生存をかけた闘いは具体的には、環境破壊を作り上げ、推進している、資本主義の永続的資本蓄積運動を主導している先進国ブルジョア体制、「社会主義国家」の官僚制国家資本主義との闘いだということだ。これがラディカルな資本主義批判の立場でなければならない。
かかる政治的スタンスをあいまい化し、後景化、ないしは忘却させようとする、偽善的環境保護政策を批判してゆくことは、大変重要なことに、なっている。そうした問題意識をも含有しつつ、搾取・抑圧と環境破壊をいかに克服するか、その課題に、向き合っていくこととしたい。
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【学習ノート】新型コロナ・ウイルスの<機制>に関するノート――特に、その「重症化」(⇔サイトカインストーム)との関係で
ここで、「ウイルス」とは何か? という、そもそもの定義と、この今日の二一世紀前半に人類を悩ませている、新型コロナウイルスの<機制>といったものを、見ていくことにしよう。
●ウイルスの定義
「『生物学辞典』(石川統ほか編、東京化学同人、二〇一〇年)によれば、ウイルスは『限りなく生物に近い物質とみなす』とある。つまり、ウイルスは生物ではなく、『物質』なのである。……簡単に言うと、あるものが生物であるためには、最低限『細胞』の形をしていなければならないと、学者が勝手にそう決めているからだ。細胞とは言うまでもなく生物の体を作る基本単位であり、脂質でできた二重の膜から包まれた小さな袋で、自分で分裂でき、自分で自分自身の形を維持し続けるための仕組みをもっているもの、を指す」(武村政春『新しいウイルス入門』、講談社ブルーバックス、二〇一三年、二一~二二頁。以下武村本とする)。
だが、「『生物とは何か』ということにさえ、完全に確立された定義はない」以上、ウイルスが生物か否かの「結論は出ていない」とのべている(武村本、同上、二三頁)。
●ウイルスの構造
まずは、ウイルスの構造だ。どのようにできているのか。何でできているのか。
「もっとも単純な形をしたウイルスは、『核酸』とよばれる物質が、『タンパク質』と呼ばれる物質でできた殻で包まれただけの格好をしている。このたんぱく質の殻を『カプシド』という」(武村本、二四頁)。
生物の遺伝情報としてまず、DNAがある。
「この核酸の代表が、もっとも有名な生体物質の一つ、『DNA』だろう。DNAは、いわゆる『遺伝子』の本体として知られる物質であり、正式な名前は『デオキシリボ核酸』という」(武村本、二五頁)。それは「遺伝子」とは「その生物がもつさまざまな特徴を書き込んだ”設計図”のようなものである」(武村本、二五頁)。
ここでRNAウイルスが問題となる。
「ウイルスには、DNAをおもっているものと、もっていないものとがある。「核酸には、DNA以外にも『RNA』と呼ばれる物質も含まれる。この核酸の正式な名前は『リボ核酸』という」。だからウイルスは二つのグループにわけられる。それが「DNAウイルス」と「RNAウイルス」だ(武村本、二七頁)。
このRNAウイルスには、どんなものがあるか。
「RNAウイルスには、有名なインフルエンザウイルスなどの『オルソミクソウイルス』……ノロウイルスに代表される胃腸病の原因である『カリシウイルス』などがある」(武村本、三八頁)。コロナウイルスも「RNAウイルス」だ。
もっとも単純なウイルスは、核酸がタンパク質でできた殻に包まれているだけということだが、そもそもタンパク質とは、どういうものだろう。
「タンパク質」とは「生死に関わる仕事をする生体物質である。……タンパク質の最も重要な役割の一つに、体内で行われるさまざまな化学反応の『触媒』としての役割がある。触媒とは、それ自身は変化しないが、それが存在することによって、化学反応を劇的に推し進めるような物質のことをいう。……より馴染み深い言葉で表すと、『酵素』である」。もちろん、酵素だけがタンパク質ではなく「免疫系の『抗体』」や「コラーゲン」(「ヒトの全タンパク質の重量の三〇パーセントはコラーゲン」)、「細胞の形を保つ『細胞骨格』」「栄養物質を血液中で運搬するのもタンパク質」であり、ウイルスにも、「生物に特有のタンパク質」があるということだ(武村本、二九頁)。
しかしウイルスには「ヒトのように一〇万種類ものタンパク質があるわけではなく、せいぜい数種類から多くて一〇〇〇種類程度あるだけだ」(武村本、二九頁)。
●ウイルスのいろいろな形とエンベロープ
「核酸がタンパク質の殻(カプシド)に包まれた形というのは、あくまでも最も単純なウイルスの形であって」、ウイルスのすべての形ではない。「カプシドの周りに、さらに「エンベロープ」と呼ばれる膜のようなものをもったウイルスもいる。エンベロープといえば、手紙などを入れる封筒のことを指す。……ウイルスの場合もそれと同じく、カプシドに包まれた核酸を入れる”封筒”が用意されている場合があるのだ」。ウイルスの場合、この封筒は「じつに重要な役割」をもつ。「ウイルスにとって、いや『宿主』(病原体などが感染したり寄生したりするときに対象となる生物のこと)となる細胞にとっても無視することのできないはたらきをもつのが、このウイルス用”封筒”なのである。エンベロープは、ウイルスが作り出すたんぱく質(エンベロープタンパク質)と、ウイルスが感染した宿主の細胞から飛び出したときに連れてきた、細胞の「細胞膜」の断片からできている。
エンベロープをもたないウイルスを総称して『ノンエンベロープウイルス』、エンベロープを持つウイルスを総称して『エンベロープウイルス』という。身近なところでは、『インフルエンザウイルス』や、すでに絶滅宣言が出された『天然痘ウイルス(痘瘡ウイルス)などが、エンベロープウイルスに含まれる』」(武村本、三一頁)。
これが、ウイルスの多様性の一つということになる。
●ウイルスは自己増殖できない
こうした存在であるウイルスは、細菌のように自己増殖できない。だから、宿主にする生命体の細胞に侵入して、その細胞の活動を利用して増殖する。
「ウイルスは細胞が存在しないと増殖できません。一方、細菌は細胞からの助けなしに単独で増殖することができます。……ウイルスの大きさは、通常は0・1マイクロメートル以下で(マイクロメートルは1メートルの100万分の1を表わす長さの単位)、電子顕微鏡でないとその姿が確認できません。生命の最小単位とされる細胞を持たず、タンパク質と核酸からなる粒子です。ウイルスは、細胞にとってエネルギー工場である細胞小器官、ミトコンドリアを持たないので、自分でエネルギーを作ることができません。また、タンパク質合成に必要な細胞小器官であるリボソームも持たないので、タンパク質を作ることができません。つまり、自分ひとりでは増殖(=自己増殖)もタンパク質合成もできないのです。このために、宿主細胞の中に入り込んで、宿主細胞のタンパク質合成機構、代謝機構やエネルギーを利用することによって活動を維持します。ウイルス粒子内のゲノム(遺伝情報)は、DNAかRNAのいずれかです」(宮坂昌之『新型コロナ七つの謎』、講談社ブルーバックス、二〇二〇年、三八頁。以下、宮坂本)。そうした「RNAウイルスは、コロナウイルス、インフルエンザウイルス、ポリオウイルス、ライノウイルス、ノロウイルス、エイズウイルスなどがあります」宮坂本、三九頁)、ということだ。。
●ウイルスはどのように宿主の細胞に感染するのか
「宿主細胞にとりつき増殖する。その仕組みは「ウイルスゲノムを取り囲むたんぱく質の殻の上に『鍵』の役目をする特定の分子構造が存在しますが、この分子に対する『鍵穴』が宿主細胞の膜の上にあると、ウイルスはその細胞にだけ侵入し、感染するようになります。……コロナウイルスはネコ、イヌ、ブタ、ヒトなど、動物種ごとに固有のものが存在し、原則としてその動物種の中で個体間の感染を繰り返します」(宮坂本、四二頁)。
そうして、細胞の中で増殖したウイルス粒子は、細胞の外に放出される。そのまわりの細胞が、次々に感染してゆく。
「ひとたび感染が始まると、感染は鼠算的に広がります。1個のウイルスが細胞内に入ると、10時間後には約1000個のウイルス粒子になって細胞外に放出されます」。それが10時間ごとに他の細胞でも繰り返される結果、「ウイルス感染細胞は1000倍、そのまた1000倍という形で加速度的に増えていきます」(宮坂昌之『新型コロナワクチン 本当の「真実」』、講談社現代新書、二〇二一年、三一頁。以下、「宮坂本2」とする)。
(※これについては、後段でさらに感染の機制を見ていく)。
●感染に対するヒト生命体の反応――サイトカインの生成
これに対し、ヒトの体ではウイルスが感染にたいして、最初に起こる反応が「感染細胞によるⅠ型インターフェロンをはじめとする種々のサイトカインの産生」だ(宮坂本、四九頁)。「サイトカインとは、細胞が放出する特定の大きさ(分子量)を持ったタンパク質の総称で、相手の細胞に働いて、細胞を増殖させたり、運動性を上げたり、特定の分子を作らせたりする役目を持ちます」。サイトカインは、ウイルス活性に対抗する能力を与えると同時に、他の周囲の細胞にも同じ能力を与えるものだ(宮坂本五一頁)。だが、「ところが、新型コロナの場合には、しばしばⅠ型インターフェロンがうまく作られず、このためにウイルス排除がされにくくなります」。(宮坂本、五一頁)。
この場合、これから表記されてくる重要な語句としては、「炎症性サイトカイン」がある。これは一言で簡単に言うと炎症反応を促して、体内に入ってきたウイルスを撃退する働きをつくる機能を持っているものだ。
「サイトカインは、細胞どうしがお互いにシグナルをやりとりするときに使う一群のタンパク質です。細胞から放出されて、相手の細胞膜の上にあるサイトカインレセプター(受容体タンパク質)に結合して、たとえば、さあ動きなさいとか、分裂しなさいとか、何かを分泌しなさいとか、相手の細胞にシグナルを伝えます。サイトカインが「鍵」とすると、サイトカインレセプターは「鍵穴」のようなもので、鍵と鍵穴の形がきっちりと合うと、サイトカインからのシグナルがレセプターを持つ細胞の内部に伝達されます。……サイトカインには何十種類もありますが、特に異物侵入時に作られるものは、『炎症性サイトカイン』とよばれます。炎症を促進する役割をもっています。……また、抗ウイルス作用を持つサイトカインであるⅠ型インターフェロン(IFNα、IFNβ)は、特にウイルスが侵入してくる際に作られます」(宮坂本。九四頁)。またこの論述では、「炎症性サイトカイン」として、「インターロイキン6」などが提示されている。
●新型コロナの形と機能――コロナとACE2の結合
コロナウイルスは、ヒトの細胞表面に存在するACE2という酵素とまず結合する。
「新型コロナウイルスは、すでに単離(「〔化〕混合物中から一つの物質だけを純粋な形で取り出すこと」広辞苑――引用者・渋谷)されていて、塩基配列、アミノ酸配列はすべて明らかになっています。……約30キロベースという大きなゲノムを持つRNAウイルスで、ウイルス粒子の直径は約0・1マイクロメートルです。それでもスギやヒノキの花粉が直径30~40マイクロメートルですから、その数百分の1のサイズしかありません。
