2019年8月9日金曜日

戦争と帝国主義に関する考察――戦争問題の≪古典≫としてのレーニン「戦争と革命」を読む  渋谷要




戦争と帝国主義に関する考察――戦争問題の古典としてのレーニン「戦争と革命」を読む  渋谷要


(★★内容更新コメント)
以下のレーニンの講演『戦争と革命』では、宇野弘蔵による指摘、レーニン『帝国主義論』における「初期独占」と「帝国主義的独占」の混同は、ある程度、イギリス型とドイツ型の区別の確認としては、払しょくされているのではないか。詳しくは、本ブログでは「『帝国主義論の方法』について――宇野経済学とレーニン『帝国主義論』の異同に関するノート」を参照のこと。

(リード
2019年現在、日米軍事一体化・沖縄辺野古―南西諸島軍拡をはじめとした日本帝国主義ブルジョアジーを一つの勢力として、アメリカ帝国主義の対イラン軍事外交(ホルムズ海峡危機)、中距離核戦力(INF)全廃条約失効(2019年8月~)などを先端としての、EU諸国、ロシア、中国、朝鮮、韓国―アジア諸国間を相互にリンクさせた帝国主義間軍事外交が、新たな段階を迎えている。
ここでは、世界資本主義の「帝国主義『段階』」(この「段階」は、レーニンの時代から現象形態をかえつつ、現在に至るまで本質的に続いていると、本論論者(渋谷)は、考えている)における反戦平和運動の<古典>をなす、レーニンの反帝闘争論から考えていく。



第一節 レーニン「戦争と革命」を読む



レーニン「戦争と革命」(1917年5月講演)について



一九一七年「二月革命」で、ツアーリ(帝政)権力が打倒され、右派エスエルとメンシェビキなどを中心とした「臨時政府」(ブルジョア革命派)と、ボリシェビキ(都市)と左翼エスエル(農村)を中心とした労働者・農民・兵士代表ソビエトの人民権力の二重権力状態になったロシア。その革命情勢のロシアに、四月、亡命地よりもどったレーニンはその年の五月、「戦争と革命」という講演をおこなった(レーニン全集第二四巻、大月書店、所収)。



 ソビエト(評議会)……二月革命ではブルジョア民主主義を目的とするものが多数意見だったが、しだいにプロレタリア革命を目指すボリシェビキへの支持が多数意見となってゆき、プロレタリア革命に傾倒して行く。レーニンたちは、このソビエト運動を策源として「赤衛隊」という労働者民兵運動を造った。これが一〇月蜂起の中心部隊になった。このときのレーニンらのスローガンが「全権力をソビエトへ!」である)



この講演は、勃発した第一次世界戦争(一九一四年~講演当時も戦争中)に対する社会主義者の立場をしめしたものである。その内容は本論論者(渋谷)の考えでは、革命的反帝闘争(この場合「革命的」とは、階級闘争の考え方を土台とした帝国主義戦争反対の闘いという意味)を組織し始めたレーニンら反帝国際主義者が、どのような政治内容(帝国主義本国における革命的「祖国」敗北主義という考え方)を形成してきたかを、総括したものとなっている。

レーニンによる「戦争とロシア社会民主党」(一九一四年発表)などでの「帝国主義戦争を内乱へ!」という、革命的「祖国」敗北主義(労働者人民にとって真の敵は国内にいる。それが戦争で利益を上げるため戦争に踏み込んだブルジョアジーだ。だから「自」国ブルジョアジー権力(「自」国帝国主義)を打倒しよう!という政治方針)の提起以降、レーニンは多くの意思統一文書を作り、革命運動を組織して行った。

「民族自決権について」(一九一四年発表)、「第二インタナショナルの崩壊」(一九一五年発表)、「帝国主義戦争における自国政府の敗北について」(一九一五年発表)、「社会主義と戦争(戦争に対するロシア社会民主労働党の態度)」(一九一五年発表)、「ツインメルバルト左派の決議草案」(一九一五年執筆)、「社会排外主義との闘争について」(一九一五年発表)、「日和見主義と第二インタナショナルの崩壊」(一九一五年執筆)、「革命的プロレタリアートと民族自決権」(一九一五年執筆)、「社会主義革命と民族自決権」(一九一六年発表)、「ユニウスの小冊子について」(一九一六年発表)、「マルクス主義の漫画および『帝国主義的経済主義』について」(一九一六年執筆)、「自決に関する討論の決算」(一九一六年発表)、「プロレタリア革命の軍事綱領」(一九一六年執筆。一九一七年発表)、「プロレタリア民兵について――遠方からの手紙 第三信」(一九一七年三月執筆)、「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」(四月テーゼ、一九一七年四月)、「ロシア社会民主労働党(ボ)第七回(四月)全国協議会」での「戦争についての決議」、「民族問題についての決議」(一九一七年四月発表)、「革命前にわが党は戦争についてどのような声明をしたか」(一九一七年五月発表)、「ボリシェビズムと軍隊の『解体』」(一九一七年六月発表)等々で、レーニンは、「戦争と革命」の問題での意思統一と論争をくりかえし行い、革命運動を組織して行ったのである。

(以上あげたレーニンの文献・文書は全て『レーニン全集』(大月書店)で確認したものである。その文書中にはレーニン死後、刊行図書に収録されたものもある。その場合、本論では、「執筆」時の年だけを記した。これは、その文書は党内に配布され、それで意思統一はされたが、当時は刊行物に収録されたものではないということを意味すると考えるべきものである。当時のレーニンらの国際非合法党活動の一端をその行間に見ないわけにはいかないだろう)。

 そして、その内容が理論的に整理されたものの一つとして、この「戦争と革命」の講演があると本論論者(渋谷)は考えている。

また、この講演は後述するように、ロシアでの一〇月革命(一九一七年)をボリシェビキ党に意思統一した政治文書であるレーニンの『国家と革命』(一九一七年執筆)と、併せて読むと、反戦平和に関してレーニンたち、当時の反帝反戦派が何を・どのように考えていたかが理解できる。

『国家と革命』には「マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの任務」というサブタイトルが付されている。これに対し「戦争と革命」に、そういう意味でのサブタイトルをつけるなら「レーニン主義の反帝思想と革命におけるプロレタリアートの任務」ということになるだろう。

それは後述するように、二一世紀現代においても現実の戦争問題に適用できる、普遍的な意義をもつものだ。



第一次世界戦争の構図



第一次世界戦争の諸相を、まずみてゆくことからはじめよう。

簡単にそして、一般的な認識をまずは、見てゆくということで、「広辞苑」から援用する。

「三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景として起こった世界的規模の大戦争。サラエヴォ事件を導火線として19147月オーストリアはセルビアに宣戦、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露・仏・英と相次いで開戦、同盟側(トルコ・ブルガリアが参加)と協商側(同盟を脱退したイタリアのほかベルギー・日本・アメリカ・中国などが参加)との国際戦争に拡大。最後まで頑強に戦ったドイツも1811月に降伏、翌年ヴェルサイユ条約によって講和成立」。

この戦争といかに向き合うのか、レーニンは、一九一四年九月~一〇月に執筆した「戦争とロシア社会民主党」で、次のようにのべている。

「交戦国の一グループの先頭には、ドイツのブルジョアジーが立っている。彼らは、戦争をしているのは祖国と自由と文化を擁護するためであり、ツァーリズムに抑圧されている諸民族を解放するためであり、反動的なツァーリズムを破壊するためだと言い張って、労働者階級と勤労大衆をだましている。だが実際には、このブルジョアジーこそ、ヴィルヘルム二世をいただくプロイセンのユンカーのまえに平身低頭して、つねにツァーリズムの最も忠実な同盟者であったし、ロシアの労働者と農民の革命運動の敵であったのである。戦争の結末がどうなろうと、実際には、このブルジョアジーはユンカーといっしょに、ロシアの革命に抗してツァーリ君主制を支持することに全力を傾けるであろう。

実際には、ドイツ・ブルジョアジーは、セルビアを征服し、南スラブ人の民族革命を圧殺しようとして、セルビアに対する略奪戦役を企てたのだ。それと同時に、その兵力の大部分をより自由な国であるベルギーとフランスにさしむけ、このより富裕な競争相手(フランス)を略奪しようとしたのである。ドイツ・ブルジョアジーは、この戦争が自分の側からの戦争にとって最も好都合な彼らの見地から見て時機をえらび、自分たちの軍事機材の最新の成果を利用したのであり、ロシアとフランスによってすでに計画され、まえもって決定されていた新しい軍備の機先を制したのである。

交戦国のもう一つのグループの先頭には、イギリスとフランスのブルジョアジーが立っている。彼らは、ドイツの軍国主義と専制主義に反対し、祖国、自由、文化のために戦争をしているのだと言い張って、労働者階級と勤労大衆をだましている。ところが実際には、このブルジョアジーは、すでにはやくから何十億という金で、ヨーロッパの最も反動的で野蛮な君主制である、ロシアのツアーリズムの軍隊を雇い、ドイツ攻撃を準備していたのである。

実際には、イギリスとフランスのブルジョアジーの闘争目的は、ドイツの植民地を奪い取り、経済的発展の速度のすばらしくはやい、この競争国を破滅させることである。しかも、この崇高な目的のために。「民主主義的」な「先進」国は、野蛮なツァーリズムが、ポーランド、ウクライナなどをさらに圧殺し、ロシア革命をさらに弾圧するのをたすけている」というのが、この戦争の基本的な構図だった。



「戦争と革命」で言われていること(一)――この戦争は資本家のための戦争だ



(一)こうした戦争の構図に対し、レーニンはまず、考え方の提起から始めている。

「戦争の問題で人々がいつもわすれていて、十分な注意をはらっていない主要点……空っぽな、見込みのない、むだな論争がおこなわれている主要点、――それは、この戦争がどういう階級的性格をおびているか、この戦争はなにが原因でおこったのか、それを遂行しているのはどの階級か、どのような歴史上、経済史上の条件がそれらをひきおこしたのか、という根本問題をわすれていることである」と。レーニンは、それは「大衆集会や党(レニンのボリシェビキ――引用者)の集会」でも、そういうことがあるといっている。

 (二)そういう問題提起を踏まえて、レーニンは、戦争問題の基本的な分析視角を論じてゆく。

「マルクス主義……の見地から見て戦争をどう評価すべきか、戦争に対してどういう態度をとるべきかを、社会主義者が検討するさいの基本的問題は、なにが原因でこの戦争がおこなわれているのか、それを準備し指図したのはどの階級か、という点にある」とのべる。

そして、「われわれマルクス主義者は、あらゆる戦争の無条件の反対者のうちにははいらない」として、「社会主義社会制度」をめざす「革命戦争の可能性」に言及している。

 社会主義制度は「人間の階級分裂をなくし、人間による人間の搾取、ある民族による他の民族の搾取をことごとくなくすことによって、必然的に、およそ戦争のあらゆる可能性をなくすものである」が、そのためには、階級闘争が不可避であり、そのことに基づいた革命的階級によって遂行され、「直接の革命的意義を持つような戦争の可能性を否定することはできない」と断言している。

 (三)レーニンはそこで、いろいろに違った戦争の性格は、どのように認識されねばならないかを述べている。

 それは「戦争哲学と戦争史にかんするもっとも著名な著述家のひとりクラウゼビッツ」が言ったように「戦争は別の手段による政治の継続である」ということだとレーニンはいう。

 「どんな戦争も、それを生んだ政治制度と不可分に結びついている。ある大国、その大国内のある階級が戦争まえに長いあいだとってきたまさにその政治を、同じこの階級が、ただ行動形態をかえただけで、戦争中にもとりつづけることは必然であり、不可避である」ということだ。

 (四―A)レーニンはそこから、ヨーロッパの歴史を遡及して行く。

「ヨーロッパでは平和が支配していたが、この平和がたもたれていたのは、幾億の植民地住民に対するヨーロッパ諸国の支配が、恒常的な、不断の、けっしてやむことのない戦争、ただしわれわれヨーロッパ人が戦争とは考えない戦争によって、実現されていたからである。というのは、それらは、あまりにもしばしば、戦争というよりは、むしろ、もっとも凶暴な殺戮、武器をもたない人民の皆殺しに近かったからである。ところで要点は、まさに、今日の戦争を理解するためには、われわれが、なによりも、全体としてのヨーロッパ列強の政治を概観しなければならないという点にある」とのべ、第一次世界戦争を階級的に解明する方法を示している。

 (四-B)その場合、注意すべきことは次のことだ。

 「個々の例、個々の場合をとりあげてはならない。そんなものは、社会現象のつながりからいつでも容易に切り離してとりだせるのであって、なんの値うちもない。なぜなら、反対の例をあげることもまた容易だからである」という。

 この事件から戦争は始まった、というお決まりの言説だ。そこには、戦争の真の原因はない。

(五)では、どのように、分析の視角をつくればいいのか。レーニンは言う。

「いまわれわれが見るのは、なによりも、資本主義列強の二つのグループの同盟である。……世界最大の資本主義強国のすべて――イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ――であって、これら大国の全政治は、数十年もの間、全世界をどのように支配するか、弱小民族をどのようにして圧殺するか、全世界を自分の勢力の鎖につないだ銀行資本の利潤をどのようにして三倍にも一〇倍にも確保するかということをめぐる、不断の経済競争にあったのである。イギリスとドイツの実際の政治は、ここにある」と。

 そうした世界最大の二つのグループ、イギリスとドイツがそれぞれの同盟国をひきつれて、展開してきた数十年の間の実際の歴史を理解することがないなら、「今日の戦争についてなにも理解できない」と提起している。

(六)ではこの二つのグループの実際の政治とは何だったか。レーニンはそれらのグループの足取りをつぎのように概観する。

 「この政治は、われわれにただ一つのことを示している。二つの最大の世界的巨人の、資本主義経済の、たえまない経済競争がそれである。一方にはイギリスが、すなわち、地球の大部分を領有する国家、富の大きさで第一位に立つ国家がある。それは、自国の労働者の労働によるというよりも、むしろ主として無数の植民地の搾取により、イギリスの銀行の無限の力によって、この富をつくりだした。……しかもそれらの巨大銀行は巨額の金を自由にしているので……イギリス資本の数千の糸に巻きつけられていないような土地はひとかけらもないと言ってもけっして誇張ではないのである。この資本は、十九世紀の終りから二十世紀の始めにかけて、非常に大きな規模に増大したので、前代未聞の富をもった巨大銀行グループを結成して、個々の国家の国境のはるかかなたにその活動をうつした」。

 レーニンは、この資本の世界性こそ、イギリスとフランスの経済政策の基本的なものだとのべている。そしてフランスの全世界的な高利貸資本主義としてのイメージなどを紹介している。

