2015年1月3日土曜日

ピケティ・ノート


トマ・ピケティ『21世紀の資本』(みすず書房、山形浩生・守岡桜・森本正史訳、2014年12月8日発行。原著2013年刊行)・ノート


●このノートは、単なるノートです。論文でもレジュメでもなく、論文を作るにさいしての準備ノートですらないものです。単なる抜書きです。一言、付言すれば、このピケティの『21世紀の資本』は、宇野3段階論(経済学原理論―段階論―現状分析)では、「現状分析」の分野の対象となるものであり、または、いうなれば拡張された段階論とでもいいうるものの分野であって、マルクス『資本論』や経済原論の「経済学原理論」の領域ではない、ことは、僕の主張として、確認しておきたいと思います。このノートは2014年12月下旬に完成し、当時は、若干の友人に公開していたものです。

(はじめに)

本書で使われているデータは、計量経済学者で統計学者のクズネッツの米国における「所得格差推移」(19131948)の研究資料を拡大することを出発点としている。「課税記録」を収集し、「高所得層の十分位や百分位は、申告所得に基づいた税金データから推計」し、「それぞれの国で所得税が確立した時期から始まり(これはおおむね1910年から1920年くらいだが、日本やドイツなどの国では1880年から開始されているし、ずっと遅い国もある)。こうした時系列データは定期的に更新され、執筆時点では2010年初期のデータまで拡張されている」。最終的には「世界の30名ほどの研究者による共同作業である世界トップ所得データベース(WTID)が、所得格差の推移に関する最大の歴史的データベースとなっており、本書の主要なデータ源となっている」(1920)。

また「相続税申告の個票を大量に集めた」これにより、「フランス革命以来の富の集積に関する均質な時系列データを確立できた。これで第一次大戦によるショックを、所得格差のデータ(これは1910年あたりまでしかさかのぼれない)よりもずっと広い文脈で検討できるようになった」また、国富の総ストックの研究においても、「国民所得の年数で計測」することを基本に、同様に行なわれた様々な研究を「拡張し一般化した」。これらは、「コンピュータ技術の進歩により、大量の歴史データを集めて処理するのがずっと簡単になった」ことに依っていると、されている(20-22)。


(1)「資本主義の第一基本法則」(α=r×β)の求め方



α=国民所得に占める資本のシェア


r=資本収益率


β=資本/所得比率



α=r×β




β=600%でr=5%なら、α=r×β=30

●国民所得=国内産出(生産で、「資本の減価償却分を含む「国民総生産」(GNP)とはちがう」(注頁21)+外国からの純収入(「外国から受け取った所得と外国人に支払う所得との差額」(注頁21))

●世界総所得=世界総産出…「どの年においても、総所得は生産された新しい富の総量を上回ることはできない。…逆に、あらゆる産出は、何らかの形で、労働か資本に対して所得として分配されねばならない」(48)。

●国民所得=資本所得+労働所得…その場合、「資本」とは、「人間以外の資産として、所有できて何らかの市場で取引できるものの総和として定義されている。資本は企業や政府機関が使う、各種の不動産や、金融資産、専門資産(工場、インフラ、機械、特許など)を指す」(49)。


●国民資本(国富)=国内資本+純国外資本、あるいは民間財産+公的財産…「ある国でその時に政府や住民が所有しているものすべて(ただしそれが何らかの市場で取引できる場合のみ)の総市場価値。…非金融資産(土地、住宅、商業在庫、他の建物、機械、インフラ、特許、その他の直接所有されている専門資産)と、金融資産(銀行貯金、ミューチュアル・ファンド、債券、株式、各種金融投資、保険、年金基金等々)から金融債務(負債)の総額を引いたものの合計」(5152)。


●「資本/所得比率」として=国富(国民資本) 対 国民所得の比率を求める=「ある国の総資本ストックが国民所得6年分に相当するならβ=6(あるいはβ=600%)と書く」(54)」。


「ストックを年間の所得フローで割ること」(54


「今日の先進国では、資本/所得比率はだいたい5か6ぐらいで、資本ストックはほとんどが民間資本となる。フランスとイギリス、ドイツとイタリア、米国と日本では、一人当たり国民所得は2010年でざっと3万―35000ユーロだが、総民間財産(負債を差し引いた純額)はどこの国でも一人当たり15万―20万ユーロくらいだ。つまり年間国民所得の5倍から6倍になる」。「実際には多くの人は月額2500ユーロよりはるかに少ない金額しか稼いでいないし、一部の人はその何十倍も稼いでいる。所得の開きは、一部は労働賃金に差があるからだし一部は資本からの所得にずっと大きな格差があるからで、この資本所得の格差自体も、極端な富の集中の結果となる」。また、「同様に、民間の一人当たり財産が、18万ユーロ程度、あるいは、国民所得6年分というのは、みんながそれだけの資本を持っているということではない。多くの人の持ち分はずっと少ないし、一部の人は何百万、何千万ユーロ相当もの資本資産を持っている」


●「資本ストックを、資本からの所得フローと結びつけるものだ。資本/所得比率βは、国民所得の中で資本からの所得の占める割合(αで表す)と単純な関係を持っている。


α=国民所得に占める資本のシェア

r=資本収益率

β=資本/所得比率


α=r×β

β=600%でr=5%なら、α=r×β=30%」

56




●資本収益率とは「一年にわたる資本からの収益を、その法的な形態(利潤、賃料、配当、利子、ロイヤルティ、キャピタル・ゲイン等々)によらず、その投資された資本の価値に対する比率として表すものだ。だから『利潤率』より広い概念だし、『利子率』よりはるかに広い」(5657)。


●個別企業にも使える。「500万ユーロの資本(オフィス、インフラ、機械等々)を使い、年に100万ユーロの財を生産し、うち60万ユーロが労働者の賃金、利潤が40万ユーロだとする。この会社の資本/所得比率はβ=5(つまり資本が産出5年分に相当する)、資本取得のシェアαは40%で、資本収益率はr=8%だ」(59)。


資本収益率は資産収益率で、資産によって入ってくる所得だ。




(2)「資本主義の第二基本法則」(β=s/g)