ウイルス遺伝子を収めたゲノムは、Nタンパク質(ヌクレオプテイン)と複合体を形成し、エンベロープという袋に包まれています。エンベロープの表面には、スパイクタンパク質が外に向かって突き出ていて、これがヒトの細胞の表面にあるウイルス受容体と結合します。1ウイルス粒子当たり90~100本ぐらいのスパイクたんぱく質が突き出ていて、電子顕微鏡で見ると、あたかも王冠(コロナ)のように見えます。……わたしたちヒトの細胞の表面には、血圧調節に関わるACE2(アンジオテンシン変換酵素2のこと――引用者・渋谷)という重要なタンパク質が発現しています。実は、コロナウイルスのスパイクタンパク質はこのACE2に化学的に結合しやすい性質を持っています。両者の関係は、『鍵』と『鍵穴』の関係に喩えられます。『鍵』となるのがスパイクタンパク質で、『鍵穴』となるのがACE2です。この『鍵』と『鍵穴』がピタリとハマると、コロナウイルスは細胞の内部に侵入することができます」(宮坂本、二七~二九頁)。
その宿主細胞の内部に侵入する道筋が、ウイルス遺伝子をくるんだエンベロープが宿主細胞膜と結合する仕組みとしてある。
「ウイルス上のスパイクタンパク質がACE2と結合すると、スパイクタンパク質が宿主細胞の上にあるタンパク質分解酵素TMPRSS2によって切断されるようになります。この切断がきっかけになり、スパイクタンパク質が分解・活性化して、ウイルス遺伝子をくるんだエンベロープと宿主細胞膜が融合します。そして、ウイルス粒子が宿主細胞の中に送り込まれます。この反応はわずか10分程度で起こります。
細胞に侵入したウイルスは、ヒトの細胞のタンパク質合成工場を乗っ取ることでみづから自らのコピーを大量に作りして、細胞外に放出します。このコピーが周辺の細胞に次々に感染していきます」(宮坂本2、二九~三〇頁)。
●Ⅰ型インターフェロンの産生による抗ウイルス活性
ヒトの体内では、この感染に対抗するため、抗ウイルス活性がおこる。
「私たちの体の中には、病原体の増殖を食い止めるしくみが備わっており、ウイルスの感染が起きると、Ⅰ型インターフェロンというタンパク質が作られます。Ⅰ型インターフェロンは自らの細胞に働いてウイルスに抵抗する能力、すなわち抗ウイルス活性を与えます」。……それは感染した細胞だけでなく周辺の細胞にも抗ウイルス活性を与える(宮坂本2、三〇頁)。
●サイトカインストーム(免疫暴走)のメカニズム
「ところが、新型コロナウイルスの場合には、しばしばⅠ型インターフェロンがうまく作られず、ウイルス排除が滞るようになります。……体内に侵入した新型コロナウイルスが取り付くACE2は、気道の内側を覆う上皮細胞の細胞膜上に存在し、特に肺の中に存在するⅡ型肺胞上皮細胞や腸管上皮細胞の細胞膜上に多く発現しています。このために、新型コロナウイルスは肺だけでなく、腸にも感染します。さらに個人差はありますが、口腔粘膜、鼻腔粘膜の上皮細胞、さらには血管内皮細胞や脂肪細胞にもこのACE2が存在しますので、感染がひどくなると、全身のいたるところで炎症が広がり、急激に全身症状が悪化していきます」(宮坂本2、三〇~三一頁)。
このため血管では次のようなことが起こる。
「このウイルスが血管内皮細胞に感染するのは、内皮細胞がウイルス受容体ACE2を発現しているからです。内皮細胞にウイルス感染が起こると、炎症が起こり、血液凝固を司る細胞である血小板が血管内腔に付着しやすい状態が生まれます。これと同時に、肺から放出された血栓が炎症性サイトカインは血小板を活性化してその接着性を増すことから、ますます血小板が血管内腔に接着しやすくなり、小さな血管で多数の血栓が起こるようになります」(宮坂本、一九二頁)ということだ。
こうした問題は、サイトカインストームといわれる。その機制を簡単にまとめると、次のようである。「重症化の際には、本来はウイルスを排除するために必要な免疫機能がうまく働かなくなっているようです。それどころか、免疫細胞が刺激されすぎて、結果として、『免疫が暴走する』ということがしばしば起きているようです。炎症性サイトカインが作られすぎて、体中をサイトカインの嵐が吹き荒れる、すなわち、サイトカインストームとよばれる状態です」(宮坂本、一七六頁)ということだ。
サイトカインであるⅠ型インターフェロンがうまくつくれなくなるのは、感染したウイルスが感染細胞の中で作ったタンパク質の働きが原因と考えられている。
●ウイルスが作るタンパク質によるインターフェロン抑制について
これはインターフェロン抑制活性効果といわれる、ウイルスタンパク質の働きだ。先に述べたように、インターフェロンは、ウイルスがヒトの体内に入ったときに、それを感知して、体内に信号を送る物質である。生体の免疫活動の一つだ。それを阻害するのが、ウイルスタンパク質の働きということになる。
「新型コロナウイルス感染ではⅠ型インターフェロンがうまく作られないことがあるようです。少し複雑になりますが、こういうことです。まず、ウイルスが作るタンパク質の一つであるORF3bが、宿主細胞のⅠ型インターフェロン遺伝子の活性化を抑えて、Ⅰ型インターフェロンの産生を抑えます。また、同じくウイルスの由来の別のタンパク質PLProが、ORF3bとは別のメカニズムで、Ⅰ型インターフェロン遺伝子の活性化を抑え、結果としてⅠ型インターフェロンがうまくつくられなくなります。
Ⅰ型インターフェロンは、ウイルス増殖をおさえるだけでなく、周囲の細胞に対して炎症性サイトカイン産生を促してウイルスに対する炎症反応を促進する役目があることから、Ⅰ型インターフェロンが十分できないと、抗ウイルス反応がうまく起きないだけでなく、風症状も起こりにくくなり、その間にウイルスは局所で増えていくことになります。……このために感染者は社会の中を動き回り、その結果、感染が広まります」(宮坂本、九八~九九頁)といことになる。
「この他に、新型コロナウイルスが作るNsp―1という別のタンパク質は、自然免疫の異物レセプターであるRIG―1の産生を抑えるとともにⅠ型インターフェロンの産生も抑制するようです。つまり、新型コロナウイルスの場合、ウイルスが作るタンパク質が感染細胞の中で働いて、抗ウイルスサイトカインであるインターフェロンを作らせないように働いているようです」(宮坂本、一八三~一八四頁)ということだ。
こうして「初期のインターフェロンの産生が強く抑えられるために、ウイルス量が体内で増え続けます。後になってそれに気づいた自然免疫がインターフェロンを過剰に作らせるために、それがかえって炎症性サイトカインの産生を促進」する。その結果、免疫細胞の活性化が進み、免疫細胞の暴走が始まる。これが「サイトカインストーム」と言われる現象だ。結果として炎症反応がすすみ、重症化するということが、この間、分析されてきた(宮坂本、一八四~一八五頁、参照)。
●レニン・アンジオテンシン経路でのサイトカインストーム
ここでは、「レニン・アンジオテンシン経路」のサイトカイン過剰産生に関して見ていこう。
感染経路の一つに、「血圧調整経路として知られるレニン・アンジオテンシン経路に関係」するものがある。「まず、肝臓や脂肪組織でアンジオテンシンノーゲンが作られ、腎臓から分泌される酵素レニンにより、アンジオテンシンⅠに変化します。……細胞膜上に存在する酵素であるACE1(angiotensin converting enzyme 1)によって活性化を受けると、強力な昇圧物質であるアンジオテンシンⅡに変化し、これが細胞膜上のアンジオテンシン受容体(AT1)に結合すると、血管が収縮して、血圧が上がります。これは血圧を調節する主要なメカニズムです。その証拠に、このレニン・アンジオテンシン経路を調節する何種類もの物質が実際に有効な降圧剤として用いられています。たとえば、アンジオテンシンⅡが受容体に結合するのを阻害するアンジオテンシン受容体拮抗薬(ARB)は、多くの人に降圧剤として使われています」。
(※ このアンジオテンシンに関わる降圧薬は、二系統ある。ひとつは、ここに表記されているARBであり、アンジオテンシンⅡが受容体に結合するのを阻止して、血管を広げるものだ。もうひとつは、ACE阻害薬(アンジオテンシン変換酵素阻害薬)であり、こちらは、アンジオテンシンⅡが作られるのを防いで、血管を広げるもの。★わたし(渋谷)は、20年以上、後者を病院の医師の処方・指示によって毎日・朝と晩に服用している(二〇二二年二月現在)。――本論論者・渋谷)
「このレニン・アンジオテンシン系には、もう一つの調節分子があります。それは、ACE1の同族分子であるACE2です。(ACE2は、……新型コロナウイルスが細胞内に侵入するために必要なウイルスレセプターでもあります)。ACE2は、アンジオテンシンの代謝に働き、アンジオテンシン1からアンジオテンシン1-9を作るとともに、アンジオテンシンⅡからアンジオテンシン1-7という血圧調節物質を作ります。つまり、ACE1はアンジオテンシンⅡを作るために必要な酵素であるのに対して、ACE2はアンジオテンシンⅡを分解する方に働きます。両者ともにアンジオテンシン経路の重要な制御因子です」。
ここまでは、前提の部分だ。ここからが重要だ。
●アンジオテンシンⅡの働きとサイトカインストーム
それは、アンジオテンシンⅡが炎症性サイトカインの機能を持つこと、そして、Ⅰ型インターフェロンの過剰産生によって、アンジオテンシンⅡを分解する働きを持つACE2の発現が低下するという機序をもつことがポイントになる。
「最近、アンジオテンシンⅡは、強い昇圧作用を持つだけでなく、アンジオテンシン受容体(AT1)に結合して、炎症性サイトカイン様の機能を持つことがわかってきました。すなわち、アンジオテンシンⅡが過剰に作られてアンジオテンシン受容体(AT1)に結合すると、細胞内でNFkB回路(転写因子と呼ばれるたんぱく質。ゲノムの特定の配列――炎症を起こすゲノム――に結合して活性化することにより痛みなどの炎症の原因となるタンパク質を作り出す――引用者・渋谷)が活性化され、これに伴い、種々の炎症性分子がつくられるようになるのです。つまり、昇圧に関わる経路が炎症に関わる経路とつながっているのです。そして、最近の研究から、この経路の活性化が新型コロナウイルス感染症の重症化に関わることが示唆されています」。
まさに「新型コロナウイルス感染が体内で広がると、最初はⅠ型インターフェロン産生が抑制されるのですが、やがて代償的にⅠ型インターフェロンの産生が異常に増え、このためにACE2の発現が低下し、レニン・アンジオテンシン系が変調をきたします。特にアンジオテンシンⅡという一種のサイトカインが過剰に分泌され、これが引き金となり、炎症反応に関わる回路をドミノ倒しのように刺激していき、最終的に炎症反応のメイン回路ともいえるNFkB経路が過剰に反応し、免疫の暴走が始まります。その結果、全身の炎症がひどくなって、組織損傷が進むようになります」。そして「肺を含むさまざまな臓器の機能不全(多臓器不全)が起きるのです」ということになる(宮坂本、一九三~一九八頁)。
