2015年2月3日火曜日

渋谷要『ロシア・マルクス主義と自由』(社会評論社、2007年刊)第6章「廣松哲学とエンゲルス主義」 



拙著『ロシア・マルクス主義と自由』第6章(社会評論社、2007年刊)


廣松哲学とエンゲルス主義

──ヘーゲルの神学的決定論とエンゲルスの法則実在論


渋谷要


※本論考は、スターリン主義の世界観への批判にとって基本的な内容を提供するものだ。本論でのポイントは主にヘーゲル、エンゲルスの哲学のポイントを批判する内容のものだが、それは内容的に、「法則」「弁証法」「決定論」「因果律」「相互作用」「物質」などの諸概念において、スターリンの『弁証法的唯物論と史的唯物論』、クーシネンを監修者として刊行された『マルクス・レーニン主義の基礎』第一分冊「マルクス・レーニン主義世界観の哲学的原理」などでいわれているポイントと批判的に相即するものである。スターリン(主義)哲学の骨格はヘーゲル哲学の裏返しである。まさにヘーゲル哲学を裏返し的に継承したエンゲルス哲学をステップとして構築されたことがわかるのである。(筆者注)


廣松渉はマルクス・エンゲルス主義が神学と科学主義をこえたと宣揚してきた。そのことをふまえた上で、今日的にあらためて分節すべき問題があると考える。それは一九六〇年代に廣松が著わした論考を中心とした後期エンゲルスの法則実在論に対する価値的な〈改釈〉と、『存在と意味』(岩波書店)での法則実在論に対する批判との内容矛盾を軸とした問題である。廣松の見解の中にあきらかな矛盾が存在するということだ。


(一)「自由とは必然性の洞察」か


これを文献的にいうならば、『マルクス主義の地平』(講談杜学術文庫、以下『地平』とする、ことわりのない限り本章の引用は同書から)での歴史法則論
と『存在と意味』での歴史法則論の違いという問題である。まず何が、どのように矛盾していると疑問をもっているのか。その部分を抜き書きしてみることから初めよう。

『地平』に所収された「歴史法則と諸個人の自由」(一九六三年初稿、六九年完成、以下「歴史法則論」)から引用する。「実現が必然的であり、よってもって自由必然的になるためには、法則性に自覚的に服さなけれぱならない。『理性の狡智」をかりていえば、世界理性の目的を察知し、それを自分自身の目的として措定しなければならない」。「現実の人間的自由を論じようとするとき、法則的必然性の自覚的把捉とそれに自覚的に服するという契機を没却できない」。「内外の必然性を洞察し、それに自覚的に対処しなければならない」(P二四一)としてエンゲルスの『アンチ・デューリング』からつぎのように引用している。「自由は、法則からの独立性に存するのではなく、この法則の認識に、そしてそれに伴って与えられるところの法則を計画的に一定の目的のために作動せしめる可能性に存する」(P二四一)。つまり、「歴史の法則」というものが客観的に実在して、その自己運動に対し合法則的になることが自由だといっているエンゲルスの考え方を廣松は価値的に評価しているのである。

これに対して、『存在と意味』第一巻では、廣松は次のようにいっている。

「常識的な思念においては、事象界には『法則』なるものが在って、事象の生成変化を法則が規制している、ないしは、事象が法則に随って生成変化する、と了解されている」。「われわれは、法則なるものをそれ自身が規制力をそなえているものとして擬人化することをしりぞけるだけでなく、事象なるものをそれ自身が法則に随順するものとして擬人化することもしりぞける」(『存在と意味』第一巻、岩波書店、P四八五)。

法則とは「ある種の状態に一定の状態が一定の在り方で随伴・継起すること、この予期的現認が恒常的に充足されること…この現象を斉合的・統一的に説明すべく、事象が規則的拘束に服しているという擬人法的な暗黙の想定のもとに構成的に措定されるものにほかならない」(P五〇六~五〇七)。

つまりここで廣松は、客観的に白存的な法則などはなく、それは、対象と人間の共軸的関係がつくりだし、共同主観的に認証された〈説明〉にほかならず、「lawGesetz」などの「法」「掟」とおなじ位相にあるものだといっているのだ。

こうした見方に対して「法則が客観的に実在する」という考え方は、物象化的錯認だということだ。物象化とは「日常的意識にとって物象的な存在に思えるものが学理的に反省してみれば単なる客観的存在ではなく、いわゆる主観の側の動きをも巻き込んだ関係態の『仮現相(錯視されたもの)』である事態を指す」(『廣松渉著作集』第一三巻。三頁)のである。法則の物象化とは、法則なるものが自己運動して世界が創造されていると思念するということだ。こうした「法則」実在論を廣松は『存在と意味』では完全に錯認であると言い切っているのである。

だがこれはエンゲルスの法則実在論、「自由とは必然性の洞察だ」という考え方とは、まったく異なった考え方であり、それは文献的にいえば、『地平』では評価されている後期エンゲルス流の法則実在論を批判することをつうじてなされているということなのである。

あきらかに、両者には違いがある。この点をもう少し廣松の『地平』に内在してみていくことにしよう。


(二)「ヘーゲルからエンゲルスへ」という系譜の評価


まず『地平』の「歴史法則論」では、廣松はなにを問題意識としているのか、全体的なところからみていくことにしよう。

「唯物史観における歴史法則の必然性と諸個人の白由行為との関係について、どう理解するかし(P一九二)というのが論点だ。そこで廣松が言いたいのは、従来マルクス主義は「決定論」だといわれているが、本来は「決定論」と「非決定論」という対立図式そのものを乗り越えたものだということだ。

現代の決定論としては、「万象を力学的な法則性に服せしめる」近代科学主義がある。それは、中世の神学的決定論(森羅万象は神の意志によって全一的に支配されている)にかわり『必然性の連鎖を破るものは存在しない」という法則決定論にほかならない。廣松は、こうした決定論とマルクス主義が同一視されるのは、ロシア・マルクス主義の科学主義によってであるとする。