●「なぜ資本/所得比率はヨーロッパでは史上最高水準に回復したのか。そしてヨーロッパの方が米国に比べて構造的に高いのはなぜか。ある社会の資本が、国民所得3、4年分でなく7年分に相当する量であるべきだと示唆する魔法の力があるのだろうか。資本/所得比率には均衡水準があるのか、それはどのようにして決まるのか、資本収益率にとってどんな意味があるのか、それと国民所得における資本と労働の分配との関係は? これらの問いに答えるために、まずはある経済の資本/所得比率を、貯蓄と成長率に関連づける動学法則を示そう。


資本主義の第二基本法則――β=s/g


長期的には、資本/所得比率βは、貯蓄率s、成長率gと以下の方程式で示される単純明快な関係を持つ。


β=s/g


たとえばs=12%、g=2%ならβ=s/g=600%となる。


つまり、毎年国民所得の12%を貯え、国民所得の成長率が年2%の国では、長期的には資本/所得比率は600%になる。この国は、国民所得6年分に相当する資本を蓄積することになる。

 資本主義の第二基本法則ともいえるこの公式は、当然ではあるが重要なことを示している。たくさん蓄えて、ゆっくり成長する国は、長期的には(所得にくらべて)莫大な資本ストックを蓄積し、それが社会構造と富の分配に大きな影響を与えるということだ」(173)。

「たとえば、貯蓄率が12%で、成長率が年(2パーセントから)15パーセントに落ちると長期的な資本/所得比率β=s/gは、国民所得(6年分ではなく)8年分になる。…(1%に落ちると、βの値は、2%時より2倍になる――引用者)…資本集約的な社会となる。ある意味ではよい報せだ。資本は誰にとっても有利になるし、社会の仕組みが適切なら、誰もがその恩恵を受けられる。でも一方で、これは資本――どんな富の分配状態であっても――の持ち主が支配する経済資源のシェアが大きくなりかねないということだ」(175)。



●ここで言われている「成長率」とは、「国民所得の総成長率、つまり一人当たり成長率と人口増加率の和」。


貯蓄率が約1012%、一人当たり国民所得の成長率が年152パーセントだと、欧州と米国で、次のような相違が現われる。

欧州は、人口増加がほぼゼロ、成長率は、約152%だと、国民所得68年分の資本ストックが蓄積できる。

米国は、人口増加が年間1%、総成長率が253%だと、国民所得34年分の資本ストック。

「そして後者の国の貯蓄率が(おそらく人口が高齢化していないという理由から)前者に比べてすこし少ない場合、結果としてこのメカニズムはさらに促進される。つまり、一人当たり所得成長率が同じでも、人口増加率がちがうだけで、まったくちがう、資本/所得比率を持つ場合もあるのだ」(175176)。



(3)「格差拡大の根本的な力――r>


r=年間の資本収益率

g=所得と産出の年間増加率(経済成長率)


「図12は、イギリス、フランス、ドイツにおいて、民間財産(不動産、金融資産、専門資産から、負債分を差し引いたネット値)の総価値が、その国の国民所得何年分にあたるかを、1870年から2011年について示したものだ。まず見てほしいのは、19世紀末のヨーロッパにおける民間財産の水準がきわめて高かったということだ。民間財産の総量は、国民所得の67年分あたりをうろうろしていた。これはかなりの水準だ。それが19141945年期のショックを受けて急落した(この「ショック」といわれているものは、二度にわたる世界大戦とそれによる資産の破壊と「公共政策」であり(247以降、例えば283))、「戦争とその関連政策がもたらした強烈なショック」(384)とされているものである――引用者)。資本/所得比率は2から3に下がった。その後、1950年以降にそれがだんだん回復してくる。その上昇ぶりはとても急激で、21世紀初頭には英仏両国で、国民所得56年分に戻りそうだ(ドイツの民間財産はもっと低い水準から始まったので相対的に低いが、上昇トレンドは同じくらい明確だ)。

 この「U字曲線」は、圧倒的に重要な変化を反映したもので、その変化は本書の研究でも大きく効いてくる。特に、過去数十年における高い資本/所得比率への復帰は、大部分が比較的低経済成長のレジームへ戻ったことで説明できることを示そう。低成長経済では、過去の富が当然ながら重要性を大きく高めることとなる。というのも富のストックを安定して大幅に増やすためには、新規の貯蓄フローはごく小額ですむからだ。

 さらに、もし資本収益率が長期的に成長率を大きく上回っていれば(これは経済成長率が低いときには、必ずとは言わないまでも起こりやすい)、富の分配で格差が拡大するリスクは大いに高まる。

 この根本的な不等式をr>gと書こうrは資本の年間収益率で、利潤、配当、利子、賃料などの資本からの収入を、その資本の総額で割ったものだ。gはその経済の成長率、つまり所得や産出の年間増加率だ)、…ある意味で、この不等式が私の結論全体の論理を総括しているのだ。

 資本収益率が経済の成長率を大幅に上回ると(19世紀まで歴史のほとんどの期間はそうだったし、21世紀もどうやらそうなりそうだ)、論理的にいって相続財産は産出や所得よりも急速に増える。相続財産を持つ人々は、資本からの所得のごく一部を貯蓄するだけで、その資本を経済全体より急速に増やせる。こうした条件下では、相続財産が生涯の労働で得た富より圧倒的に大きなものとなるし、資本の集積はきわめて高い水準に達する――潜在的には、それは現代の民主社会にとって基本となる能力主義的な価値観や社会正義の原理とは相容れない水準に達しかねない。

 さらに、この格差拡大の基本的な力は、他のメカニズムで強化されかねない。たとえば、貯蓄率は富が大きくなると急増するかもしれない(これはますます通例となっているようだ)。資本収益率が予想不能で恣意的であり、富は各種の方法で拡大できるという事実もまた能力主義モデルにとっては問題となる。最後に、こうした要因すべてはリカード的な希少性原理で悪化しかねない。不動産や石油の高い価格は、構造的な格差拡大に貢献しかねない。

 ここまで述べてきたことをまとめよう。富が集積され分配されるプロセスは、格差拡大を後押しする強力な力を含んでいる、というか少なくともきわめて高い格差水準を後押しする力を含んでいる。収斂の力も存在はするし、ある時期の一部の国ではそれが有力になるかもしれないが、格差拡大の力はいつ何時上手を取るやもしれない。これが21世紀の現在どうやら起こっているらしい。今後数十年で、人口と経済双方の成長率は低下する見通しが高いので、このトレンドはなおさら懸念される」(2729)。

