2019年3月22日金曜日

マルクス生誕200年加筆論文


マルクス生誕200年――エコロジカルなマルクスのラジカリズムについて
渋谷要(社会思想史研究)
●はじめに
私は「テオリア」の購読者であるが、それ以外の関りをもっているわけではない。だが私は、白川真澄さんが「とりあえず、反資本主義の重要性という点で左翼の再生をめざす。しかし、再生されるべき左翼は、グリーン(「緑」)によって自己脱皮した左翼でなければ魅力も意味もない」と、『左翼は再生できるか』(研究所テオリア、2016年)というご自身の刊行物で述べておられる方向性に賛成しており、その点からも、「マルクス生誕200年」というこの原稿依頼をお引き受けした次第である。
ここでは、その「緑」(エコロジズム)の線で、生誕200年と応接してゆくこととする。
 
●搾取の解明を基礎とした資本主義批判
カール・マルクスは1818年にドイツ・プロイセン王国に生まれ、1883年イギリスのロンドンで他界した。この期間は、まさにヨーロッパ階級闘争が、1848年における、フランスとドイツなどでの革命、1871年パリ・コミューン、1881年ナロードニキによるロシア皇帝(アレクサンドル二世)打倒の闘いを頂点に、高揚を極めた。この時代にあって、第一インターナショナルなどの労働者大衆の革命運動の組織化と並行し、勃興する資本主義に対する根底からの批判を探求したのがマルクスであった。
資本主義以前の社会は、経済外的強制としての収奪によって支配階級が人民を抑圧する社会だったことに対し、マルクスは、資本主義社会の支配階級=ブルジョアジーが、労働者階級が生産した剰余価値を単に収奪ではなく、搾取という形で取得する特殊な様式を解明した。それが、例えば「資本論」第三巻の「三位一体的定式」として明らかにされているものである。
資本主義社会では商品(w)は、「労働生産過程」において「不変資本(生産手段)c+可変資本(労働力)v+剰余価値m(このv+mは生きた労働vが生産した価値)」として「商品価値」を構成する。
この場合、剰余価値の産出は、自然に過剰なものが生み出されるのではなくマルクスの『経済学批判要綱』(グルントリッセ)に基づけば、「資本の労働に対する処分権」として組織されるものにほかならない。ここに「労働力の商品化」とは、「賃金奴隷制」だとマルクスが喝破した根拠がある。
だが、この商品の価値構成は、「生産価格」=費用価格k(c+v)+利潤(市場競争の結果としての平均利潤p)に転形する。これにより、労働力vは剰余価値(利潤部分)を生産しない単なる費用価格の一部と観念され、剰余価値の搾取は隠蔽される。
そして、ここから資本家と労働者の搾取に基づく階級対立は「資本―利子、土地―地代、労働―労賃+企業者利得」=商品所有者間の平等な分配システム(三位一体的定式)へと擬制化する。労働者の労賃は「労働報酬としての労賃」とされ、労働力商品の所有者が、労働市場で資本家にこれを売ったものの対価(だから費用価格の一部と観念される)として通常考えられるようになる。自由な商品交換の相互の主体として労働者と資本家は自由平等な市民社会を構成することになる。これをマルクスは「自由幻想」と呼んだ。  
 今日においても、「自由・平等」な社会という幻想性の下、富裕層・ブルジョアジーの労働者階級に対する搾取、収奪は、新自由主義の下で激化しており、非正規雇用などの貧富格差を前提とした資本の専制が広がっている。経営者による即時解雇、賃金未払、罰金、セクハラなど搾取と収奪が拡大している。批判の武器としての<マルクス>を復活させる必要があるだろう。
 
●労働者階級の解放=資本主義批判の土台としての<労働者の政治的階級形成>の提起
マルクスは労働者階級の解放の土台となるものとして、労働者階級の<政治的階級形成>の思想を提起した。それが例えばマルクスの労働組合論として表明されていることだ。
マルクスの労働組合論として「労働組合。その過去、現在、未来」という文章を見ていこう。この文章は、「個々の問題についての暫定中央委員会代議員への指示」というマルクスが、第一インターナショナルの第一回大会(一八六六年)の代議員に送った指示書中にある、一つの項目として書かれたものだ。マルクスの指示(全部で九項目)について、大会はそのうちの六項目を決議した。その決議された文書の一つが、この「労働組合」に関する指示だ。