ロシア・マルクス主義は、その科学主義的発想から、決定論と因果論の承認とを同値化し、『因果律を承認する以上、マルクス主義が決定論の立場をとるのは当然である』と称する。しかも、その際、いうところの因果律をもって、結局は機械論的な、力学主義的なそれに事実上還元してしまう傾向がある」(P二〇一)。つまり徹頭徹尾、認識論的には反映論であり、客観的にある法則を発見し合法則的な活動によって、たとえばルイセンコ学説のように植物の発生・発育環境を人為的に操作し自然生態までもかえられるという科学主義を標傍したロシア・マルクス主義は、そのかぎりで決定論として規定されるべきものであり、廣松の言うようにこれを超えていくことが課題化されるべきだ。

これに対し「本来的にはマルクス・エンゲルスの思想そのものの内部には、決定論・非決定論というスコラ的な問題構成は存在しない」(P二〇二)というのが、廣松の基本的な立場なのである。

そこで次に廣松のいうマルクス・エンゲルスの本来的立場というものが何なのかということが問題となる。そしてここから廣松はほとんどエンゲルスに依拠して論じていくのであるが、かかる決定論の立場を乗り越えた者がへーゲルだったというエンゲルスの『自然弁証法』の引用からはじめている。

「へーゲルが、これら二つの観方(すなわち非決定論と決定論)に対立して、従来まったく耳にしたことのないような次の命題を携えて登場した。すなわち偶然的なものは必然的であり、必然的なものは偶然性として自己を規定する。そして他面においてはこの偶然性はむしろ絶対的な必然性である」と。つまりエンゲルスの言うへーゲルの「必然性は偶然性を媒介として貫徹される」という考え方が、かかる二元論の克服の出発点となったというのである。『地平』の廣松はここで、エンゲルスを援用しつつへーゲルの「白由・必然論」をポジティブなものとしてうけつごうとしている。

「(へーゲルは)『自由は、必然を前提し、必然を止揚されたものとして自己のうちに含んでいる』こと、『一般に白分が絶対理念に全く規定されているのだということを知るのが人間の最高の自立性である』ことを主張する。この命題は、しかし、いわゆる決定論として受け取るべきではない。この立言は彼の有名な『理性の狡智』の発想と相即的に理解しなければならない」(P二〇五)と廣松は言う。

「理性の狡智」とは、歴史過程は神の絶対知の自己実現の過程なのだが、その場合、神は歴史を担っている人間を好き勝手にふるまわせておくが、「その結果として生じてくるものは神の意図の実現であって、それは神が手段として用いている人びとが追求していたものとは全く別のものである」(P二〇六)ということだ。そのような「世界理性の意図を対自的に知り、絶対理念に全一的に規定されていることを知るのが人間の最高の自立性であ」る。「必然性の洞察が自由だというへーゲルの思想は、このような内実をもつ」。廣松はそれを「歴史の趨向を対自的にとらえ、それにアンガージュすることであると言い換えることもできよう」(前掲P二〇六)と、きわめてラフにおいている。

だが「必然性の洞察」ということをへーゲルが言う場合、それは、概念実在論というへーゲルの立場からみて、「神のロゴスヘの洞察」と言い換えられるべきものであり、「歴史の趨向を対自的にとらえる」と言いかえるのはあまりにも〈改釈〉がすぎるのではないか。

さらに廣松は、「世界理性も個別者を好き勝手にやらせておく”──この個別的な事象、つまり大法則にとっては偶然的な諸事象が全体としては大法則を貫徹せしめるという発想である」とし、「この発想法を単なる思弁的図式にとどめることなく、現実的な仕方で定律化する方向をとることによって、唯物史観は自由と必然の問題を積極的に処理しうべき視座を確保することができた」(P二〇七)とのべている。つまりここでは廣松は、へーゲルの弁証法、「理性の狡智」という考えをポジティブなものとし、これを方法論的に継承するといっているのだ。

つまり廣松は、「偶然性を通じて必然性が貫徹される」というへーゲル流の考え方は、近代科学主義の全一的・機械論的な決定論ではないということをいいたいのである。廣松はその内容をつぎのように説明している。

「『理性の狡智』という思想から、形而上学的な『世界理性』を消去し、法則性を世界に内在せしめるとき、そこにうかんでくる法則性と個別的事象との関係は」「河の流れと水の分子の運動との関係に類するであろう」(P二一四)として、水の分子は、河流の法則によって一義的に規定されているわけではなく、「あらゆる方向にあらゆる速度で……自由運動」することが前提である。これは、「商品の需要法則」が「売買の自由」を前提するのと同じだという。こうしてかかる「自由運動の『合成力』としてのみ」河流が存立するというのである。このことにもとづき「歴史法則と諾個人の行為との関係」(P二一五)を定義したのが『地平』の廣松にほかならない。

そしてこうした論考の背景には、近代の因果律が「『一定の原因が合法則的に一定の結果を必然的にひきおこす』という命題で定式化された」ことに対し、「それの原理的限界性を鋭く指摘したのがへーゲルである。へーゲルは因果律を止揚して『相互作用 Wechselwirkung』というカテゴリーでおきかえたのであった」(『マルクスの根本意想は何であったか』、情況出版、P一七八)という廣松の へーゲル理解が存在する。


(三)『弁証法の論理』でのヘーゲル批判


だが、ここでつぎのような疑問がおこってくる。へーゲルの弁証法が、近代科学主義の因果律にもとづく決定論ではないにしても、それは前提的にいえば神学的決定論の集大成ではなかったのか、それとかかる評価はどのように整合的に採られているのかという疑問である。廣松渉『弁証法の諭理』(青土社)においては、その点がつぎのように言われている。

へーゲル弁証法の場合「それは絶対的観念論と不可分の在り方をしております。そしてこのことが由因となって、実体=主体たる絶対者の自己運動(因に『論理学』は『天地創造に先立っての神の思惟』とされております)として思念される下降の途にあっては、フュア・エスとフュア・ウンスという構制をはじめ上昇の途で勘案されていた有意義な契機が没却される事態を招いております。迂生に言わせれぱ『当事主体』と『われわれ』、『著者』と『読者』との交錯した対話的構造を抜きにしては、上昇的であれ下降的であれ、そもそも弁証法が成立しえないのが道理です。対話なき弁証法、この没概念のもとでは、せいぜい読者の内なる擬似的対話を操ることしかできず、実質的には託宣の連続たらざるをえません」(P一二四)。