「たとえば、g=1%で、r=5%ならば、資本所得の5分の一を貯蓄すれば(残り5分の4は消費しても)、先行世代から受け継いだ資本は経済と同じ比率で成長するのに十分だ。富が大きくて、裕福な暮らしをしても消費が年間レント収入より少なければ、貯蓄分はもっと増え、その人の資産は経済よりもよりよく成長し、たとえ労働からの実入りがまったくなくても、富の格差は増大しがちになるだろう。つまり厳密な数学的観点からすると、いまの条件は「相続社会」の繁栄に理想的なのだ――ここで「相続社会」と言うのは、非常に高水準の富の集中と世代から世代へと大きな財産が永続的に引き継がれる社会を意味する」(366)。


(4)格差の在り様

●「高水準の格差を達成する方法のひとつが、『超世襲社会』(あるいは『不労所得生活者社会』)によるものだ。相続財産がとても重要な位置を占め、富の集中が極端なレベル(おおむねトップ十分位が全富の90パーセントを所有し、50パーセントがトップ百分位のみによって所有される)にまで達した社会だ。この場合、総所得のヒエラルキーは大きな資本所得、とりわけ相続財産による所得に支配されている。これは全体としては細かい違いもあるが、アンシャン・レジーム期のフランス、ベル・エポック期のヨーロッパに見られたパターンだ。このような所有と不平等の構造がどのようにして存続し、それがどこまで過去のものになったのかを理解する必要がある。――もちろん、これは過去どころか未来にも待ち構えているのかもしれない」(274

●「ベル・エポック期ヨーロッパでの富の集中は、何十年、いや何世紀も続いた蓄積プロセスの結果なのだ。国民所得の年数で示された総民間財産(不動産と金融資産の両方)が、第一次世界大戦直前の水準をほぼ取り戻すには、20002010年まで待たねばならなかった。富裕国でのこの資本/所得比率の回復は、ほぼ確実に現在もなお進行中のプロセスだ」。(387

「言い換えれば、今日富が過去ほどは不平等に分配されていない理由は、単に1945年以降まだ十分に時間が経っていないからだ。これが理由のひとつであるのは確かだが、これだけでは十分ではない。富のトップ十分位、さらにトップ百分位のシェア(ヨーロッパ全体で1910年に6070パーセントだったが、2010年にはわずか2030パーセント)を見ると、19141945年のショックが、富が以前ほど集中しないような構造的変化をもたらしたのは明らかなようだ。これは単なる量の問題ではない。……前者の場合(トップ百分位が6070%のシェア――引用者)では、所得階層のトップ百分位にいる大半は明らかに資本所得のトップだ。これが……不労所得生活者の社会となる。後者の場合(トップの百分位が2030パーセントのシェア――引用者)では、トップの労働所得が、だいたいトップの資本所得と均衡している(現代は経営者の社会、あるいは均衡のとれた社会なのだ)。同様に国富の10分の120分の1(社会の貧しい半分より上になることはまずない)ではなく、4分の1から3分の1を所有する「世襲中間階級」の出現は、大きな社会変容だった」(387388)。

●「まとめよう。今日のヨーロッパではベル・エポック期に比べ、富の集中が目に見えて減っているという事実の大部分は、偶然的な出来事(19141945年のショック)と、資本からの所得への課税といった個別制度がもたらした結果だ。最終的にこれらの制度が破壊されてしまえば、過去に経験したものに近い、また状況次第ではもっと高い富の格差が生じかねないリスクが高まる。これはけっして決まった話ではない。……しかしすでにひとつだけ確かな結論がある。近代的成長、あるいは市場経済の本質に、何やら富の格差を将来的に確実に減らし、調和のとれた安定をもたらすような力があると考えるのは幻想だという事だ」(391)。

●例えば「米国の曲線(図1-1)は、1910年から2010年までの、米国の国民所得で所得階層のトップ十分位が占める割合を示す。19131948年についてクズネッツが確立した歴史的時系列データを伸ばしただけだ。1910年代から1920年代にかけて、トップ十分位は国民所得の4550パーセントを懐に入れていたが、それが1940年代には3035パーセントに下がった。格差は19501970年までその水準で横ばいだった。その後1980年代に格差が急激に高まり、2000年になると、国民所得の4550パーセント当たりの水準に戻っている(26)。


●「私が本書で強調してきた格差を拡大させる基本的な力は、市場の不完全性とは何の関係もなく、市場がもっと自由で競争的になっても消えることのない、不等式r>gにまとめられる。制限のない競争によって相続に終止符が打たれ、もっとも能力主義的な世界に近づくという考えは、危険な幻想だ」(440)。

●「具体的に言うと、世界の成人人口45億人のうち450万人程度に相当する、最も裕福な01パーセントの人たちが、平均およそ1000万ユーロ、つまり成人一人当たり世界平均資産6万ユーロの約200倍の資産を所有しており、その全体を合わせると今日、世界の富の総合系の約20パーセントに達する。最も裕福な1パーセント――45億人中4500万人――は、一人当たり平均約300万ユーロを所有している(大まかに言って、この集団に含まれる人たちの個人資産は100万ユーロ超)。これは世界の富の平均の50倍、世界の富の総額の50パーセントに相当する。

 これらの推計は(世界の富の総額と平均として示した数値を含む)は、非常に不確かであることはお忘れなく。本書で引用した大部分にも増して、これらの数値は規模感の目安としてとらえるべきもので、考えをまとめるためにのみ役立つ。

 また、各国の国内で見られるよりはるかに高度なこの富の集中は、主に国際的な格差から生じていることにも注意。世界の富の平均は成人一人当たりせいぜい6万ユーロで、先進国の市民の多くは、「世襲中流階級」の人たちも含め、世界的な富の階層の中では非常に裕福であると見なされる。同じ理由から、世界的な富の格差が本当に増加しているかどうかも、決してさだかでない。貧しい国が裕福な国にキャッチアップするとき、そのキャッチアップ効果が、瞬間的に格差拡大の力を上回る場合がある。現時点では、手元のデータからはっきりした答えは示せない。