 これに対抗するのが、ドイツだ。

「他方では、イギリスとフランスを主とするこのグループに対抗して、資本家のもう一つのグループ、いっそう略奪的で、いっそう強盗的なグループが進出してきた。これは、席がすっかりふさがった後で資本主義的獲物の食卓についた資本家たち、だが、資本主義的生産の新しいやり方、よりすぐれた技術を闘いにもちこみ、また、古い資本主義、自由競争の時代の資本主義を巨大なトラスト、シンジケート、カルテルの資本主義に転化させる比較にならない組織を闘いにもちこんだ資本家たちのグループである。このグループは、資本主義的生産の国家化の原理、すなわち、資本主義の巨大な力と国家の巨大な力とを単一の機構に――幾千万の人々を国家資本主義の単一の機構に――結合するという原理をもたらした」。

レーニンは、この二つの資本家グループの「経済史」「外交史」だけが、「戦争問題の正しい解決の道をあたえ、そして、この戦争もまた、この戦争で連合した諸階級の政治の産物であり、戦争のはるか以前に、全世界に、すべての国に、自分の金融的搾取の縄を張り、戦前に世界を経済的に分割した二大巨人の政治の産物であるという結論に、諸君を導くのである」。そして、重要なポイントをレーニンは、次のように、明らかに強調した。

「かれらが衝突せざるをえなくなったのは、この支配の再分割が資本主義の見地から避けられなくなったからである」と。

 この「再分割」ということが、この戦争の一番のポイントである。

これまでの分割は、イギリスが、かつての競争相手を没落させてきたことにもとづく分割だったとレーニンは言う。そこにイギリスより、急速に発展してきたのがドイツ資本主義だった。それは「若くて強力な略奪者の発展であった」と。

さらに続けて言う。

「この戦争は、ドイツ人とイギリス人がアフリカで、イギリス人とロシア人がペルシアでやった――彼らのうちのだれが多くやったかは知らないが――、侵略と、幾多の民族の射殺と、前代未聞の野蛮行為という政治の継続である」。

「そしてイギリス人とロシア人がペルシアを侵略したり、射殺したりしたので、ドイツの資本家は彼らを敵視した。君たちは金持ちだから強いというのか? だがわれわれは君たちより強い。だから、我々は略奪をする同じ「神聖な」権利をもっている。戦争にさきだつ数十年のイギリスとドイツの金融資本の実際の歴史は、要するにこういうことになる」。これが実際の政治であり、その別の形での継続としての「戦争」になった関係性だ。それは一方的な関係ではなく、相互媒介的な対立関係だ。

「ロシアとドイツの関係、ロシアとイギリスの関係、ドイツとイギリスの関係の歴史は、要するにこういうことになる。戦争の原因を理解する鍵は、まさにここにある」と。

「それだから、戦争が勃発した原因について一般に広められている歴史は、ペテンであり、欺瞞である。金融資本の歴史をわすれ、この戦争が再分割をめぐって熟してきた歴史をわすれて、人々は事態をつぎのように描いている。二つの民族が平和にくらしてきたが、あとになって一方が攻撃したので、他方が防衛し始めたのだと」。だが、「ロシアの歴史も、イギリスの歴史も、ドイツの歴史も、全歴史が併合をめぐっての、間断ない、情容赦ない、血なまぐさい戦争」の歴史であるとレーニンは論じている。

(七)ここから、レーニンは、戦争の双方の当事者たちが、民族・領土の併合の問題や「自由のための戦争」などと自分たちの戦争を、いかに「正当化」しているかを暴露して行く。

(七A)ここに排外主義の正当化の論理と、そのペテン性・欺瞞性が浮かび上がる。

 レーニンは言う。

「領土併合の問題について論争するとき……略奪物の分配、もっと一般向きに言えば、二組の強盗団によって略奪された獲物の分配であることが、いつもわすれられている」。対立するAとBの場合、AはBの「併合がどういうものであるかをりっぱに説明してくれるだろう」。だが、すべての相対立する強盗団の略奪(併合)に対して、すべてに「あてはまるような併合の一般的な定義」は。けっしてあたえることはできない。

「なぜなら、この戦争全体が、領土併合という政治の継続」、双方の侵略と、「資本主義的強盗の政治の継続だからである」。「だからこそ、これら二人の略奪者のうちどちらがさきに刀を抜いたかという問題が、われわれにとってなんの意義ももたないのは、わかりきったことである」。

「戦争をしているのは人民ではなくて、政府である」。それは資本家の政府だ。「彼ら王冠をかぶったこれらの強盗は、すべて同類である。……資本家の支配をうちたおし、労働者革命をなしとげる以外は、それからのがれる道はない。これこそ、わが党(ボリシェビキ――引用者)が戦争の分析から到達した回答である」。

 他国(の資本家政府)からの侵略にたいして「自由のために闘っている」ということが、自国の資本家政府の戦争に従っていることを意味するなら、それこそが、社会排外主義である。それは「自由のための闘い」ではなく、片方の強盗団の仲間となって、帝国主義戦争を帝国主義戦争として戦うことに、参加しているだけだ。

 この場合の「社会排外主義」の定義だが、レーニンは、「社会主義と戦争」(一九一五年発表)で、次のように述べている。

「社会排外主義とは、この戦争における『祖国防衛』の考えを擁護することである。さらにこの考えからは、戦時には秋級闘争を放棄し、軍事公債に賛成投票するなどという結論が出てくるのである」。「すべての交戦国の社会主義者の一様な『祖国防衛』権をみとめている者も、社会排外派の仲間である。社会排外主義は、実際には『自国』の(あるいは一般にあらゆる)帝国主義的ブルジョアジーの特権、優先権、略奪、暴力行為を擁護するものであるから、あらゆる社会主義的信念とバーゼルの国際社会主義者大会の決定とを完全に裏切るものである」。

 この場合のバーゼルの決定とは、一九一二年の第二インターの「バーゼル宣言」のことだ。

レーニンはその宣言の核心を「自国の政府に反対して国際的な規模でおこなわれる労働者の革命的闘争の戦術、プロレタリア革命の戦術を、まさに今の戦争のために策定している。……社会主義者は戦争によって生み出される『経済危機と政治危機』を利用して『資本主義の没落を促進』しなければならないという」ことだと説明する。

(七B)こうした社会排外主義の言説に関節して「戦争と革命」では、「革命的祖国防衛主義」の問題点について、レーニンはつぎのようにのべている。

「『革命的祖国防衛主義』と称するものは、われわれは革命をおこなった。われわれは革命的人民だ。われわれは革命的民主主義派だ、という口実で、戦争をおおいかくすもののことである。「われわれは、ニコライを退位させた」と。だが「わが国の革命のあとで、だれが権力をにぎったか? 地主と資本家である。すなわち、ヨーロッパでは、ずっとまえから権力をにぎっている連中である。……条約はそのまま、銀行もそのまま、利権もそのままのこった」。政府は変わったが「世界戦争の性格には、まったくなんの変化もなかった」。結局「革命的祖国防衛主義者」は、「血なまぐさい戦争を、革命という偉大な概念によっておおいかくすものにすぎない」と述べている。

 (七C)レーニンは、この文脈からかなり後の方で、「アメリカ民主主義」の参戦については、次のように述べている。

 「人々は、アメリカには民主主義があり、そこにはホワイト・ハウスがあるということを引合いにだしている。だが、奴隷制がたおれたのは半世紀もまえのことであった」。そのアメリカ合衆国では、それ以降、「億万長者が成長」し、「その金融で、アメリカ全体をにぎりしめており……また、不可避的に、太平洋の分割をめぐる日本と戦争するようになるだろう。……アメリカの参戦の真の目的は、未来の対日戦争の準備である。……アメリカの資本家にとっては、弱小民族の権利を守るという崇高な理想のかげにかくれて、偉大な常備軍を創設する口実をえるために、この戦争に介入することが必要になったのである」。

 レーニンは、一九一七年という時間点で、すでに、日米戦争を確定的な事項として記述している。日本の真珠湾奇襲から日米戦争がはじまたという言説の没階級性が、指摘されるべきだ。それはまぎれもなく、帝国主義間戦争だった。それを米帝だけではなく、日本の共産主義者、反戦派としては、大日本帝国も「大東亜共栄圏の形成」などとしてアジア侵略戦争を展開し、まさに準備していったことを指摘するべきである。

「戦争と革命」で言われていること(二)――資本家のための戦争は、労働者革命によってのみ終わらせることができる

(一)レーニンは、この講演で、では戦争は、どのように止められるのか、終わらせることができるのか、ということを述べている。

そのポイントは、世界を分割支配する・他国他民族を併合する必要がない階級が権力をにぎるということだ。

 「ロシア革命(二月革命のこと――引用者)は戦争を変えはしなかったが、しかしそれは、どの国にもない、西ヨーロッパの大多数の革命にもなかった組織をつくりだした。……この事実のうちに、革命が戦争にうちかちうることの萌芽がある」。「この事実とは……全ロシアにわたって労働者・農民・兵士代表ソヴェトの網があることである」。「これこそ、実際に併合を必要としない階級、幾百万の金を銀行に投じていない階級、おそらく、リャホフ大佐とイギリスの自由主義的な大佐がペルシアを正しく分割したかどうかなどということに関心をもたない階級の組織である。ここにこそ、この革命がもっとさきへすすみうる保障がある」。

こうした階級の組織が中心となって、革命を最後まで貫徹できるか?そこに戦争を終わらせるカギがある、というのがレーニンのいいたいことだ。

「すべての国の資本家が遂行している戦争は、これら資本家に対する労働者革命なしにはおわらせることができない。統制(銀行に対する・ブルジョアジーの経済活動に対する――引用者)が言葉から実行へうつらないうちは、また資本家の政府にかわって革命的プロレタリアートの政府がうちたてられないうちは、政府は、破滅だ、破滅だ、破滅だ、としか言えない運命にある」、つまり、破滅がしたくないなら戦争だということであり、戦争は終わらないということだ。

 レーニンはここで、そうした革命は容易なことではないと、その闘いの重要性を次のようにも指摘している。

「いま、『自由な』イギリスでは、私と同じことを言ったというかどで、社会主義者が投獄されている。ドイツでは、私と同じことを言ったために、リープクネヒトが投獄されている……」。だが「すべての国の労働者大衆の同情は、このような社会主義者に寄せられており、自国のブルジョアジーのがわへうつった社会主義者には寄せられていない。労働者革命は全世界で成長しつつある。もちろん、他の(ロシア以外の他の――引用者)国々ではそれはもっと困難である」。

「全世界で、社会主義者は分裂した、一方は閣内におり、一方は獄中にいる」。

だが、労働者革命だけが戦争を終わらせることができる。

 その場合、労働者革命は、つぎのように展開するべきだとレーニンは述べている。

「ロシアの革命的階級である労働者階級が権力をにぎったら、彼らは講和を提案しなければならない。そして、もし、ドイツあるいはその他どこかの国の資本家がわれわれの条件に拒絶の回答をしたら、ロシアの労働者階級はあげて戦争を支持するだろう、と。われわれは、一方のがわの意志だけで戦争をおわらせるというような不可能な、実行できないことを、提唱したりはしない」。

 ではどうするか。この講演と同じ一九一七年五月にボリシェビキの新聞『プラウダ』に発表した「革命前にわが党は戦争についてどのような声明をしたか」(レーニン全集第二四巻、大月書店、所収)では、レーニンは次のように述べている。

「われわれは、講和が受け入れられず戦争が継続される場合、「そうなれば、われわれは革命戦争を準備し、遂行しなければならないであろう」とのべ、その内容を次のように展開している・

「もし革命によってプロレタリアートの党がこんにちの戦争で権力につくようになったなら、党はなにをするか、という問題に対して、われわれはこう答える。われわれは、植民地と、すべての従属的な、抑圧されている完全な権利をもたない諸民族との解放を条件として、すべての交戦国に講和を提議するであろう。ドイツも、イギリスとフランスも、いまの政府のもとでは、この条件を受けいれないであろう。そうなれば、われわれは革命戦争を準備し、遂行しなければならないであろう。すなわち、断固たる措置によってわれわれの最小限綱領を完全に実現するばかりでなく、いま大ロシア人に抑圧されているすべての民族、アジアのすべての植民地・従属国(インド、中国、ペルシア、その他)を反乱に立ち上がセルことを系統的にはじめ、さらにまた――まず第一に――ヨーロッパの社会主義的プロレタリアートを、自国の政府に反対し自国の社会排外主義者にさからって、蜂起に立ち上がらせるであろう。ロシアにおけるプロレタリアートの勝利が、アジアでもヨーロッパでも、革命の発展にとって異常に有利な条件をもたらすであろうことは、なんの疑いもいれない」。これは、一九一五年十月十三ン日付の『ソツィアル・デモクラート』第四七号に「編集局」の名で掲載したテーゼからレーニンが引用しているものだ。

レーニンは「戦争と革命」の講演を次のように、しめくくっている。

「権力が労働者・兵士・農民代表ソヴェトの手にうつったとき、資本家は我々に反対をとなえるだろう。日本も反対、フランスも反対、イギリスも反対、すべての国の政府が、反対をとなえるだろう。資本家はわれわれに反対するだろう。だが、われわれには労働者が味方するだろう。そのときに、資本家がはじめた戦争に終わりがくる。これが、どのようにして戦争を終わらせるかという問題にたいする解答である」。



レーニン反帝思想の筋書き



 以上をまとめると次のようである。

第一次世界戦争は帝国主義戦争である。この戦争は資本家階級がはじめた。

この戦争は、帝国主義諸国の資本家階級とその国家により「分割」支配された植民地・従属国諸国への抑圧と収奪の結果である。帝国主義諸国間の植民地・市場などに対する世界「再分割」を争う、植民地・領土乗っ取りの取り合いの戦争だ。

帝国主義国のブルジョアジーから利益分配にあずかっていた労働官僚などの日和見主義的社会民主主義潮流は「祖国防衛」の「美名」で、この戦争に加担する社会排外主義となった。

この戦争をおわらせるのは、交戦間諸国の労働者階級による「内乱」である。「帝国主義戦争を内乱に転化せよ」というスローガンで闘うことだ。

⑤―aこの「内乱」の意味は、例えば今日の「シリア内戦」のようなことではなく、資本家階級がはじめた戦争は、労働者階級の「労働者革命」によって、おわらせる以外ないということだ。これが「革命的祖国敗北主義」と革命派が言っている意味であり、単に「自国が敗北すればいい」ということではない。対立する両交戦諸国間の労働者階級にとって、戦争の真の敵は、外国にいるのではなく、戦争を始めた国内のブルジョアジー権力である。