このように『弁証法の論理』の廣松はへーゲルの「理性の狡智」という方法は、「対話なき弁証法」であり、そもそも対話的構成を抜きにした、所詮神のモノローグでしかなく、形態論的にも弁証法とは呼べないといっている。まさにここではへーゲルの神学的決定論こそが暴きだされている。〈神〉。であれ、〈物質〉であれ、「すべてのものの根源」なるものを措定し、その根源、本質の自己運動として森羅万象を、歴史を叙述するような形而上学的な発想自体がキッパリとしりぞけられているのである。

だが、このような『弁証法の論理』における廣松の言説と『地平』でのへーゲル弁証法を高く評価した廣松のそれとはあきらかに矛盾しているのではないだろうか。

廣松はかかる問題を『マルクス主義の地平』の「歴史法則論」においては、「マルクス・エンゲルス」がへーゲルの観念弁証法を現実の諸関係に唯物論的に換骨奪胎しつつ、「『理性の狡智』という図式を批判的に継承している」とし、そのようなものとして「マルクス・エンゲルス」の歴史法則論が措定されている。

「エンゲルスは言う。…『歴史的出来事は、偶然によって支配されているようにみえる。だがしかし、皮相にみれば偶然性のたわむれである場合にも、その偶然はつねに内奥にひめられた法則に支配されているのであってこの法則の発目几こそが問題である』」(P二一六)とし、この「法則」をエンゲルスに即しながら論考していく運びとなっている。

廣松はそこで「理性の狡智」のシェーマを「偶然性を通じて必然性が貫徹するという弁証法」の命題においてひきつぎつつ、「マルクス・エンゲルス」が、廣松の言葉で「多価函数的な連続関係」、つまり「同一の原因から二つ以上の結果がそれぞれ一定の確率で生じうる」という考えを確立したことをつうじて決定論と非決定論の双方とものりこえたと論じている。

だがしかし、こうした「多価函数的な連続関係」と言ったものを、「理性の狡智」といったシェーマにはめこむのは無理だと思う。なぜなら、廣松の言う「多価函数的な連続関係」ということ自体は、複数の連関する対話的構造をもつと思われるものだが、へーゲルの「理性の狡智」とか、エンゲルスの言う「歴史法則」といったものは、「歴史の法則性」なるものを実体化した形而上学的な決定論でしかないのだから。

ともあれ廣松は、かかる準備作業をふまえつつ「歴史法則論」の第四章『歴史・内・存在の自由性」で、「自由論」の本格的討究へと入っていく。そしてそれが、本章第二節においてすでに示したものなのである。

ここでは廣松はエンゲルスの『アンチ・デューリング』を引用(P二四一)しているのだが、それは「自由は、法則からの独立性にあるのではなく、この法則の認識に、そしてそれにしたがってあたえられるところの法則を計画的に一定の日的のために作動せしめる可能性に存する」という法則実在論にほかならなかった。

エンゲルスはこの「法則」を、物象化の機制としてとらえていたかのように廣松は論じているけれども、だがここで廣松が引用しているエンゲルスの論述を素直に読めば、やはりエンゲルスは客観的な法則の実在を信じていたとしか私には思えない。エンゲルスが物象化の機制、つまり法則なるものを、あるいは「法則」をもふくむ「威力Macht(マハト)」なるものを人間の社会的諸関係が、人間諸個人からは外化した自然の力としてつくりだしたものだということをふまえて論じているとはどうしても私には信じられない。

初期のエンゲルスとマルクスの『ドイツ・イデオロギー』における Macht論とは異なって後期エンゲルスの「法則」論は、やっぱり法則実在論になってしまっているのではないか。ところが廣松は、この点で、エンゲルスの「歴史的法則性にもとづく認識」という考え方を〈改釈〉し、人間の判断と実践は、「共同主体的な協働による」、「歴史の趨向を洞察」するためには「各々の我が我々になっていなければならない」として「真の共同社会においてのみ人格的自由もはじめて可能になる」と自由論を展開し、マルクス主義において、自由とは「プロレタリアートの先駆的決意性」(P二四二~二四六)であるとしめくくるのである。

だがここで、協働連関の対自的な在り方の問題と「法則」の問題がどのように接合されるのか問われなければならない。同じ「協働」といっても、法則実在論にのっとり、法則の担い手を自覚することを命題とした、例えば、ロシア・スターリン体制下の協働もあれば、法則実在論から解放され、神学的決定論にせよ、科学主義的決定論にせよ「法則の支配」なるものをつくりだしている協働連関の有り方を積極的に変革していこうとする協働もあるのだから。
 こうしてエンゲルスの法則実在論(を価値的に評価し〈改釈〉する廣松)と『存在と意味』(で法則実在論を批判する廣松)との対質がおこなわれなくてはならないこととなる。


(四)「法則の客観的実在性」という考え方への批判


まずエンゲルスの考え方からみていこう。エンゲルスにおける「法則」とは、人間の協働連関から外化した、物質の自已運動の「法則」ということであり、人間の間主体的、対自然的な活動が物象化した相でとらえられたものという認識ではなく、「法則」なるものが客観的に、あるがままに存在する真理として存在すると考えるものである。

「すべては細胞である。細胞がへーゲルの即自有であって、そこから最後に理念(イデー)すなわちそれぞれの場合に完成した有機体が発展してくるまで、その発展において正確にへーゲルの過程をたどっている」(一八五八年七月一四日エンゲルスのマルクスにあてた手紙)。そしてこのへーゲルの「理念」を転倒したものこそエンゲルスの措定する「物質」なるものだ。

「物質(der Stoff, derMaterie)とは、物質というこの概念がそこから抽象されてきたところの諸物質の総体にほかならず、運動そのものとは感性的に知覚しうるあらゆる運動形態の総体にほかならない」(『自然弁証法』マルクス・エンゲルス全集二〇巻、P五四四)。かかる概念的に抽象化された「物質」なるものの自己運動の法則を記述するものが、弁証法だと規定される。「弁証法、いわゆる客観的弁証法は、自然全体を支配するものであり、また観念的弁証法、弁証法的な思考は、自然のいたるところでその真価をあらわしているところの、もろもろの対立における運動の反映にすぎない」(前掲P五一九)。