 でも手元の情報によると、世界的な富の階層の上部で見られる格差拡大の力は、すでに非常に強力になっている。これは『フォーブス』ランキングに登場する巨額の資産のみに当てはまるのではなく、おそらくもっと少ない1000万―1億ユーロの資産にも当てはまる。こちらの人口集団ははるかに規模が大きい。トップ千分位(平均資産1000万ユーロの450万人の集団)は、世界の富の約20パーセントを所有しており、これは『フォーブス』の億万長者たちが所有する15パーセントをはるかに上回る。だから肝要なのは、この集団に作用する格差拡大の規模感を理解することだ。これは特に、この規模のポートフォリオ(投資信託や金融機関など機関投資家の所有有価証券の一覧表――引用者)に見られる不均等な資本収益率に左右される。この率次第で、階層上部の格差拡大が国家間のキャッチアップの力に勝るほど強力かどうかが決まる。格差拡大のプロセスは、億万長者の間だけで生じているのだろうか、それともそのすぐ下の集団にも影響しているのだろうか。

 たとえばトップ千分位が資産収益率6パーセントを享受している一方、世界の富の平均成長率が年間たった2パーセントだったら、30年後には、世界の資本にトップ千分位が占めるシェアは、3倍超になる。トップ千分位が世界の富の60パーセントを所有するというこの状態は、特に効果的な弾圧システムか、きわめて強力な説得装置か、その両方でもない限り、既存の政治制度の枠組みの中では想像しがたい。トップ千分位の資産収益率がたった年4パーセントだったとしても、そのシェアは30年間で実質的に倍増して訳40パーセントになる。この場合も、富の階層の上部で働く格差拡大の力は、世界的なキャッチアップと収斂を上回るもので、トップ十分位と百分位のシェアは大きく増加し、中産階級と上位中産階級から超富裕層への再配分が大幅に増加する。このような中産階級の貧困化は、激しい政治的反発を引き起こす可能性が高い。当然ながら、この段階ではこのシナリオが実現すると断言はできない。でも不等r>gが、当初のポートフォリオ規模に比例する資本収益の格差に増幅されて、爆発的な上昇軌道と、コントロール不能な不平等スパイラルを特徴とする、世界的な蓄積と富の分配をもたらす可能性はまちがいなくある。これはぜひとも認識しなければならない。これからみるように、累進資本税のみが、このような動学を効果的に阻止できるのだ」(454456)。


(5)「税制社会国家」(513)――「所得と資本に対する累進課税を持った社会国家」(566


●「個人の富に対する累進的な課税は、社会全体の利益の下に、資本主義に対するコントロールを取り戻す一方で、私有財産と競争の力を活用する。……必要なら、この税金はきわめて巨額の財産に対して大幅に累進性を高めることもできるが、これは法治の下で民主的な論争で決めることだ。……この形での資本税は新しい発想であり、21世紀のグローバル化した世襲資本主義だけのために設計されたものだ」(558)。

●「ヨーロッパ富裕税の設計図」、一回限りの相続税ではない、「資本に対する永続的な年次課税」である以上、「そこそこ穏健なものでなければならない」。「資本の総ストックに対して毎年かかる税金」のことで、「今日のヨーロッパでは民間財産がきわめて高い水準にあるので、低い税率であっても富への累進的な年次課税は、巨額の税収をもたらす。たとえば、100万ユーロ(1ユーロは146円前後で推移しているから、約14億円)以下の財産には0パーセント、100500万ユーロなら1パーセント、500万ユーロ以上なら2パーセントという富裕税を考えよう。EU加盟国すべてにこれを適用したら、この税金は人口の25パーセントくらいに影響して、ヨーロッパのGDP2パーセント相当額の税収をもたらす。この高い税収は驚くようなものではない。これは単に、今日のヨーロッパでは民間財産がGDP5年分以上あるという事実によるものだ。そしてその大半は、富の分布における百分位の上の方に集中している。資本税だけでは社会国家をまかなえる税収にはならないが、でもそこから出てくる追加の税収は巨額になる」(553554)。

●「さて、500万ユーロ以上の財産に対する税率が2パーセントどまりでなければいけない理由などないことに注目。ヨーロッパや世界で最大級の富に対する実質収益率は67パーセント以上だったから、1億ユーロや10億ユーロ以上の富には、2パーセントより」かなり高い税率にしても高すぎるとは言えない。もっとも単純で公平なやり方は、それ以前の数年にわたり、その富のブランケットごとで実際に観測された収益率をもとに税率を決めることだ。そうすれば、累進性の度合いは、資本収益率の推移と望ましい富の集中度に応じて調整できる。富の格差拡大(つまり、トップ近い百分位や千分位に属するシェアがどんどん増える状態)を避けるために(これは額面通りに見れば最低限の望ましい状態に思える)、たぶん最大級の財産に対しては5パーセントくらいの税率を翔る必要があるだろう。もっと野心的な目標がお望みなら、例えば富の格差を今日より(そして歴史的に見て成長にとって必要ではない水準より)もっと穏やかなところまで引き下げたいなら、大金持ちに対しては10パーセント以上の税率だって考えられる」(555556)。

●「正しいアプローチは、企業に対して全ヨーロッパで利潤を一回だけ申告するよう義務付けることだ。そしてその利潤に、子会社ごとに利潤に課税するという現行方式よりも操作しにくい形で、課税することだ。現行方式の問題点は、多国籍企業はあらゆる利潤を法人税がきわめて低い国にある子会社に」わざわざ割り当てることで、とんでもなくわずかな税金しか払わないですませているということだ。こうしたやり方は違法ではないし、多くの企業経営者からすると、倫理上の問題すらない。ある特定の国や領土に利潤をきっちり対応させられるという発想を捨てるほうが、筋が通っている。むしろ法人税からの税収を各国内の売り上げや支払賃金に基づいて割り振ればいい」(590)。

●「パリのアパルトマンを持つ人物は、地球の裏側に住んでいて国籍がどこだろうと、パリ市に固定資産税を払う。同じ原理が富裕税にも当てはまるが、不動産の場合だけだ。これを金融資産に適用できない理由はない。その事業活動や企業の所在地に基づいて課税するのだ。同じことが国債についても言える。「資本資産の所在地」(所有者の居住地ではない)を金融資産に適用するには、明らかに銀行データの自動的な共有により、税務当局が複雑な所有構造を評価できるようにする必要がある。こうした税金はまた、多重国籍の問題を引き起こす。こうした問題すべての解決策は、明らかに全ヨーロッパ(または全世界)レベルでしか見い出せない。だから正しいアプローチは、ユーロ圏予算議会を創り出して対応させることなのだ。……各国が通貨主権を放棄するなら、国民国家の手の届かなくなった事項に対する各国の財政的な主権を回復させるのが不可欠だろう。たとえば、公的債務に対する金利、累進資本税、多国籍企業への課税などだ。ヨーロッパ諸国にとって、いまや優先すべきは、世襲資本主義と私的利益に対するコントロールを回復でき、さらに21世紀のヨーロッパ型社会モデルを促進できる全大陸的政治当局を構築することだ」(590591)。