-bブルジョアジーは、交戦諸国間の労働者階級を「兵士」に駆り出し、殺し合わせることで、利益をえようとしている。戦争でもうけるのはブルジョアジーであり、労働者階級は戦勝国においても、戦死とひきつづく搾取と収奪がまっている。

この戦争は、戦争当事国(帝国主義抑圧国)の労働者革命と、帝国主義抑圧国に支配されてきた被抑圧民族・植民地人民の、帝国主義国家の支配からの解放を求める革命(民族解放闘争)の結合によってやめさせることができる。それは全交戦国を巻き込んで、一国的には内乱を、国際的には革命戦争を準備する。帝国主義抑圧国の労働者人民は、被抑圧国の帝国主義抑圧国からの「分離の自由」(民族自決権・自己決定権)を無条件で承認すべきである。

だから「戦争か、革命か」が問われている。この革命で成立する人民権力は「労働者・農民・兵士代表ソビエト」という全人民の自治・自己権力である。

こうした革命は容易なことではない。戦争の全ての当事国で、反戦運動は弾圧にさらされる。だが、この方向でしか、戦争ブルジョアジーと社会排外主義に対して闘うことはできない。

 レーニンの反帝=革命思想は、以上のように、まとめられるものだ(本論では、この反帝=革命を容易でない状況下でおしすすめてゆくための組織論的領域の課題については省略する)。

第二節 帝国主義「段階」におけるレーニン主義革命思想の「普遍性」

廣松渉の分析視角



 以上の、レーニン反帝=革命思想の<歴史的位置性>について、マルクス主義者で哲学者だった廣松渉(一九三三~九四年)の立論を参照したいと思う。

廣松渉は『マルクスと歴史の現実』(平凡社、一九九〇年)の第六章「レーニンの革命路線」で次のように述べている。

「私の見るところ、レーニンが独自の立場を固めてからでも時代的な変容が認められますので、レーニンの革命論なるものを単純に定式化することはできませんし、周到に論じる場合には、時系列を追いながら情勢との絡みで討究する必要があります。彼の路線に特殊ロシア的な条件が影響していることはもちろんです。しかし、彼の革命論をロシア的な特殊性に還元してしまおうとする一部論者に与するわけにはいきません。レーニン主義はロシア的特殊性のバイヤスを免れないとしても、総じては帝国主義(金融独占資本主義)という新段階に即応して、マルクス主義の革命理論を再編したものとして、普遍的意義をもつものであったと認められます」(一七四頁)。

 廣松はそこでレーニンが、一九〇五年にメンシェビキと「訣別」したあとに打ち出した革命路線の検討からはじめている。

ここでは廣松が論述した「レーニンにおける帝国主義の段階論的把握と、それに相即する革命路線の設定、ロシア革命におけるそれの具現」について論じている箇所を読むことにしよう。

 「レーニンの中枢的な著作、いわゆる『帝国主義論』が、『資本主義の最新(最高)の発展段階としての帝国主義』という表題をもつことからも知られるとおり(いまここではヒルファーディングとの関係は措きます)、レーニンは『帝国主義』=金融独占資本主義をもって、資本主義の新しい発展段階――マルクスが『資本論』で描き出している産業資本主義とは段階的に区別される新しい発展段階――であることを自覚的に把えます。『修正主義者はマルクス主義の根本的見解にそむきながらも、放棄してしまった見解を、公然と率直にきっぱりと明瞭に清算することを恐れた』のでしたが、レーニンは自ら語る通り『マルクスの陳腐になった見解に異を唱える場合には、いつでも確然とかつ周到におこなう』という態度をとります。

 レーニンは資本主義が『変貌』したという事実を単に現象的に指摘するという域を超えて『資本主義の基本的な属性のいくつかがその対立物に変化しはじめている』ことを公然と認めます。その最たるものが、自由競争に代わって独占が現れたことです。『自由競争は資本主義と商品生産一般との基本的な属性であり、独占は自由競争の直接的な対立物である。しかるに、いまやこの自由競争が独占に転化しはじめたのである』とレーニンは言います。


こうして、資本主義という根本的規定性においては変化がないとしても、『基本的な属性』に及ぶほどの変化が生じ、それが対立物に転化しているのだとすれば、この資本主義に対する実践的な対応の仕方にも、当然、しかるべき変更が要求されます。けだし、この資本主義の『変化』は、上部構造にも射程が及ぶものであり、労働者階級をも含めて、諸階級、諸階層の動態に一定の変容をもたらさずにはおかないからです」。

 廣松はそこから、「ここでは、しかし、レーニン主義がマルクス主義の古典的な『了解事項』や命題にいかなる変更を加えたか、よってもって、マルクス主義をいかに発展せしめたか、その軌道を逐一辿るには及びますまい」として、「ここでは、差し当たり、次の諸点を追認すれば足ります」として、以下、レーニン主義のポイントと廣松が考える諸点を列挙している。



「暴力革命論」(組織されたゲヴァルトとしてのプロレタリア運動)の復権



廣松は第一に「暴力革命論の復権」である、と記している。

これは「帝国主義戦争と戦後の混乱期をとらえることによって平時には不可能な内乱・暴力革命が再度可能になっている」という認識から「帝国主義戦争を内乱に転化する」という方式の暴力革命が『必要』であり、かつ可能である」という認識・判断からいわれていることだ。

また、それは「プロレタリア独裁の理論と相即的に暴力革命論を復権した」ものとしてあったと廣松は論じている。

この「内乱」規定は、暴力革命の規定であることは明白であるが、その根拠は、もともとは、マルクス主義の国家論に理論的根拠をもっている。

レーニンの『国家と革命』での論理だてから言うならば、「国家とは階級対立の非和解性の産物」である。この国家を支配するものは「支配階級」であり、資本主義国家は「ブルジョアジーの国家」である。

資本主義国家は、「ブルジョアジーの階級支配」を維持・防衛する「公的暴力」の機関である。

この国家の変革は、改良では不可能であり、議会主義は幻想である。ブルジョア議会は数年に一回、支配者の政治委員会を選び変えるものにすぎない。

国家権力の基軸をなすのは、「公的暴力装置」たる「官僚的軍事的統治機構」だ。常備軍・警察・官僚組織などのことだ。

国家の変革はこの公的暴力装置を、全人民の武装蜂起で「破壊」することによって、これらを、ソビエト権力に転化することによって果たされる。

そのソビエト権力は「全人民武装」「立法府と行政府が一体となった行動的な機関」「コミューン官吏の即時リコール制度」「ソビエトの議員や職員の労働者並み賃金」など、一八七一年の「パリ・コミューン」の規定を踏襲するものだった。

そして、このソビエト権力が、「プロレタリア独裁」、つまり資本主義から共産主義社会――階級と国家の死滅した共同体社会――への「革命的過渡期」とされる「過渡期社会」の基本形とされるものである。「過渡期国家(死滅しつつある半国家)」、「労働者国家」、「世界プロレタリア独裁」などの表現がある。

私見になるが、ここで「全人民武装」とは、<人民主権にもとづく共和制=主権者の自己統治>という近代政治思想の革命論的再措定と理解すればいいのではないかと考える。

まさに、廣松が言う通り、「プロレタリア独裁の理論と相即的に暴力革命論を復権した」といえるだろう。



なお著者(渋谷)は、レーニン国家論の理論建ては、今日までにつくられてきたマルクス主義国家論の全体像から言ったとき、極めて「初期的」なものであり、多くの「不十分性」をもっていると考えている。それは、端的に言うならば、マルクス主義の国家論の中心的なテキストをなすマルクス・エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』の発見前のものである。その決定的「不十分性」については、拙著『エコロジスト・ルージュ宣言』第一章「資本主義国家批判の方法について――レーニン『国家と革命』の問題点と資本主義権力論」――社会評論社、文京区本郷、二〇一五年――を参照してほしい。なお、かかる「不十分性」を払拭する・補うことをつうじて、レーニン主義国家論・革命論を理論的知見として、あらたに発展させてゆくことも可能だろう)。



プロレタリア国際主義の復権



廣松はレーニン主義のポイントとして、第二に、「資本主義体制の「破局」の必然的な到来をあらためて確説したこと」である、と展開する。

これは「窮乏化論」「恐慌論」での破局論とは違い、資本主義国の発展の「不均等性」、帝国主義戦争の「必然性」、帝国主義国諸国の中の「弱い環」から体制的危機が深まってゆくという「弱い環の理論」によって、「新しいタイプの体制的破局の到来を基礎づけた」ものだ。

それは「帝国主義段階においては植民地が本国にとって生命線になることの洞見とも結合されており、植民地の――それ自体としてはブルジョワ民族主義的な――解放闘争が、帝国主義本国の破綻をもたらす要因となる」ことと結合して組み立てられている。

第三に「プロレタリアート・インターナショナリズムの回復である」。これは次の様である。

「マルクス主義運動は、第二インターの時代においてすら、国際主義の建前を崩したわけではなかったが、『国民生活』が帝国主義国家競争戦の勝敗に懸るという歴史的現実を反映して、労農大衆ですら排外主義的な民族意識にとらわれていた即自的な状態に追随し、世界革命の同時的遂行が見通せぬという条件に藉口しつつ、事実上ショービニズムに陥っていた。これに対して、レーニンは、上述の植民地解放闘争と本国革命との有機的な関係をも一契機としつつ、帝国主義戦争を内乱に転化するという形態における国際的連帯――世界革命の論理によって、プロレタリア・インターナショナリズムの実践的・理論的復権を遂行した」というものだ。

第四に、「中間的諸階層との積極的な同盟の理論である」。とくに「農民」との同盟(労農同盟)を強調する。「中間層を差し当たり彼らの現実の利害に即しつつ、プロレタリアートの周囲に結集する可能性と現実性を理論的に定礎し、同盟軍の理論を確立した」としている(一八四~一八六頁)。

以上、こうしたことを、一口で言うなら、帝国主義段階における「ヘゲモニーとしてのプロレタリア・インターナショナリズム」を体系的に表明・提起したということができるだろう。帝国主義の体制的危機と戦争を革命に転化すること、帝国主義本国の革命と植民地解放闘争の結合、労働者階級と中間層、とりわけ農民との同盟が、その場合、ポイントとなるものだ。



(※ この場合、労農同盟に関しては、革命ロシアでは、レーニンが指導していた時期において、ロシア内戦期(一九一八~二一年)、左翼エスエルやウクライナ・マフノなど農民戦争勢力とボリシェビキの間で、不幸な戦争がおこされ、自殺的な破壊がおきてしまった。その和解の道は永遠に閉ざされてしまった(ここでは、以上のような文学的(?)表現にとどめておく。詳しくは拙著では「ボリシェビキ革命の省察」、『エコロジスト・ルージュ宣言』第六章、社会評論社、文京区本郷、二〇一五年、参照)。

だが、レーニンが示した反帝・プロレタリア国際主義を、帝国主義列強との国際的な階級闘争における政治関係の中で明確に――<国際共産主義運動の戦略論のわくぐみ>として――破壊したのが、レーニン死後登場した、スターリン主義だったのである。そこではレーニンの「労働者革命」とは、真逆の政治路線が、ソ連派スターリニストによって展開されていったのである。




結語――帝国主義支配の様態変化に対応する戦争の様態変化



レーニンの時代の「帝国主義戦争」は、帝国主義国家間戦争と、帝国主義による植民地・後進国への侵略戦争というタイプの戦争であった。これは基本的に第二次世界戦争もそのようなタイプの戦争だった。それは「帝国主義国の市場再分割競争と植民地主義」という帝国種意義の支配様式に規定されたものである。

第二次世界戦争の戦後は、これにかわり、米ソ冷戦(帝国主義ブルジョアジーの支配する西側諸国と全体主義スターリニスト官僚が支配する東側諸国の冷戦)が世界情勢を規定する中、帝国主義ブルジョアジーの「新植民地主義」(植民地従属国の「政治的」独立をみとめつつ経済的には帝国主義本国の従属的下位社会として支配する。また、他の帝国主義国の企業や政府プロジェクトなどの経済的進出を、帝国主義国が相互に認め合う)を規定とする戦争の形態が展開した。

したがって、帝国主義国家間戦争は、一九四五年以降は、起きていない。

例えばベトナム戦争のような戦争。南ベトナムでのカイライ政権をつくりながら米帝国主義による南ベトナムやソ連の同盟国である北ベトナムへの侵略反革命戦争という「侵略反革命戦争」として展開されてきた。そしてこれと闘う国土防衛戦争としての南北ベトナムのベトナム革命戦争そしてこの革命戦争と同盟した、インドシナ反米革命戦争という事態が一九七〇年代中ごろまで展開し、革命戦争が全面的に勝利する事態となった。

そして、ソ連・東欧圏の崩壊以降、決定的には、イスラム過激派による二〇〇一年9・11米・ツインタワー破壊戦争によって、米帝はアフガニスタン戦争、イラク戦争を、米の自衛権の発動を正当性として開戦し、これにイギリスをはじめとする「有志連合」が参戦している。日本もその「有志連合」の中の一国となっている。この戦争は「対テロ戦争」と名づけられている。帝国主義の「侵略反革命戦争」の一つのタイプである。こうした戦争情況に日本の政府支配層が対応・協力すべく、また自らも参戦できるように「集団的自衛権」を成立させた。また例えば、米軍産複合体との軍事貿易を展開しているのである。日本はかつてない軍拡の時代に突入している。経済構造的には、グローバルな富裕層を頂点とした「投機資本主義」が規定力をもっており、この経済構造をもっと拡張して行くようなベクトルが日帝ブルジョアジーの経営創造のベクトルである。そしてこの一環に、武器輸出三原則の撤廃もあったのだ。

帝国主義国家の戦争は、世界の帝国主義国家がどの様な支配様式を形作っているか、国家と国家の関係で基本となっているものは何か、ということを立体的な基礎として、戦争の形態を常に変化させてきた。

現代は新自由主義グローバリズムの時代だ。そしてこのグローバリズムが世界中で起こしている貧困と抑圧のなかから、イスラム過激派などのテロが生み出され(それ自体、「カリフ制イスラム国建設」などの神話的プロパガンダを組織して存在しているが)、このイスラム過激派の戦争にたいする「対テロ戦争」が展開されている。しかし、この戦争は、イスラム過激派の拠点とされる都市や町、村を、米軍機などが空爆し、住民に多大な被害を及ぼしている。まさに、そこに住んでいる住民は、人間の平和的生存権を破壊された、無差別爆撃状態となっている。これは国家テロだ。また、その戦争では、多くの社会変革のために活動する人々、団体が被害を受ける。その国、社会の変革を破壊している。そして、アメリカ帝国主義やその有志連合の言いなりになるような、それらの帝国主義国家の軍産複合体などが大きな利益を上げられるような市場・社会関係をつくっていこうとしている。そもそも軍事産業にとって、作った兵器を使うことをしなければ、さらに新たな武器を量産して行くことには限界がある。戦争をして売り上げを上げなけば軍事産業は斜陽化する。「侵略反革命戦争」の意味は、そういう平和的生存権破壊・変革破壊・帝国主義的権益増長という目的をもった戦争ということだ。