つまり物質の運動は人間存在から外化して客観的に存在しており、この運動の法則に対して客体たる人間が、その法則を発見し合法則的に関わっていくことが人間の課題となるというわけである。「弁証法とは、自然、人間社会および思考の一般的運動=発展法則に関する科学という以上のものではない」(『フォイエルバッハ論』、岩波文庫、P六二)として、客観的に存在している弁証法なるものが、決定論的・法則的な支配を展開しているというのが、エンゲルスの法則論であり、まさに法則実在論の立場にほかならない。へーゲルでいうならばこれはジットリヒカイト(人倫)、神学的決定論を〈神〉の理性の狡智から、〈物質〉の理性の狡智へと転じただけのものである。こうしたエンゲルス流の法則実在論については、例えば廣松は『存在と意味』第一巻で、「人々は、今日では、中世ヨーロッパの実念論派の知識人たちとは異なり、果物という普遍が存在するからこそリンゴやナシという個別が存在するのだとは思念しない。ところが、法則となると、人々は今日でも暗黙の裡に、法則という普遍態が存在するからこそ個々の合法則的な事象という個別態が存在するのだという構図で思念してしまう」(P五〇四)と批判している。

廣松は「客体それ自体の法則性」ということを批判し、「星座の客観的配列」という思念を例にとりあげて次のように述べている。

「人が、もし、ギリシャ・ローマ風の星座区画を以って星の客観的配列であると主張するとすれば、それはたしかに誤りであろう。中国風の星座やマヤ式の星座も同等の権利を主張しうる」。

「われわれはその都度一定の星座というかたちでしか見かけ上の星群を統握できないというかぎりで、論者たちが主客二元化を前提したうえで要求するごとき客体それ自体の法則性なるものをのかたちで認識することは原理上不可能である」。「論者たちの発想と語法に半ば妥協して」いうならば「法則性は主客の協働において存立する」。

「今度は別の論者が登場して次のように反問するかもしれない。『ギリシャ式星座、中国式星座、マヤ式星座…が同じ対象群の相異なった定式化であり、依って以って変換的に対応づけることが可能である所以の客観的配列が厳存するのではないか。個々の星座にこめられている主観的契機を消去することによって、純粋に客観的な配列を認知することができるのではないか』云々。われわれの見地から言えば、論者たちの謂う主観的契機を完全に消去してしまうことは原理上不可能である。論者たちの謂う客観的な配列なるものが、すでに、原理的には、ギリシャ式、中国式、マヤ式…星座と並ぶもう一つの星座でしかありえない」(以上『存在と意味』第一巻、P四八六~四八七)。

こうして「星座」とか各々の分析対象がどういうものとして考えられ、捉えられるかといったことは、主体的・立場的分節において説明されるものであって「星座」といった分析対象と人間の共犯関係によってつくられ、人々の間でそう分節することが妥当だと判断された共同主観性としてのみ定立するということである。まさに「自然像とは、自然そのものの像ではなくして、自然に対するわれわれの関係の像」(ハイゼンベルク)なのである。

このことをふまえた上で、最後にこうした「法則の客観的実在性」という思念はどのようにして形成されるのかを『存在と意味』からみていくことにしよう。

「おそらく、法則は『事象の生起に先立って未在的に既在しつつしかも事象の径行に規則的な作用をおよぼす』ものと思念されることに由来する。この思念は『規制的拘束力をもった法則なるものが在って、事象の振舞いはその法則に随う』という了解と相即する」。そして「人々は、人間の行動を内省してそれが一定の拘束的規制に服していることを覚識し、この拘束的規制への随順という行動の在り方を万象に推及する」。「このさい、しかも拘束的に規制する『掟』の既在性、それの規則力を人々は覚識する次第であって、法則の実在性という思念はこの覚識に根差すものといえよう」(P五〇四~五〇五)。

このように法則なるものは、ある事象を共同主観性の位相において、統一的に「説明」し、人間が対象と主客協働の位相で、主体的に分節し「構成的に措定された所識相」として定めたものにほかならないのである。

こうして『存在と意味』では廣松は、エンゲルスの考えているような「法則」の客観的、自存的定立と、それを人間が認識へと反映するということとは全く反対の思考を展開しているのである。廣松がこのような後期エンゲルスの思想をそれとして知っていないわけはないだろう。しかしなぜ、このような矛盾が生みだされたのだろうか。それは私には廣松によるエンゲルスの政治主義的擁護の結果のように思えてならない。

いずれにしても、『地平』の廣松はエンゲルスのかかる法則実在論を批判することなく、価値的に評価し〈改釈〉している。すくなくとも『地平』と『存在 と意味』とのかかる矛層は、哲学者廣松渉ではなく、「マルクス・レーニン主義者」廣松渉の「理性の狡智」によってしくまれていると思うのだがどうだろうか。

2015年1月3日土曜日

ピケティ・ノート


トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、山形浩生・守岡桜・森本正史訳、2014年12月8日発行。原著2013年刊行)・ノート


●このノートは、単なるノートです。論文でもレジュメでもなく、論文を作るにさいしての準備ノートですらないものです。単なる抜書きです。一言、付言すれば、このピケティの『21世紀の資本』は、宇野3段階論(経済学原理論―段階論―現状分析)では、「現状分析」の分野の対象となるものであり、または、いうなれば拡張された段階論とでもいいうるものの分野であって、マルクス『資本論』や経済原論の「経済学原理論」の領域ではない、ことは、僕の主張として、確認しておきたいと思います。このノートは2014年12月下旬に完成し、当時は、若干の友人に公開していたものです。

(はじめに)

本書で使われているデータは、計量経済学者で統計学者のクズネッツの米国における「所得格差推移」(19131948)の研究資料を拡大することを出発点としている。「課税記録」を収集し、「高所得層の十分位や百分位は、申告所得に基づいた税金データから推計」し、「それぞれの国で所得税が確立した時期から始まり(これはおおむね1910年から1920年くらいだが、日本やドイツなどの国では1880年から開始されているし、ずっと遅い国もある)。こうした時系列データは定期的に更新され、執筆時点では2010年初期のデータまで拡張されている」。最終的には「世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データベース(WTID)が、所得格差の推移に関する最大の歴史的データベースとなっており、本書の主要なデータ源となっている」(1920)。