●高齢者、基礎疾患者に多い「重症化」リスクとサイトカインとの関係
こうした臓器の機能不全など、「重症化」と言われる事態は、高齢者、基礎疾患をもっているヒトに多い。それは高齢での免疫力の低下とともに、基礎疾患では感染する前からサイトカインが常時つくられている状態だということが一つのポイントになる。
「高齢者は若い世代に比べてもともと『免疫力』が劣るところに、新型コロナウイルス感染によってⅠ型インターフェロンの産生能力がさらに抑えられるため、ウイルスの増殖に歯止めがかからなくなります。高齢者だけでなく、基礎疾患があると重症化のリスクが高くなります。……新型コロナウイルス感染症の症例データベース研究でも、日本人の重症化する要因として、65歳以上の高齢者、慢性閉塞性肺疾患、糖尿病、高血圧、心血管疾患、肥満などが挙がっています。こうしたリスク群の多くが慢性炎症とよばれる病気です。慢性炎症とは、文字通りだらだらと弱い炎症が持続する病気なので、炎症反応を引き起こす、サイトカインが常時たくさん作られています。いうなれば、新型コロナウイルスに感染する前から、体が炎症を起こしている状態です。すでに小火が起こりかけているところに、新型コロナウイルスが全身で『大火災』をもたらすので、重症化しやすくなるのです」(宮坂本2、三一~三二頁)ということだ。
(※ 宮坂昌之氏は、「感染した場合の重症化リスクを考えると、現時点では、ワクチンを接種することで感染リスクを下げるのが最も合理的です」(宮坂本2、三四頁)とのべている)。
●「本ノート・第一節~第三節」と「学習ノート」で引用した、引用文献と著者(肩書は各著書のプロフィールによる)に関するリスト
速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ 人類とウイルスの第一次世界戦争』藤原書店、二〇〇六年。慶應義塾大学名誉教授(二〇一九年没)。
岡田晴恵『知っておきたい感染症』、ちくま新書、二〇二〇年。白鳳大学教育学部教授(感染免疫学、公衆衛生学)。
武村政春『新しいウイルス入門』講談社ブルーバックス、二〇一三年。東京理科大学理学部第一部教授。
宮坂昌之『新型コロナ 七つの謎』講談社ブルーバックス、二〇二〇年。大阪大学免疫学フロンティア研究センター招へい教授。
宮坂昌之『新型コロナワクチン本当の「真実」』講談社現代新書、二〇二一年。
石弘之『感染症の世界史』角川ソフィア文庫、二〇一八年。朝日新聞社・ニューヨーク特派員、東京大学大学院教授などを歴任。
小田中直樹『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたのか 世界史のなかの病原体』日経BPマーケティング、二〇二〇年、東北大学大学院経済学研究科教授。
濱田篤郎『』パンデミックを生き抜く 中世ペストに学ぶ新型コロナ対策』朝日新書、二〇二〇年。東京医科大学教授、同大学病院渡航者医療センター部長。
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「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」【注解ノート】
資本主義と「資本の回転」についてのノート――パンデミックによる経済循環の破壊についての分析の前提となるもの
渋谷要
【リード】 以上、本論「ノート:コロナ・パンデミックとグローバリズム」の「注解」として以下のノートを提示する。
ここでの課題は、本論の冒頭部分に戻ると思う。コロナ・パンデミックによる「コロナ恐慌」ともいわれる非常事態を、<経済学的に>何を原基的な考え方・<分析視角>としつつ、考えてゆくのか、そのラディカルな視角の原点がふまえられなければならない。その原基こそ、マルクス『資本論』であると考えるものである。
ここでは、そのコロナ禍経済危機に対する分析視角をなすものを『資本論第二巻資本の流通過程』に求めるものである。資本論第二巻は三篇構成で論述されている。「第一編 資本の諸変態とその循環」、「第二編 資本の回転」、「第三篇 社会的総資本の再生産と流通」。本論では「第二巻第二編・第三篇」を中心にノートをとった。
また、文末には【小括】として、コロナ・パンデミックとのかかわりに関する問題意識を示した。
まずは、それらの【序説】として、資本主義の基礎をなす「搾取」の<機制>を確認し、そののち、第二巻のノートを論述することとする。なぜなら、この「搾取」論を論の前提とし、骨格として、第二巻「資本の流通過程」が論じられているからである。まず、第二巻にはいる前に、第一巻・第三巻における「資本主義的搾取」の概要を確認することからはじめよう。
【第一節】資本主義的搾取の基礎について
以下は『資本論第一巻・第三巻』における「搾取論」のポイントだ。
資本家的商品生産社会である資本主義社会では商品(W)は、「労働生産過程」において「不変資本(生産手段)c+可変資本(労働力)v+剰余価値m(このv+mは生きた労働vが生産した価値)」として「商品価値」を構成する。
この場合、剰余価値の産出は、自然に過剰なものが生み出されるのではなくマルクスの『経済学批判要綱』(グルントリッセ)に基づけば、「資本の労働に対する処分権」として組織されるものにほかならない。ここに「労働力の商品化」とは、「賃金奴隷制」だとマルクスが喝破した根拠がある。だが、この商品の価値構成は、「生産価格」=費用価格k(c+v)+利潤(市場競争の結果としての平均利潤p)に転形する。これにより、労働力vは剰余価値部分(利潤部分)を生産しない単なる費用価格の一部と観念され、剰余価値の搾取は隠ぺいされる。
この剰余価値の産出についてだが、労働力をマルクスが「可変資本」としていることにポイントがある。労働力が剰余価値mの生産というように、価値を増殖させるからだ。これに対し、生産手段を「不変資本」というのは、価値を増殖するのではなくて不変のままで生産物に価値を移転するからだ。
この場合、「労働・生産過程」が「価値形成・増殖過程」となるわけだが、資本の労働に対する処分権の発動をつうじて、労働者の「必要労働」(賃金分の価値に対妥当する時間労働)に対する「剰余労働」(剰余価値の産出として消費される労働)の率を高めることを、つまり搾取率・剰余価値率を高めることを土台に、最終的には利潤率を上昇させることをもって成立する搾取の機制が、ブルジョアジー・キャピタリストによって展開している。
また、その場合、「必要労働時間」「剰余労働時間」というのは、時間が区切られてあるわけではなく、生産過程では、労働力は「新たな価値を形成する」(新たな商品生産をなす)が、「剰余価値は、労働力の買い入れに支払われた価値とこの新たなる価値との差額に他ならない。とくに剰余価値として生産されるわけではない」(宇野弘蔵、岩波全書『経済原論』六六頁)ということだ。
また、この場合、利潤率の機制がはたらく、剰余価値mは資本家の立場から見れば総資本(投下資本総額c+v)の増加分である。だから、総資本に対する増加分の値が利潤率として定立する。つまり利潤率は「剰余価値m/総資本(c+v)」である。これにより、増加分の利潤率での計算は、剰余価値(m)が労働力(v)によって増加(剰余労働)分として産出されていることを隠ぺいし、総資本(c+v)にプラスして与えられたということになるのである。
そして、ここから資本家と労働者の搾取にもとづく階級対立は「資本―利子、土地ー地代、労働―労賃・企業者利得」=商品所有者間の平等な分配システム(三位一体的定式)へと擬制化する。労働者の賃金は「労働報酬としての労賃」とされ、労働力商品の所有者が、労働市場で資本家にこれを売ったものの対価(だから費用価格の一部と観念される)として通常考えられるようになる。自由な商品交換の主体として労働者と資本家は自由平等な市民社会を構成することになる。マルクスはこれを「自由幻想」と呼んでいる。
こうした、「商品価値」「生産価格」「搾取」「利潤率」「自由幻想」などが、どのように、資本主義社会で展開しているのか、その機制・メカニズムの解明に挑戦したのが、『資本論第二巻 資本の流通過程』だ。
【第二節】「資本論第二巻第一編 資本の諸変態とその循環」
●資本が展開する三つの循環
この第二巻第一編は、本論の目的上は、序論に当たる部分でもあり、簡単にまとめることにする。
マルクスは「第一編第一章 貨幣資本の循環」では次のようにのべている。
「資本の循環過程は三つの段階を通って進み、これらの段階は、第一巻の叙述によれば、次のような順序をなしている。
第一段階。資本家は商品市場や労働市場に買い手として現われる。彼の貨幣は商品に転換される。すなわち流通行為G-Wを通過する。
第二段階。買われた商品の資本家による生産的消費。彼は資本家的商品生産者として行動する。彼の資本は生産過程を通過する。その結果は、それ自身の生産要素よりも大きい価値をもつ商品である。
第三段階。資本家は売り手として市場に帰ってくる。彼の商品は貨幣に転換される。すなわち流通行為W-Gを通過する。
そこで、貨幣資本の循環を表す定式は次のようになる。G-W…P…W´ーG´。ここで点線は流通過程が中断されれていることを示し、W´とG´は、剰余価値によって増大したWとGを表わしている」(マルクス・エンゲルス全集24「資本論Ⅱ」原書頁31)。
これが資本主義における「資本の回転」の基本的なストーリーとなるものだ。
●資本の諸変態の展開と階級関係の設定
マルクスは「第一編第一節 第一段階GーW」でいう。
「GーWは、ある貨幣額がある額の諸商品に転換されることを表わしている。…このような、一般的な商品流通の過程を、同時に一つの個別資本の独立した循環のなかの機能的に規定された一つの区切りにするものは、まず第一に、この過程の形態ではなく、その素材的内容であり、貨幣と入れ替わる諸商品の独自な使用性質である。それは一方では生産手段、他方では労働力であり、商品生産の物的要因と人的要因であって、それらの特殊な性質は、もちろん、生産される物品の種類に相応していなければならない。労働力をAとし、生産手段をPmとすれば、買われる商品総額W=A+Pmであり、もっと簡単に表せばW=●「<」Pm+Aである。つまり、GーWは、その内容から見れば、GーW=●「<」Pm+Aとして表わされる」(32)。
このG―Aは、剰余価値を生産する本質的条件をなしているとマルクスは言う。
「GーAは、貨幣資本から生産資本への転化を特徴づける契機である。なぜならば、それは、貨幣形態で前貸しされた価値が現実に資本に、剰余価値を生産する価値に、転化するための本質的な条件だからである」(35)。「貨幣は、Gが貨幣資本に転化するとか経済の一般的性格が変革されるとかいうことがなくても、すでに古くからいわゆる用役の買い手として現われているのである」(36)。
