2020年9月10日木曜日

COVID-19感染症における日本での「夜の街」差別を考える ――「自粛ー「夜の街」差別」言説を、吉本隆明「禁制論」から読み解く――渋谷要

 

【最終更新 9月11日、23:40】


COVID-19感染症における、日本での「夜の街」差別を考える

―――「自粛―「夜の街」差別」言説を、吉本隆明「禁制論」から読み解く

渋谷要

「禁制論」とは何か?

吉本隆明(文芸評論家・吉本隆明(1924~2012。第二次世界大戦後、日本のアジア侵略戦争における「文学者の戦争責任」の掘り起こし、などの業績をのこしている)の、「禁制論」は彼の『共同幻想論』(=「国家共同幻想」概念論)の「冒頭」概念として、論じられているものだ。

「国家共同幻想」は、「村落共同体」と「国家」との関係で一つの構成体を見ることができる。村落共同体を柳田国男の『遠野物語』に、国家共同幻想を『古事記』に対象化する。それが、吉本『共同幻想論』の第一章、「禁制論」だ。

 

●禁制論の持つ意味と内容――禁制と黙契

 

 吉本は、次のように述べている。まずは「禁制」について。

「ある事象が、事物であっても、思想であっても、人格であっても、禁制の対象であるためには、対象を対象として措定する意識が個体のなかになければならない。そして対象はかれの意識からはっきりと分離されているはずである。かれにとって対象は、怖れでも崇拝でも、そのふたつでもいいが、かれの意識によって、対象は過少にか過大にか歪められてしまっている。さしあたってじぶんにとって、じぶんが禁制の対象であったとすれば、対象である、対象であるじぶんは酵母のように歪んでいるはずである。そしてこの状態にたえず是正をせまるものがあるとすれば、かれの身体組織としての生理的な自然そのものである。またじぶんにとって<他者>が禁制の対象であったとすれば、この最初の<他者>は<性>的な対象としての異性である。そしてじぶんにとって禁制の対象が<共同性>であるとすれば、この<共同性>に対するじぶんは、<自己幻想>であるか性的な<対幻想>であるいずれかである。

 じぶんにとってじぶんが禁制の対象である状態は、強迫神経症とよばれているもののなかにもっとも鮮やかにあらわれる」と吉本は論じる。

そして吉本は、<黙契>というものと、<禁制>というものを対照させながら、禁制の意味をつぎのように、定義している。

 

●≪黙契≫とは、何か。

 

「<正常な>個体は大なり小なり、共同の禁制にたいして合意させられている。そしてこの合意は黙契とよばれるのである。黙契でも対象になるものはかならずある。しかもある共同性の内部にあるはずである。<かれ>の意識にとって、対象が怖れでも崇拝でもいいことは、禁制のばあいとおなじだが、ただ<かれ>の意識は共同性によっていわば赦されて、狃れあっているという意識をふくんでいる。禁制ではかれの意識は、どんなに共同性の内部にあるようにみえても、じつは共同性からまったく赦されていない。いわば神聖さを強制されながら、なお対象をしりぞけないでいる状態だといえる」。

「ある<幻想>の共同性がある対象を、それが思想にしろ、事物にしろ、人格にしろ共同に禁制とかんがえているばあい、じつはそのなかの個人は、禁制の神聖さを強制されながら、その内部にとどまっていることを物語っている」という。

……禁制はすくなくとも個人からはじまって、共同的な<幻想>にまで伝染してゆくのだが、個人がいだいている禁制の起源がじつは、じぶん自身にたいして明瞭になっていない意識からやってくるのだ。知識人も大衆もいちばん怖れるのは共同的な禁制からの自立である。この怖れは黙契の体系である生活共同体からの自立の怖れと、じぶんの意識のなかで区別できていない。べつの言葉でいえば、<黙契>は習俗をつくる<禁制>は<幻想>の権力をつくるものだ」と。

そして吉本は、人々の意識としては、この二つは、混有しているという。

『遠野物語』の山人譚は、それを表している。

「恐怖の共同性」

「① 山人そのものに対する恐怖。

「② 山人と出遭ったという村人の体験が夢か現実かわからないという恐怖。

「③ 山人の住む世界が、村人には不可抗な、どうすることもできない世界だという恐怖」

こうした恐怖は、

判断力の低下による「入眠幻覚の恐怖」と、「出離の心の体験」に「帰する」という。


●共同体からの離別=恐怖の共同性

 

「そしてこの種の山人譚で重要なことは、村落共同体から離れたものは、恐ろしい目にであい、きっと不幸になるという<恐怖の共同性>が象徴されていることである。村落共同体から<出離>することへの禁制(タブー)が、この種の山人譚の根にひそむ<恐怖の共同性>である。……未開の時代や場所の住民にとって、共同の禁制でむすばれた共同体の外の土地や異族は、なにかわからない未知の恐怖がつきまとう異空間であった。心の体験としてみれば、ほとんど他界にひとしいものであった」。 

「すべての怪異譚がそうであるように『遠野物語』の山人譚も、高所崇拝の畏怖や憧憬を語っている伝承とはおもわれない。そこに崇拝や畏怖があるとすればきわめて地上的なものであり、他界、いいかえれば異郷や異族に対する崇拝や畏怖であったというべきである。そしてその根源には、村落共同体の禁制が無言の圧力としてひかえていたと思える。