この文章はイ~ロの三つの節にわかれている。イは労働組合の過去、ロは現在、ハは未来の順番だ。
マルクスはまず、「(イ)過去」としては、労働組合の成り立ちを次のようにまとめている。そして資本家(経営者)と労働者の関係を次のように述べ、労働組合が、労働者階級の団結と、資本家の支配を廃止するための基本的な運動体だとその意義を強調している。
マルクスは「社会的な力」として資本家が「生産手段と労働手段を所有している」ことに対し、労働者階級のもつ「社会的な力」は「人数」であると述べている。だが、社会的多数者の労働者は、労働者の間の労働市場(就活)における「避けられない競争」によって分断され、団結がすることが困難だった、とマルクスは言う。
そこからマルクスは、「労働組合」は、この競争を制御して「せめてたんなる奴隷よりはましな状態に労働者を引き上げるような契約条件をたたかいとろうという労働者の自然発生的な試みから生まれた」。だからそれは「賃金と労働時間の問題」を基礎として出発した。そして「労働組合のこのような活動は、正当であるばかりか、必要」でもあった、と展開する。
だが、<それのみならず>、「労働組合は、みずからそれと自覚せずに、労働者階級の組織化の中心となってきた」、「賃労働と資本支配との制度そのものを廃止するための組織された道具としては、さらにいっそう重要である」ものとして、労働組合は存在していると、マルクスは労働組合の基本的な意義を表明している。
「(ロ)その現在」では、労働組合をもっての労働者の団結のための政治運動への関りについてのべている。
「労働組合は、資本に対する局地的な、当面の闘争(個別の労働案件での闘いのこと――引用者)にあまりにも没頭しきっていて(これは、労働者にとっては強いられたことであり、これをマルクスは批判しているのではない――引用者)、賃金奴隷制そのものに反対して行動する自分の力をまだ十分に理解していない。このため、労働組合は、一般的な社会運動や政治運動からあまりにも遠ざかっていた」。「だが最近になって、労働組合は、自分の偉大な歴史的使命にいくらか目覚めつつあるように見える」として、イギリスやアメリカ合衆国での労働組合の政治運動などへの取り組みの例をあげている。
これは、労働者が団結し、労働者階級そのものを「賃金奴隷」として支配するブルジョアジーの階級的利益(賃金奴隷制の上に成り立つ利益)を正当化し、推進し、ブルジョアジーの労働者階級に対する支配を実現している資本主義国家権力に対する闘いを労働者階級自身が組織すること、そうした動きを、もっと、加速すべきだというマルクスの主張として、言われていることだ。
「(ハ)その未来」。マルクスは、ここで、労働組合の歴史的使命を表明している。
「労働組合は、その当初の目的以外に、労働者階級の完全な解放という広大な目的のために、労働者階級の組織化の中心として意識的に行動することを学ばねばならない」。
「労働組合は、この方向をめざすあらゆる社会運動と政治運動を支援しなければならない。……労働組合の努力は狭い、利己的なものではけっしてなく、ふみにじられた幾百万の大衆の解放を目標とするものだということを、一般の世人に納得させねばならない」と、結んでいる(「マルクス・エンゲルス全集」第十六巻)。
この内で、マルクスが「経済運動」(個別の労働案件)とは区別して、「政治運動」というのは、例えば、次のようなことだ。「政治運動と経済運動の関連について(一八七一年一一月二三日付ボルテあての手紙)」(マルクス・エンゲルス著『労働組合論』国民文庫、大月書店、六四~六五頁)では次のように述べられている。
「八時間制などの法律をもぎとろうとする運動は、政治運動である。そしてこのようにして、いたるところで労働者のばらばらの経済運動から政治運動が成長する。これはすなわち、普遍的な形、普遍的な社会的強制力をもつ形で、自己の利益を貫徹するための階級の運動である」。「労働者階級が、その組織化の点でまだ支配階級の集合権力すなわち政治権力に決戦をくわだてるまですすんでいないところでは、とにかく、この権力に反対する不断の扇動と支配階級の政策にたいする敵対的な態度とによって、かれらを決戦へと訓練しなければならない。そうしなければ、彼らはいつまでも支配階級の」手の中にある、賃金奴隷であるとマルクスは説明している。
