2014年4月8日火曜日

1921年3月ロシア「クロンシュタット叛乱」とは、なんだったか


1921年3月ロシア「クロンシュタット叛乱」とは、なんだったか 

                                       渋谷要





●クロンシュタット綱領は何を示しているのか


ボリシェビキは1918年5月の食糧独裁令以降、「戦時共産主義」という軍事統制経済を敷き、労働者と農民の自律的な革命運動、とりわけ、農民革命の成果を抑え込んでいきます。内戦が終了する時期、労働者のストライキや農民反乱が顕著になってゆきます。その頂点にクロンシュタット叛乱が勃発したのです。



ここでは字数の関係で、その叛乱のすべてを論じるのはむりであり、政治内容を中心に見てゆくことにしましょう。



1921年初旬、内戦の終結期、ペテログラードの労働者ストライキに連帯して軍港クロンシュタットで赤軍の水兵を主力とした反乱がおきました。その闘いはソビエト革命の思想に、官僚化する労農政府が復帰することを提起するものでした。



アナキストのイダ・メット「クロンシュタット・コミューン」(『クロンシュタット叛乱』、鹿砦杜)が伝えるところによると、反乱の直接の背景には赤軍の官僚化がありました。



19212月、バルチック艦隊共産党員水兵会議は海軍における「政治部」=コミサール(政治委員)の完全な廃止を要求したのです。コミサールとは、事実上共産党のヘゲモニーでソビエト権力が運営されるように配置された監督官のことです。バルチック艦隊政治部の官僚主義化、政治部の「独裁的態度」と指導方法に対し兵士たちは隊内民主主義の復活を要求します。そして19211月だけで5000人の水兵が共産党を離党したのです(1619頁)。



ペテログラードの労働者ストライキは、ブレスト講和によって生じた、都市部と農業生産地帯との断絶に端を発した、飢餓問題にありました。それは、「戦時共産主義」という「物々交換」などによる商業の否定と労働者自主管理の否定など、一連の官僚独裁によって、ますます悪化していたのです。



1921年、2月、クロンシュタットの水兵たちは、ペテログラードの状況を知るために代表団を派遣します。そして、多くのストライキ、工場を視察し、労働者たちと意見交換します。そして28日、クロンシュタットにもどり、ただちに以下のような「決議」を表明しました。



これは戦艦「ペトロパブロフスク」の艦隊乗組員総会の決議といわれるものですが、これが、クロンシュタット水兵総会や、赤衛軍の多数の部隊によって支持され、最後にクロンシュタットの全労働者大会において賛成されるとなってゆきます。これがのちに「クロンシュタット綱領」といわれるものとなります。



綱領の全文を引用します。この要求項目をみれば、1921年、革命ロシアがいかに官僚主義的に変質していたか、その変質は、「しかたないもの」ではなく、これまでこのシリーズを読んできた方は、ボリシェビキによって意図的に推し進められたものだったことがわかるものと思います。


  1. ソビエト再選挙の即時実施。現在のソビエトは、もはや労働者と農民の意志を表現していない。この選挙は自由な選挙運動ののちに、秘密投票によって行われるべきである。
  2. 労働者と農民、アナキストおよび左翼社会主義諸政党に対する言論と出版の自由。
  3. 労働組合と農民組織に対する集会結社の権利およびその自由。
  4. 遅くとも1921310日までにペトログラード市、クロンシュタットそれにペトログラード地区の非党員労働者、兵士、水兵の協議会を組織すること。
  5. 社会主義諸政党の政治犯、および投獄されている労働者階級と農民組織に属する労働者、農民、兵士、水兵の釈放。
  6. 監獄および強制収容所に拘留されているすべての者にかんする調書を調べるための委員会の選出。
  7. 軍隊におけるすべての政治部の廃止。いかなる政党も自らの政治理念の宣伝にかんして特権を有するべきでなく、また、国家からの資金援助でさまざまな文化的グループが設置されるべきである。
  8. 都市と地方との境界に配備されている民兵分遣隊の即時廃止。
  9. 危険な職種および健康を害する職種についている者を除く、全労働者への食糧配給の平等化。