●「本当の会計財務的な透明性と情報提供なくして、経済的民主主義などあり得ない。逆に、企業の意思決定に介入する本当の権利(会社の重役会議に労働者の座席を用意するのも含む)なしには、透明性は役に立たない。情報は民主主義制度を支援するものでなければならない。……民主主義がいつの日か資本主義のコントロールを取り戻すためには、まずは民主主義と資本主義を宿す具体的な制度が何度も再発見される必要があることを認識しなくてはならないのだ」(600)。

2014年11月19日水曜日

近代生産力主義と京都学派・鈴木成高の近代批判――廣松渉の「近代の超克」論への言及を視軸として




以下の論考は2009年3月に理想社という出版社から刊行された石塚正英・工藤豊編『近代の超克―永久革命』という共著書に、書いた拙論「近代機械文明批判と『近代の超克』の問題意識――鈴木成高の諸論を中心として――」を、修正加筆したものです。



近代生産力主義と京都学派・鈴木成高の近代批判――廣松渉の「近代の超克」論への言及を視軸として
 
                                               渋谷要



●はじめに――廣松渉の京都学派論から




 第二次世界大戦において、大日本帝国の戦争に協力・加担した「京都学派」――京都帝国大学を拠点とした社会思想の一派――であったが、そこには、近代ブルジョア的価値・パラダイムを超克していこうとする問題意識が表出している。京都学派は、その問題意識を当時の時流にあわせて広めていこうとした、そこに京都学派が、帝国主義戦争に加担した根拠があるのだが、ここではそれを、踏まえた上で、京都学派の問題意識を鈴木成高の機械文明批判に焦点をあてて、見てゆくことにする。


なお、京都学派が日本帝国主義のアジア侵略を免罪し、それに加担した論理構造については、拙著では「京都学派の資本主義批判――「日本の帝国主義はそのままに(批判せず)」帝国主義を欧米独自のシステムとして実体化」(『国家とマルチチュード』第二部第二章、社会評論社、二〇〇六年)を参照してほしい。


 「近代の超克」をタイトルに開かれた、廣松渉言うところの「大放談会」が、一九四二年(昭和一七年)一〇月号の『文学界』に掲載された「文化総合会議シンポジウム」であった(廣松渉「<近代の超克>論」、廣松渉著作集第一四巻、岩波書店、一七二頁参照)。当時、京都帝国大学の教官であった鈴木成高も、その放談会に出席した一人であった。

 廣松渉はつぎのように述べている。

「鈴木成高はシンポジウムに先立って討論用に提出しておいた論文のなかで『世界全体の運命から考えるときには、今日の問題は特定の二、三の国家の興廃などということより遥かに大きな深刻な問題である。のみならず現代の変革が如何に根本的なものを志向するものであるかという認識に到達することがなければ、それに対する代価を支払う用意が定まらず、吾々自身の新時代に対する姿勢が定まらないのである』旨を前置きとして次のように述べている。

 『近代の超克ということは左様いふところにおいて見出された問題であり、少なくとも究極を極めんとする方向において発生するところの問題であると思はれる。それは例えば、政治においてはデモクラシーの超克であり、経済においては資本主義の超克なのであり、思想においては自由主義の超克を意味する。その包括する側面において多面的であるとともにその含蓄する意味において極めて深刻なものをもち、(中略)国家の内部的構造、国家と国家の関係のみならず更に世界観の根本、文明の性質に拘はるところの問題であるといわなければならないのである』。

 鈴木は右のごとき射程において問題を捉えていたのであり(中略)当座の論件に関していえば(中略)彼は六箇条の形にまとめて問題を提出する。

(一)『近代の超克』をば問題の本来的意味において、即ち欧州的意味において明らかにすること。

(二)問題を日本的角度において定位し、日本的課題としてこの問題が何を意味するかを明らかにすること。

(三)超克すべき近代が十九世紀であるかあるいはルネサンス以降であるか――西欧論壇での係争点であるこの問題を裁可すること。

(四)ルネサンスの超克は当然「人間性」(リュマニテ)の根本問題に触れ、キリスト教の将来という問題とも関聯する。

(五)機械文明と人間性の問題は科学の問題に関聯する。即ち、文明の危機解決するに当たっての科学の役割と限界との問題が起こらなければならぬ。

(六)歴史学としては「進歩の理念」を超克することが、ひいては歴史主義の超克ということが、根本問題になる。

 鈴木成高による此の問題設定は、前掲の『政治においてはデモクラシーの超克、経済においては資本主義の超克、思想においてはリベラリズムの超克』という論点と合わせるとき――哲学者たちは近代知の地平そのものを端的に問題にする条項を追加したい、と考えるにせよ――問題圏をほぼ全面的にカヴァーしており、剴切(「非常に適切なこと」広辞苑――引用者)な定式であると認められよう」(廣松渉「<近代の超克>論」、廣松渉著作集第一四巻、岩波書店、一七六~一七八頁)。

 著者(渋谷)の問題意識に引き寄せれば、まさに(五)にあるように、「機械文明」と命名されている近代生産力主義が超克されねばならいのである。そのことは、同時に、当時マルクス主義が陥っていた近代生産力主義(拙著では『ロシア・マルクス主義と自由』を参照せよ)、まさに、資本主義の生産力を社会主義がひきつぎ、その生産力を――国有化と計画経済で――集約(集産)した国家によって、その生産力で得た富を、人民に分配してゆくという思想(実際は、ソ連、中国などにおいては特権官僚制と格差賃金の下で、極度に不平等な分配となっていった)は、近代の亜流として超克されねばならないだろう。ここにおいて、これから、見てゆくような、機械文明自身が持つ人間「疎外」などを超えた近代批判の問題意識が、京都学派には存在していたというべきである。