古典的レーニン主義では「帝国主義戦争を内乱へ!」ということになるが、現在の民主主義の政治構造では、それは「内乱・内戦」という戦術を絶対化するのではなく、もっと多様な社会運動での選択肢があるだろう。
 ★問題のポイントは、「労働者階級人民にとって、対外戦争の敵は国内にいるブルジョアジーであり、支配階級だということだ」。帝国主義ブルジョアジーの戦争利権は、「万国の労働者、殺しあえ」として、労働者階級=賃金奴隷を戦争に動員し、殺し合いを強制し、戦争によってえた勢力圏・戦争利権を創造することにある。これに対し労働者階級は「万国の労働者、団結せよ。戦争を強制する政府を倒せ!」とする戦いを組織することだ。これが、一切の闘いの基本だ。
この一つのポイントにのっとった、反戦平和・反帝平和の運動が、多様に展開されることが、基礎のはなしでなければならない。(了)








2019年4月21日日曜日

「階級解体」と全体主義——ハンナ・アーレント『全体主義の起原』を読む    渋谷要




階級解体」と全体主義――ハンナ・アーレント『全体主義の起原』を読む

                          渋谷要

                        



(リード)今日の日本の政治状況の大枠、大きな流れを、本論論者(渋谷)は、新自由主義による労働者階級の「政治的」階級としての「階級解体」→労働者階級のアトム化→個人主義の混沌→国民動員体制の形成・強化/右翼改憲→全体主義化という流れに、少なくともなってゆくような可能性があると考えている。もちろんそれは、阻止しなくてはならないのだが。その全体主義化のポイントは、労働者階級の政治的な「階級解体」であり、それは、これから述べるように、「国民国家―市民社会」秩序の解体的な再編=全体主義化という秩序構成の変化の要因として展開されるものと考えている。

(※例えば、「労働者階級の政治的階級形成」という場合、労働組合組織率それ自体は、労働者階級の政治的階級形成とは、区別して把握されねばならないが、その政治的階級形成の「社会的」前提となるものだ。この前提となるデータだが、例えば、二〇一八年一二月一九日の朝日新聞電子版によれば、厚生労働省が、一八年六月末のデータとして労働組合組織率を一七・〇%と発表している。これらの調査、説明の信憑性などは、ここでは問題としない。この「一七・〇%」という数字は、「過去最低」であるという。ただパートの労働組合員数は増加しており、前年に対し八万九千人増の一二九万六千人。非正規雇用が拡大していることの表れだ。厚労省の過去の「労働組合基礎調査」では、一九五〇年には、五〇数%、一九六〇年は三〇数%である。また、一九八〇年代までの総評・社会党ブロックがベースにあった時代の組織内容と、一九九〇年以降の労働戦線の右派統一によってできた「連合」(八九年結成)労働運動とでは、政治的な実質に大きな違いがあるだろう)。



 この全体主義化の分析を詳細に行っているのが、ハンナ・アーレントの『全体主義の起原』(原本は1951年より刊行開始。本邦刊行は、1974年、みすず書房、また、訳出書では「ハナ・アーレント」であるが、本ノートでは「ハンナ・アーレント」とした)である。本論では、まず、そのとっかかりとして、マルクス主義の歴史的立場性を継承するものとして、トロツキーのファシズム論をとりあげ、それを足場として、アーレントと対話をしてゆくという段取りである。

ただし本論は、あくまでも、二一世紀の≪階級解体=全体主義化≫を問題意識としており、一九三〇年代のファシズムをめぐる問題(とりわけコミンテルン「ディミトロフ・テーゼ」の内容、ソ連派スターリン主義の「ソ連一国社会主義」の国家主義外交路線と人民戦線政策の問題、非スターリン主義・反スターリン主義左翼内部の論争など)には、それとして踏み込まないこととし、別稿を期すことにする。



序・「階級解体」と社会のアトム化はどのように起こるのか――トロツキーのファシズム論のポイントとの関係で



トロツキーは、一九三二年、「次は何か?」というファシズム批判の論文を発表した。その「序文」には、ファシズムの特徴や、社会民主主義との関係が端的に描かれている。

「戦争(第一次世界戦争のことーー引用者)が勃発した。社会民主主義は、未来の繁栄の名のもとに、戦争に参加した。繁栄のかわりにきたものは、しかし、凋落であった。現在では、かれらの仕事は、資本主義の否定的面から、革命の必然性を説いたり、改革によって、労働者を資本主義と同調させたりすることではない。社会民主主義の新しい政策は、改良をさえも放棄することによって、ブルジョア社会を救うことであった。

しかし、これはまだ、凋落の最後の段階ではない。死に瀕している資本主義の現在の恐慌は、社会民主主義に、長期の経済的、政治的戦いの戦果をさえも見棄てさせ、ドイツの労働者を、かれらの父の、祖父の、曽祖父の世代の生活程度まで逆戻りさせている。自ら闘いとった成果や、その期待の残骸の真っ只中で、あわれに解体して行く解体してゆく改良主義ほど、悲劇的で、同時に嫌悪を催させる歴史的光景はないであろう」。社会民主主義の指導者たちは「適応能力の最後の限界まで追い詰められているのだ。土井湯の労働者階級にとっては、その下まで意識的に、長期にわたって、落ちていってしまうことができない水準というものが存在する。しかし、自らの存在をかけて戦っているブルジョア支配体制は、その水準を認めることも欲しない。ブリューニングの緊急令(一九三〇~三一年にかけて、四回はつれいされたワイマール憲法第四八条に基づく大統領緊急令。公務員給与カット、失業保険給付制限や、集会の自由の制限などが内容となっている。一九三〇年九月の共産党とナチスの議会獲得の加速に対して、これに対抗すべく、社会民主党はブリューニングに対する寛容政策をとり、この緊急令に反対しなくなった)は、地歩を探る手始めにすぎない。ブリューニングの支配体制は、プロレタリアートの一部の無気力で中途半端な信頼によって、その存在を保っている社会民主主義官僚制の卑屈で、裏切り的な援助のおかげで、もちこたえているのだ。官僚的法令による体制は、不安定であり、その上、不確実かつ生存しがたいものである。資本家側は、他の、より決定的な政策を必要としている。そのためには、元来労働者の方へ向かう傾向をもっている社会民主主義による援助は、不十分なものであるばかりでなく、すでに資本家たちを悩まし始めてさえいる。いい加減な政策をとっている時期は過ぎたのだ。新しい出口を発見するためには、ブルジョアジーは、労働者階級の圧力から完全に脱しきり、それを排除し、破壊し、壊滅させてしまわなくてはならない。

そこに、ファシズムの歴史的使命が始まる。ファシズムは、プロレタリアートのすぐ上にあってプロレタリア階級の中に転落してしまうことを恐れている階級を目覚めさせ、公式国家の衣の下に隠れながら、金融資本の力によってかれらを組織し、戦闘的にする(Mobモッブの形成だ――引用者)。そして、これらの階層を、もっとも反動的なものからもっとも穏健なものまでを含めて、プロレタリア階級全体の破壊(「階級解体」→アトム化――引用者)へと向かわせるのである。

ファシズムは、ただ単なる弾圧や、暴力、警察テロなどの制度ではない。それは、ブルジョア社会の中にあるすべてのプロレタリア的民主主義の要素を根絶することによって成立する、特殊な国家的制度なのである。ファシズムの任務は、ただプロレタリア前衛を打破することにあるのではなく、すべての階級を、強制された細分化状態(アトム化――引用者)の中に維持して行くことでもあるのだ。そのためには、もっとも革命的な労働者層の、肉体的破壊だけでは不十分なのである。すべての独立した、自由な組織を破壊し、プロレタリアートのあらゆる支点を無に帰せしめ、その上、社会民主主義と労働組合の、四分の三世紀にわたる仕事の成果(労働基本権をはじめとするブルジョア民主主義的諸権利など――引用者)を粉砕してしまわなくてはならない。なぜなら、究極的には、共産党の支点もまた、社会民主党および労働組合のなし遂げた仕事にあるのだ。

社会民主主義は、ファシズムの勝利のためのすべての条件を準備してやった。しかも、それと同時に、自らの政治的破滅の条件までもそろえてしまった。ブリューニングの緊急令の制度や、ファシズムの野蛮な暴力の脅威などの責任を社会民主主義に求めることは、全く正当である。しかし、社会民主主義を、ファシズムと同一視することは、全く馬鹿げたことである」。



 これらのことを一言で言うと、「階級解体」=政治的階級としての労働者階級の階級解体→アトムへの分散→≪労働者階級≫ではなく≪賃金奴隷諸個人≫(としての即自的な経済的階級に固定化)される→全体主義国家(ナチス国家)という政治的共同体への動員・吸収・統合ということだ。



以下、アーレントの『全体主義の起原』を読んでいくことにしよう。



第一節 第一巻「反ユダヤ主義」を読む



●反ユダヤ主義とモッブの形成――近代国民国家は排外主義を必要とした

 

まずアーレントの文献に入る前に、反ユダヤ人政策についてナツィが政権についてからのアウトラインを確認することからはじめよう。

その場合、まず断り書きであるが、本論は、シオニズムを免罪するものではない。戦後シオニズムは、パレスチナを抑圧する侵略帝国主義の問題として捉えられるべきである。

一九三三年、ナツィが政権につき、国家秘密警察(ゲシュタポ)が結成された。一九三三年一月ヒトラー内閣成立。三月全権委任法が制定され、立法権は政府に吸収された。四月、職業官吏再建法が成立し「非アーリア人種(ユダヤ人)」の公務からの追放が示される(この規定は、「非アーリア人」の定義を巡り混乱を呼んだ)。三五年、ニュルンベルク法が制定される。この法は二つの法律の総称であり、その一つ「帝国市民法」は、「ドイツ人または同種の血をもつ国籍所有者」以外の、選挙権、公務就任などを禁止した。もう一つの「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」では、ユダヤ人と「ドイツ人または同種の血をもつ国籍所有者」の婚姻、婚姻外性交渉を禁止するものだった。

こうした反ユダヤ主義政策は、一九三八年一一月、大きく展開する。一一月九日夜~一〇日未明にかけて、ナチ党指導者ゲッペルスを主犯とし、ナチスSA(突撃隊)を主力に展開された「水晶の夜」(クリスタルナハト)事件である。ユダヤ人の居住地やシナゴーグ(礼拝施設)、ユダヤ系の商店・企業が、襲撃された。この事件以降、ホロコースト(大量虐殺・迫害)がはじまった。

さらに、一九四二年一月二〇日、ベルリンにある高級住宅地・ヴァンゼーで、ナツィ高官が集合し、それまで、各々の官僚組織がばらばらに行っていたユダヤ人抑圧政策を統一する意思統一をおこなった。これは「最終的解決」といわれ、ユダヤ人の抹殺を、インフラ整備事業などを利用した強制労働と計画的な殺害で推進しようとするものであり、強制・絶滅収容所での死亡が増加・加速することとなっていった。

一九四五年ナツィ敗戦。一一月(~一九四六年一〇月)ニュルンベルク裁判でナツィ断罪。一九六〇年、アルゼンチンに潜伏していた、強制収容所政策の指導的司令官アイヒマンを、イスラエル(一九四八年「建国」)諜報組織が逮捕。イスラエルでいわゆる「アイヒマン裁判」(六一年)がおこなわれ、翌年死刑となる。

本論著者(渋谷)の、論理立てから言うならば、これから本ノートの論脈において明らかにするように、このような反ユダヤ主義(としての排外主義)自身が、きびしく批判されるべきであることは前提であるが、「全体主義」概念との関係で言えば、こうした差別排外主義=反ユダヤ主義を媒介とし、戦略的な課題としつつ、<国民―民族共同体としての全体主義>が形成・登場したという国家共同体論に即した論脈が、全体主義概念を考えるうえで、重要なことだと、考えるものである。



アーレントの立論に入って行こう。

このような反ユダヤ主義の特徴をもった、ナツィの全体主義の形成・成長は、まず、近代国民国家の形成時点におけるある種の矛盾から開始したとすべきだというのが、アーレントの立論の出発点だ。ここではまず、「反ユダヤ主義」という形での≪異分子に対する排外主義≫が問題となる。(引用のページ数は、例えば「第一巻の一二三ページ」なら、「一・一二三頁」とする)

このここでいわれる「国民国家」と「帝国主義」の位置関係だが、アーレントによれば次のようになる。以下の位置関係を頭に入れながら、以下のアーレントの国民国家分析に入ってゆこう。

「全体主義の支配形式・運動形式を作り上げるときに含まれていた反ユダヤ主義の要素については、次のように言わねばならない。すなわち、国民国家の解体過程においてはじめて、それ故、帝国主義が政治的事象の前景にあらわれてきた時代になってはじめて、この要素は全面的に展開したのである」(一・一四頁)と

これは「国家共同体―内―排外主義」としての「反ユダヤ主義」から、国民国家の膨張による帝国主義による「人種思想」の形成という脈絡で言われていることだと考える。排外主義(異分子排除)としての反ユダヤ主義の機制についてだが、『全体主義の起原』第一巻「反ユダヤ主義」の論脈となるものだ。そして「帝国主義的人種思想」が第二巻での論脈となる。

 まずその前提となる近代国民国家の形成がユダヤ人に対して意味したものがある、これが重要だ。端的に言って、国民国家の形成、それは、それまで異分子・非同権者だったユダヤ人に、国民としての「法律上の同権」を与える過程でもあった。だが、ここに、決定的な矛盾が含まれていたとアーレントは言う。

「なぜなら国民国家という政治体が、他のすべての政治体と異なるところはまさに、その国家成員たるの資格としてはその国に生まれていることが、その住民全体についてはその同質性が、決定的に重要視されているということにあったからである。同質的な住民の内部ではユダヤ人は疑いもなく異分子であり、それ故、同権を認めてやろうとすればただちに同化させ、できることなら消滅させてしまわねばならない」(一・一六頁)ということだ。

ユダヤ人が同権をもち、ドイツならドイツで、市民社会の一個人として、社会に溶け込み、社会的な地位を築いてゆくという過程は、同時に、ユダヤ人ではない国民の中に、ユダヤ人が国・社会を乗っ取るのではないかという「ユダヤの世界征服」の疑惑が世論として成長して行く過程でもあった。