10、すべての軍事的グループにおける党員選抜突撃隊の廃止。工場や企業における党員防衛隊の廃止。防衛隊が必要とされる場合には、その隊員は労働者の意見を考慮して任命されるべきである。

11、自ら働き、賃労働者を雇用しないという条件の下での、農民に対する自己の土地での行動の自由および自己の家畜の所有権の承認。

12、われわれは、全軍の部隊ならに将校訓練部隊が、それぞれこの決議を支持するように願っている。

13、われわれは、この決議が正当な扱いの下に印刷、公表されるよう要求する。

14、われわれは、移動労働者管理委員会の設置を要求する。

15、われわれは賃労働者を使用しないという条件下での、手工業生産の認可を要求する。



以上の15項目でした。ここには官僚制国家化する革命ロシアへの告発があります。それが否定され、行われていないから、要求したのです。



これらの要求は、ペトログラード労働者ストライキと連帯し、ソビエト民主主義を復権させるためのものでしたが、同時に、穀物調達政策に対してタンボフ、ヴォルガ、ウラル、西シベリアなどで広がった、農民反乱の闘いを支持するものでもありました。



●ネップへの転換と大虐殺でしのいだレーニンたち



「農民は徴発を拒否し、輸送車を止め、その荷を奪った。鎮圧のために派遣された部隊は、村ぐるみで蜂起する村々に、行く手をはばまれた。軍が農民の側に寝返ってしまうこともあった。政権は、叛徒を鎮圧するに必要な部隊を手にしていなかった。農民が蜂起するのと同時にクロンシュタットの爆発が、突発した。この場合も、1921年の物質的困難が決定的な役割を演じている」というのは、廣松渉『マルクスと歴史の現実』(平凡社版、246頁以降)で、カレル・ダンコースという欧米のソ連史の研究者を引用してのべられているものです。



クロンシュタットは武装し、これらの要求を掲げた異議申し立てに突入しました。



クロンシュタットでは、共産党員も反乱します。「臨時党委員会」がつくられ、イリン(共産党の食糧供給委員)、ペルヴォーチン(党地方執行委員会議長)、カバノフ(党地区労働組合委員部長)を先頭に、780名が集団離党しました(イダ・メット前掲書42頁以降)。



レーニンらは、こうしたクロンシュタットを中心とした全国的な労農叛乱に直面し、戦時共産主義の撤回、ネップ(市場――商業――の復活、農民の余剰生産物の処分の自由、強制徴発を現物累進課税にかえる)で、対応することで、こうした抵抗闘争を封じることに成功します。



こうした政策の転回点でボリシェビキは、クロンシュタットを弾圧します。3月のことでした。



軍事人民委員のトロツキーは、次のような最後通牒をクロンシュタットの臨時革命委員会に対し発しました。36日、トロツキーはラジオで、つぎのように発令します。



「労農政府は、クロンシュタットおよび反乱戦艦が直ちにソビエト共和国の権威に服するよう要求する。私は、それゆえ、社会主義の祖国に向けて拳をふりあげたすべての者が、即刻その武器を捨てるよう命令する。……無条件に降伏する者のみが、ソビエト共和国の慈悲をあてにできるであろう。私は、現在、武力をもって反乱を鎮圧し、叛徒を屈服させるべく、準備を整えよ、との命令を発している。善良なる住民がこおむるであろう危害に対する責任は、反革命的叛徒の上に完全に帰せられるであろう。この警告は最後のものである。トロツキー 共和国革命軍事委員会議議長、カーメネフ最高司令官」。

(スタインベルグ『左翼社会革命党19171921』、鹿砦社、261頁)



そして、これにつづいて、赤軍など鎮圧にあたる者に、「雉を打つように打ち殺せ」と指令しているのです。



37日、クロンシュタット「臨時革命委員会」の機関誌「イズベスチャ」は、「陸軍元帥トロツキーは、3年間にわたる共産党員政治委員(コミサール)の専制政治に抗して叛乱を起こした自由クロンシュタットを脅迫してきた。……トロツキー氏よ、われわれは君の慈悲など必要としないのだ」と戦闘宣言を発しました。