また「相続税申告の個票を大量に集めた」これにより、「フランス革命以来の富の集積に関する均質な時系列データを確立できた。これで第一次大戦によるショックを、所得格差のデータ(これは1910年あたりまでしかさかのぼれない)よりもずっと広い文脈で検討できるようになった」また、国富の総ストックの研究においても、「国民所得の年数で計測」することを基本に、同様に行なわれた様々な研究を「拡張し一般化した」。これらは、「コンピュータ技術の進歩により、大量の歴史データを集めて処理するのがずっと簡単になった」ことに依っていると、されている(20-22)。


(1)「資本主義の第一基本法則」(α=r×β)の求め方



α=国民所得に占める資本のシェア


r=資本収益率


β=資本/所得比率



α=r×β




β=600%でr=5%なら、α=r×β=30

●国民所得=国内産出(生産で、「資本の減価償却分を含む「国民総生産」(GNP)とはちがう」(注頁21)+外国からの純収入(「外国から受け取った所得と外国人に支払う所得との差額」(注頁21))

●世界総所得=世界総産出…「どの年においても、総所得は生産された新しい富の総量を上回ることはできない。…逆に、あらゆる産出は、何らかの形で、労働か資本に対して所得として分配されねばならない」(48)。

●国民所得=資本所得+労働所得…その場合、「資本」とは、「人間以外の資産として、所有できて何らかの市場で取引できるものの総和として定義されている。資本は企業や政府機関が使う、各種の不動産や、金融資産、専門資産(工場、インフラ、機械、特許など)を指す」(49)。


●国民資本(国富)=国内資本+純国外資本、あるいは民間財産+公的財産…「ある国でその時に政府や住民が所有しているものすべて(ただしそれが何らかの市場で取引できる場合のみ)の総市場価値。…非金融資産(土地、住宅、商業在庫、他の建物、機械、インフラ、特許、その他の直接所有されている専門資産)と、金融資産(銀行貯金、ミューチュアル・ファンド、債券、株式、各種金融投資、保険、年金基金等々)から金融債務(負債)の総額を引いたものの合計」(5152)。


●「資本/所得比率」として=国富(国民資本) 対 国民所得の比率を求める=「ある国の総資本ストックが国民所得6年分に相当するならβ=6(あるいはβ=600%)と書く」(54)」。


「ストックを年間の所得フローで割ること」(54


「今日の先進国では、資本/所得比率はだいたい5か6ぐらいで、資本ストックはほとんどが民間資本となる。フランスとイギリス、ドイツとイタリア、米国と日本では、一人当たり国民所得は2010年でざっと3万―35000ユーロだが、総民間財産(負債を差し引いた純額)はどこの国でも一人当たり15万―20万ユーロくらいだ。つまり年間国民所得の5倍から6倍になる」。「実際には多くの人は月額2500ユーロよりはるかに少ない金額しか稼いでいないし、一部の人はその何十倍も稼いでいる。所得の開きは、一部は労働賃金に差があるからだし一部は資本からの所得にずっと大きな格差があるからで、この資本所得の格差自体も、極端な富の集中の結果となる」。また、「同様に、民間の一人当たり財産が、18万ユーロ程度、あるいは、国民所得6年分というのは、みんながそれだけの資本を持っているということではない。多くの人の持ち分はずっと少ないし、一部の人は何百万、何千万ユーロ相当もの資本資産を持っている」


●「資本ストックを、資本からの所得フローと結びつけるものだ。資本/所得比率βは、国民所得の中で資本からの所得の占める割合(αで表す)と単純な関係を持っている。


α=国民所得に占める資本のシェア

r=資本収益率

β=資本/所得比率


α=r×β

β=600%でr=5%なら、α=r×β=30%」

56




●資本収益率とは「一年にわたる資本からの収益を、その法的な形態(利潤、賃料、配当、利子、ロイヤルティ、キャピタル・ゲイン等々)によらず、その投資された資本の価値に対する比率として表すものだ。だから『利潤率』より広い概念だし、『利子率』よりはるかに広い」(5657)。


●個別企業にも使える。「500万ユーロの資本(オフィス、インフラ、機械等々)を使い、年に100万ユーロの財を生産し、うち60万ユーロが労働者の賃金、利潤が40万ユーロだとする。この会社の資本/所得比率はβ=5(つまり資本が産出5年分に相当する)、資本取得のシェアαは40%で、資本収益率はr=8%だ」(59)。


資本収益率は資産収益率で、資産によって入ってくる所得だ。




(2)「資本主義の第二基本法則」(β=s/g)


●「なぜ資本/所得比率はヨーロッパでは史上最高水準に回復したのか。そしてヨーロッパの方が米国に比べて構造的に高いのはなぜか。ある社会の資本が、国民所得3、4年分でなく7年分に相当する量であるべきだと示唆する魔法の力があるのだろうか。資本/所得比率には均衡水準があるのか、それはどのようにして決まるのか、資本収益率にとってどんな意味があるのか、それと国民所得における資本と労働の分配との関係は? これらの問いに答えるために、まずはある経済の資本/所得比率を、貯蓄と成長率に関連づける動学法則を示そう。


資本主義の第二基本法則――β=s/g


長期的には、資本/所得比率βは、貯蓄率s、成長率gと以下の方程式で示される単純明快な関係を持つ。


β=s/g


たとえばs=12%、g=2%ならβ=s/g=600%となる。


つまり、毎年国民所得の12%を貯え、国民所得の成長率が年2%の国では、長期的には資本/所得比率は600%になる。この国は、国民所得6年分に相当する資本を蓄積することになる。

 資本主義の第二基本法則ともいえるこの公式は、当然ではあるが重要なことを示している。たくさん蓄えて、ゆっくり成長する国は、長期的には(所得にくらべて)莫大な資本ストックを蓄積し、それが社会構造と富の分配に大きな影響を与えるということだ」(173)。