わたしたちの心の風土で、禁制がうみだされる条件はすくなくともふた色ある。ひとつは、個体がなんらかの理由で入眠状態にあることであり、もうひとつは閉じられた弱小な生活圏にあると無意識のうちでもかんがえていることである。この条件は共同的な幻想についてもかわらない。共同的な幻想もまた入眠とおなじように、現実と理念との区別がうしなわれた心の状態で、たやすく共同的な禁制を生みだすことができる。そしてこの状態の本当の生み手は、貧弱な共同社会そのものである」。

 

●現代における「禁制」としての「感染防止のための自粛」

 

――ウイルスの「感染」は、それは「恐怖の共同性」であり、自粛に応じない開業は「恐怖」の象徴として社会化される。

 

そして、個人にとって、それが、どれだけ「感染」度が高いかが分からない・わからない分だけ、不安=恐怖である、となる。

ーーこの「恐怖」は、自分の現実の自己防衛からもくる。自己の感染はもとより、例えば近所の感染による、また、友人の感染による、自分の自宅や住まいの保健所による「消毒作業」で、大事なものが、破壊される不安など。

ーー「禁制」は、自粛の「要請」という名での「強制」(パチンコ店の場合が典型)、それは、「緊急事態宣言」という共同体からの「強要」。共同体の各個人は、共同体から「赦されていない」存在だ。「自粛警察」といわれる集団の「発生点」と「正当性の主張」がここにある。

いわゆる「夜の街」=クラスターーー感染経路がわかりやすい。→それは実は「恐怖」ではない。わかっているから。だが、もう一つ、「夜の街」は、人々の「生活共同体」の一部であるにもかかわらず、行政権力者たちなどが、いわゆる「夜の街」自体を〈実体化〉(自立化ないしは、こう言ってよければゴジラ化)させた場合は、行政権力者たちなどの恣意によって、生活共同体成員たちに「生活共同体」の外部に存在するものと錯視・錯認させることが可能となる。それは端的に、いわゆる「夜の街」に対する差別扇動として展開されることで可能となっていることだ。だから実体化させた「夜の街」〈なるもの〉は、そこは国家―生活共同体の「自粛要請」から考えると、行く必要がない「異郷」でもある。そこで感染することは、異郷で発病することを意味する。

市中感染ーー感染経路不明。→恐怖だ。わからないから。だが、生活共同体の対策としては、「三密防止徹底の様々な工夫」ということで、マスコミがいろいろ宣伝し、恐怖を取り除こうとしている。恐怖の後景化。

 こうしたことから、総合して、「みなさんがんばりましょう」の共同幻想は、「市中感染」のクローズアップだけでは、生活共同体それ自身が恐怖を乱す現場となってしまう。だから、「生活共同体」の共同幻想の外部にある恐怖として、差別意識と結びついて、「夜の街」〈なるもの〉を実体化し、それが感染源だと、「夜の街」なるものをクローズアップさせたのだ。だが人は、「夜の街」という空間だけに生きているわけではない。例えば、中央線、山手線の「密閉」「密集」「密接」などは、普通に経験することだろう。

―――――――

    吉本「共同幻想」概念の一定の解説として

吉本の「共同幻想」とは、吉本が人間の生存する過程を、「幻想領域」と「自然領域」に二分することを前提としている。幻想領域は、人間が作り出すもので「個――対――共同」の三大幻想といわれるものだ。個体(自己)幻想は文学や芸術、対幻想は男女の一対の関係を土台とした関係領域(性的関係、家族など)、共同幻想とは習俗、規範、<宗教―法―国家>といわれるものである。だが、理解しやすい概念形式としては、個体幻想は一人称、対幻想は二人称、共同幻想は三人称、というのが、一番わかりやすいと考える。例えば、三人称の共同幻想は、「われわれ」であり、国家共同幻想、党派共同幻想は、すべて「われわれ・わたしたち、わが国、わが党」が、アジテーションの前提だ。この幻想領域は、人間が変革できる領域だ。

これに対し、吉本によればということだが、「自然領域」は、「科学の進歩」などというもので、一種の人間の幻想過程からは、自立した領域。人間の幻想過程における制御では、どうしようもなく、自己運動する領域だ。

 

だから、「原発」も、

 

人間がそれを阻止することはできない。人間の人為的なミス・過失での事故はもちろん、防止すべきで、完璧な防御設備が必要だが、原発をふくむ自然領域は、人間が阻めない、領域だ。吉本の「原発容認」論は、こうした、自然領域の自己運動において、言われていることだ。(例えば吉本の『反核異論』参照)。

 

(★★★私はこの説に、廣松派として反対する)。

 まさに、これに対して、吉本の言う「自然」過程(領域)も、人間の共同主観性的対象分析・分節において、構成された一連の人間の共同主観的分節相だとしたのが、廣松渉だった。例えば、廣松『事的世界観への前哨』に書かれているように「自然像とは、自然そのものの像ではなくして、自然に対するわれわれの関係の像である」といったのが、量子力学のハイゼンベルグだった(ちくま学芸文庫、258頁)。