2014年9月19日金曜日

1918年左翼エスエル・モスクワ蜂起について






ボリシェビキ一党独裁の成立の経緯についての話です。
一党独裁を決定づけた、
1918年、左翼エスエル・モスクワ蜂起の背景説明ともなっているものです。


レーニンと論争しているのは、左翼エスエル(社会革命党)指導者で、
農民ソビエト議長の
マリア・スピリドーノワ(当時の党内の愛称はマルーシャ)です。


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ここには、ロシア10月革命派である最高指導者をマリア・スピリドーノワ(愛称・マルーシャ)とする左翼エスエルと、ボリシェビキの1918年における党派・権力闘争が画かれています。が、解説、内容の組み立て方が、実に良いとおもいます。


ブレストリトフスク講和条約は、ウクライナなどロシアの穀倉地帯をドイツ軍が占拠することをゆるし、中央ロシアの都市部に穀物が行かなくなることを結果すると、左翼エスエルは指摘していました。それと、ボリシェビキの「農村への穀物徴発」とは、密接に関係があることだった。なぜなら農村部への食糧徴発は、中央農業地帯と、ヴォルガ河流域の農業地帯に依る以外なかったが、そこは、エスエル、左翼エスエルの牙城だったからである。「徴発」は「富農」からといわれていたが、農民全体が収奪の対象となった、そこで、ミール農耕共同体農民を「徴発」から守るため、左翼エスエルとしては、ボリシェビキとの内戦に突入するという選択肢を選択した。
 左翼エスエルが講和に反対して武装蜂起した闘いには、いろいろな見方や見解が、左翼エスエル党内や、今日までの支持者の中にも存在するけれども、ミール、オプシチーナ農耕共同体を防衛するという、エスエルの断固とした意志と、共同体農民との血盟にかけた戦いだったということだけは、確認するべきだと思います。


このボリシェビキによる「穀物徴発」ですが、左翼エスエルは、農作物の公定価格の引き上げや、農村ソビエトが各農家の農産物などの数量を管理しているから、そのシステムを活用すればいいと提案したが、そういう経済政策を、ボリシェビキは最初から退け、暴力・強制で「徴発」政策を最初から展開したのです。それはどうしてだろうか?ボリシェビキの自由にならないヘゲモニーが農村にあることを、最初から、ボリシェビキは良く思っていなかったということです。


(注・1920年代、1930年にスターリンが廃止する前の時期では、ロシア農民の8割が、共同体に属していた。レーニンの『ロシアにおける資本主義の発展』での共同体解消論は、予測がはずれていた。なぜなら、ロシアは、世界資本主義の中心部に対しては、原料供給国としての性格を持っており、工業化での資本の原始的蓄積が部分的にしかおこなわれず、共同体は解体せず、反地主闘争などを展開し、1917以降の農業革命へと展開してゆくのである。これを、自党派のヘゲモニー以外のヘゲモニーの成長として、よく思わなかったのがボリシェビキだったのだ)。