 廣松としては「往時における『近代の超克』論が対自化した論件とモチーフは今日にあっても依然として生きている」(前掲、一八八頁)としている。

その問題意識は継承されるべきだというわけである。

ここでは、その廣松がアップした鈴木成高の先の問題意識の内、(五)の機械文明の問題に絞って、京都学派の「近代の超克」の論点と対質したいと考えるものである。

(注:本論では、この論脈で廣松が論じている京都学派の「哲学的人間学」の文脈の問題などについては、本論論旨との関係で、別稿にゆずるものとする)。


●京都学派・鈴木成高の問題意識


「近代の超克」」と言う場合、その「近代」とは、欧米に特化される概念ではなく、日本の近代化も含んだ、まさに世界史的な概念である。日本もまた、近代化のなかで欧米との摩擦をおこすこととなった、それが明治以降の日本の歴史で展開されたことだったのである。その場合、かかる「近代の超克」という課題は、近代の経済構造をなす資本主義経済あるいは、いわゆる社会主義経済を貫く機械文明に基礎をおいた生産力主義を、如何に・どのようにとらえるかという課題を必須の部分としていると考える。戦前・戦後をつらぬいて、その課題にとりくんだ人として、京都学派の論客の一人、鈴木成高(一九〇七~八八年。一九四二年京都帝国大学助教授となる)が存在する。

例えば鈴木は次のように述べている。

「十九世紀末期の世界史を形作っている諸々の現象、すなはち高度に機械化して止まるところを知らない科学文明、経済上における資本主義の高度的発展、大量生産と市場の独占、政治上における帝国主義競争の激化、社会上における階級闘争の尖鋭化、また芸術上におけるいはゆる世紀末文学の頽廃主義、これらの現象はいづれもそれぞれに孤立した別々の現象であるのではない。根本において同一時代の同一現象であり、すべては要するに、文明の危機、欧州の危機といふことに帰着する。(中略)人間と人間との関係、即ち社会の人倫的構造もまた、機械的平等によって画一化せられんとする」(鈴木成高『世界と人間性』、弘文堂書房、一九四七年、七〇頁)。

このような鈴木の機械文明批判の問題意識は、およそ二つの論旨に整理される。これからの諸節でのべるように一つは機械文明による人間疎外の問題。もう一つは、機械文明の必然によって求められる資源が世界的に偏在している事(資源の世界性)と、その資源が国家によって支配されていることの間の矛盾である。

後者の問題で鈴木がいうポイントは「二〇世紀における世界史の矛盾」が〈資源にたいする要求が世界的であり、資源にたいする支配が国家的であるという歴史的矛盾そのもののなかに根ざして〉いたといっていることだ。

今日においてもそのことはアメリカがイラク戦争を「石油のための戦争」として展開していったことに端的にあらわれている事態にほかならない。まさに〈世界的な生産諸力と民族国家・資本主義国民国家によるその支配との間の〉かかる矛盾が今日までの近代世界を覆いつくしてきたのではないか。とりわけ「9・11以後」、このことはさらに「対テロ戦争」とアメリカによる世界的覇権支配という形態をとって継続され拡大された形で展開していこうとしている。そしてそのなかで、近代物質主義による人間疎外が拡大しているのだ。つまり、近代の問題は「機械文明による人間の疎外」という問題と「資源と文明(国家)」という問題を両輪として展開しているといってよい。そのことを鈴木は論じたということだ。

ここでは鈴木成高の機械文明批判の問題意識を把握することをつうじて「近代の矛盾」をいかに分析するか、その方法の一つを対象化し、同時に「近代の超克」の問題意識を如何に継承するかを展望する。本論では第二の論点から入ることにする。


●資本主義の機動力としての産業革命(―工業の技術的展開)


まず鈴木が近代を、どのように概念的に把握したかを概観することからはじめよう。一九四七年に書かれた「産業革命」(燈影舎『京都哲学撰書』第六巻所収。)では次のように述べている。

鈴木は「われわれの住む社会は資本主義社会であり、われわれのもつ文明は機械文明である」(鈴木成高『京都哲学撰書第六巻 ヨーロッパの成立・産業革命』所収「産業革命」、燈影社、二〇〇〇年、一七二頁)と規定し、次のように「機械」を定義する(前掲、一九五頁)。「機械の出現」において「器具」は「一つの装置」となった。この機械文明が技術的に発展することを通じて工場制度が形成され、市場を開拓する機動力になる、と。「近代的大工業においては、すべての原因が生産機構そのもののなかに含まれているのである。資本主義においては、旧き注文生産におけるがごとく、需要によって生産が決まるのではない。逆に生産が市場の支配を促し、市場の争奪、独占を要求する」(前掲、二三三頁)と展開している。

更に鈴木は産業革命の技術的展開は、「運輸革命」にいたって「新段階」を画する。それは鉄道の組織化とともに帝国主義の時代を画期する。電力革命、化学工業の展開へといたる工業の展開は完全に資源と科学が民族国家の壁をやぶりそのものとして世界的な規模での交通のうちに存在することを結果していると述べ、「太平洋戦争については…それが石油問題を直接の端緒としたという事実は軽視しえないであろう。石油にはじまり原子爆弾に終わった太平洋戦争こそは、まさにそれがいかなる時代の戦争であったかをもっともよく示している」(前掲、三二四頁)と概観するのである。


●生産諸力の世界性と生産の支配の民族国家性との矛盾


そこで、かかる近代世界における資本主義の展開、その矛盾の機制ということが、問題になってくるだろう。

鈴木は「産業革命」において第二次大戦の原因を「持てる国」と「持たざる国」との矛盾とし、これを資源に対する要求の国際性と資源に対する政治的支配の国家性の矛盾から分析する。

例えば「ニッケルは、世界の八割五分までがカナダに偏在する。銅は七割五分が米州圏内に、タングステンは七割が南米に、クロムは五割が南アフリカ、一割余りがニューカレドニアに、ゴムにいたっては、現在、世界の使用量のほとんど九割が東南アジアから供給せられつつある。かくしていまや、文明の物質的基礎は『国内的でも欧州大陸的でもなくて、実に世界的である』(マンフォード(以下中略))と。「近代国家という既成の政治的単位の枠の中において、近代工業が必要とする多種類の資源を、単独で完全に自給しうるような国は一国も存在しない」(前掲、三二一頁)ということだ。

その機制だが、それは資源が単に自然の所与として偏在していることに原因するのではない、というのがここでのポイントだ。

「資源は自然科学的な概念ではなく、常にその時代の生産様式にたいして相対的な経済概念である」(前掲、三二二頁)。「資本主義以前の生産段階においては、今日の持たざる国といえども、十分持てる国であることができたのである。しかるにかかる国がもはや一つの経済単位として自己自身を維持しえないような生産段階に立ちいたるとき」(前掲、三二三頁)に、かかる矛盾は現出するということである。