また、このG-A交換では、貨幣所有者(資本家)と労働力所有者(労働者)の原初的な階級関係が設定されている。
「GーAという行為では、貨幣所有者と労働力所有者とは、互いにただ買い手と売り手として関係し、互いに貨幣所有者と商品所有者として相対するのであり、したがってこの面から見れば互いに単なる貨幣関係ににあるだけなのであるが、ーーーそれにもかかわらず、買い手の方は、はじめから同時に生産手段の所持者として立ち現われ、その生産手段は、労働力がその所持者によって生産的に支出されるための対象的諸条件をなしているのである。言い換えれば、この生産手段は、労働力の所持者に対して他人の所有物として現われるのである。…この労働力は、買い手の資本が現実に生産資本として働くために買い手の支配下にはいらなければならないのであり、彼の資本に合体されなければならないのである。だから、資本家と賃金労働者との階級関係は、両者がGーA(労働者から見ればAーG)という行為で相対して現われる瞬間に、すでに存在しているのであり、すでに前提されているのである」(36~37)。
こうして「G―W……P……W´ーG´・GーW……P……W´―G´・G―」という資本の循環において、「G―G」は貨幣資本の循環、「P―P」は生産資本の循環、「W´―W´」は商品資本の循環だ。この循環には、これから述べるように、生産過程とともに、生産物が商品として流通する流通資本の過程が展開されている。ブルジョアジーは剰余価値を生産するために生産している。換言すれば資本の増殖につながらないものは、生産する意味がない、それが資本主義的生産の意味だ。
●資本論第二巻と宇野弘蔵の問題意識
宇野弘蔵(一八九七~一九七七年)は『資本論入門』(講談社学術文庫)で、次のように述べている。
そこでマルクスは、「(資本論第二巻の)第五章、第六章で、この資本の流通にともなう特殊な問題、流通に要する期間と費用とを考察する。この点は第一巻ではほとんど問題にならなかった。したがってまた第一巻だけで資本を理解したと思っている人にはしばしば見逃されやすい重要な問題をなすのである。……資本家と資本家のあいだの関係が問題になる場合には――第三巻ではその点が考察されるのであるが――これが重要な問題になり、資本主義社会を支配する原理として実際上は商品の価格を理解するうえからいっても、欠くことのできないものとなるなるのである」(一七五頁)。
これには「流通資本」の位置づけの問題がある。
「流通過程にある資本――生産資本にたいして流通資本というのであるが、そしてそれはのちに述べる流動資本とは異なるのであるが――それも資本としてあることを明確にし、いかなる産業においても全資本が生産過程にあって価値、したがって剰余価値を生産しつつあるものとはいえないことを明らかにしている。……生産期間と流通期間とは一様に資本が投ぜられる機関として、のちに述べる資本の回転期間に埋没されてしまうことになり、流通機関が長くなったり、短くなったりすることが、資本の価値増殖にどんな影響を及ぼすかは不明確にならざるをえない」(一七六頁)。
ここから「流通費用」の中で、「価値」を追加するものと・しないものを分節する。
「マルクスは流通期間にたいしてとくに流通費用を考察している。そしてこの費用を(一)純粋の流通費用として、(1)売買期間、(2)簿記、(3)貨幣――もっともこの貨幣の費用は個々の資本にとっての費用ではなく、資本全体にとっての費用をなすのであるが――をあげている。そしてこの純粋の流通費用が、(二)保管の費用、(三)運輸費用とそれぞれことなった性質を有していることを明らかにする」(一七六~一七七頁)。
「第一の純粋の流通費用が商品の使用価値に変化を加えない点で何らの価値をも追加しないのにたいして、第二の保管の費用は、商品の使用価値にたいして消極的ではあるが、これを保存するという点から社会的に必要とせられるかぎりでは――したがってたんに思惑からの保有はそうはならないが――価値を追加するものとし、第三の運輸も使用価値を実現するために必要なるかぎりで、価値の追加をなすものとする――ふつう、商品の売買にともなう運搬は商業自身の内にもおこなわれ、それと混同せられるが理論的には区別せられなければならない――のである」(一七七頁)ということになる。
以上この「保管費」と「運輸費」を、マルクスの「資本論第二巻」で、以下確認しておこう。
●「第六章流通費第二節 保管費」について
まず、上の文章での「保管の費用」だ。
「この流通費は、生産過程から生じるものであって、ただこの生産過程が流通のなかでのみ続行され、したがってその生産的な性格が流通形態によって覆い隠されているだけである。…個別資本家にとっては価値形成的に作用することができ、彼の商品の販売価格への付加分をなすことができるのである。……価値をつけ加える労働はすべて剰余価値をもつけ加えることができる。そして資本主義的基礎の上ではつねに剰余価値をつけ加えるであろう。……だから、商品に使用価値をつけ加えることなしに商品の価格を高くする諸費用、したがって社会にとっては生産の空費に属する諸費用が、個別資本家にとっては致富の源泉になることができるのである」(一三八~一三九頁)。
「生産物在庫の社会的形態がどうであろうと、その保管には費用が必要である。……そこで問題になるのは、このような費用はどの程度まで商品の価値んはいるのかということである。……商品在庫なしには商品流通はあり得ない。…商品在庫は、与えられたある期間にわたって需要の大きさにたいして十分であるためには、ある程度の大きなをもっていなければならない。……商品の停滞は商品の販売の必然的な条件とみなされるのである。さらにまた、その大きさは、中位の売れ行きよりm、また中位の需要の大きさよりも、大きくなければならない。そうでなければ、この大きさを越える需要を生み出すことはできないであろう。……在庫形成の費用は、(1)生産物量の量的減少(たとえば穀粉在庫の場合)、(2)品質の損傷、(3)在庫の維持に必要な対象化されている労働と生きている労働都から成っている」(一四六~一五〇頁)というのが、基本的な理解ということになる。
●「第六章第三節 運輸費」にいつて
ここは、運輸労働による「価値付加」という文脈が、重要である。
「生産物の量はその運輸によってふえはしない。また、運輸によってひき起こされるかもしれない生産物の自然的性質の変化も、ある種の例外を除けば、もくろまれた有効効果ではなく、やむをえない害悪である。しかし、物の使用価値はただその消費によってのみ実現されるものであって、その消費のためには物の場所の変換、したがって運輸業の追加生産過程が必要になることもありうる。だから、運輸業に投ぜられる生産資本は、一部は運輸手段からの価値移転によって、一部は運輸労働による価値付加によって、運送される生産物に価値をつけ加えるのである。このような運輸労働による価値付加は、すべての資本主義的生産でそうであるように、労賃の補填と剰余価値とに分かれるのである」(一五一頁)。
こうした、剰余価値の自己増殖を含む資本の運動が、では、どのような構成・機制によって、また、価値観(資本主義の通用的真理)によって展開しているのか、その経済過程を見ていこう。
【第三節】資本の現実の運動構造を分析する――「第二編 資本の回転」
●「周期的な」循環期間としての回転数
資本主義における利潤の創造・価値増殖では、とりわけ、「資本の回転」数ということが重要だ。たとえば、コロナ・パンデミックなどでの、時短営業にはじまり、感染拡大・クラスター発生などでの職場休業や工場労働の短縮などの影響などは、こうした「資本の回転」にマイナスの結果をもたらしている。
マルクスは論じている。
「資本の循環が個々別々な過程としてではなく周期的な過程として規定されるとき、それは資本の回転と呼ばれる。この回転の期間は、資本の生産期間と流通期間の合計によって与えられている。この総期間は資本の回転期間をなしている。したがって、それは、総資本価値の一循環周期と次の循環周期とのあいだの間隔を表わしている。それは、資本の生活過程における周期性を、または、そう言いたければ、同じ資本価値の増殖過程または生産過程の更新、反復の時間を表わしている。……一労働日が労働力の機能の自然的な度量単位になっているように、一年は過程を進行しつつある資本の回転の自然的な度量単位になっている。この度量単位の自然的基礎は、資本主義的生産の母国である温帯のもっとも重要な土地果実が一年ごとの生産物だということにある。
回転期間の度量単位をUとし、ある一定の資本の回転期間をùとし、その回転数をnとすれば、n=ù/Uである。たとえば回転期間ùが三か月ならば、n=3/12=4である。この資本は、一年に四つの回転をおこなう。……ùが18か月ならば、n=18/12=3/2であり、言い換えれば、この資本は、一年にその回転期間の三分の二だけを終える。……資本家にとっては、彼の資本の回転期間は、自分の資本を価値増殖して元の姿で回収するためにそれを前貸ししておかなければならない期間である」(156~157)と。
●「不変資本」の意味
そこで、「資本の回転」のなかで、価値を生む(可変資本)のではなく、価値をただ生産物に転化していくだけの不変資本が考察される。
「不変資本の一部分は、不変資本が生産過程にはいるときの一定の使用形態を、その不変資本の協力によって形成された生産物に対して、元のまま保持している。すなわち、それは、長短の期間にわたって、絶えず繰り返される労働過程で、絶えず繰り返し同じ機能を行うのである。たとえば、作業用の建物や機械など、要するにわれわれが労働手段という名前のもとに総括するものは、すべてそういうものである。不変資本のこの部分は、それ自身の使用価値とともにそれ自身の交換価値を失うのに比例して、生産物に価値を引き渡す」(158)。
●「不変ー固定資本」としての労働手段・機械などと「不変ー流動資本」としての生産物の原料など素材的成分
さらに、不変資本は「固定資本」と「流動資本」に分節される。
「資本価値のうちこのように労働手段に固定されている部分も、やはり流通するのであって、このことは他のどの部分とも変わらない。……しかし、ここで考察される資本部分の流通は独特なものである。第一に、この部分はその使用価値で流通するのではなく、ただその価値だけが流通するのであり、しかも、それがこの資本部分から商品として流通する生産物に移って行くのにつれてだんだん少しづつ流通するのである。労働手段が機能する全期間にわたってその価値の一部分は常に固定されており、それの助力によって生産される商品にたいして独立に固定されている。この特性によって、不変資本のこの部分は、固定資本という形態を受け取る。これに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材的成分は、この固定資本にたいして、流動資本を形成するのである」(159)。