そこでアーレントは、ドレフェス事件をとりあげる。

「一八九四年、フランスのユダヤ人参謀将校アルフレッド・ドレフェスは、軍事法廷でドイツ帝国のためのスパイ行為を告発され、悪魔島(イール・オ・デイアブル)への終身刑を言い渡された。判決は全員一致で下され、審理は非公開でおこなわれた」(一・一七三頁)。この事態はまさに、あきらかに、ユダヤ人に対する敵意・予断と偏見の裁判過程をうかがい知ることができるだろう。これに対するエミール・ゾラなどによる救援運動が展開されている。

 だが、その後、真犯人がわかり一八九九年釈放、一九〇六年無罪を破毀院は認めたが、それは軍事法廷で再審させる権限しかなく、無罪放免にはならならかった(一八九九年再審のとき、情状酌量で一〇年、大統領により特赦という形をとって釈放となっている)。

 まさに一八八二年の金融恐慌により、ユダヤ系金融資本のロスチャイルドがフランス人民の貯蓄を投資に誘導していたため、投資銀行が破産し、貯蓄をなくした人民が、銀行業界を手にしていたユダヤ資本とユダヤ人に対する反ユダヤ主義が拡大していたのだ。このことは、その象徴として一八八九年、パナマ運河疑獄事件へと展開して行く。パナマ運河の開発工事をするために、パナマ運河開鑿会社は社債を発行し、フランス人民はそれを買った。だが、八九年の数年前に会社は破産していたにもかかわらず、「何かの奇跡によって、仕事が再開できるようという希望」(一・一八二頁)から、社債発行を議会から承認させるため「新聞界の大半と議員の半数以上と高級官僚のすべてを買収しなければならなかった」(一・一八二頁)。八八年に社債は発行されるが、八九年、裁判所が破産を宣告し、このことが発覚したのである。

 

アーレントは、次のようにパナマ疑獄事件を総括している。

「パナマ疑獄事件は、二つのことをあきらかにした。第一に、第三共和政の内部で議員と国家官僚が商人となっていること。そして第二に、私的事業――この場合はパナマ運河会社――と国家機構とのあいだの斡旋がほとんど独占的といえるほどまでにユダヤ人の手でおこなわれていたこと」の二つであると。

「西欧および中欧全域におけると同様フランスにおいても、ユダヤ人は百五十年以上ものあいだ国家経済ときわめて密接な関係を持っていた。十八世紀の直接な貸付業務および軍需品調達は国債発行業務となったが、この仕事は実際上、公衆はユダヤ系銀行が保証した場合にのみ国債を買うという事実によってなりたっていたのである。ブルボン王朝復辟以来市民王政の時代を経て帝政まで、ロスチャイルド(フランスではロチルド)家が国家経済のこの部門をほとんど独占していた」(一・一八四頁)。

「こうして結局、フランス・ユダヤ人のなかの新来分子は、一種の前衛を形成していることがあきらかになった。きわめて多種多様な社会グループの商売上の利益と統治機構とのあいだの斡旋役は、大部分ユダヤ人の手に帰した。第三共和政時代まではユダヤ人は堅固な、それ自体として強力な、その国家に対する有用性はもはや論議の対象とはなり得ないような集団をなしていたに反して、今や彼らはアトム化され、徒党に分割され、お互い同士極度に敵対しし合い、しかもいたるところで同じ機能を果たしていた。すなわち仲介によって社会に力をかし、国家を食って私腹を肥やすという機能である」(一・一九一頁)。

後述するように、この一八世紀終わりから、数年後、一九〇三年「シオンの賢者たちの議定書」というユダヤ人が世界征服をもくろんでいるという偽書が、ユダヤ人の指導者による「議決書」なる筋立てで、欧州を席捲することになる。

こうした、欧州の国民国家―市民社会の危機の中であらわれたのが、一九世紀のモッブという社会現象だった。

 「モッブはありとあらゆる階級脱落者からなる。モッブのなかには社会のあらゆる階級が含まれている。モッブはカリカチュア(戯画)化された民衆であり、それゆえにまたあのように民衆と混同されるのである。民衆があらゆる革命において国民に対する主導権を得ようとしてたたかうとすれば、モッブはあらゆる暴動の際に自分たちを指導し得る強力な人間のあとについて行くのである。モッブは選ぶことができない、喝采するか投石するかしかできないのだ。だからモッブの指導者たちは、近代の独裁者たちがそれによってすばらしい成果を挙げたあの人民投票による共和制を当時すでに求めた」。

 「モッブは自分を締出した社会と、自分が代表されていない議会を憎んだ。第三共和政の社会と政治家は、短期間に相次いで起こるスキャンダルや詐欺事件のうちにフランスのモッブを作り出してしまったのである。大量現象としての失業というものがまだなかった時代において、モッブは主として零落した中間階級から成っていた」(一・二〇四頁)。

 モッブは「暴徒」などと規定されるが、アーレントは、これを単に暴徒ではなく、「階級脱落者」と規定している。

 その内実は、何か。「モッブを蹶起せしめるのは『偉大な思想』だったのである」。「モッブが憎むもののすべてがユダヤ人のうちに体現されていることはあきらかだった。まず社会だが、ユダヤ人は社会のなかに許容されていた。次に国家だが、数百年来ユダヤ人は直接国家によって社会から守られ、それ故簡単に国家権力と同一視され得た。モッブはいかにも選り好みをするほうではなく、事実ユダヤ人のみを追究したわけではなかった。……けれどもやはり一九世紀後葉において、彼らが最も好んで槍玉に挙げたのがユダヤ人だったことは否定できない。……社会からも国会からも同じように締出され、公的な政治的社会的インスティテューションの外でしか行動し得なかった階級脱落者(デクラッセ)のモッブは、こうした影響力を極端に過大評価するのみか、政治生活の真の実態をそのような影響力のなかに嗅ぎつけようとする自然な傾向をもっていた」(一・二〇五~二〇六頁)

まさにその「真の実態」が、「シオンの賢者の議定書」なるものに書かれているような、「世界征服」の神話ということになる。以上が『全体主義の起原』第一巻「反ユダヤ主義」で、述べられていることの、本論の問題意識との関係での概略ということになる。

 

第二節 第二巻「帝国主義」を読む



●国民国家の対外膨張としての帝国主義とそれによる人種思想の形成

 

 近代資本主義は、国民国家―市民社会―階級社会の三つの要素から形成されてきたが、この連関がをどう見るかが重要だ。アーレントは、この第二巻「帝国主義」で概略的には、次のような、ことを言っている。

 「国民国家」は、例えばドイツ人、フランス人などという民族が国家をつくったものだが、人権の享有により、例えばドイツ国民国家の国内にいるユダヤ人に法律的な同権を承認するシステムを形成した。そのため、国民国家を構成するドイツ人の中には、こうしたユダヤ人を国家共同体内の異分子として排除する、あるいは、ともに国民をなすなら、同化させるという動きが出てくる。つまり、国民国家は、国民国家のヘゲモニー民族以外を異分子として排外するシステムである。

 「市民社会」は、人権を基本に諸個人が個人として平等に生きる社会だ。だが、それは、階級社会との関連で、次のように展開する。階級社会は、「資本の本源的蓄積」によって、土地の囲いこみなどにより農民が、土地という生産関係から疎外されて、都市の労働者階級を形成するなかで、資本主義の基底がつくられる。そうして資本主義の階級社会が形成される。この階級社会は、基本的に、労働者階級と資本家階級の階級対立としてあるが、この階級は、同じ民族を引き裂くことを意味する。国民国家のなかで、ドイツ人だけでなく、ユダヤ人、あるいはもっと違う民族の人たちが「労働者階級」をなし、階級闘争では団結して、資本家階級と闘っている。これは、民族の分裂を意味している。

 こうした、資本主義の形成は、さらに生産力が増殖すると、「過剰資本」を生み出す。この「過剰資本」の処理のために、資本の対外進出が必然化する。この対外進出は、「帝国主義」としての国民国家の「膨張」であり、それまでの古典的な意味での国民国家の破壊である。だが一方で海外では同じ民族は、資本家も労働者も、そして官僚も、例えばドイツ人なら、おなじ「ドイツ人」である。その意味で帝国主義は、階級に引き裂かれた民族を再統合すると当時の人たちは考えた。

 アーレントは述べている。

 「それにしても奇妙なのは、帝国主義政策に対する真に民衆的な反対が全然なかったことである。……当時の民衆も政治家も、階級闘争が国民の統一体自体を分解させてしまい、全政治機構も全社会機構もともに極度の危険に曝されていることを知っていた。だから膨張は分裂した国民に再び共通の関心を与え、いま一度統一をもたらすものとさえ思えたのである」(二・五〇頁)ということだ。

 そして、さらに、この資本主義の展開は、次のようにも展開した。資本主義の展開は、大量の失業者、大量の移民を生み出した。それは、国民国家に総括され、階級社会の中で生活していた市民(市民社会の個人)を、階級秩序から脱落させる。そうした、いろいろな階級からの「階級脱落者」を生み出した。それは、市民社会のなかで利益集団をつくって存在する市民が、アトム化することであり、階級社会の秩序からも、アトム化することを意味する。そうしたアトム化した個人の集団は、国民国家と階級社会の何らかの利益によって形成されている政党から排除されているゆえに、議会外勢力となり、街頭の暴徒に成長し、自分たちに利益を与えるような、正当性を言ってくれる強い指導者の党をもとめてゆく。それがモッブといわれる人々、階級脱落者の運動である。また、帝国主義は、資本家とモッブの同盟、海外植民活動での同盟をも、エネルギーとして、成長していった。

 さらに、その帝国主義は、対外的なナショナリズムを「人種思想」「種族的ナショナリズム」として生み出してゆく。つまり、ポイントは、階級に引き裂かれた国民(ドイツ人ならドイツ人の資本家と労働者)が、他の植民地の民族に対して、「過剰資本」の運用を契機とした資本の支配ーー「資本の本源的蓄積」を含有するーーを組織することによって、他の植民地の民族に対しては、ひとつの支配民族として再統合するということだ。階級対立の他民族支配への転化ということである。だからそのシステムに対応するイデオロギーとして人種思想、種族的ナショナリズムが成立するということである。そしてそれは、モッブの思想となった。

 当時のカウツキー流のマルクス主義との関係でいうなら次のようである。

 「ドイツでは、結局は第一次世界大戦に導くことになった『艦隊増強政策の推進者は、帝国議会の右翼ではなく自由主義者たち』だった。ドイツ社会民主党は、艦隊増強のための帝国国債発行を公然と支持するかと思うと一切の外交問題を完全に無視したりで、腰がさだまらなかった。この点での社会民主党の政策の無定見と無責任は、帝国主義の利益が当然に労働者階級にも及ぼした魅力のせいばかりではなかった。もっと本質的な要因は、帝国主義がマルクス主義の経済理論では歯の立たない最初の現象だったことにある。なぜならマルクス主義にとってはモッブと資本との新しい同盟はいかにも不自然であり、階級闘争の教義に反するものだったため、帝国主義的実験の直接の政治的危険、つまり人類を支配人種と奴隷人種、有色民族と白色民族に分け、階級に分裂した民族をモッブの世界観を基礎に統一しようという企てには、彼らは全然気付きさえしなかったからである」(二・四九頁)。

 これがアーレント『全体主義の起原』第二巻「帝国主義」の第一章「ブルジョアジーの政治的解放」で言われている内容である。この場合、とくに「資本の本源的蓄積」を、国民国家の階級社会的形成にかぎらず、国民国家の対外膨張としての帝国主義の形成として、本源的蓄積のいわば永続的な展開を分析している。ここでは、後述するようにローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』が、アーレントの分析の武器になっている。



●「資本の本源的蓄積」と「過剰資本」の問題



 「六十年代末のイギリスにはじまり、七〇年代の全ヨーロッパを規定することになった深刻な経済危機は、いろいろな面でヨーロッパ資本主義と近代政治との歴史における決定的転換点である。この危機において初めて明らかになったことは、経済自体の『鉄の法則』などには縛られず純然たる収奪によって蓄積過程をまず最初に可能にしたかの『資本の本源的蓄積』(カール・マルクス)は、蓄積のモーターを永久に回転させ続けるには不十分だということだった。この『原罪』をもう一度繰り返さなければ、すなわち純粋な経済法則を政治的行為によって破らなければ、明らかに資本主義経済の崩壊は避けられなかったのである。このような崩壊は住民の全階層が工業化された生産過程に組み込まれた後にのみ起こり得るのだから、それはブルジョアジーの破滅ばかりか、国民全体の破滅を意味する。帝国主義はこの危機に対する緊急諸対策から生まれたのである。それらの対策のすべてが目的としていたのは、いま一度、そして可能な限り長期にわたって「本源的蓄積の諸方法によって資本主義的な富が」創造され得るような道を見出すことだった」(二・四四頁)。

このような帝国主義による「諸大陸への資本投下」は、大資本だけでなく、「小さな貯蓄資産」がまきこまれ、国内産業の総体がひきこまれた。それは「ますます多くの人が自分の資産のますます多くの部分を賭に注ぎ込んでは失くしていった」(二・四五頁)。アーレントはこの例証として、先述したパナマ疑獄などを挙げている。

ここで、その帝国主義の分析として、アーレントは、ローザ・ルクセンブルクの『資本蓄積論』をあげ、「帝国主義に関する書物のうちでは」これほど「卓越した歴史感覚に導かれたものはおそらく例がない」と評価する。「彼女の文章を引用して、彼女の見解のいくつかが持つ広い射程を――今日においてもまだ認められていないが――示したい。それらは、とりわけ彼女の意図にさえ反してだが、政治とは全く無関係に自分自身の法則に従う資本主義発展などというものは存在し得ないし、また存在したこともないことを、証明している」として、ローザを次のように引用する。

「……『歴史的過程としての資本蓄積は、その一切の関連において、非資本主義的な社会層および社会形態を頼みとしている』。『帝国主義は、まだ占領されていない非資本主義的世界の残部をめぐる争奪戦における、資本蓄積過程の政治的表現である。帝国主義は資本の生存を延長させる一歴史的方法であると同時に、最も手取り早くその生存に限界を設定する最も確実な手段である』。そして、アーレントは「レーニンに従えば、過剰生産とそこから生ずる新しい市場の必要性の結果」(二・四五頁)ということだと説明するなど、何人かの経済分析との簡単な照らし合わせをおこなっている。

 そこでこの「過剰」ということが問題となる。

ブルジョアジー「彼らの富は産業革命以来、ますます生産者の社会と化してきた近代社会にとって決定的意味をもっていた。過剰資本の所有者はこの階級の中では、社会的機能を果たすことなしに金儲けに抜け目なく立ち廻った最初のグループだった」。これが富裕層ブルジョアジーを意味していることは明らかだろう。