つまり資本主義の科学技術的な内容に規定されて、ある一つの資源物質ははじめて資源〈として〉の有用的〈意味〉をもつものとして分節されるのである。この資源(意味)に対するヘゲモニーを国家間で争奪する、ことが行われているということだ。この資本主義の高度技術的な展開によって生み出された問題を鈴木は「科学的現実と政治的現実との食い違い」(前掲、三二三頁)というニュアンスで規定するのである。


●機械文明の定義と戦前京都学派の「広域圏」の概念


また鈴木は太平洋戦争において現出した日本など「持たざる国の広域圏運動は、かくして単に国家に新しき対立を激化せしめたにすぎなかったが、ただこの広域圏が第一義において自給権として観念せられ、従来の国家の枠を超えるなんらかの意味の世界的規模における自給性を確立しないかぎり、今後の世界においてもはや自己自身を維持しえないという観念の上にたつものであったことは見逃せない」(前掲、三二四頁)と述べる。

まさにこのように資源と国家という問題が露骨に展開されていたということだ。

「広域圏」という概念は、戦前・京都学派の座談会「総力戦の哲学」(一九四三年『世界史的立場と日本』中央公論社刊)では、高山岩男が次のようにのべているものだ。

「近代国家は国境線の中に於ける民族国家であったけれども、国防国家といふものはどうしても国境線外的な国家になることを必然要求してくるわけだ。そこに持たざる国が国防国家といふところに進んできて、やがてもう一歩進めて国防国家が国境外的の広域圏といふ風なものに到達するというやうな段階がある」と。これに対し鈴木は次のように高山に応接している。

「広域圏といふものが最初経済的な意味の生活空間の理念として、持たざる国に於て最も明確に出てきた、ということは事実だ。そしてイギリスのやうな持てる国に於て形成せられたブロック経済圏といふやうなものとは全く性質が違う。あれは国防空間とか生活空間とかいふやうな生存空間じゃなくて、単なる利害圏である(中略)ただしかし新秩序としての広域圏も」「近代の世界から出てきたものだといふ連続性の関係を実証している」のであり「それが最後の、また最高の秩序だとは言えない(中略)そこにはまだ近代の原理が低迷しているところがある。やはり精神の秩序といったやうなところまでゆかなければ」とのべている(高山岩男、高坂正顯、鈴木成高、西谷啓治『世界史的立場と日本』所収「総力戦の哲学」、中央公論社、一九四三年、三七五~三七七頁)のである。鈴木の物質主義に対する批判精神が、ここは浮き彫りになっている場面である。

高山は一九四二に出版された『世界史の哲学』(岩波書店)においては「近代機械文明の発達は国家存立に必須な軍事的経済的資源において、国家をして従来の国土の制限外に越え出ることを要求」する。このような広域圏は「帝国主義の観念からも理解しきれない」として、「道義的なもの」だと主張していた(高山岩男『世界史の哲学』、岩波書店、一九四二年、四四五~四五九頁)。

これは著者(渋谷)の立場から見るならば、「広域圏」という概念自体は、英米の帝国主義に対する日本の帝国主義的伸張の正当化でしかない概念という以外ないのだが、京都学派がここで展開している論理のポイントは「近代機械文明」というものの自己運動的な結果として経済的概念としての「広域圏」概念が発生したという論理である。つまり〈機械文明の機制として国家が国土外に自由にできる資源を求める必然が生み出される〉ということがいわれているのである。つまり資源の世界性とその支配の国家性の間の矛盾ということになるわけである。


●近代生産力主義―その超克の課題


ここで、本論の冒頭に提起した、機械文明による人間疎外の問題に入ろう。

もとより京都学派の「近代の超克」論においては、機械文明の悪弊についての問題が課題化されていた。先にとりあげた同じ座談会で、例えば鈴木は述べている。

「機械文明は人間の外側の環境の文明だ。文明は不可能を可能にするが、やはり環境に関する文明で、人間の本当の内面の精神に関するところがないと思ふ。この内外の分裂不調和といふものが非常に激しくなってきたのが現代なんで、つまり現代の危機がそこにあると言へないでせうか(中略)科学と人間の内面の精神との間の調和、このことをなんとかしなければならない」(高山岩男、高坂正顯、鈴木成高、西谷啓治『世界史的立場と日本』所収「総力戦の哲学」、中央公論社、一九四三年、三八~三九頁)。

座談会ではさらに「機械文明のやうな文明を救うために、更に新しい発明をするとか、さういうことによって救ってゆこうという行き方には大いに問題がある」と。そして「個人の人倫的実体を民族の歴史的実践の中に見出す」ところの「東洋的無を歴史の中で生かすこと」(高坂正顯の発言。前掲、四二~四三頁)などと展開されていくのだ。

まさに鈴木は「経済が生産的であると同時に精神が生産的でなければならぬ」とし、機械文明の生産力主義にたいして「精神の意味に於ける生産性」を表明する(前掲、四〇五頁)のである。

このような鈴木をはじめとした京都学派の問題意識はもとより、一九四二年、「文学界」での「近代の超克」座談会において、鈴木がつぎのようにのべていたことに典型的な主張にほかならない。

「十九世紀の後半という時代は、世界一般にああいった種類の文明、物質文明といってもよろしいが(中略)そういう世界観が支配して居ったのだと思ふ。例えば実用ということが非常に大切なものである。さういう世界観が当時のヨーロッパ一般をも支配して居ったのではないか。ところが現在ではさういう文明開化を批判しなければならなくなったといふのは、日本的な根源に還るといふことでもあるでせうが、そればかりではなくして、文明といふものが、やはりヨーロッパでも信頼の対象ばかりでなく、批判の対象になってきたといふこと(中略)さういうことと関連があると思ふのです」と。(河上徹太郎、他『近代の超克』、冨山房百科文庫、一九七九年、二四一頁)。

鈴木の問題意識においては近代文明における人間の疎外の問題、人間の人倫性、つまり道徳性、あるいは類的(共同体的)存在としての人間の連帯意識の喪失とアトム化などが、問題にされているのである。まさに鈴木はつぎのように機械文明による人間疎外の問題を展開したのだ。