マルクスは、固定資本と流動資本の分節が生産資本の回転の特徴をなすと論じる。そして、「労働手段の価値」は、その一部は、生産過程に縛りつけられたままであり、一部は、貨幣となってこの形態から離れると論じている。コロナ禍では、生産・流通の縮小が、連鎖的にさまざまな業種をっまきこみ、いろいろな生産システムの稼働が縮小した結果、「貨幣となってこの形態からはなれる」価値が減少したことになる。
「固定資本の独特な流通からは独特な回転が生ずる。固定資本がその現物形態の消耗によって失う価値部分は、生産物の価値部分として流通する。生産物はその流通によって商品から貨幣に転化する。したがってまた、労働手段の価値のうち生産物によって流通させられる部分も貨幣に転化し、しかもその価値は、この労働手段が生産過程での価値の担い手でなくなって行くのと同じ割合で、流通過程から貨幣になってしたたり落ちてくる。だから労働手段の価値は今では二重の存在をもつことになる。その一部分は、生産過程に属するその使用形態または現物形態に縛りつけられたままであり、もう一つの部分は貨幣となってこの形態から離れる……この点に、生産資本のこの要素の回転の特徴が表れている」(163~164)ということになる。
●「固定資本」の「価値」の特徴
そうしたあり様を、マルクスは簡単な事例で説明している。
「かりに10000ポンドという価値のある機会の機能期間が10年だとすれば、この機械のために最初に前貸しされた価値の回転期間は10年である。この期間が過ぎるまではこの機械は更新される必要はなく、その現物形態で作用を続ける。その間にこの機械の価値は、引き続きこの機械で生産される商品の価値部分として少しづつ流通し、こうしてだんだん貨幣に転換して行き、最後に10年間の終わりにはその価値が全部貨幣に展開してさらに貨幣から機会に再転化し、こうしてその転回をすませたことになる。この再生産期間が始まるまでは、機械の価値は、だんだんに、さしあたりは準備金の形で(減価償却基金――引用者)、蓄積されていくのである」(164)と。
●「可変ー流動資本」としての「労働力」と「不変ー流動資本」としての固定資本を形成しない原料など成分的「生産手段」
このような生産資本の様態を前提として、生産資本の中での、可変資本と不変資本の要素の分節がのべられる。
「生産資本のうちの他の要素は、一部分は、補助材料や原料の形で存在する不変資本要素から成っており、一部分は、労働力に投ぜられた可変資本から成っている」(164)。
剰余価値の実際の生産過程での創造の場面があきらかとなる。
「労働力は労働過程によって自分の価値の等価を生産物に加える。言い換えれば、自分の価値を現実に再生産する。……生産資本のうち労働力に投ぜられる可変的な成分について言えば、労働力は一定の時間を限って買われる。資本家が労働力を買って生産過程に合体させてしまえば、それは彼の資本の一成分をなしており、しかもその可変的な成分をなしている。それは毎日ある時間働いて、そのあいだにただその日価値の全部を生産物につけ加えるだけでなく、さらにそれを越える剰余価値をもつけ加える」(165)。
「生産資本のうち労働力に前貸しされた部分は、その全体が生産物に移り(ここでは引き続き剰余価値は無視する)、流通部面に属する2つの変態を生産物といっしょに通り、そして不断の更新によって常に生産過程にがったいされている。…すなわち価値形成に関しては、労働力と固定資本を形成しない不変資本成分との間にどんな相違があろうとも、労働力の価値のこのような回転の仕方は、固定資本に対立して、労働力とこの不変資本部分とに共通なものである」(165)。
ここで流通資本ではない「流動資本」の概念が導き出される。
「生産資本のこれらの部分――生産資本価値のうち労働力に投ぜられた部分と固定資本を形成しない生産手段に投ぜられた部分と――は、このような、それらに共通な回転の性格によって、固定資本にたいして流動資本として相対するのである」(165)。
そしてマルクスは、「資本の回転」においては「形態」が重要であること、たとえば、資本家が買うものは、「労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのもの」だということを、以下のように、強調する。この労働力の労働生産過程での、「資本の労働に対する処分権」として、剰余価値の増殖がおこなわれる。そして生産の短縮・縮小は、資本家が剰余価値の創造を保守しながら、労働者の賃金を抑止し、労働者を解雇するなどの失業の多発化ウィ生み出してゆく過程をつくる。そのような労働者に対する抑圧を、資本家が容易にできる仕組みが「非正規雇用」という形態だ。
資本家が労働者に支払う貨幣は「実際にはただ労働者の必要生活手段の一般的な等価形態でしかない。そのかぎりでは、可変資本は素材的には生活手段からなっている。しかし、ここでは、回転の考察では、問題は形態である。資本家が買うものは、労働者の生活手段ではなく、労働者の労働力そのものである。…流動資本――労働力及び生産手段の形での――の価値が前貸しされているのは、ただ、固定資本の大きさによって与えられている生産の規模に応じて、生産物が完成される期間だけのことである」(166)。
●「固定資本」の諸成分・補填・修理・蓄積の問題
マルクスは、流動資本の解説ののち、他方での「固定資本」の中でのいろいろな要素について論じていく。
「同じ資本投下でも、固定資本の個々の諸要素は、それぞれ違った寿命をもっており、したがってまた違った回転期間をもっている。たとえば鉄道の場合には、軌条、枕木、駅の建物、橋、トンネル、機関車、車両は、それぞれ違った機能期間と再生産期間をもっており、したがって、それらのために前貸しされた資本もそれぞれ違った回転期間をもっている。建物、プラットホーム、貯水槽、陸橋、トンネル、切り通し、築堤など、簡単に言えばイギリスの鉄道でworks of art (工作物)と呼ばれるものは、すべて長い年月にわたって更新を必要としない。消耗品のもっとも主要なものは鉄道と車両(rolling stock)である」(169)。
固定資本の「手入れ」の問題は、固定資本の維持のため、特に注意を要するものだ。
「固定資本はその手入れのために積極的な労働投下をも必要とする。機械はときどき掃除しなければならない。ここにいうのは、それなしでは機械が使用不能になるような追加労働であり、生活家庭と不可分な有害な自然的影響の単なる防止であり、つまり、最も文字通りの意味で作業可能状態に維持することである。固定資本の平均寿命は、言うまでもなく、その固定資本がその期間中正常に機能しうるための諸条件が満たされるものとして計算されるのであって、ちょうど、人間が平均して30年生きるという場合には、人間が入浴することも想定されているようなものである。また、ここに言うのは、機械に含まれている労働の補填でもなく、機械の使用のために必要になる追加労働である。それは、機械が行う労働ではなく、機械に加えられる労働であって、この労働では機械は生産能因ではなく原料である。この労働に投ぜられる資本は、生産物の源泉になる本来の労働過程にはいるのではないが、流動資本に属する。この労働は生産が行われるあいだ絶えず支出されなければならず、したがってその価値も絶えず生産物の価値によって補填されなければならない」(174)。
この固定資本の維持のための労働と財源だが。
「この労働に投ぜられる資本は、流動資本のうちの、一般的な雑費の支弁にあてられて年間の平均計算によって価値生産物に割り当てられるべき部分に、属する」(174)。
「本来の工業ではこの掃除労働は労働者たちによって休息時間中に無償でおこなわれるのであって、それだからこそまたしばしば生産過程そのもので行われ、そこではこの労働がたいていの災害の根源になるのである。この労働は生産物の価格では計算に入らない。そのかぎりでは、消費者はこの労働を無償で受け取るのである。他方、資本家はこうして自分の機械の維持費をただですますことになる。労働者が自分自身で支払うのであって、このことは資本の自己維持の神秘の一つをなしているのであるが、このような自己維持の神秘は、事実からすれば、機械に対する労働者の法律的要求権を形成して労働者をブルジョア的な法的見地からさえも機械の共同所有者にするのである。とはいえ、たとえば機関車の場合のように、機械を掃除するためにはそれを生産過程から引き離すことが必要であり、したがって掃除が知らぬまにすんでしまうことができないようないろいろな生産部門では、この維持労働は経営費のなかに数えられ、したがって流動資本の要素として数えられる。機関車は、せいぜい三日も仕事をすれば、車庫に入れられて掃除されなければならない」(174)。
それは現在器具の「補填」と「生産規模の拡大」との兼ね合いの問題でもある。
「実際には補填のために必要な資本のごくわずかな部分が準備金になっているだけである。最も重要な部分は生産規模そのものの拡大にあるのであって、この拡大は、一部は現実の拡張であり、一部は固定資本生産部門の正常な範囲に属するものである。たとえば、機械製造工場は、その顧客の工場が年々拡張されるということ、またいつでもそれらの工場の一部分が全体的かまたは部分的な再生産を必要とすることに備えているのである」。
同じ生産器具でも、消耗した部分を修理するかどうかは、あるいは、どのように修理するかは、資本家・生産管理者の判断によって違う。
「消耗が、また修理費が、社会的平均によって規定されるとすれば、そこには必然的に非常な不均等が生ずるのであって、同じ生産部門の中で同じ大きさをもちその他の点でも同じ事情のもとにある諸投資のあいだでさえもそうなるのである。実際には、機械などは、ある資本家にとっては返金寿命以上に長もちするが、他の資本家のもとではそれほど長くはもたない。一方の修理費は平均よりも高く、他方のそれは平均よりも低い、等々」(178)。
マルクスは、つぎのように、これらの問題を整理している。
「われわれが見たように、固定資本の消耗補填分として還流するかなり大きな部分が、毎年、またはもっと短い期間にさえ、固定資本の現物形態に再転化させられるのであるが、それでもなお各個の資本家にとっては、固定資本のうち数年後にはじめて一度にその再生産期に達してそときすっかり取り替えられなければならない部分のために、償却基金が必要である。固定資本のかなり大きな構成部分は、その性質上、一部分ずつの再生産を排除する。そのほかにも、減価した現品に新品が比較的短い間隔でつけ加えられるという仕方で再生産がい部分ずつ行われる場合には、このような補填が行われうる前に、生産部門の独自な性質に応じてあらかじめ大なり小なりの規模の貨幣蓄積が必要である。そのためにはどんな任意の貨幣額でも足りるのではなく、ある一定の大きさの貨幣額が必要なのである」(181~182)。
ここに「蓄蔵貨幣」と「信用制度」の課題があらわれる。