「たとえば、貯蓄率が12%で、成長率が年(2パーセントから)15パーセントに落ちると長期的な資本/所得比率β=s/gは、国民所得(6年分ではなく)8年分になる。…(1%に落ちると、βの値は、2%時より2倍になる――引用者)…資本集約的な社会となる。ある意味ではよい報せだ。資本は誰にとっても有利になるし、社会の仕組みが適切なら、誰もがその恩恵を受けられる。でも一方で、これは資本――どんな富の分配状態であっても――の持ち主が支配する経済資源のシェアが大きくなりかねないということだ」(175)。



●ここで言われている「成長率」とは、「国民所得の総成長率、つまり一人当たり成長率と人口増加率の和」。


貯蓄率が約1012%、一人当たり国民所得の成長率が年152パーセントだと、欧州と米国で、次のような相違が現われる。

欧州は、人口増加がほぼゼロ、成長率は、約152%だと、国民所得68年分の資本ストックが蓄積できる。

米国は、人口増加が年間1%、総成長率が253%だと、国民所得34年分の資本ストック。

「そして後者の国の貯蓄率が(おそらく人口が高齢化していないという理由から)前者に比べてすこし少ない場合、結果としてこのメカニズムはさらに促進される。つまり、一人当たり所得成長率が同じでも、人口増加率がちがうだけで、まったくちがう、資本/所得比率を持つ場合もあるのだ」(175176)。



(3)「格差拡大の根本的な力――r>


r=年間の資本収益率

g=所得と産出の年間増加率(経済成長率)


「図12は、イギリス、フランス、ドイツにおいて、民間財産(不動産、金融資産、専門資産から、負債分を差し引いたネット値)の総価値が、その国の国民所得何年分にあたるかを、1870年から2011年について示したものだ。まず見てほしいのは、19世紀末のヨーロッパにおける民間財産の水準がきわめて高かったということだ。民間財産の総量は、国民所得の67年分あたりをうろうろしていた。これはかなりの水準だ。それが19141945年期のショックを受けて急落した(この「ショック」といわれているものは、二度にわたる世界大戦とそれによる資産の破壊と「公共政策」であり(247以降、例えば283))、「戦争とその関連政策がもたらした強烈なショック」(384)とされているものである――引用者)。資本/所得比率は2から3に下がった。その後、1950年以降にそれがだんだん回復してくる。その上昇ぶりはとても急激で、21世紀初頭には英仏両国で、国民所得56年分に戻りそうだ(ドイツの民間財産はもっと低い水準から始まったので相対的に低いが、上昇トレンドは同じくらい明確だ)。

 この「U字曲線」は、圧倒的に重要な変化を反映したもので、その変化は本書の研究でも大きく効いてくる。特に、過去数十年における高い資本/所得比率への復帰は、大部分が比較的低経済成長のレジームへ戻ったことで説明できることを示そう。低成長経済では、過去の富が当然ながら重要性を大きく高めることとなる。というのも富のストックを安定して大幅に増やすためには、新規の貯蓄フローはごく小額ですむからだ。

 さらに、もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば(これは経済成長率が低いときには、必ずとは言わないまでも起こりやすい)、富の分配で格差が拡大するリスクは大いに高まる。

 この根本的な不等式をr>gと書こうrは資本の年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総額で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)、…ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ。

 資本収益率が経済の成長率を大幅に上回ると(19世紀まで歴史のほとんどの期間はそうだったし、21世紀もどうやらそうなりそうだ)、論理的にいって相続財産は産出や所得よりも急速に増える。相続財産を持つ人々は、資本からの所得のごく一部を貯蓄するだけで、その資本を経済全体より急速に増やせる。こうした条件下では、相続財産が生涯の労働で得た富より圧倒的に大きなものとなるし、資本の集積はきわめて高い水準に達する――潜在的には、それは現代の民主社会にとって基本となる能力主義的な価値観や社会正義の原理とは相容れない水準に達しかねない。

 さらに、この格差拡大の基本的な力は、他のメカニズムで強化されかねない。たとえば、貯蓄率は富が大きくなると急増するかもしれない(これはますます通例となっているようだ)。資本収益率が予想不能で恣意的であり、富は各種の方法で拡大できるという事実もまた能力主義モデルにとっては問題となる。最後に、こうした要因すべてはリカード的な希少性原理で悪化しかねない。不動産や石油の高い価格は、構造的な格差拡大に貢献しかねない。

 ここまで述べてきたことをまとめよう。富が集積され分配されるプロセスは、格差拡大を後押しする強力な力を含んでいる、というか少なくともきわめて高い格差水準を後押しする力を含んでいる。収斂の力も存在はするし、ある時期の一部の国ではそれが有力になるかもしれないが、格差拡大の力はいつ何時上手を取るやもしれない。これが21世紀の現在どうやら起こっているらしい。今後数十年で、人口と経済双方の成長率は低下する見通しが高いので、このトレンドはなおさら懸念される」(2729)。

「たとえば、g=1%で、r=5%ならば、資本所得の5分の一を貯蓄すれば(残り5分の4は消費しても)、先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ比率で成長するのに十分だ。富が大きくて、裕福な暮らしをしても消費が年間レント収入より少なければ、貯蓄分はもっと増え、その人の資産は経済よりもよりよく成長し、たとえ労働からの実入りがまったくなくても、富の格差は増大しがちになるだろう。つまり厳密な数学的観点からすると、いまの条件は「相続社会」の繁栄に理想的なのだ――ここで「相続社会」と言うのは、非常に高水準の富の集中と世代から世代へと大きな財産が永続的に引き継がれる社会を意味する」(366)。


(4)格差の在り様

●「高水準の格差を達成する方法のひとつが、『超世襲社会』(あるいは『不労所得生活者社会』)によるものだ。相続財産がとても重要な位置を占め、富の集中が極端なレベル(おおむねトップ十分位が全富の90パーセントを所有し、50パーセントがトップ百分位のみによって所有される)にまで達した社会だ。この場合、総所得のヒエラルキーは大きな資本所得、とりわけ相続財産による所得に支配されている。これは全体としては細かい違いもあるが、アンシャン・レジーム期のフランス、ベル・エポック期のヨーロッパに見られたパターンだ。このような所有と不平等の構造がどのようにして存続し、それがどこまで過去のものになったのかを理解する必要がある。――もちろん、これは過去どころか未来にも待ち構えているのかもしれない」(274