マルクスは、労働者が個々の職場でのみずからの生活と権利を守るための闘い(経済運動)を基礎としながら、<労働者階級の階級としての>普遍的な利益と、賃金奴隷制(賃金制度それ自体)からの解放をかちとるためには、労働者が一つの普遍的な<政治的勢力>として団結しブルジョアジーの国家権力と闘う必要があることを表明しているのである。
●マルクスによる廃棄物問題の分析
同時にマルクスの資本主義批判は、彼の自然と、その一部たる人間に対する根源的な認識としての自然主義=人間主義にうらうちされたものであった。マルクスは、「経済学・哲学草稿」では、「自然は人間の非有機的身体である」とのべているが、それは換言すれば、人間は自然生態系のなかで、自ら、一つの生態系を創造しつつ存在しているということである。このことを、マルクスは次のようにも展開している。
 例えば、「資本論」(第三巻第五章第四節「生産の排泄物の節約」)に例を取るなら、そこでは、外部不経済といわれる産業廃棄物、公害問題と、その解決策に関する問題があつかわれている。
 「資本主義的生産様式の発達につれて生産と消費との排泄物の利用範囲が拡張される。われわれが生産の排泄物というのは、工業や農業で出る廃物のことであり、消費の排泄物というのは、一部は人間の自然的物質代謝から出てくる排泄物のことであり、一部は消費対象が消費されたあとに残っているその形態のことである。生産の排泄物は……再び原料として鉄の生産にはいってゆく鉄屑などである。消費の排泄物は……農業にとって最も重要である」。そしてマルクスは次のように批評する。
 だが、「その使用に関しては、資本主義経済では莫大な浪費が行われる。たとえば、ロンドンでは、4、500、000人の糞尿を処理するのに資本主義経済は、巨額の費用をかけてテムズ河を汚すためにそれを使うよりもましなことはできないのである」と。
 そこからマルクスは、排泄物の「再利用」を次のように展開する。
「再利用の条件は、だいたい次のようなものである」として、大規模な作業で使用できるように、排泄物が大量であること、また、「そのままの形では従来は利用できなかった材料を機械の改良によって新たな生産に役立つような姿に変えること」また、「化学の進歩によって」廃物の有用な性質を発見することが必要だと論じている。
 マルクスはそこで「たとえば、以前はほとんど役に立たなかったコールタールをアニリン染料すなわちアカネ染料(アリザリン)に」する技術が開発されていることなどに着目している。
マルクスがここで出しているアリザリンの事例であるが、19世紀、これが発明されるまでは衣服を染色する染料は、自然物から抽出されていた。だから染料はかなり高価なものだった。これに対し、石炭から石炭ガスを生産するときの廃棄物であるコールタールを原料として染料を造ったのがウイリアム・パーキンだった。これにより染料を安価かつ大量に生産することができるようになり、大きな需要を創出した。様々の技術開発が媒介し19世紀末から第一次大戦(1914年~)にかけて、欧州は「ベルエポック」という経済的繁栄の時期を画したが、それは貧富格差を拡大する。さらに第一次大戦は長期化し膨大な戦費が短期間で消費される国家総力戦となった。結果、富裕層の資産も縮小し、労働者階級には戦争動員などでの死がまっていた。そうした体制的危機の中で、ロシア革命―ドイツ革命が勃発することとなった。
●エントロピーの考え方を内包した緑への討究
だがさらにマルクスは、次のようにも述べている。
「このような生産の排泄物の再利用によるその節約とは区別しなければならないのは、廃物を出すことの節約、すなわち生産の排泄物を最小限度に減らすことであり、また、生産にはいってくるすべての原料や補助材料を最大限度まで直接に利用することである」と問題を喚起する。