「この償却基金によって、流通貨幣の一部は、前に固定資本を購入したときに自分の蓄蔵貨幣を流通手段の転化させて手放したその同じ資本家の手のなかで、再び――長短の期間――蓄蔵貨幣を形成する。それは、社会に存在する蓄蔵貨幣の絶えず変動する部分であって、この蓄蔵貨幣は交互に流通手段として機能してはまた再び蓄蔵貨幣として流通貨幣量から分離されるのである。大工業と資本主義的生産との発展に必然的に並行する信用制度の発展につれて、この貨幣は蓄蔵貨幣としてではなく資本として機能するのであるが、しかしその所有者の手のなかでではなく、その利用をまかされた別の資本家たちの手のなかで機能するのである」(182)。
●前貸資本の総回転――「恐慌はいつでも大きな投資の出発点をなしている」
ここで、恐慌の問題がでてくる。それは、「恐慌→革命」という物語ではなく、宇野弘蔵が『経済学方法論』などで論じたように、<新たな資本蓄積の形を創造する>という話だ。
「資本主義的生産様式の発展につれて充用される固定資本の価値量と寿命とが増大するのと同じ度合いで、産業の生命も各個の投資における産業資本の生命も、多年にわたるものに、たとえば平均して一〇年というようなものに、なるのである。一方で固定資本の発達がこの生命を延長するとすれば、他方では、同様に資本主義的生産様式の発展につれて絶えず進展する生産手段の不断の変革によって、この生命が短縮されるのである。したがってまた、資本主義的生産様式の発展につれて、生産手段の変化も、それが肉体的に生命を終わるよりもずっと前から無形の消耗のために絶えず補填される必要も、増大する。大工業の最も決定的な諸部門については、その生命環境は今日では平均して一〇年の周期を持つものと推定してよい。とはいえ、ここでは特定の年数が問題なのではない。ただ次のことだけは明らかである。このようないくもの転回を含んでいて多年にわたる循環に、資本はその固定的成分によって縛りつけられているのであるが、このような循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的基礎が生ずるのであって、この循環のなかで事業は不振、中位の状況、過度の繁忙、恐慌という継起する諸時期を通るのである。……とはいえ、恐慌はいつでも大きな投資の出発点をなしている。したがってまた――社会全体としてみれば――多かれ少なかれ次の回転循環のための一つの新たな物質的基礎をなすのである」(185~186)。
「コロナ恐慌」が、新たなビジネス・モデルを作り出すといわれているのも、こういう事情に拠っていることだろう。
たとえば、都内の大手ホテルでは、格安の長期滞在型のホテル生活プランが、人気を呼んでいる。これまでコロナ禍で「キャンセル」続出だった、高価で短期な一泊何万円もするような部屋を、たとえば料金を半額にして設定し、一か月やそれ以上の長期宿泊ができるプランへと変更した。その結果、予約がでてきたというものだ。オンライン・テレワーク生活の定着ができている人々のオフィス生活。混雑な密集空間を避ける。家庭内感染をふせぐため家族と離れて生活する、それは例えば、子供が受験のため、子供に感染させないように、会社勤めの親御さんがホテル住まいをする等々である。また、クルーズ船生活代わりのホテル生活として、数か月部屋を借りるなどだ。お金がまわっていく。
また、売り上げが伸び、単価はこれまでよりも、低額なものの、確実に売り上げがみこまれてきたことから、従業員の給与も安定して支払うことができるというのが経営者の声としてあるという。
もちろん、こうしたことはお金がある人たちにしかできないことだが。それが資本主義の現実であり、コロナが格差社会をあぶりだしているといわれる一端だろう。
●「労働期間」の問題――恐慌など生産過程の攪乱による中断など
マルクスは、労働時間を定義するとともに、生産の中断、一連の生産行為の中断などでの、労働期間の問題を言っている。
「われわれが労働日というときには、労働者が自分の労働力を毎日支出しなければならない労働時間……を意味する。これに対して労働期間と言う場合には、一定の事業部門で一つの完成生産物を供給するために必要な相関連する労働日の数を意味する。……それゆえ、社会的生産過程の中断や攪乱、たとえば恐慌によるそれが分離性の労働生産物に与える影響と、その生産にかなり長い関連した一期間を必要とする労働生産物に与える影響とは、非常に違うのである。一方の場合には、一定量の糸や石炭などの毎日の生産に、明日は糸や石炭などの新しい生産が続かなくなる。ところが、船や建物や鉄道などではそうではない。労働が中断されるだけではなく、一つの関連した生産行為が中断されるのである。仕事が続行されなければ、すでにその生産に消費された生産手段や労働はむだに支出されたことになる。仕事は再開されるとしても、中断期間中は絶えず質の悪化が進行しているのである」(233)。
●地域開発を想定した資本主義時代の「開発」の様相
さらに以下のような資本主義時代と、その前の時代での、労働時間の回転の相違をとりあげている。
「資本主義的生産の未発達な段階では、長い労働期間を必要とするためにかなり長期間にわたって大きな資本投下を必要とする諸企業は、ことにそれが大規模にしか実行できない場合には、決して資本主義的には経営されない。たとえば共同体や国家の費用による……道路や運河などの場合である。あるいはまた、その生産に比較的長い労働期間の必要な生産物は、ごくわずかな部分だけが資本家自身の資力によってつくられる。たとえば、家屋の建築の場合には、家屋を建てさせる個人は建築業者に前貸金一部ずつ支払って行く。だから、この人は実際には家屋の生産過程が進行するにつれて少しづつ家屋の代金を支払って行くわけである。ところが、発展した資本主義時代には、一方では大量の資本が個々人の手のなかに集積されており、他方では個別資本家と並んで結合資本家(株式会社)が現れていて同時に信用制度も発達しているのであるが、このような時代には、資本家的建築業者は個々の私人の注文でもはや例外的にしか建築をしない。彼は立ち並ぶ家屋や市区を市場めあてに建設することを商売にする。それは、ちょうど個々の資本家が請負業者として鉄道を建設することを商売にするようなものである」(236)。
●協業・機械などでの「労働期間」の短縮
マルクスは協業や分業や機械の質が資本の回転を短縮してゆく。これは固定資本の増大と結びついてるし、このことが個々の資本家企業での資本の集積の規模を決定づけると展開する。
「協業や分業や機械の充用は、同時にまた、関連した生産行為の労働期間を短縮する。たとえば機械は家や橋などの建設期間を短縮する。造船の改良は、速度を増すことによって、海運に投下された資本の回転期間を短縮する。……労働期間を短縮し、したがってまた流動資本が前貸しされていなければならない期間を短縮する諸改良は、たいていは固定資本の投下の増大と結びついている……それゆえ、たいていは、この短縮された期間に前貸しされる資本の増大と結びつけられており、したがって、前貸期間が短くなるにつれて資本の前貸しされるされる量がおおきくなるのであるが、――しうだとすれば、ここでは次のことに注意しておかなければならない。すなわち、社会的資本の現在量を別とすれば、問題は、生産手段や生活手段はそれらにたいする処分力がどの程度に分散しているか、または個々の資本家の手のなかにまとめらているか、つまり資本の集積がすでにどれほどの規模に達しているか、に帰着するということである。信用が一人の手のなかでの資本の集積を媒介し、促進し、増進するかぎり、それは労働時間に短縮を助け、したがってまた回転期間の短縮を助けるのである」(238)。
だが「特定の自然条件によって定められている生産部門では、前述のような手段による短縮が行われることはできない」(238)。
ここで、資本の回転(量)に対する、固定資本と流動資本との機能の違いが指摘されている。
「機械は、その損耗の補填分貨幣形態で還流するのが遅かろうと速かろうと、引き続き生産過程で働いている。流動資本はそうではない。労働期間の長さに比例して資本が資本がより長い期間固定されていなければならないだけではなく、また、絶えず新たな資本が労賃や原料や補助材料として前貸しされなければならない。それゆえ、還流がおそくなることは固定資本と流動資本とに別々の作用をするのである。還流がおそかろうと速かろうと、固定資本は働き続ける。これに反して、流動資本は、まだ売れていない生産物または未完成でまだ売ることができない生産物の形態に固着しているならば、そしてそれを現物で更新するための追加資本もないならば、還流の遅延によって機能できなくなるのである」(239)。
●「生産期間」の問題――とりわけ長い生産期間について
マルクスは「ぶどう液」を例にとり、ある生産物の生産における個々の自然過程での時間が必要な「労働過程」の停止と「生産期間」の継続との間の関係を解き明かしている。
「資本が生産過程にあるすべての期間が必ず労働期間であるとはかぎらない。ここで問題にするのは、労働力そのものの自然的制限によってひき起こされる労働過程の中断ではない。……労働過程の長さにかかわりのない、生産物とその生産との性質そのものによってひき起こされる中断であって、その間労働対象は長短の期間にわたる自然過程のもとに置かれていて、物理的、化学的、生理的諸変化を経なければならないのであり、そのあいだ労働過程はその全体または一部分が停止されているのである」(241)。
「たとえば、絞られたぶどう液は、一定の完成度に達するためには、まずしばらく醗酵状態を経てからまたしばらく放置されなければならない。製陶業のように生産物が乾燥の過程を経なければならない産業部門や、漂白業のように生産物がその化学的性状を変えるためにある種の状態にさらしておかなければならない産業部門も多い」(241)。
労働期間をこえる生産期間という問題が、どのような労働者の状態を結果しているか、マルクスは次のように言う。
「労働期間を越える生産期間が、穀物の成熟やオークの成長などのように永久的に与えられている自然法則によって規定されているのでないかぎり、回転期間が生産期間の人為的短縮によって多かれ少なかれ短縮されうることも多い。たとえば、屋外漂白に代わる化学的漂白の採用によって、あるいは感想過程でのいっそう有効な乾燥装置によって」(242)。
「ここでわかるのは、生産期間とそおの一部分でしかない労働期間との不一致が農業と農村の副業との結合の自然的基礎をなしているということ、他方、この副業がまた、最初はまず商人としてはいりこんでくる資本家にとっての手がかりになるということである。その後、資本主義的生産が工業と農業の分離を完成するようになると、ますます農業労働者はただ偶然的でしかない副業にたよることとなり、こうして農業労働者の状態はますます悪くなってくる」(244)。
長い生産期間(また、回転期間)は、その生産分野を、「不利な生産部門」にする。
「長い生産期間(それは相対的に小さな範囲の労働期間しか含んでいない)、したがって長い回転期間は、造林を不利な私経営部門にし、したがってまた不利な資本主義的経営部門にする。……これに比べれば、耕作や産業が逆に森林の維持や生産のためにやってきたいっさいのことは、全く消えてなくなるような大きさのものである。……つまり、一〇年から四〇年以上に一回の回転なのである」(247)。