●「ベル・エポック期ヨーロッパでの富の集中は、何十年、いや何世紀も続いた蓄積プロセスの結果なのだ。国民所得の年数で示された総民間財産(不動産と金融資産の両方)が、第一次世界大戦直前の水準をほぼ取り戻すには、20002010年まで待たねばならなかった。富裕国でのこの資本/所得比率の回復は、ほぼ確実に現在もなお進行中のプロセスだ」。(387

「言い換えれば、今日富が過去ほどは不平等に分配されていない理由は、単に1945年以降まだ十分に時間が経っていないからだ。これが理由のひとつであるのは確かだが、これだけでは十分ではない。富のトップ十分位、さらにトップ百分位のシェア(ヨーロッパ全体で1910年に6070パーセントだったが、2010年にはわずか2030パーセント)を見ると、19141945年のショックが、富が以前ほど集中しないような構造的変化をもたらしたのは明らかなようだ。これは単なる量の問題ではない。……前者の場合(トップ百分位が6070%のシェア――引用者)では、所得階層のトップ百分位にいる大半は明らかに資本所得のトップだ。これが……不労所得生活者の社会となる。後者の場合(トップの百分位が2030パーセントのシェア――引用者)では、トップの労働所得が、だいたいトップの資本所得と均衡している(現代は経営者の社会、あるいは均衡のとれた社会なのだ)。同様に国富の10分の120分の1(社会の貧しい半分より上になることはまずない)ではなく、4分の1から3分の1を所有する「世襲中間階級」の出現は、大きな社会変容だった」(387388)。

●「まとめよう。今日のヨーロッパではベル・エポック期に比べ、富の集中が目に見えて減っているという事実の大部分は、偶然的な出来事(19141945年のショック)と、資本からの所得への課税といった個別制度がもたらした結果だ。最終的にこれらの制度が破壊されてしまえば、過去に経験したものに近い、また状況次第ではもっと高い富の格差が生じかねないリスクが高まる。これはけっして決まった話ではない。……しかしすでにひとつだけ確かな結論がある。近代的成長、あるいは市場経済の本質に、何やら富の格差を将来的に確実に減らし、調和のとれた安定をもたらすような力があると考えるのは幻想だという事だ」(391)。

●例えば「米国の曲線(図1-1)は、1910年から2010年までの、米国の国民所得で所得階層のトップ十分位が占める割合を示す。19131948年についてクズネッツが確立した歴史的時系列データを伸ばしただけだ。1910年代から1920年代にかけて、トップ十分位は国民所得の4550パーセントを懐に入れていたが、それが1940年代には3035パーセントに下がった。格差は19501970年までその水準で横ばいだった。その後1980年代に格差が急激に高まり、2000年になると、国民所得の4550パーセント当たりの水準に戻っている(26)。


●「私が本書で強調してきた格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは何の関係もなく、市場がもっと自由で競争的になっても消えることのない、不等式r>gにまとめられる。制限のない競争によって相続に終止符が打たれ、もっとも能力主義的な世界に近づくという考えは、危険な幻想だ」(440)。

●「具体的に言うと、世界の成人人口45億人のうち450万人程度に相当する、最も裕福な01パーセントの人たちが、平均およそ1000万ユーロ、つまり成人一人当たり世界平均資産6万ユーロの約200倍の資産を所有しており、その全体を合わせると今日、世界の富の総合系の約20パーセントに達する。最も裕福な1パーセント――45億人中4500万人――は、一人当たり平均約300万ユーロを所有している(大まかに言って、この集団に含まれる人たちの個人資産は100万ユーロ超)。これは世界の富の平均の50倍、世界の富の総額の50パーセントに相当する。

 これらの推計は(世界の富の総額と平均として示した数値を含む)は、非常に不確かであることはお忘れなく。本書で引用した大部分にも増して、これらの数値は規模感の目安としてとらえるべきもので、考えをまとめるためにのみ役立つ。

 また、各国の国内で見られるよりはるかに高度なこの富の集中は、主に国際的な格差から生じていることにも注意。世界の富の平均は成人一人当たりせいぜい6万ユーロで、先進国の市民の多くは、「世襲中流階級」の人たちも含め、世界的な富の階層の中では非常に裕福であると見なされる。同じ理由から、世界的な富の格差が本当に増加しているかどうかも、決してさだかでない。貧しい国が裕福な国にキャッチアップするとき、そのキャッチアップ効果が、瞬間的に格差拡大の力を上回る場合がある。現時点では、手元のデータからはっきりした答えは示せない。

 でも手元の情報によると、世界的な富の階層の上部で見られる格差拡大の力は、すでに非常に強力になっている。これは『フォーブス』ランキングに登場する巨額の資産のみに当てはまるのではなく、おそらくもっと少ない1000万―1億ユーロの資産にも当てはまる。こちらの人口集団ははるかに規模が大きい。トップ千分位(平均資産1000万ユーロの450万人の集団)は、世界の富の約20パーセントを所有しており、これは『フォーブス』の億万長者たちが所有する15パーセントをはるかに上回る。だから肝要なのは、この集団に作用する格差拡大の規模感を理解することだ。これは特に、この規模のポートフォリオ(投資信託や金融機関など機関投資家の所有有価証券の一覧表――引用者)に見られる不均等な資本収益率に左右される。この率次第で、階層上部の格差拡大が国家間のキャッチアップの力に勝るほど強力かどうかが決まる。格差拡大のプロセスは、億万長者の間だけで生じているのだろうか、それともそのすぐ下の集団にも影響しているのだろうか。