「ルネサンスが、人間の発見であり個我の発見であるといはれる場合、個人主義と人格主義とが、無意識のうちに同一化されて理解されているのではないかと思はれる。しかし先にも述べた通り、事実はむしろその反対であり、近代、特に十九世紀における個人主義は、人間を人格化するよりもアトム化し単位化してしまった。デモクラシーや多数決の原理は、このような単位的個人の組織された機構なのであって、絶対にパアソナリチーの原理ではない。パアソナリチーのないところに責任性はありえない。かくして近代の政治では『責任』は完全に政策的な言葉となり、本来の倫理的意味を喪失したのである。しかも注目すべきことは、このやうな機械的個人主義は、また容易に機械的な集団主義に移行しうる可能性をば、自己みづからのうちにもっているといふことである。(中略)そこには近代社会の致命的欠陥である、真に人格的な人間性を拒否するやうな、抽象的組織の原理がつきまとっているのである」(鈴木成高『歴史的国家の理念』、弘文堂書房、一九四一年、三一五~三一六頁)。

つまり、人間の主体性に立脚した社会のありかたが否定されているということだ。鈴木はそれを機械文明の出現によるものとして次のように展開する。

「機械文明の出現は、近代における人格性の喪失を極端化せしめた。近代人は自然を支配し征服することによって、文明の新しい段階を築いたのであるが、そのことによって、かへって人間の能力を超えた第二の自然をつくることになったのである。古代においては、人間と自然とは融合していて対立がなかった。中世では自然は悪の原理として否定せられ、自然への随順は悪への随順を意味していた。

それに対して近代は、自然の再発見をもたらしたけれども、近代人の自然に対する態度は、単なる肯定だけでなく、支配であり制服であったという点に、大きな特徴をもっていた。すなわち近代人は自然を変形してそれを人間の目的に役立たせたのであるが、ここに注目すべきことは、このことが単に自然を変形せしめただけにとどまらず、逆に人間そのものをも変形せしめたというふことである。機械は人間の意思を越えた新しき超人間的環境となり、この環境のもとにおいて、人間はかえって機械の奴隷となったのである。人と人との間に存した真に人間的な繋がりも、それによって破られた。本来人間がつくったところのものが、かへって人間を超越し支配する。それが機械文明の悲劇であり、ヒューマニズムの没落も文化の危機も、その根本問題をこの点にもっていた」(鈴木成高『歴史的国家の理念』、弘文堂書房、一九四一年、三一八~三一九頁)のだからである。

つまり近代のアトム化された諸個人は共同的な結びつきから疎外されると同時に、機械(生産システム)に従属するのである。

「即ち『機械が人間に従属するよりも、逆に人間が機械に従属せしめられる』のである。『手工業では労働者が道具を使用した。しかし工場では労働者が機械に奉仕する。』人間の機械化、そこにわれわれは近代工場制下の労働における人間疎外の姿をみるであろう」(二・二〇七)と。

このような近代工場制下の労働における人間疎外を体系的に叙述したのがマルクスであった。マルクスは「資本論」第一巻で次のようにのべている。

「作業場の規模とその同時に作業する道具の数との増大は、いっそう大規模な運動機構を要求し、この機構はまたそれ自身の抵抗に勝つために人間動力よりももっと強力な動力を要求する。(中略)人間はもはや単純な動力として働くだけとなり、したがって人間の道具に代わって道具機が現われているということが前提されれば、いまや自然力は動力としても人間にとって代わることができる」(カール・マルクス「資本論」第一巻『マルクス=エンゲルス全集第二三巻第一分冊(23a)』、大月書店、一九六五年。四九一頁)。

「作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行うようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる」(前掲、四九七頁)。「機械労働は神経系統を極度に疲らせると同時に、筋肉の多面的な働きを抑圧し、心身のいっさいの自由な活動を封じてしまう」(前掲、五五二頁)。

このように、機械文明は労働者を機械体系に部品化し「労働手段の一様な動きへの労働者の技術的従属」(前掲、五五四頁)をつくりだしてゆくのである。

例えば鈴木は『歴史的国家の理念』ではこのような現実に対し「文明と人間のあり方」を変えないと、この疎外からの根本的な解決はない。「文明と精神の革命」(鈴木成高『歴史的国家の理念』、弘文堂書房、一九四一年、三一九頁)が必要だとのべているのである。

「新しき宗教や神学や神話が要求せられ、アパソナリチーの問題が起こされるといふのも、そこから来ているものではないであろうか。現代はやはり「新しきアダム」の誕生を要求しているのである」(前掲、三一九頁)と。


●おわりに


鈴木はかかる近代機械文明とそれが生み出してきた問題を如何に解決しようとしたか。その立脚点を確認しよう。鈴木は次のようにのべている。

「しかしまたわれわれは、機械文明の害悪を資本主義の害悪に転嫁してしまうことによって、問題が落着してしまうとも考えることができない。(中略)資本主義を社会主義に置き換えさえすれば、機械文明の一切の問題が解消するであろうと考えるほど、単純でもありえない。番犬をつなぎかえることによって、狼は羊になりはしない」(鈴木成高『京都哲学撰書第六巻 ヨーロッパの成立・産業革命』所収「産業革命」、燈影社、二〇〇〇年、三二五~三二六頁)。

つまり機械文明の社会体制概念からの相対的自立性をふまえた討究の必要性を強調するのである。まさに機械文明は単に社会体制の選択にとどまらない位相で展開しているのである。そのことは例えば、二〇世紀におけるソ連邦の社会主義(近代派マルクス主義)の実験において、スターリンの「地球改造計画」や工業化に対する環境保護政策の不備、チェルノブイリ原発事故など、多大な環境汚染が同国に展開していたことにあきらかだろう(詳しくはM・I・ゴールドマン『ソ連における環境汚染』岩波書店、参照)。この近代工業主義を克服するという課題の解決を現代に生る私たちは、負っている。

同時にその課題は世界的資源が少数の支配的な国民国家と米系、日系などの多国籍企業・多国籍資本の支配をつうじて配分されている、この状況を克服し、グローバルに国境をこえ、民衆の利益に合致した資源の管理と配分ができる世界システムをもとめるものとなる以外ないのではないか。まさにかかる近代世界に対し、その超克を課題とした京都学派と鈴木成高の機械文明批判――近代文明批判を今日において批判的に継承する課題を、廣松渉がまさにパラダイム論的に、そうしたように、わたしたちも又、引き受ける必要があるということなのではないだろうか。