●「生産期間」と「労働期間」の差
マルクスは、いろいろな生産期間のあり様を次のようにまとめている。
「生産期間と労働期間との差は、われわれが見てきたように、非常にさまざまでありうる。流動資本は、本来の労働過程にはいる前に、生産期間にはいっていることがありうる(靴型製造)。または、本来の労働過程をすませてからも生産期間にあることがある(ぶどう酒、穀物の種子)。または、生産期間のところどころに労働期間がはさまることがある(耕作、造林)。流通可能な生産物の大きな一部分は現実の生産過程に合体されたままになっていて、それよりもずっと小さい部分が年々の流通にはいっていく場合もある(造林、畜産)。流動資本が潜勢的な生産資本の形態で投下されなければならない期間の長短、したがってまたこの資本が一度に投下されなければならない量の大小は、生産過程の種類から生ずることもあり(農業)、市場の遠近など、要するに流通部面に属する諸事情にかかっていることもある」(249)。
「以前に考察した回転期間は、生産過程に前貸しされた固定資本の維持によって与えられている。この回転期間は多かれ少なかれ何年かにわたるものだから、それはまた固定資本の年々の回転のいくつかを、または一年のうちに繰り返される回転のいくつかを含んでいるのである」(249)。
●「流通期間――販売期間」
資本の回転期間は資本の生産期間と流通期間の合計に等しい。ここに流通期間の合理化、技術的刷新という問題が現れる。
「資本の回転期間は資本の生産期間と流通期間との合計に等しい。それゆえ流通期間の長さの相違は回転期間を相違させ、したがってまた回転周期の長さを相違させるということは自明である。……流通期間の一部分――そしてそして相対的に最も決定的な一部分――は、販売期間、すなわち資本が商品資本の状態にある期間から成っている。この期間の相対的なな長さにしたがって、流通期間が、したがってまた回転期間一般が、長くなったり短くなったりする。保管費などのために資本の追加投下が必要になることもある。はじめからあきらかなことであるが、できあがった商品を売るために必要な時間は、同じ事業部門のなかでも個々の資本家にとっては非常に違っていることもありうる」(251)。
ことに市場と生産地の移動期間の問題がある。
「販売期間を相違させ、したがってまた回転期間一般を相違させることにつねに作用する一原因は、商品が売られる市場がその商品の生産地から遠く離れているということである。……運輸交通機関の改良は、商品の移動期間を絶対的には短縮するが、この移動から生ずるところの、いろいろな商品資本の、または同じ商品資本のなかでも別々の市場に行くいろいろな部分の、流通期間の相対的な差を解消しはしない」(252)。
●「生産地と販売地」の変動
生産地と販売地の集積やその変化は、地方の在り方を変える。
「一方では、ある生産地がより多く生産するようになり、より大きな生産中心地となるにつれて、まず第一に運輸機関の機能する頻度、たとえば鉄道の列車数が増加して、その増加は既存の販売市場への方向に、つまり大きな生産中心地や人口集中地や輸出港などに向かって行われる。しかし、他方では、これとは反対に、このように交通が特別に容易であることや、それによって資本の回転が(流通期間によって制約される限り)進められることは、一面では生産中心地の集積を促進し、他面ではその市場地の集積を促進する。このように与えられた地点での人口と資本量との集積が促進されるにつれて、少数の手のなかでのこの資本量の集積が進行する。同時に、交通機関の変化につれて生産地や市場地の相対的な位置が変化することによって、再び変転や移動が生ずる。かつてはその位置が国道や運河に沿っていることによって特別に有 利な位置を占めていた生産地が、今では、相対的に大きな間隔をおいて運転されるだけのただ一本の支線に沿っているのに、他方、主要交通路からまったく離れておた別の地点が今では何本もの鉄道の交差点にあたっている。あとのほうの地方は盛んになり、前の方の地方は衰える」(253)。
運輸交通機関の発達は、世界市場のための前提だ。
「一方では、資本主義的生産の進歩につれて運輸交通機関の発達が与えられた量の商品の流通期間を短縮するとすれば、この同じ進歩と、運輸交通機関の発達とともに与えられた可能性とは、――逆に、ますます遠い市場のために、一言で言えば、世界市場のために、仕事をする必要をひき起こすのである。……それと同時に、社会的富のうちの、直接的生産手段として役立つのではなく運輸交通機関に投ぜられる部分、また運輸交通機関の経営に必要な固定資本と流動資本との投ぜられる部分も、増大する」(254)。
「生産地から販売地への商品の旅行の相対的な長さだけでも、流通期間の第一の部分である販売期間の相違をひき起こすだけではなく、第二の部分、すなわち貨幣が生産資本の諸要素に再転化する購買期間の相違をもひき起こす」(254)。
●購買期間
購買期間とは、貨幣が再び生産資本の諸要素に転化する期間である。一言で言うと仕入れの期間だ。ここで資本の回転は、生産資本の循環の初めに戻る。
「流通期間の第二の時期である。それは購買期間、すなわち資本が貨幣形態から生産資本の諸要素に再転化する期間である。この期間には資本は長短の時間貨幣資本の状態にとどまっていなければならない。……商品の買い入れに関しては、購買期間があるために、また原料の主要仕入地から多少とも遠く離れているために、かなり長い期間のための原料を買い入れて生産用在庫すなわち潜在的または潜勢的な生産資本の形態で準備しておくことが必要になる。……比較的大量の原料が市場に放出される周期――長短の――も、いろいろな事業部門で同様に作用する。たとえば、ロンドンでは三か月ごとに羊毛の大競売が行なわれて、それが羊毛市場を支配する。他方、綿花市場の方は、収穫期から収穫期までだいたい連続的に、といっても必ずしも一様にではないが、更新される。このような周期は、これらの原料の主要な買い入れ時期を決定し、ことにまた、これらの生産要素のための長短の前貸を伴う思惑的な買い入れにも影響する」(257)。
コロナ・パンデミックに例をとるならば、こうした、購買期間においても、コロナ禍における、従業員・技術者などでのクラスターなどでの生産の停滞など、世界的な経済・物流の混乱が起きている。それは、海外での中間財の本国への物流の遅延など、さまざまな分野が影響し合い、まさに「コロナ恐慌」と呼ばれる現実を作り出しているのだ。
【第四節】資本の再生産の機制――資本論第二巻第三篇「社会的総資本の再生産と流通」
●「社会的総資本の再生産」についての考え方と再生産表式の位置づけ
ここで、資本主義的再生産の問題に入ろう。ここでは、資本の諸変態の分析と剰余価値の産出の機制とセットで、「資本主義的再生産」の仕組みを確認することが必要だ。「第18章緒論 第一節 研究の対象」というところで、マルクスは次のようにのべている。
そこではこの研究の位置づけが問題となっている。
「社会的資本の運動は、それの独立化された諸断片の諸運動の総体すなわち個別的諸資本の諸回転の総体からなっている。個々の商品の変態が商品世界の諸変態の列――商品流通――の一環であるように、個別資本の変態、その回転は、社会的資本の循環のなかの一環なのである。この総過程は、生産的消費(直接的生産過程)とそれを媒介する形態変化(素材的に見れば交換)とを含むとともに、個人的消費とそれを媒介する形態変化又は交換とを含んでいる」(352)。
どういうことか。
「それは、一方では、労働力への可変資本の転換を、したがって資本主義的生産過程への労働力の合体を含んでいる。ここでは、労働者は自分の商品である労働力の売り手として現われ、資本家はその買い手として現われる。しかし、他方、商品の販売のうちには労働者階級による商品の購買、つまりこの階級の個人的消費が含まれている。ここでは、労働者階級は買い手として現われ、資本家は労働者への商品の売り手として現われる。商品資本の流通は剰余価値の流通を含んでおり、したがってまた、資本家が自分の個人的消費すなわち剰余価値の消費を媒介するところの売買をも含んでいる」(352)。
かかる「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで社会的総資本の運動を形成するのである。……社会的総資本の循環は、個別資本の循環にははいらない商品流通、すなわち資本を形成しない商品の流通をも含んでいるのである。そこで、……社会的総資本の構成部分としての個別的諸資本の流通過程(その総体において再生産過程の形成をなすもの)が、したがってこの社会的総資本の流通過程が、考察されなければならないのである」(353~354)。
●社会的生産の組織的構成――「第二一〇章 単純再生産 第二節 社会的生産の二つの部門
「社会的総生産物は、したがってまた総生産も、次のような二つの大きな部門に分かれる。
Ⅰ生産手段。生産的消費にはいるよりほかはないかまたは少なくともはいることのできる形態をもっている諸商品。
Ⅱ 消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費にはいる形態をもっている諸商品。
これらの部門のそれぞれのなかで、それに属するいろいろな生産部門の全体が単一の大きな生産部門をなしている。すなわち、一方は生産手段の生産部門を、他方は消費手段の生産部門をなしている。この両生産部門のそれぞれで充用される総資本は、社会的資本の一つの特殊な大部門をなしている。
それぞれの部門で資本は次の成分に分かれる。
(1)可変資本。これは、価値から見れば、この生産部門で充用される社会的労働力の価値に等しく、したがってそれに支払われる労賃の総額に等しい。素材から見れば、それは、活動している労働力そのものから成っている。すなわち、この資本価値によって動かされる生きている労働から成っている。
(2)不変資本。すなわち、この部門での生産に充用される一切の生産手段の価値。この生産手段は、さらにまた、固定資本、うあなわち機械や工具や建物や役畜などと、流動不変資本、すなわち原料や補助材料や半製品などのような生産材料とに分かれる。
この資本の助けによって両部門のそれぞれで生産される年間総生産物の価値は、生産中に消費され価値から見ればただ生産物に移されただけの不変資本Cを表わす価値部分と、年間総労働によってつけ加えられた価値部分とに分かれる。この後の方の価値部分はさらにまた前貸可変資本Vの補填分と、それを越えて剰余価値mを形成する超過分とに分かれる。つまり、各個の商品の価値と同じに、各部門の年間総生産物の価値もc+v+mに分かれるのである」(394~395)。
ここまでが、社会的総生産の概念的前提になることだ。ここから、単純再生産(の時の表式)、拡大再生産(の時の表式)という話になって行くのである。
●「二部門」の意味内容