38日、赤軍からの砲撃が始まり、316日以降、本格的な交戦状態に突入します。そして反乱は鎮圧されます。この反乱の交戦、相互殲滅戦では、双方に多くの万単位の犠牲者がでました。

「クロンシュタットは、一つの時代の終焉を示すものであった」と、スタインベルグは前掲書で書きました(274頁)。まさに1917年、武装蜂起で左翼エスエルやアナキストともにプロレタリア権力を樹立したボリシェビキ党は1921年には、人民抑圧権力に変質していました。その決定的な定立が、まさにクロンシュタット叛乱の弾圧を通じて画期されたのです。



●クロンシュタット鎮圧の最高責任者はトロツキーだった――反スターリン主義の始祖といえるのか


ところが、1927年、スターリンに国外追放となったトロツキーは、自らの政治主張の正当性を守ろうとするあまり、このクロンシュタット弾圧にかんして、自分は無関係だったと書きました。193776日、「再びクロンシュタット鎮圧について」(イダ・メット前掲書所収)がそれです。


トロツキーは「事件の真相は、私個人はクロンシュタット反乱の鎮圧にも、それに続く弾圧にも、一切関与していなかったということである。だがこの事実そのものは、私にとって何の政治的意味も持ってはいない。私は政府の一員だったし、反乱の鎮圧が必要だとも考えていた。だから鎮圧については責任を負っているのだ」と。



さらに、反乱が勃発した時はウラルにいて、党の第10回大会のためにモスクワに直行した。そこで「まず平和交渉をし、次に最後通牒を出す、それでも要塞が降服に応じなければ最後的には叛乱を軍事的に鎮圧する、という決定――この一般的原則に関する決定の採用には私も直接参加した。だが、決定が下された後は私はモスクワに留まり、軍事的作戦行動には直接的にも間接的にも関わっていない。それは完全にチェーカーの仕事だった」と逃げを打っているのです。「必要以上の犠牲者が出たかどうかについては、私は知らない」とも書いています。



これでは、トロツキーが共和国革命軍事委員会議議長としての責任をもっていたということ、そして少なくとも「最後通牒」と殺人指令を出したという個別の役割分担での行政的責任があるということ、それらの責任を、彼自身が隠していると言わざるを得ません。



そして最後に「私は革命を否定しない。この意味において、私はクロンシュタット反乱の鎮圧にかんして完全に責任を負うものである」と書いた。つまり、クロンシュタットは反革命だということです。



事実問題として自分の出した「最後通牒」と、殺人指令で、赤軍は行動にでたのです。これを「不関与」というのはいかがなものか。責任を隠ぺいしているのです。なによりも、「クロンシュタット・イズベスチャ」が、名指しした「専制政治」の「陸軍元帥」こそ、トロツキーその人だったではありませんか!



まさにクロンシュタット反乱は、革命ロシアの前衛独裁・官僚制国家化(スターリン主義化)が1921年には基本的には成立しており、そこではレーニンのトロツキーの<内なるスターリン主義>が問題となっていたということを象徴するできごとだったのです。




その弾圧の立役者の一人であるトロツキーのような前衛独裁(を後になってからも省察もしない、わけですから)の象徴みたいな人物が、日本の場合、反スターリン主義の新左翼運動の始祖とされてきたのです。このことこそ再考すべき問題です。クロンシュタット叛乱は、新左翼でもトロツキー主義系列などでは反革命という判断が多くをしめています。

 

 

 それは、すべてレーニン主義・トロツキー主義は間違っていない、歴史的な条件が、レーニンやトロツキーに正しいことをできなくさせたという、今やはっきり言って「レーニン・トロツキー信仰」としか、言えないものにほかなりません。いろんなことを、レーニン教条主義者やトロツキストたちは言っています。だけども、例えばレーニンは、「絶対的真理論者」であり、「唯一の前衛」主義者です。ボリシェビキ以外の政治的ヘゲモニーの存在を認めなかった。それが実際、内戦期であったことです。クロンシュタット叛乱は、その端的な事例をしめしているのです。