マルクスは、そこで、「廃物の節約」の問題は、生産過程で生まれる廃物が一番重要な問題であり、機械・道具・原料の良否がその節約の限界を左右する、また、それは、農業においても同じだと展開している。こうしたマルクスの論点は、「エントロピー(廃熱・廃物)の増大」という問題にほかならない。熱力学第二法則(熱を仕事に変えるには、高熱源から低温部への熱の移動が必要だ。そしてどんなに理想的な熱機関でも、熱のすべてを仕事に変えることはできず、必ず無駄になる熱(廃熱)が出る)にもとづくエントロピ―問題として、それはある。21世紀現代における環境負荷、環境破壊の問題、とりわけ生態系を破壊するだけの放射性廃棄物と、フクシマ、チェルノブイリなどの大規模原発事故(現在進行形)の問題に直結する問題である。資本主義工業化社会からのパラダイム・チェンジをマルクスが自己の問題圏に収めていたことがわかるだろう。この観点はかつて、いいだももが表明していたものでもある。
●共同体論と労農連携の視点
マルクスは、こうした資本主義近代にかわり、プロレタリアートの自己解放が実現して行く世界を、例えば「プロレタリアートの革命的独裁」と主張した。だが、その革命の形は、「ドイツ・イデオロギー」「フランスの内乱」「ゴータ綱領批判」などで内容的には多義にわたる。それらは一義一価的に定まった方針として示されたものではないし、またそれでいいと私としては考える。ここでは「共産党宣言・ロシア語第二版序文」でのマルクスの思考をとりあげてみょう。
マルクスはそこで、「もし、ロシア革命が西欧のプロレタリア革命に対する合図となって、両者が互いに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(この主張はマルクス死後、エンゲルスによっては否定された)と記している。
実はこれにはさまざまな読み方がある。ここでは所有論から考えることにしよう。その場合この文章のポイントは、土地共有制(ミール農耕共同体などのこと)それ自体には実はない。「両者が互いに補いあう」というところこそ、ポイントだと考える。所有論として言うなら、プロレタリア革命によって、形成されるコミューンに基づく共同体が「生産手段の共同体所有と個的占有」(これは全面的国有化か、社会主義市場経済にもとづく生産共同体社会かは、今は問わないものとする)としてあり、また、ミール共同体も、「土地の共同体所有と個的占有(この場合は、これはロシアでの「土地は誰のものでもない」という価値観にもとづくものだが、土地割替制度とそのもとでの「耕作者」の占有権)」として、所有形態的には、同一ベクトルの位相にあるということだ。だからプロレタリア革命の一つの拠点との位置づけが与えられた場合は、共産主義的共同体の一つの萌芽形態になる可能性があるということだ。
イギリスに典型化される西欧のような工業化による資本の本源的蓄積として、全面的な農耕共同体の解体=プロレタリアートという、こう言ってよければ「土地なき農民」のイギリス的な産出ではなく、ロシアは西欧諸国の農業・自然資源の供給国であり、資本の本源的蓄積が西欧のようには進まない農業国だったために、土地共同体は解体を逃れ、また、ナロードニキの反地主闘争の組織化によって、ロシア革命まで保持されていた。このような特殊性をもった問題であるが、農民闘争が、都市プロレタリアの革命運動と連携することで、一つの歴史を描き出すような闘いを実現し、またそこで、民衆の闘う共同性を作り出してゆくことは、戦後日本においても、三里塚闘争が示してきたことだろう。マルクスの労農連携の構想は、人民のラジカルな共同性を実践的に試行してゆくうえで、今後も大きな示唆を社会変革を願う人々に与え続けてゆくに違いない。(マルクスからの引用文は、『マルクス・エンゲルス全集』より)
(補論)「労働組合論」の「(イ)過去」についてのもう一つの解釈――レーニンの「外部注入論」との関連で

【著者は、元・季刊「クライシス」編集委員(第三期編集委員会1984年~終刊1990年)】
(初出:『テオリア』第六九号(研究所テオリアの新聞)、二〇一八年六月一〇日号、第五~四面。「マルクス生誕二〇〇年――エコロジカルなマルクスのラジカリズム」に加筆)