この「生産手段生産部門」と「消費手段生産部門」の二部門ということの、意味だが。「このばあい個々の具体的な産業部門が必ずどちらかに属すると考えてはならない」。たとえば「紡績業についてはそうはいえない。生産物である綿糸は織布業の原料として生産手段であるとともに、直接に生活資料となりうる。……また例えば製粉製パン過程が農業から独立の資本のもとにおかれているとすれば、原料となる小麦の多くは生産手段である」(日高晋『経済原論』、一九八三年、有斐閣選書、一二八~一二九頁)ということは、踏まえなければならない。
●単純再生産の機制
その社会的総資本の運動の構造だが、まずは「単純再生産」の構図から見ていこう。これにつづくのは「拡大再生産」だが、基本は、単純再生産の拡張だ。
単純再生産は「Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc」という表紙がポイントだ。生産手段生産部門の労働者階級と資本家階級は、第二部門に生産手段を売り、そのことによって、第二部門でつくられた生活資料を購入するということだ。
ここでは、前掲・日高晋『経済原論』を援用することにする。この表式の解法では、宇野経済学のテキストのなかで、本書は出色にわかりやすいというのが、本論著者・渋谷の個人的な認識だからだ。
「総商品をその用いられる方から第一部門生産物と第二部門生産物にわけるなら、そのおののは価値のうえからそのその部門のcとvとmとをそれぞれあらわしている部分から成り立つ。
こうして総商品W´は、次のような内容を持つ。
Ⅰ=Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm
Ⅱ=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm
このうち1cは生産手段であり、生産手段で補填される部分だから、第一部門の資本家同士の交換をとおして処理できる。またⅡvとⅡmはものは生活資料であって生活資料として用いられるはずのものだから、Ⅱの労働者と資本家および資本家同士の交換をとおして処理される。つまりⅠcとⅡv、Ⅱmは、その部門内で処理することができるのである。
ところが、ⅠvとⅠmとは、ものは生産手段でありながら、生活手段で補填されなくてはならず、またⅡcは、ものは生活資料でありながら生産手段で補填されなくてはならない。そこでこの両者の価値が等しくⅠvとⅠmがⅡcにたいして交換されるとしたら、単純再生産がおこなわれるだろう。そのためには、次の等式の成立が必要だ。
Ⅰv+Ⅰm=Ⅱc
この等式の両辺にⅠcを加えるなら
Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm=Ⅰc+Ⅱc
となり、第一部門の生産物である総生産手段は両部門の生産手段を補填することが示される。また先の式(Ⅰv+Ⅰm=Ⅱcの式――引用者・渋谷)の両辺にⅡvとⅡmとを加えるなら
Ⅰv+Ⅰm+Ⅱv+Ⅱm=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm
となり、両部門の資本家階級と労働者階級の生活を支える生活資料は、第二部門で補填されることが示される」(129~130頁)。
●単純再生産の例解
日高前掲で、論述されている例解もやることにしよう。
「かりに9,000億円のうち第一部門の生産物を6000億円、第二部門のそれを3000億円とする。そして両部門の資本をそれぞれ5000億円と2500億円、不変資本と可変資本の割合である資本の構成を両部門とも4対1、剰余価値率を100%とすると、
Ⅰ 6000=4000c+1000v+1000m
Ⅱ 3000=2000c+500v+500m
となる。この生産物で本年も前年と同じ規模の生産をするとすれば、第一部門の資本家は必要とする4000億円の生産手段を部門内の相互の交換で得ることができる。また第二部門の資本家は労働者のための生活資料と自分たちの使う生活資料とを、部門内の資本家相互か労働者をも交えた相互の交換で得ることができる。そこで第一部門の資本家がもつ1000v+1000mに当たる2000億円の生産手段と第二部門の資本家がもつ2000cに当たる生活資料とが交換されるとしよう、すると第一部門の資本家はその労働者の賃金の内容をなす生活資料と自分たちの生活に必要な生活資料を得ることができると同時に、第二部門の資本家は次の生産に必要な生産手段を得ることができる」。
この場合のポイントは、第一部門の資本家は、第二部門の資本家と、資本を「交換」すると言う意味だ。それは、第一部門の資本家は、第二部門の資本家に生産手段を売った貨幣で第二部門から生活資料を得る=第一部門の資本家と労働者が第二部門から生活資料を購入する、第二部門はその売り上げで、第一部門から生産手段を購入するということだ。同時・等価の交換が成立している。
●拡大・拡張再生産の機制
次は拡大・拡張再生産の機制を見ていこう。
「拡張(拡大)再生産」のポイントは、「Ⅰv+Ⅰm>Ⅱc」である。だが、日高『原論』では、もう一つ、この『原論』にしか見られない――浅学な私の思い込みかもしれないが――表式が書かれている。「Ⅰv+Ⅰm(k)+1m(v)=Ⅱc+Ⅱm(c)」である。
この「Ⅱm(c)」というのがポイントだ。
このことが、拡大再生産の理解を、きわめて容易なものにしていると、本論論者・渋谷は考えている。
ここでは、考え方としては、第一部門の生産によってつくられた資本家の剰余価値を全部私的な消費にまわすのではなく、その部分を蓄積し、新たな生産に投入していくことを条件にする。それを根拠として生産手段の生産の増加を根拠とし、第二部門の資本家も生産手段をより多く第一部門より購入すべく、第二部門の資本家の剰余価値を新たな設備投資へと転換する。それにより新たな生産の規模が拡大する、ということだ。
「拡張再生産を拡張再生産たらしめるものは、剰余価値が再びしほんとして投下されることだ。……mは資本家の生活に費やされる部分と追加投資される部分とに分かれる。そして追加投資される部分は、追加的な生産手段を買う部分と追加的な労働力を買う部分とに分かれる。そして買うことができるためには、追加的な生産手段と賃金の内容となる生活資料の追加分が生産されていることが必要だ。こうして拡張再生産表式の第一歩であるW´は次のようになる。
Ⅰ=Ⅰc+Ⅰv+Ⅰm(k)+Ⅰm(c)+Ⅰm(v)
Ⅱ=Ⅱc+Ⅱv+Ⅱm(k)+Ⅱm(c)+Ⅱm(v)
両部門ともその生産物のうち剰余価値をあらわす部分は三つに分かれる。第一は資本家の生活を可能にする価値部分m(k)であり、のこりは投資されるべき価値部分なのだが、それが追加的生産手段の購入にあてられる部分m(c)と追加的労働力の購入にあてられる部分m(v)とから成り立つ。このようにmがm(k)+m(c)+m(v)とに分けられるところから、Wの運動がはじまるのである」(133~134)。
「第一部門の生産物のうちcとm(c)とは、素材は生産手段であって、しかも生産手段として用いられるべき部分なのだから、第一部門の資本家同士の交換によって処理される。同様に第二部門の生産物のうちvとm(k)とm(v)とは素材も生産資料であり、しかも生活資料に用いられる部分だから、第二部門の資本家同士さらには資本家と労働者との交換によって処理される。だから残るところは、第一部門のvとm(k)とm(v)、および第二部門のcとm(c)である。前者は素材は生産手段でありながら生活資料に換えなくてはならないし、後者は素材は生活資料でありながら生産手段に換えられなくてはならない。そこで両者がもし等価値で交換されるなら、拡張再生産が可能となるのである。すると拡張再生産の条件は、
Ⅰv+Ⅰm(k)+Ⅰm(v)=Ⅱc+Ⅱm(c)
となる。このことは、
Ⅰv+Ⅰm>Ⅱc
であることを示す。単純再生産とくらべて拡張再生産では、第一部門が相対的に大きいことが必要なのだ。こうして新しい生産は両部門ともそれぞれ、cにm(c)を加えたものが新しいcとなり、vにm(v)をくわえたものが新しいvとなって出発する」(134~135)ということだ。
―――――
●【本論全体の結語として】「再生産」とパンデミック――文明史的意味が問われている
こうした「資本主義的再生産」の構造(秩序)といったものが、恐慌やパンデミックなどでは破壊する。だが、それは、「資本主義の資本蓄積運動」そのものが生み出している、まさに、自殺的現象なのである。
現代の「生産力主義」の問題を踏まえて言うならば、こうした、生産手段生産部門の構造的拡大が、温暖化を生むと同時に、生活資料生産部門の拡張を生み、生活資料の大量生産・大量消費社会を結果している。まさに成長のための蓄積が価値とされ、その悪無限的増加が、社会の原則とされ、生産力の発展を第一とする考え・価値観が社会的なヘゲモニーを展開することになっている。こうした資本主義の生産力主義がグローバル化し、環境破壊を進行させ、それによって、森林伐採をはじめとする多くの自然破壊を展開するなか、ウイルスが生きていくうえで必要な宿主が生息する自然が失われると同時に、その開発された場所に人間が入り介入する、接近することによって、ウイルスが人間にとりつくことが、これまで、典型的には例えば「エボラ出血熱」などによっておこってきた。まさに資本主義自体を、どうにかする必要があるのは、この資本蓄積・生産力主義を本来的に構造化させているあり方からも、わかるだろう。コロナ・パンデミックは、まさに、かかる資本主義の生み出したものなのだ。その結果、以上のような「資本の回転」が、破壊されてしまっている。「自殺する世界資本主義」といっていいものなのである。もちろん、それによってもっとも打撃を受けているのは、本論冒頭でも指摘したように非正規雇用労働者をはじめとする労働者階級である。
この感染症は世界資本主義という舞台のうえでその世界資本主義の人流回路とフレンドに発生し、拡大しているというのが、本論論者の認識である。
岡田晴恵氏の『知っておきたい感染症【新版】――新型コロナと21世紀パンデミック』(ちくま新書、二〇二〇年)には、次のように書かれている。
「21世紀は、医療体制が充実し、衛生環境が行き届いている先進諸国であっても、ウイルスの危険と無縁ではいられない。むしろ、人口の過密化、高速大量輸送を背景とし、不特定多数の人々が集まっては霧散する都市の特徴が、感染症に対するリスクを飛躍的に高めている。さらに、その感染の原因の病原体は、思いも寄らない遠隔地から航空機で運ばれ、または高速道路でやってきた、新たな感染症である可能性が高い。地球の一地点で発生した感染症は、密集した人々の中で感染伝播を繰り返し変異して、さらに広域に拡散、同時多発的な大流行を引き起こす可能性がある。これが、21世紀パンデミックである」(三〇一頁)。
まさに、ドンピシャの分析だ。岡田氏が、書いたことと、まったく同じことが、現実にこの地球でまるごと、起こっている・展開している。そして、資本主義批判の主体的問題としては、こうした「資本の回転」の内容を、変革してゆく必要があるということになるだろう。◆