アーレントは、資本主義は過剰資本にたいして、もう一つの「過剰」をうみだしたという。それが「恐慌ごとに生産者の列から引きはなされ、永久的失業状態に」されてきた「過剰労働力」にほかならない。「このふたつを初めて結びつけて故国を離れさせたのは、帝国主義だった。国家権力手段の輸出と、国民の労働力と国民の富が投下されている領土の併合という膨張政策は、資本と労働力の絶えず増大する損失を防ぎ、国民経済の中では不要となった諸力を国民経済のものとしてなおかつ維持し得る唯一の手段だと思われた」(二・四七頁)。

そこで、モッブと資本との同盟、「過剰資本と過剰労働力との新しい同盟」(二・四八頁)は、南アフリカで「ダイアモンド鉱床と金鉱が発見」されるなどしたことを皮切りに、本格的な展開を見せてゆく。

「大都会のモッブが、暗黒大陸へとやって来た。そしてこの時から十九世紀の異常な資本蓄積が生み落としたモッブが、生みの親のあらゆる冒険的探検旅行について廻ることになる。それは利潤の多い投資の可能性だけを求めての探検だった。過剰資本の所有者は、世界の各地各方面から押し寄せた過剰労働力を利用できる唯一の人間だった」(二・四八頁)。

こうして、「永続的膨張」という帝国主義の冒険の無限性に「万人に共通な国民的利益の中にネイションの救い」を見ることになった。「このことが、ヨーロッパのナショナリズムがなぜあれほど簡単に帝国主義に染まっていったかの理由である」(二・五一頁)とアーレントは述べている。

もう少し、立ち入った分析をするなら、こうだ。

「国民国家は、異民族の統合に適さないだけに、異民族を抑圧してしまおうとする誘惑がそれだけ強かった。ナショナリズムと帝国主義は理論上は深淵によって隔てられているが、実際にはこの深淵は人種的もしくは種族的ナショナリズムによって幾度も橋をかけられている」(二・五一頁)。アーレントは、帝国主義者は自分たちは政党を超越し、「国民全体を代表している」と表明していたという。そして「このことは特に中欧および東欧の大陸帝国主義について言える」とし、その理由として「海外帝国主義の国々、なかんずくイギリスでは、富すぎた者と貧しすぎる者との同盟が成立したのは海外領土に限られていた。しかし、ドイツのように地球分割に大して与かれなかった国や、ましてオーストリアのように全く領土を得られなかった国では、資本とモッブの同盟は本国自体の中で成立し、国内政治に直接影響を与えるようになった」と展開する。



 このイギリスとドイツの違いは、「資本の過剰→資本の輸出」のタイプが違うという問題と対応していると本論論者(渋谷)は考える。それは、宇野弘蔵によって指摘された「帝国主義論の方法について」という問題である。

「『独占』にしても僕は、それを単なる『独占』としてでなく、『組織的独占』とか、『独占体』ということばで表わしたわけです。もちろん、僕もイギリスにおける独占企業の出現を否定するものではありません。しかしそれはドイツのように大銀行との聯関をもった『独占体』と一様に扱うことはできないと考え、むしろ後者(ドイツ――引用者)にこそ金融資本の典型が、しかもその積極的な面が認められるものと思ったのです。イギリスの場合は、これに対して『資本の輸出』にその金融資本化の根拠が求められる。したがって、同じ金融資本にしても、ドイツの場合のように直接産業企業と大銀行との金融資本的一体化による『独占』は認められないといってよいのです」(「帝国主義論の方法について」、『「資本論」と社会主義』、岩波書店、初版一九五八年、二〇五頁)。

「証券投資乃至株式会社制度の普及にともなう『資本の過剰』」の解決としての「資本の輸出」と、「証券による直接投資」をなす、「金利生活者的な『資本の輸出』」の区別が必要であり、先ず「後者が、先ず『世界の分割』を主として行い、前者がこれに対して『再分割』を要求するという点に、今世紀(二〇世紀ーー引用者・渋谷)初頭の帝国主義の対立が見られることになったのではないか」(前掲、二二〇頁)ということとして、それはある。

つまり、モッブと資本の同盟がイギリスの場合、海外領土でのみ展開されたということは、海外投資を主とした過剰資本の処理の様そうに対応している。またドイツの場合、その同盟が、国内の政治に影響を与えた、だから、国内の産業構造に影響を与えたのは、「資本の過剰」の国内での処理として、ある国内産業構造と大銀行との一体化による資本蓄積の様そうを、まさに作り出した場所で、モッブと資本の同盟が成立したということをそれは意味している。つまり、それは、過剰資本の様相の違いに規定されておこったと、考えることができるだろう。

 アーレントは、モッブは全階級からうみだされた「階級脱落者」であり、「工業労働者」とも、「下層の貧民」とも違う。だから、「モッブにおいては階級差が止揚されているかのように見え」「失われた民族――ナツィ用語で言えば『民族共同体』――であるかのように思われた。本当はモッブは民族の虚像、カリカチュアなのである」。ナツィの全体主義支配は、このモッブを支柱とした専制政治として成立しつつ、政権獲得後は、「最初の指導層を生んだモッブ分子をも権力掌握後には抹殺してしまった」と展開している。

アーレントは、帝国主義の成立の契機と特質をつぎのようにモッブという社会現象から特徴づける。「原因、すなわち安全な利潤の多い投資のためにモッブを必要とした過剰資本が、それまで良き伝統に覆い隠されながらもつねに市民社会の基本構造の中に存在していた一つの力を解き放つ梃子となったのである。あらゆる原則とあらゆる偽善を払い去った暴力政治は、あらゆる原則から自由になった大衆、国家の救済活動と救済能力を凌ぐほどの数に達した大衆を計算に入れることができるようになったとき、はじめて実現可能となる。……このモッブが帝国主義的政治家によるほかは組織され得ず、人種教義以外によっては鼓舞され得ないということは、彼らの生れが市民社会であることを明瞭に示している」というわけである。

まさにそのことは、国民国家の異分子排外主義⇔市民社会のブルジョア・アトミズム(個人主義・競争主義)→国民国家膨張→帝国主義⇔種族的ナショナリズム(人種思想)という一連関をしめすものに他ならない。

 

●種族的ナショナリズムとしての「血」の思想



アーレントは、この人種思想の形成は、「膨張帝国主義」の出発点としての「アフリカ争奪戦」(一八八四年、ベルリン会議に至るヨーロッパ諸国の争奪戦)が決定的な規定力となったとのべている。それは「アフリカに根を下ろしていた人種思想は、ヨーロッパ人が理解することはおろか自分たちと同じ人間と認める用意さえできていなかった種族の人間とぶつかったとき、その危機を克服すべく生み出した非常手段だった」(二・一〇五頁)というものだ。そうした脈絡をヨーロッパの人種思想はもっている。



 そのような人種思想の土壌の中で、「種族的ナショナリズム」を問題にするとき、アーレントの立論では、「汎民族運動」と「大陸帝国主義(ドイツやロシアなどの)」との関係が重要だ。

 汎民族運動とは何か。アーレントは、それは帝国主義時代よりも古い歴史を持つが、それが、明確に政治運動化したのは、帝国主義時代になってからだという。

「汎民族運動は帝国主義より早く成立し、より複雑な歴史を持っている。一八七〇年頃には曖昧な形而上学的親スラブ理論からすでに一つの政治運動が生まれているし、一九世紀半ばのオーストリアには反ハプスブルグ的汎ドイツ主義がはびこっていた。しかしこれらの活動が政治的害毒を流し始めたのは八十年代の半ば、西欧の帝国主義的膨張が地球再分割(マルクス経済学的には、最初の分割――引用者)に大成功を収め、東欧および中欧はそこから締め出しを喰らわされたときである。こうした状況にあって特に中欧諸民族は、自分たちにも『他の大民族と同じく拡張する権利があり、もし海外でその可能性が阻まれるならヨーロッパの中でそれを実行するほかはない』と考えた。汎ドイツ主義と汎スラブ主義は、『大陸国家』に住む『大陸諸民族』は弱小民族のいる『中間地帯諸国』を分け合うべきだという点で意見を同じくしていた。ここに初めて地政学的考えが生まれたのである」(二・一六二頁)。

 汎民族運動から生み出されていった、大陸帝国主義は、イギリスなどの海外帝国主義に対する対抗として形成されたが、その根拠は、植民地従属国に対する支配の欲求から起こったとアーレントは説明している。

「ある著名な親スラブ的評論家が、『吾は海の支配者たらん』という言葉に表現される『イギリス的理念』と『吾は陸の支配者たらん』という『ロシア的理念』を対置させたのである。しかしこれらの理念が政治的意味を獲得したのは帝国主義時代になってからで、すべての海洋民族のきわめて実質的な権力拡大を目前に見ながら地球再分割に加わり損ねた諸民族が、『一般にも、特にわれわれドイツ人にとっても……海に対する陸の限りない優位……海洋勢力に対する大陸勢力の遥かに大きい意味、海の力を凌ぐ陸の力』を理論的にも発見したときのことである。

 イギリスに対する一種の競争上の嫉妬から出たこのような空論より重要なのは、海外帝国主義の場合に本国と植民地の間の海が保証してくれたような距離が大陸帝国主義にはなく、そのため帝国主義の方法と支配観念の諸結果がはね返り効果を俟つまでもなく直接ヨーロッパ自体の中で感じられるようになったことである」(二・一六二~一六四頁)。

 汎ドイツ主義は、優越民族としてのドイツ民族の他民族に対する支配の正当性の主張だ。アーレントは次のように、それを述べている。

「汎ドイツ主義者は、直ちに提案を行い、『われわれのもとに暮らしている血統の異なるヨーロッパ人、すなわちポーランド人、チェコ人、ユダヤ人、イタリア人等々を奴隷の地位に就しめること』――これは海外帝国主義が他大陸の原住民に振当てた地位だが――あるいはそれが不可能なら奴隷民族をヨーロッパに輸入すること――いずれの場合も『支配民族たるドイツ人』を自国において被抑圧民族の上に立たせることが狙いだった――を主張したばかりではなかった。人種概念自体が彼らにあっては強化され一般化された意味を与えられたのである。……人種イデオロギーを直接政治に転化し、『ドイツ人の将来は血にかかっている』ことを疑問の余地のないこととして主張する役割をはじめて担ったのは、大陸帝国主義だった」(二・一六四頁)。

その汎ドイツ主義の特徴は、「拡大された種族意識」にある。

「『国家』と国民意識に対立するものとして、歴史、言語、居住地とは関わりなく同一民族の血をひくすべての人間を包括すべき『拡大された種族意識』を持ち出したのである。ここにはすでに、後にナツィによって立法化されるⅤolksfremde(「他国権力のもとにあるドイツ血統の人間」――アーレント自身の注による)とStaatsfremde(「ドイツに住む非ドイツ人」――アーレント自身の注による)との区別も現れている。要するに大陸帝国主義は、おそらく海外帝国主義への反動として成立したことによるのだろうが、海外帝国主義の場合のように植民地での経験を経ることなしに最初から人種主義の方向をとり、十九世紀が伝えた人種世界観を遥かに熱狂的にまた意識的にわがものとしたのである」(二・一六四頁)。

 その「拡大された種族意識」の根拠は「血」にもとめられた。

「種族的ナショナリズムは中欧および東欧のすべての国と民族の国民的感情を決定的に規定し形成するものとなった。……ただ『拡大された種族意識』に基づいたナショナリズムのみが、人間を世界において例外的に相互に区別するだけの国民性を、精神の内部の問題になしえたのである」(二・一六九頁)。

例えば、フランス人の中には「フランス型のショービニズム(排外的な愛国主義)」をもっている人がいるが、それは「栄光」「偉大さ」の誇示であっても、「他国に生まれ育ちスランス語もフランス文化も知らぬフランス系の人間でもその『血』の神秘的な特質の故に生まれながらのフランス人だ、とまでは主張しなかった」(二・一六九頁)ということである。だが、大陸帝国主義は、そう主張する。

なぜか。ショーヴィニズムと、種族的ナショナリズムの違いが決定的なポイントとなる。

アーレントは次のように言う。ショーヴィニズムは、「あらゆる分野において国民が実際に成し遂げた業績を問題にしている。これに対し、種族的ナショナリズムは、「人間精神を普遍的な民族的知性の『具現』と見做そうとしている点にある」(二・一六九頁)。だがそれは「精神」とは何ものか? 抽象的で、具現する物象がさだかではないものだ。だから「この欠点を補うために、精神と肉体のいわば逢引の場となるべき『血』が担ぎ出されたのである」。これはショーヴィニズムがもっている現実的根拠とは違い、「現実には存在しない架空の観念を拠りどころとし、それを過去の事実によって立証する試みさえ全くせず、その代わりにそれを未来において実現しようと呼びかけるのである」。それにはわけがある。

過去の歴史は「大抵は自分たちに相応しくない現在であり過去」だからだ。「伝統、政治的諸制度、文化など、自民族の目に見える存在に属する一切のものを基本的にこの『血』という虚構の基準に照らして測り断罪するという点こそ、種族的ナショナリズムを他と識別し得る特徴である」(二・一七〇頁)。

この場合、政治的なディスクールとしては、どういうことが言えるか?