 たとえばトップ千分位が資産収益率6パーセントを享受している一方、世界の富の平均成長率が年間たった2パーセントだったら、30年後には、世界の資本にトップ千分位が占めるシェアは、3倍超になる。トップ千分位が世界の富の60パーセントを所有するというこの状態は、特に効果的な弾圧システムか、きわめて強力な説得装置か、その両方でもない限り、既存の政治制度の枠組みの中では想像しがたい。トップ千分位の資産収益率がたった年4パーセントだったとしても、そのシェアは30年間で実質的に倍増して訳40パーセントになる。この場合も、富の階層の上部で働く格差拡大の力は、世界的なキャッチアップと収斂を上回るもので、トップ十分位と百分位のシェアは大きく増加し、中産階級と上位中産階級から超富裕層への再配分が大幅に増加する。このような中産階級の貧困化は、激しい政治的反発を引き起こす可能性が高い。当然ながら、この段階ではこのシナリオが実現すると断言はできない。でも不等r>gが、当初のポートフォリオ規模に比例する資本収益の格差に増幅されて、爆発的な上昇軌道と、コントロール不能な不平等スパイラルを特徴とする、世界的な蓄積と富の分配をもたらす可能性はまちがいなくある。これはぜひとも認識しなければならない。これからみるように、累進資本税のみが、このような動学を効果的に阻止できるのだ」(454456)。


(5)「税制社会国家」(513)――「所得と資本に対する累進課税を持った社会国家」(566


●「個人の富に対する累進的な課税は、社会全体の利益の下に、資本主義に対するコントロールを取り戻す一方で、私有財産と競争の力を活用する。……必要なら、この税金はきわめて巨額の財産に対して大幅に累進性を高めることもできるが、これは法治の下で民主的な論争で決めることだ。……この形での資本税は新しい発想であり、21世紀のグローバル化した世襲資本主義だけのために設計されたものだ」(558)。

●「ヨーロッパ富裕税の設計図」、一回限りの相続税ではない、「資本に対する永続的な年次課税」である以上、「そこそこ穏健なものでなければならない」。「資本の総ストックに対して毎年かかる税金」のことで、「今日のヨーロッパでは民間財産がきわめて高い水準にあるので、低い税率であっても富への累進的な年次課税は、巨額の税収をもたらす。たとえば、100万ユーロ(1ユーロは146円前後で推移しているから、約14億円)以下の財産には0パーセント、100500万ユーロなら1パーセント、500万ユーロ以上なら2パーセントという富裕税を考えよう。EU加盟国すべてにこれを適用したら、この税金は人口の25パーセントくらいに影響して、ヨーロッパのGDP2パーセント相当額の税収をもたらす。この高い税収は驚くようなものではない。これは単に、今日のヨーロッパでは民間財産がGDP5年分以上あるという事実によるものだ。そしてその大半は、富の分布における百分位の上の方に集中している。資本税だけでは社会国家をまかなえる税収にはならないが、でもそこから出てくる追加の税収は巨額になる」(553554)。

●「さて、500万ユーロ以上の財産に対する税率が2パーセントどまりでなければいけない理由などないことに注目。ヨーロッパや世界で最大級の富に対する実質収益率は67パーセント以上だったから、1億ユーロや10億ユーロ以上の富には、2パーセントより」かなり高い税率にしても高すぎるとは言えない。もっとも単純で公平なやり方は、それ以前の数年にわたり、その富のブランケットごとで実際に観測された収益率をもとに税率を決めることだ。そうすれば、累進性の度合いは、資本収益率の推移と望ましい富の集中度に応じて調整できる。富の格差拡大(つまり、トップ近い百分位や千分位に属するシェアがどんどん増える状態)を避けるために(これは額面通りに見れば最低限の望ましい状態に思える)、たぶん最大級の財産に対しては5パーセントくらいの税率を翔る必要があるだろう。もっと野心的な目標がお望みなら、例えば富の格差を今日より(そして歴史的に見て成長にとって必要ではない水準より)もっと穏やかなところまで引き下げたいなら、大金持ちに対しては10パーセント以上の税率だって考えられる」(555556)。

●「正しいアプローチは、企業に対して全ヨーロッパで利潤を一回だけ申告するよう義務付けることだ。そしてその利潤に、子会社ごとに利潤に課税するという現行方式よりも操作しにくい形で、課税することだ。現行方式の問題点は、多国籍企業はあらゆる利潤を法人税がきわめて低い国にある子会社に」わざわざ割り当てることで、とんでもなくわずかな税金しか払わないですませているということだ。こうしたやり方は違法ではないし、多くの企業経営者からすると、倫理上の問題すらない。ある特定の国や領土に利潤をきっちり対応させられるという発想を捨てるほうが、筋が通っている。むしろ法人税からの税収を各国内の売り上げや支払賃金に基づいて割り振ればいい」(590)。

●「パリのアパルトマンを持つ人物は、地球の裏側に住んでいて国籍がどこだろうと、パリ市に固定資産税を払う。同じ原理が富裕税にも当てはまるが、不動産の場合だけだ。これを金融資産に適用できない理由はない。その事業活動や企業の所在地に基づいて課税するのだ。同じことが国債についても言える。「資本資産の所在地」(所有者の居住地ではない)を金融資産に適用するには、明らかに銀行データの自動的な共有により、税務当局が複雑な所有構造を評価できるようにする必要がある。こうした税金はまた、多重国籍の問題を引き起こす。こうした問題すべての解決策は、明らかに全ヨーロッパ(または全世界)レベルでしか見い出せない。だから正しいアプローチは、ユーロ圏予算議会を創り出して対応させることなのだ。……各国が通貨主権を放棄するなら、国民国家の手の届かなくなった事項に対する各国の財政的な主権を回復させるのが不可欠だろう。たとえば、公的債務に対する金利、累進資本税、多国籍企業への課税などだ。ヨーロッパ諸国にとって、いまや優先すべきは、世襲資本主義と私的利益に対するコントロールを回復でき、さらに21世紀のヨーロッパ型社会モデルを促進できる全大陸的政治当局を構築することだ」(590591)。

●「本当の会計財務的な透明性と情報提供なくして、経済的民主主義などあり得ない。逆に、企業の意思決定に介入する本当の権利(会社の重役会議に労働者の座席を用意するのも含む)なしには、透明性は役に立たない。情報は民主主義制度を支援するものでなければならない。……民主主義がいつの日か資本主義のコントロールを取り戻すためには、まずは民主主義と資本主義を宿す具体的な制度が何度も再発見される必要があることを認識しなくてはならないのだ」(600)。