「 自分の民族が『敵の世界に取り囲まれて』『一人で全部を敵とする』状態におかれているという主張である。この立場からすれば、自分と他の一切との相違以外にはおよそ相違というものは存在しなくなる。種族的ナショナリズムはつねに、自分の民族は唯一独自の民族であり、その存在は他民族の同権的存在と相容れないと主張する。この種族的意識は、人間の本質の破壊に利用――ある意味では悪用――されるに到る遙か以前に、あらゆる政治を規制する理念としての統一的人類の可能性を理論的にも心情的にも否定してしまっていた」(二・一七〇頁)ということだ。

まさに「血」という虚構を根拠とした選民思想=帝国主義的種族主義といえるだろう。



●ナショナリズムと「人権」の幻想性の露呈



そして、こうした強権的・宗派的ナショナリズムの他方で、国民国家の帝国主義的膨張を要因として生み出された戦争と、これに対する革命から、大量の「無国籍者」が生み出され、国民国家の秩序では、そのすべてを包摂しきれないところから、人間が人間であることを根拠に無条件に保有するとされてきた普遍的価値としての「人権」が破壊される、あるいは、その「普遍的」という幻想性をはぎ取られるという問題が、欧州において、生成していった。



そこでアーレントは「人権」思想の相対化を試みている。

「歴史的に見れば明らかに、宣言されるまでに幾千年を要した人権は決して奪うべからざるものでも譲渡することのできぬものでもなかった」。「人権を実現できるのは……国民主権だけだと考えられた。フランス革命が人類を諸国民の家族として把握していた限りでは、人権の基礎となる人間の概念は個人ではなく民族を指していたのである」(二・二七三頁)。

アーレントは、人権は歴史的に見れば個人ではなく、民族という「共同体」に実際的には対象化された概念だという。

「こうして人権を国民国家において実現される人民主権と結合させたことの真の意味が初めて明らかになったのは、ヨーロッパのただ中にいながらあたかもアフリカ大陸の荒野に悲運にも放逐されたかのように、人間としても民族としても基本的権利を全く保証されない人々や民族集団が続々と現れるようになったときである。……人権について語るとき、この権利はあらゆる政府から自立した権利であり、あらゆる人間に具わる権利としてすべての政府によって尊重されるべきだと考えてきた。ところが、政府の保護を失い市民権を享受し得ず、従って生まれながらに持つ筈の最低限の権利に頼るしかなくなった人々が現れた瞬間に、彼らにこの権利を保証し得る者は全く存在せず、いかなる国家的もしくは国際的権威もそれを護る用意がないことが突如として明らかになった」。これは「主権の侵害を警戒する」国民国家の側だけでなく、「被保護者」の側も、「国家のものではない保護を認めようとせず、単なる人権(「言語上、宗教上、および人種上の」権利)の保護に対してきわめて深い不信を抱いていた」(二・二七三頁)。



つまり、国民国家の立場からすれば、普遍的人権の擁護が、大量の移民を認めることを通じて、国家主権が侵害されるような事態、例えば国民国家が多民族国家化を深める(国民国家として排外すべき異分子を認める)と同時に「昔から定住していた外国人に脱同化の傾向が生まれる」(二・二五八頁)等々の社会的不安要因が形成されることになる。同時に、被保護者の側も、抽象的な人権保証よりも、具体的な国家の保護を望んだ。その例としてアーレントは、次のような事態を挙げている。



「彼らは国際連盟への提訴という方法はとらず、ハンガリア人やドイツ人の場合のように民族上の『故国』の保護を求めるか、あるいはユダヤ人の場合のように自民族の国際的連帯とそこから生まれた非公式の連携組織に頼るかのいずれかの道をつねに選んだ」。この状況は、「状況が悪化するほど」急進化し、「第二次世界大戦勃発の直前にはイタリア領チロルに住むドイツ少数民族の七五%がドイツへ『送還』されることを要求している。ユーゴスラビアのドイツ少数民族からも同じ要求が起こっているが、彼らは、「十四世紀以来、スロヴァニア民族の中で暮らしてきた」人々だった。等々、「自発的な国外追放」の運動が起こっていった。

問題のポイントは「これらどのグループも、自分が生まれと民族的帰属によってその支配に服す国家が保証してくれない限り基本的人権などを信用してはいなかった、ということなのである」(二・二七四頁)。

まさに「無権利状態とは、……この状態に陥った者はいかなる種類の共同体にも属さないという事実からのみ生まれている」(二・二七九頁)ということであり、「人権の喪失が起こるのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである」(二・二八〇頁)ということになったわけである。

まさにこうして、普遍的人権としての人権思想も、その普遍性を表明していた幻想性をはぎ取られていった。まさに、かかる個人主義的人権思想の破産と、種族的ナショナリズム=民族共同体の『血』の思想の展開という中で、いよいよ全体主義が台頭してゆくことになる。





第三節 第三巻「全体主義」を読む



● 政治的階級秩序の崩壊と「大衆」の登場



この第三巻では、ナツィと並列して、スターリン体制時代のソ連共産党が全体主義の一つのタイプ――ナツィと同等の――として論述されている。本論論者も、基本的にその方法に賛成だが、ここでは本論の目的上、ナツィに絞ってノートをとることにし、スターリン主義については、別稿の論文として、共産主義運動の中での全体主義の問題として、個別にとりあげる機会にゆだねたいと考える。



「全体的支配は大衆運動がなければ、そしてそのテロルに威嚇された大衆の支持がなければ、不可能である」(三・二頁)。

「全体主義のプロパガンダ――これは全体的支配の成立以前から使われ、全体的支配期の或る時点まで続くのだが――は確かに嘘だらけには違いないが、決して秘密めかしてはいないからである。全体主義の指導者は、自分の過去の犯罪を比類のない率直さで自慢し将来の犯罪を比類のない正確さで『予告』することで、出世のスタートを切るのが普通である。彼らは、『暴力行為を讃嘆するような口調で語ること、それは下劣ではあるが利口なやり方だ』というモッブの本性に対する昔の認識が今なお妥当だと信じ、これを幾度も実地に試してみた。ナツィが権力掌握前から公然とポテンパの殺人を誇ったことにしろ、……現代の大衆がこの点ではあらゆる時代のモッブと同じ反応を示すことを、このデマゴーグたちはよく知っていたのである」(三・三~四頁)。

(※ ポテンパの殺人……一九三二年、オーバーシュレージェンの村ポテンパで、五人のナツィ党員が、ピートルツフという共産党員を虐殺した事件)



「しかし全体主義の指導者は単なるデマゴーグではないし、彼らの成功がわれわれの不安をかき立てる理由は、彼らがモッブの本能に訴えるという点にあるのではない。現代の大衆をモッブから区別しているのは彼らの没我性と自分の幸福への無関心であって、これは現代の全体主義的な大衆組織においてきわめて顕著に示されている」(三・四頁)。

そしてアーレントは、犯罪の被害者が、外部の敵対者などに対して加えられた犯罪に動揺を感じないだけでなく、それと同様に、被害者が自分たちの仲間であっても「同じ冷淡さをしめすこと」、いやそれ以上に、「自分自身が犠牲者となった場合でも運動の信奉者は確信を揺るがさない」で、むしろ、自分自身に対し、それが権力者による、でっちあげであったとしても自分が犯した犯罪の「証拠資料を集めようとした」。そういう作風が全体主義運動の特徴としてあるということを、述べている。

「狂信の徒となったメンバーたちは、……自己を運動にあまりにも一体化させ運動の法則に余りにも完全に適合させたため、あたかも経験をするという能力が全く失われてしまったかのようであって、……死の不安さえ覚えることがなくなってしまうのである」(三・五~六頁)と展開する。

こうした集団心理を形成した大衆とは、どのような存在か、ということだ。



「全体主義運動は大衆運動であり、それは今日までに現代の大衆が見出し自分たちにふさわしいと考えた唯一の組織形態である。この点だけからしても運動はすべての政党と異なっている」(三・六頁)。

「ヨーロッパの大衆は、すでにアトム化していた社会の解体によって成立した。この社会においては、個人間の競争とそこから生ずる孤立感の問題を一定の限度内に抑えていたものは、各個人は生まれと同時に一つの階級に属し、成功や失敗とは関わりなくその階級を故郷として終生そこに留まるという仕組みだけだった。……国民国家の階級社会に記憶を通じて強く結びつけられていた間は、彼らはファナティシズム(狂信、熱狂――引用者)やショーヴィニズムの色の特別に濃いナショナリズムに迷い込んだ。まさにナショナリズムこそ、あらゆる階級対立を超えて国民を統一する接着剤だったからである」(三・二二~二三頁)。

「大衆」は、この階級社会の秩序が、帝国主義的膨張と体制的危機の中で「解体」することによって、形成された、アトム化した諸個人である。

全体主義の大衆指導者は「古いモッブ層」の出身者であったが、かれらが「大衆」と結びつくことができたのも、「現代の大衆がそれ以前の大衆社会と本質的に異なる点、すなわち、共同の世界が完全に瓦解して相互にばらばらになった個人から成る大衆だという点である」。アーレントは現代の大衆社会に特有な個人化とアトム化が全体主義的な支配の成立にとって必要不可欠な条件だったとのべている(三・二四頁)。



そして、大衆は「全体主義のプロパガンダ」によって、全体主義運動に組織されるようになった。この場合、ポイントは、後述するように「シオンの賢者の議定書」、「フリーメイスンの世界陰謀物語」などが材料になったが、「これらの説は、どんな装いをまとって登場したにせよ、すべて同じ狙いを持っていた。すなわち、公式に知られた歴史は欺瞞であって、その背後には真の支配勢力が潜んでおり、全世界の目を欺くためにこの目に見える歴史」を利用しているにすぎないと立証することであった。「全体主義運動の魅力は単にスターリンやヒットラーの嘘を吐く名人芸にあったのではなく、彼らが大衆を組織し操作して自分たちの嘘を現実へと変え得たという事実にあった」(三・五一~五二頁)。



プロパガンダの魅力である。こうした全体主義の神話は、これから見るように、大衆に「本当の世界を示し」、理想の世界が全体主義運動の内部にあると確信させ、そうした絶対の世界観でもって、個人と組織を運動として一体化させ、他者をテロルで排斥するそういう運動として展開して行くのである。



●全体主義のプロパガンダ



「社会のモッブとエリット分子に対して全体主義運動が揮う魅力はプロパガンダとはほとんど無関係であって、それはなかんずく、既成のものすべてを革命とテロルの嵐の中に投げ込むように約束するかに見える。あの激しいエネルギーに満ちた行動力が与える魅力である。それに反して大衆はプロパガンダによってしか獲得できない」(三・六三頁)。

「プロパガンダがいかにむきになって物質的利害に訴えようと、相手が大衆的人間であっては何の効果もない。大衆の基本的特徴は、彼らはもはや何らの社会的組織にも政治体にも属さず、他の形に変換できない個別的な利害の真の混沌を示している、という点にあるからである。この変換不能な個別的利害をいかに大量に寄せ集めようと、階級的利害や国民的利害といった総体的利害は決して生まれず、むしろ利害が大衆の中で相互に相殺し合う。それ故に大衆的人間には、不通の政党の党員の忠誠心とは明白に異質な、自分の生命を犠牲に捧げることさえ厭わないあのファナティックな献身が可能なのである。ナツィは『勝利か破滅か』というスローガン――これは第一次世界大戦の戦争プロパガンダが慎重に使うことを避けたスローガンだった――によって一民族全体を戦争に引きずり込むことが可能だということを立証した。しかもそれは全般的貧困と失業の時代ではなく、国民的野心の挫折した時代ですらなかった」(三・七四頁)。

この場合、全体主義運動のプロパガンダにとって、イデオロギーが肝となるのだが、それは、どういう種類のイデオロギーか。

運動にとって重要なのは「あらゆるイデオロギーが自らの主張にまとわせているあの独自の衣、すなわち、一切を知り尽くした誤ることのない予言という形式のみである」(三・七五頁)。

この「無謬性」は、「大衆指導者の基本的属性」としての「無謬性」であるが、それは「知性の標識」というよりは「絶対に信頼し得る歴史」とか、「自然の力との同盟の標徴」と看做されるものだと、アーレントは言う(三・七五頁)。

それはなぜ、必要だったのか。

「この力はいかなる場合にも最後には必ず自己を貫徹する筈であるから、敗北や破局によって否定される惧れはない。そこで大衆指導者は自分の予言が正しかったことを絶え間なく証明することにのみ心を砕き、この唯一の関心事の前では、純粋な有用性の考慮などすべて色あせてしまう。それ故に、ナツィにとっては、全党員に総統の無謬性を信じるべく義務づけることが……重要だったのである」(三・七五~七六頁)。

そこで、大衆指導者が「彼は歴史もしくは自然の予言可能な力の注釈者に過ぎないということのポーズがもたらしためざましい成功は」、非全体主義世界には容易に理解できない「政治的発言の一つの型を生み出した」(三・七六頁)。

それが例えば、「一九三九年一月三十日にヒットラーが『大ドイツの最初の帝国議会』で行ったあの告知である。……『国際的ユダヤ人財閥が……諸民族を再び世界戦争に突き落とすことに成功したりすれば……その結果は……ヨーロッパのユダヤ人種の絶滅となる』であろう」(三・七六頁)という戦争の宣言だった。

「大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロール可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見える見えるものならなんにでも動かされる。……大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである」(三・八〇頁)。

そこで、反ユダヤ主義の、この大衆にとっての特別な意味を、解明することが必要だと、アーレントは展開して行く。

ナツィは、反ユダヤ主義を、単に、ユダヤ人に対してとる態度以上の問題にした。つまり、党員になる人たちに「非ユダヤ系血統証明」を取る義務を負わせた。それにより、反ユダヤ主義は「党員一人一人にとっての内的問題、彼個人の存在に関わる問題となった。血統に汚点のないことが立証できない者は決して党員になれず、党員はナツィの階級制度の中で昇進すればするほど血統の純度を昔に遡って証明しなければならなかった」(三・八六~八七頁)。

まりこれは、個人のナツィへの<規格化・区画化>であり、反ユダヤ主義といったものが、党員一人一人の主体形成論的テーマとなることを意味する。

「ナツィ・プロパガンダの真の新しさは、反ユダヤ主義を自己規定の原理としたこと、そしてそれによって反ユダヤ主義を絶えず変動する意見の奔流から切り離してしまったことである。大衆デマゴギーはこのための一つの準備にすぎ」なかった。「アトム化され、定義しえない存在となり、実体を失った個人からなる大衆にとっては、これは自己確認の一手段が与えられたことを意味した。……新しい自己確認の与えてくれる見せかけの安定性を得た者は、ナツィ組織に加入するのにきわめて有利な資格を得ることにもなったのである」(三・八七~八八頁)。

同時にヒトラーたちは「大衆」が、例えば「シオンの賢者の議定書」を、どのように考えているかを、発見したと、アーレントは分析する。ここが重要なところだ。

それまでは、「議定書の眼目は何といってもユダヤ人迫害であって、それ以上の政治的野心に利用されたわけではなかった。ナツィは、大衆はユダヤ人の世界支配を恐れるよりむしろこの世界支配者といわれる連中の手腕に関心を持っているということを最初に発見した第一人者だったと言える。彼らは、議定書の異常な人気の所以はユダヤ人憎悪ではなく、むしろユダヤ人への讃嘆と、彼らから学びたいという願いだということに気がついたのである」(三・九〇頁)。

アーレントは事例を挙げ、たとえば、ヒトラーは「ドイツ民族を益することはすべて正しい」という言葉を言ったが、それは「ユダヤ人を益することはずべて道徳的かつ神聖である」という句の言い換えだと述べている(三・九〇頁)。

だが、そういうレトリックにとどまらない、ひとつのオルグ・イデオロギーを表明するものにほかならなかった。

「ナツィ・プロパガンダは、『ユダヤ人』を世界支配者に仕立て上げることによって、『最初にユダヤ人の正体を見抜いて戦った民族がユダヤ人の世界支配の地位を引き継ぐだろう』ことを保証しようと狙った。現代のユダヤ世界支配のフィクションは、将来のドイツ世界支配の幻想を支える基盤となったのである。ヒムラーが『われわれに支配の秘訣を教えたのはユダヤ人である』、それも『総統が暗誦するまでに学んだ』議定書のおかげであると断言したのは、この意味だった。反ユダヤ主義がナツィ・フィクションの中心に動かし難く据えられた理由はこれ以外ない」(三・九二頁)。

そこから、ナツィは「民族共同体」の神話をつくりだしてゆく。

「ナツィは『シオンの賢者』を範として世界征服を目的とする一民族全体の組織を考え、それをプロパガンダ的に民族共同体なる概念にまとめあげた」(三・九三頁)。

アーレントはその「民族共同体」は、ドイツ人の「絶対的平等」と、他のすべての民族に対する「自然的=肉体的な優越性」に基づくと同時に、「ユダヤ民族に対する絶対的敵意に基づいて築かれるべきものとされた」と論じている(三・九三頁)。

そして、権力掌握後、この「民族共同体」は、ナツィのエリット部隊に「他の民族の『アーリア人』をも迎え入れようとする動きが強まった」ことなどにより、「民族共同体はアーリア人種社会のプロパガンダ的準備に過ぎず、このアーリア人種社会は最後にはドイツ民族も含めてすべての民族の息の根を止めるものとなる筈だった」(三・九四頁)。

だが、ここでは、あくまで「民族共同体」が土台にあるポイントである。それは次のようなことを、意味した。その意味は「血族共同体」がどれだけ拡張された概念になってもかわらない構成体の特質を示しだすものに他ならない。

「大衆の耳に、そして大衆以前のモッブの耳に聞こえたことといえば、(共産主義プロパガンダの――引用者)階級なき社会における一切の社会的差異と富の差異の平均化は、どう見てもみんなが熟練労働者の身分になるところまで行くのが関の山だということだけだった。それに引きかえ民族共同体のほうは、世界陰謀と世界征服を言外に匂わせることによって、すべてのドイツ人は最後には工場所有者の身分になれるとの期待を抱かせたのである。大衆とモッブにとっては、民族共同体は国民社会主義の社会政策のシンボルだった。それも完全に、ヒットラーが定式化した次の言葉のような意味においてである。――『将来の社会政策がどのようなものになるか……それを諸君に言おう。……ドイツ民族は世界の支配層になるべき使命を担っている。……だがそれならば、従えられるべき異種族もまた存在することになる。それらの連中をわれわれは現代の奴隷種族と正しく呼ぼう……。』ナツィ運動にとって大きな意味を持っていたのは、運動の外部の客観的条件によって実現が左右される階級なき社会とは異なり、民族共同体は主要な敵とされたユダヤ人に対する戦いによって結ばれた『宣誓による血族共同体』であるから、それは直ちに運動の中で実現され得る。すなわち一方ではすべての社会的差異の均等化によって、他方では、全員に要求されるユダヤ人憎悪によって実現可能である、という点だった。これによって民族共同体は運動そのものの虚構の世界の名称となったのである」(三・九四~九五頁)。

全体主義プロパガンダが「目的を達成するのは、それが人々を説得したときではなく、組織したときである」(三・九五頁)といわけである。

だからそれは、ナツィ党の「運動」自身が、「民族共同体」を現在の<場所>において実現している「永遠の今」ということにほかならなかったのである。

これが、「階級解体」→アトム化→全体主義への人々の吸収という、全体主義ファシズムのアーレントにおける論脈をなすものである。



●全体主義組織――如何に組織されたか



「全体主義運動が権力奪取前に支持者をどのように組織するかを見るとき、本質的に新しい独創的な組織方法として注目をひくのは、党員とシンパサイザーとの間の区別である。この発明に比べれば通常、典型的に全体主義的なものと看做している他の現象――例えばすべての幹部の上からの命令、また一人の人間による任命権の最終的な独占、いわゆる指導者原理――は二義的な意味しか持たない。指導者原理はそれ自体としてはまだ全体主義的なものではない」(三・一〇〇頁)。

ヒットラーは「すでに『わが闘争』の中で、プロパガンダによって獲得した大衆をシンパサイザーと党員とに分けるべきだと提案している。……できる限り多くの同伴者をシンパサイザー・グループにかき集め、他方、党員そのもののほうは可能な限り制限するという結論に彼を導いている。多数のシンパサイザーに囲まれた少数の党員というこの考え方は、本来の前面組織に非常にすでに非常に近づいている。重要な点は、ナツィはこの組織の中の人的資源を軽蔑していたにもかかわらず最初からシンパサイザーを運動の一部として計算に入れ、それ故に、これらの前面組織――この名称は党員とシンパサイザーとの間の本来の関係をきわめて正確に示している――が運動全体にとっては本来の党員層に劣らず重要であることを直ちに理解したという点である。

全体主義運動は前面組織を党員のための防壁として使う。つまり、イデオロギー的虚構と『革命的』道徳に対する党員のファナティックな信仰を、まだ全体主義化されていない外界から来る衝撃から守るための防壁である。同時に前面組織は党員にとって、正常な世界へのよく監視されたかけ橋でもある。この橋がなければ、全体主義運動の勝利前にあっては党員は自分たちの確信と他のすべての人々の見解との対立、イデオロギー的虚構と正常世界の現実との対立を余りに鋭く意識させられることになるからである。権力を求めて運動が戦っている間に前面組織が果たす役割は、単に党員を外界から切り離しておくだけでなく、同時に彼らに対し前面組織が正常世界を代表しているように思わせ、外界の模造品を提供することである。党員を現実世界の侵入から守るには、単なる教義の徹底化やファナティズムよりもこの模造品のほうが効果がある」(三・一〇二~一〇三頁)。

アーレントは、この「模造品」について、それは、シンパサイザーが党員とは違って、党の見解を「より混乱した形」で抱いている位相をあげている。それは、「党員の信仰を強化する」とのべている。

私見(渋谷)によれば、シンパサイザーの「混乱」(見解の理解についての、不十分な理解や誤解など)は、党員のシンパに対するオルグ対象としての位置づけを強化する。それは、「混乱」を解決しようとするから、「信仰を強化する」ことになるのである。

そのシンパの有り様は「運動の外にある世界全体を代表するものと映る」。それは敵対者と自分たちが烙印を押した者たちを除いては、「自分たちの味方であるという錯覚を抱くようになる」と、アーレントは展開している(三・一〇三頁)。

「前面組織は、党員に対して外部世界の本来の性格を欺くのと全く同じように効果的に、外部世界に対しては運動の本来の姿を隠蔽する役割を果す。シンパサイザーの日常生活はまだなお非全体主義的な世界の中で『正常』なルールに従って営まれているから、最初に外部者の目に触れるのは当然のことながらシンパサイザーである。彼らは大抵はまだ狂信者の印章を与えることはないし、いずれにせよ自分たちの意見はその他の諸意見の一つだと主張することができる」。だが、全体主義の前段には、「あらゆる論議が全体主義的な要素に毒されるまでになる」一連の経緯をたどってゆくことになるとアーレントは展開する」(三・一〇四頁)。

アーレントは、こうした「党員」と「シンパサイザー」を別々に組織することは「偶然に生まれたものらしく」、全体主義の「闘争の条件から自然に成立したようである」とかいているが、それは、アーレントが論述しているように全体主義の概念に、ボルシェビキを入れた場合は、認識不足だという以外ないだろう。

 一九〇四年、レーニンは、メンシェビキとの論争の書である『一歩前進・二歩後退』(「レーニン全集」第七巻所収)を発表したそこで、<組織の秘密性>、だけでなく、<意思統一の階層性>提起したものとして、次のような階層構造が、革命党には要求されると書いている。現に、ボルシェビキ党は、次のように、組織されていった。

レーニンはつぎのように中央集権を示した(これは「一同志にあたえる手紙」というレーニンの既出の政治文書からの、レーニンによる引用として書かれているものである)。

「(一)革命家の組織、(二)できるだけ広範で多種多様な労働者の諸組織(私は労働者階級だけに話を限っているが、他の階級のある分子もまた一定の条件のもとでここにはいることはいうまでもないことを前提している)。この二つの部類が党を構成する。さらに(三)党に同調する労働者の諸組織、(四)党に同調はしていないが、事実上党の統制と指導に従っている労働者の諸組織、(五)ある程度まで――すくなくとも階級闘争の大きな現われの場合には――同じように党の指導に従う、労働者階級の未組織の分子」。

こうした階層構造をレーニンは提起している。アーレントは次のように、かかる階層構造を説明する。

「党員がシンパサイザーによって外部から隔離されると同時に外部と繋がれているのと同じように、運動の精鋭組織は一般党員によって非全体主義的な周囲から守られると同時にそれと繋がれている。党員から見たシンパサイザーがそうであるのと全く同様に、精鋭組織のメンバーから見た一般党員は不徹底である。つまり運動に真にトータルに結びついていない。一般党員は職業生活や社交生活を依然として非全体主義世界の中で営んでいる」。一般党員は、党を防衛する覚悟ができているにしても、「党の本来の戦闘的グループの目には無害な市民性の権化と映るのである」(三・一〇五頁)ということになる。

こういうのを宗派というのだが、この宗派には「指導者」が存在する。

「運動の中心には、運動を動かすモーターとして<指導者>(デア・フューラー)が坐っている」(三・一一六頁)。それは、指導者の側近にとりかこまれており、指導者は彼らの存在によって精鋭組織とも距離をとっている。その位階制は指導者と教義の「奥儀」(肝要な事項、奥意)に精通した側近を頂点とした者たちを最上層として、例えば精鋭組織――一般党員――シンパサイザー――外界という三角錐を形成した階層構造が全体主義組織の特質に他ならない。

この場合、秘密結社では、結社以外のものはすべて敵となり、「ナツィによるこの原則の適用では、家系図の検査を受けない者はすべて劣等人種に属す、ということになる」(三・一二二頁)。

また、この場合、アーレントは全体主義組織の特質を次のように総括する。

「秘密結社にあってはこの要素は秘密保持という客観的な組織上の必要から生じているのに対し、全体主義運動はこの組織上の必要を逆にイデオロギーから展開させていることである」(三・一二三頁)ということである。





●テロル支配――全体主義は社会を如何に組織したか



こうして全体主義運動に奪権された国家としての全体主義国家の特徴は、社会を画一化し・運動のイデオロギーに合うように規格化するための強制・テロル支配を組織することであるとアーレントは言う。

「全体的支配は無限の多数性と多様性を持ったすべての人間が集まって一人の人間をなすかのように彼らを組織することを目指すのだが、すべての人間を常に同一の反応の塊に変え、その結果これらの反応の塊りの一つ一つが他と交換可能なものとなるまでに持って行かないかぎり、この全体的支配というものは成立し得ない。ここで問題なのは、現に存在しないもの、つまりその唯一の<自由>といえば「自己の種を維持する」ことにしかないような種類の人間といったものを作り出すことなのだ。全体的支配は精鋭組織に対するイデオロギー教育と同時に収容所における絶対的テロルによってこの結果に到達しようとする。その場合残虐行為の実行に遠慮会釈もなく充てられるのは精鋭組織であるが、この残虐行為は謂わばイデオロギー教育の実践的な延長、また彼らが自分の力を実証する試金石であり、一方また収容所そのもののなかで演じられる前代未聞の劇はイデオロギーの正しいことの<理論的>立証に役立つものとされるのである」(三・二三一頁)。

つまり、<イデオロギーー即―テロル>ということだ。全体的支配のための均一的な諸個人の規格化は、まさにイデオロギー教育と組織的実践としてのテロルの相互媒介的、統一的連接的な一体化としての意思統一の連なりそのものである。

そうした中で、おこなわれたユダヤ人に対する、強制収容所・絶滅収容所といったものは、単にユダヤ人を隔離するとか・抹殺するとかということ以上の意味と目的をもっていた。

「ナツィは彼ら一流の几帳面さをもって強制収容所計画を<夜と霧>Nacht und Nebelという項目のもとに記録することにしていた。あたかもその人間がかつて存在しなかったかのように人間を扱うこと、文字どおり人間を消えさせること、こういうやりかたの徹底性は往々にしてちょっと見ただけではわからないこともある」。ユダヤ人に対しては「その民族の<淘汰>が日程に上って」いた(三・二三八頁)。

「自然もしくは歴史の過程の従順な実行者としてのテロルは、人間と人間のあいだの空間――それが自由の存する空間にほかならないが――を完全に無にしてしまうことによって、人間たちを一つにするということをなしとげたのである。全体主義の支配の本質をなすものはそれ故、特定の自由を削り取り除去することでも自由への愛を人間の心から根絶やしにすることでもなく、あるがままの人間たちを無理矢理にテロルの鉄の箍のなかに押しこみ、そのようにして行動の空間――そしてこの空間のみが自由の実態なのだが――を消滅させてしまうことにあるのだ」(三・二八一頁)。

「全体主義の支配が専制の近代的形態以外の何ものでもなかったとすれば、この支配は専制と同様に、人間の政治的領域を破壊し、つまりは行動を妨げ無力を生み出すことだけで満足しただろう。(だが、――引用者)全体主義の支配は、この支配に服する人々の私的社会的生活をテロルの鉄の箍にはめた瞬間に真に全体的になる」(三・二九六頁)。

「そして、全体主義的支配は、いつもこの成果を当然ながら誇ってやまない。それによって全体主義的支配は、一方では政治的・公的領域の消滅後にも残っている人間間の一切の関係を破壊し、他方ではこのようにして孤立化され互いに切離された人々が政治活動(尤もそれは真の意味での政治的行動ではないが)に動員され得るような状況を否応なしに作り出す。専制の無力のなかでは、人間は恐怖と不信の支配する世界の内部でそれでもまだ動くことができる。この砂漠のなかでの運動の自由こそ全体主義の支配によって廃絶されるものなのである。全体主義的支配は人々からその行動力を奪うだけではなく、むしろその反対に、まるで彼らが実はただ一人の人間であるかのように、彼らすべてを全体主義政権が企てるすべての行動、その犯すすべての犯罪の共犯者に仕立て、それにともなう一切の結果を容赦なく押しつけるのだ」(三・二九六~二九七頁)。

まさにテロルが全体主義の社会的エネルギーとなり、社会を作り変える。

本論の最後に、現代の新自由主義経済体制は、労働者階級の階級解体=個人化・アトム化を促進している。そうした社会的反革命は、全体主義運動という政治的反革命運動に、アトム化・個人化した諸個人を国家秩序のために動くロボットへと規格化し、動員し吸収する社会的条件を作り出す。ヘイトスピーチや右翼暴力と、公安政治警察による労働者人民に対する弾圧、こうした国家権力によるテロルは、やがて、市民社会を、その市民主義的アトミズムを踏み台として、一つの規格化された国家主義秩序へと作り変えようとするベクトルを内包している。

以上を「階級解体と全体主義」のタイトルを持つ、本論の結語としたい。